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壊されてしまった、地上への帰り道が。
――いい? こちらから開ける扉と、向こうであなたたちが自力で開ける扉は同じものよ? この形を忘れないでおいてね。扉はあなたたちが帰りたいと念じたら帰れるようにはしておくけれど、この魔術はそう何度も簡単に利用できるものではないわ。失敗したら、それきりよ?
冥府へと向かう際に、デメテルはそう言っていた。ミザリーを奪還したらすぐに扉を開いて帰れるようにはしておくとのことだったが、肝心のその扉自体が壊されてしまってはどうしようもない。
「僕は冥府の王として、自分だけはこの空間と出入り自由だしね。お前らまで親切に地上になんて届けてやらないから、ま、ここで長く平和な余生を送るんだな。魔物たちの棲家だけど」
魔術によって扉を壊した本人であるハデスは、神殿の屋根の上で飄々としている。
「ハデス! お前っ……!」
シェリダンはぎりりと歯噛みする。ただでさえ魔族と人間だけで構成された彼ら一行に、魔術師はいない。他の者たちなら打破できるかもしれない状況が、シェリダンたちにはできない。
だからこそ冥府の規則はデメテルから聞いた分とラダマンテュスの言葉に従ってきたというのに。
「地上に戻れなければ、どうしろと……!」
どんな状況であっても人間たちの住む世界でさえあればシェリダンとて希望を捨てない。しかし、この冥府の法則性や常識は彼にはさっぱりだ。
ここはなんとしてでも、ハデスを吐かせて地上に戻らねばならない。
「ハデス! なんでもいい! 地上に戻れる方法を教えろ! 決着はそれからだ!」
「ハッ! 教えるわけないじゃん。だいたい戻れるわけないよ。冥府から地上に戻る方法なんてない」
そのハデスの言葉に負けず劣らず皮肉な響で返したのはシェリダンではなく、別の人物だった。
「嘘だな」
あっさりとそう看破したロゼウスに、ハデスも険しい目線を向ける。
「嘘じゃない」
「嘘だ。そうでなければ、もっと早くこの手を使っているはずだろう。お前は俺に勝てないことを最初から知っていた。こんな人質使うような作戦まで使ったのはそのためだろう。それだけ実力差があることがわかっていて、殺さずとも閉じ込めるのが有効だとわかっているなら、もっと早く使っているだろう? それとも、そんなことすらわからない馬鹿なのか? お前は。ドラクルと組むなんて周到なことまで仕出かしておいて、そんなわけはないな」
ロゼウスの言葉に、ハデスの口元は盛大に引きつった。馬鹿呼ばわりがきいたらしい。
他の者たちは呆気にとられている。これまでひたすらドラクルの影で立ち尽くすばかりだったロゼウスの意外な一面が、ローゼンティアが滅びエヴェルシードを追われてから次々に発揮されている。
「……だぁれが馬鹿だって? 四六時中一緒にいる兄に嫌われまくっていることにも気づかなかった間抜けが」
「いやぁ、姉さんが好きじゃないとかなんとか言っといて会う人間全てにシスコンがバレバレの帝国宰相に比べたら俺の間抜けなんて可愛いものじゃないか」
「へぇ」
世にも恐ろしい睨み合いが続いた後、ようやく舌戦が終わり話題が再開される。
「で、そこの間抜けさ」
訂正。舌戦は終わってはいない。続行されたまま次の話題に移っただけだ。
「ロゼウスお前、皇帝と次期皇帝の関係は死をもってしか清算できないと知らないのか?」
「知らない。それに、違うだろう? そんなの建前だ」
「建前じゃない。本当のことだ。最初の皇帝と選定者がそうだったせいか、皇帝の代替わりには必ず死と言う名の一つの儀式を伴う」
「俺にはそんな実感がない。お前を殺して特に利益が出るでもなし。なんで理由もないのにそんなことをするんだ?」
「皇帝の《絶対感覚》か……そうだな、ロゼウス、お前は皇帝としてその直感を信じるんだな。だがお前はわかってないんだよ。運命には抗えないということに。お前が僕に対する憎しみを抱かないのは、まだ物語がそこまで進んでいないからさ」
ふっと寂しいような微笑を浮かべて、ハデスはシェリダンの方を見た。
その視線を受けとめて、シェリダンは己のうちで心当たりを探る。ざらつく何かが手に触れていることがわかっているけれど、それをここでは口に出さない。出してもどうにもならない。
予言。未来をみること。
人はいくらその状況に備えても、実際にその場面になってみないとわからないことなどいくらでもあるものだ。
だから今はとにかく、脱出のことだけを考える。
そしてロゼウス側に打開策の見えないこの場面で少しだけ動いた人物がいた。
「ロゼウス様、少し……」
「ん? あ、ああ……」
リチャードは何故か彼の主君であるシェリダンではなくロゼウスの背後に歩み寄り、耳元で何か囁いた。次の瞬間、ロゼウスの姿がその場から消える。
「何!」
皆が驚くのを余所に、ことを仕掛けたリチャードとその妻であるローラだけが平然としている。ローラはすでにリチャードの性格をよく知っているし、彼が何を考えているのかもわかっているようだ。
一人目線を屋根から動かさなかった彼女の見守る先で、事態への変化は訪れる。
「どわぁ!」
一瞬で屋根の上に飛びあがったロゼウスに突き飛ばされて、油断していたハデスはそこから落とされた。たいして高さもないから大きな怪我をすることもないのだが、その身にはエチエンヌとローラが二人がかりでワイヤーをかける。人間の腕力では絶対に切ることのできない頑丈なワイヤーだ。
「ぐっ!」
「確保完了」
「これでいいのか? リチャード」
「ええ。尋問を行う際にはまず対象の身柄を拘束しませんと逃げられてしまいますからね。彼をここで逃がしては私たちには地上に戻る術もないのですから、慎重になるべきです」
この状況に危機感を覚えていたのは何もロゼウスやシェリダンだけではなく、一行が皆一蓮托生なのだ。見かねたリチャードがロゼウスに指示して何やら事態を動かしている。
「さて、ロゼウス様。次の段階ですが」
「うん」
「こう言った場合効果的なのは、相手の弱味をつくことです。何かハデス卿の弱点など知りませんか?」
「弱点? うーん。特には……」
「そうですか。別にハデス卿の内的な要因でなくともいいのですよ? 誰かから何かされるのが今の彼にとって不愉快である。それさえわかればいいんです」
「あ。それなら」
脳裏に先程仕入れたばかりの新鮮なネタがあることを思いだして、ロゼウスは口を開いた。
「そうだな。ハデスがここで脱出手段について口を開かないのであれば、お前を冥府の公爵ラダマンテュスに引き渡す」
その言葉を聞いた途端、今まで切れないワイヤー相手に地道な抵抗をしていたハデスの動きがぴたりと止まる。
「な……ラダ!? お前ら、あいつに会ったのか?」
脈ありと見て、ロゼウスは更に続けた。
「ああ。お前は彼に惚れられているんだろう。今度会ったら鎖に繋いで犬のように可愛がってやるとかなんとか、その他ここでとても口に出せないような凄いことをいろいろ言っていた。あいつにお前を引き渡すことにするよ、ハデス」
「や、やめろ! くそ、どうりでここに辿り着くのがやけに早いと思ったら、あいつに会ってたなんて!!」
顔色を青く変えたハデスが、苦虫を噛み潰した表情になる。
「……わかった、扉なしで地上へと戻る方法を教えてやる」
「本当!?」
「やらなかったら僕をあの変態男のもとに連れてく気だろう、お前は」
「うん」
「それは嫌だから、教えてやる……だけど」
縛り付けられ脅されて劣勢に陥ったハデスだが、不敵な様子は鳴りを潜めたわけではなくそこでまた笑みを浮かべると酷薄に告げた。
「決めておくんだな。誰が犠牲になるかを」
「え?」
「決まっているだろう? 冥府の儀式に、生贄はつきものだと」
◆◆◆◆◆
この世には、抱えられる熱量の限界というものがある。
その熱量の計算式を全て理解できる者、それこそが皇帝である。だがしかし、理論を理解できることとその理論を実践することには天と地ほどの隔たりがある。理論はその途中の事実の欠落を仮定で穴埋めして最終的な解に辿り着けるが現実的にはそうも行かない。理論の途中で空白にされた、現実には存在しない途中式、それがその時点で完成不可能なものである場合、何かで補う必要がある。補ったものを使うということはその精度は理想とは劣るが――。
とにかく、世界は口で言うほどに上手くはいかないということだ。
この世の物事には全て代償がつきまとう。何も差し出さず何も奪われず、手に入るものなどない。
あるいはそんなものもあるのかもしれないが、だとしたらそれは自分が意識していないだけで、今の自分の力でも手に入れる事が可能なものだということだろう。
そう――世界は、現実は、優しくなどないものだ。
「決まっているだろう? 冥府の儀式に、生贄はつきものだと」
ハデスの言葉にその場に静寂が下りた。
「生贄……?」
「なん、だと……」
吐き出されたあまりにも無慈悲な現実に、一同は凍りつく。
冥府から地上へと帰る扉はハデスによって破壊されてしまった。デメテルの力によりこの地に送られてきた彼らには、他に帰る手段がわからない。頼みの綱は敵であり冥府の王とも称号を持つハデスに帰還方法を聞くことだけなのだが。
「生贄って……それじゃあ」
「わざわざ誰が犠牲に、などと言うからには、そこいらの魔物をひっつかんで差し出せば良いというものでもないわけですね」
これまではなんとか平静さを保っていたローラやリチャードもさすがに顔色を変えている。
と。
「ハデス自身を差し出しちゃ駄目なの?」
「ロゼウス!?」
「おま、そんなさらりと鬼畜発言を!」
ロザリーとエチエンヌのツッコミにもめげず、ロゼウスは捕らえたハデスの顎を指で持ち上げながら言って見る。
「だって、この中で俺たちが問答無用で殺しても構わない相手なんてハデスくらいだろ?」
「お前、馬鹿だろう? 僕がいなかったら、どうやって扉を開くんだよ。魔術ってのは普通術者が死んだ途端にその効果が消えるものだろうが」
「ああ。そうか。ただの人間はそうだったな……ちっ」
「舌打ちしやがって」
二人が睨み合ったところで、事態が改善されるわけでもない。
「さっさとこの針金どけろよ。扉は開くだけ開いてやる。そこからどうするかは、お前たちが決めればいい」
ロゼウスがハデスの首筋に、刃のように尖らせた爪を当てたままハデスを立たせる。ローラとエチエンヌがそれぞれワイヤーを解くが、首に当てられたそれのせいでハデスは無駄な動きはできない。
「下手な事はしないでもらおう。お前がそれをしなかったらどうせ俺たちはここに一生幽閉なんだから、それくらいならお前を殺す」
「本当にいい性格してるよ、お前」
魔術を行うために手で印を組み、そのままハデスは呪文の詠唱を始めた。
何が起こるのかと一同が辺りを見ていると、変化が起きたのは目の前の湖だった。淡い緑色の水を湛えていたはずの水面が赤く色を変える。
それと同時に彼らが立っていた神殿にも変化が起き始めた。薄灰色の建物は崩れて形を変えていく。ぐらぐらと揺れる地面に立っていられなくなり、ロゼウスたちは地面に膝をついた。
「こ、これって……」
ハデスの呪文が終わる頃には、周囲の風景が一変していた。
「これ……扉、ですか……?」
クルスが口にしたとおり、そこには新たなる扉が出現していた。神殿の建物が崩れて、その形を扉へと変えたのだ。
「そう。そしてこの溶岩が生贄を捧げる祭壇」
ハデスの言葉に彼らが先程まで湖だった場所を見ると、そこには燃え立つ赤いマグマが湛えられていた。そうと意識した途端、周辺の大気が燃えるように熱いことに気づく。ロゼウスたちヴァンピルはこの程度平気だが、普通の人間であるシェリダンやローラたちは汗をかいていた。
「あの扉は全部、冥府から地上へ戻ろうとした人間の命が作ったものなんだよ。本当の意味で冥府と地上を行き来できるのは、冥府の王とそれに準じる力を持った者だけだ。それじゃ……僕はこの辺で失礼するよ。後はあのマグマに誰かが身を投げればそれで済む話だから、お前たちで勝手に決めな」
「あ! 待て!」
扉に気をとられてロゼウスが少し目を離した隙に、ハデスは魔術でさっさと姿を消す。一足先に地上に戻ったのかもしれない。
「くそ! 逃げられた!」
「……後から背を押される心配がないだけ、マシとするか。それで……まさか誰かが飛び込むわけにもいかないし、どうする?」
ハデスのことは追いかけようにもその術がなく無駄だと諦めて、シェリダンが眼下の赤い湖に目を落とす。地面はせり上がるように変動して、もとは平坦だった大地に段差ができている。ロゼウスたちがもともと通ってきたあの扉があった丘も、もとはこうしてできたのかも知れない。
「どうするったって……どうするのよ!」
ロザリーが叫ぶが、その問に答えられる人間はいない。
「また、ラダマンテュスの屋敷に戻って話を聞いてみるのはどうでしょうか? 彼なら何か知っているのでは?」
「それだクルス! ロゼウス、またあの森に――」
『無理だね。それは』
自分たちで何とかできないのだから他人に聞くしかないと、クルスが妙案を提示したかに思えたところでその声が空中に響いた。
「ラダマンテュス!」
『御機嫌よう。皇帝陛下とそのお仲間の方々。私を頼ってくれたことは嬉しいが、残念ながらお役に立てそうにないね』
「お前、この事態を見てたのか?」
『冥府は退屈だからね。他にすることもないし』
「だったら止めればいいだろう!」
『無茶言わないでくれ。私にもできることとできないことがあるさ。あなたがあそこまで我らの王を挑発するなんて予想の範囲外だよ』
「……!」
『こちらに戻ったとしても無駄足になるよ。私とて冥府の住人だ。しかしこの世界から地上へと抜け出る方法など知らない。その扉を作り上げる以外はね』
冥府の王。その真髄は、本来簡単に行き来できない冥府と地上を移動することができるという能力。
本来地上と冥府は決して交わらない世界だ。その世界を行き来できるという能力は、それだけで賞賛に値する。皇帝としての才能を持っていたデメテルでさえ、冥府のことを完全に掌握することは叶わないのだ。
だからこそ、この事態が生じる。
「他の人間がこの世界にやってくるのを待つとかは?」
さりげなく自分勝手なことを言うローラに、リチャードが首を振る。
「そもそも私たちだってハデス卿に誘い出されなければここへ来る事はなかったんだ。普通の用事で冥府に旅行に来る人間もいないだろう」
オルフェウスがエウリュディケを取り戻しにでも来ない限り、通常そんな事態はありえない。
「でも、だったらどうするの?」
「……」
誰もがその先を口にできない中、ただ一人が口を開いた。
「私がいくわ」
◆◆◆◆◆
懐かしい子どもの頃。
とは言っても、もう二十歳を過ぎた女の昔なんて、まだ十代の若者から見てみればそれこそ赤ん坊の頃よね。
風に飛ばされた帽子が王城の中庭の木にひっかかってとれなくなり、私は困っていた。自分ではとれないし、誰かにとってもらおうと思っても誰を頼ればいいのかわからない。
一番上の兄はなんでもよくできるけれど、その分才のない私を馬鹿にしているのが優しい態度の裏側に透けて見えていたし、召し使いたちに頼んでも同じ。またあのお姫様は余計な仕事を増やして……と陰口を叩かれるに決まっている。
十歳を過ぎた頃には誰もが目を見張る美少女、と呼ばれるようになったけれど、それまでの私はただの子どもだった。いいえ。ただちょっと可愛いだけの普通の子どもならばまだいい。何の才もない無能で無力な子どもだったわ。だから最初から好意的に助けてくれる相手なんて誰もいなかった。
それでも二番目の兄やすぐ下の弟は割合よくしてくれたけれど、その二人は折悪しく外出中。自分と同じ女である姉たちには頼めないし、自力で木登りもできない。できたとしても、ドレスを汚してまた怒られてしまうわ。
どうしようもなくて泣きたくなっていたところに、あの子はやってきた。
――姉様!
――ロゼウス?
当時八歳だった私の半分の年数しかまだ生きていない弟は、私を見つけて何が嬉しいのかにこにこと近寄ってきた。高い木の枝にひっかかった帽子を、私もまさか自分よりもずっと小さいこの子にとらせる気なんてなかったのだけれど……。
――はい、姉様。
止める暇もなくするすると木に登り、ロゼウスは私の帽子を取ってきた。でも……私はまだ何も言っていない。ただ、枝にひっかかった帽子をずっと眺めていただけ。
――どうして……。
ロゼウスは答えない。ただ、にこにこと笑顔を振り撒いている。
こちらが何か言う前からその人の望みを察し、叶える……そんな力にこの弟は優れているんだ……私は幼心にそう刻んだ。
その日から私の、才ある者への嫉妬の対象が増えた。
何を言っても八つ当たりしても痛い顔一つしない弟。何も考えずに生きているように見えて、だけどいつも何かを欲しがっていた。それが何なのか、私にはわからなかったけれど。
私はロゼウスが羨ましかった。そんな風に満たされなくてもこの弟はもう充分色々なものを手にしているように見えて。
でも、でも本当は――。
――はい、姉様、お帽子。
――……ありがとう、ロゼウス。