荊の墓標 35

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「私がいくわ」
 それは行くなのか逝くなのか。
「ミザリー!?」
「姉様」
「お姉様!?」
 この場でただ一人犠牲にならねばならない者としての宣言をしたミザリーに、アンリ、ロゼウス、ロザリー、ローゼンティア王族の面々が反応する。
 マグマの熱気で、大気はそれ自体が燃えるように熱い。どちらにしろ長くこの場所には留まれない。だが無慈悲な決断を下す勇気は誰にもなくそれぞれが立ち尽くしていたところだった。
 そもそもロゼウスたちは、ミザリーを助けにこの場所までやってきたのだ。
「駄目だよ! 姉様!」
 ここで彼女を失っては本末転倒だ。その想いを胸にロゼウスはミザリーの元まで駆け寄ってくる。
 腕をただ触れるだけ。そっと掴んで、引き寄せる前に一度顔を見た。青褪めるロゼウスとは対照的に、波のない凪の海のような瞳をしている。
 絶世の美貌と謳われるその顔を綺麗に微笑ませて。
「……後は、あんたに任せるわ。ロゼウス」
「……え?」
 伸ばした腕で彼女は一度だけ弟を抱きしめた。
「ねえ……さま……」
「負けちゃ駄目よ」
「え?」
「この先、どんなことがあっても、その運命に負けちゃ駄目よ」
 ミザリーが口にしたそれは、奇しくもウィルが言ったのと同じ言葉だ。
 どうか、あなたの運命に負けないで。
「あんたは皇帝になるのだから」
 私が何も言わないうちから失くした帽子を取ってきてくれたロゼウス。その願いを人々が表立って言う事はできずとも、本当の本当に求めている真実を掴みとり、叶えてくれる。
 世界がそれを必要としていると言うのならば、この弟は皇帝になるべきだ。
 先程、無意識のうちに彼女が彼に助けを求めたように、ロゼウスの力を必要としている人間が、この世界にいると言うのなら。
 私は――。
「手間かけさせてごめんね、アンリ兄様、ロザリー。それにシェリダン王たちも」
「ミザリー!」
「お姉様!」
 アンリとロザリーは叫ぶように妹の、姉の行動を止めようとしてシェリダンたちは何もできずに立ち尽くす。
「私は本来ここでお前を止めるべきなんだろうな。だが、言えない。地上に戻りたくないとは……」
 そのためならミザリーすらも犠牲にする。本末転倒であろうとも、シェリダン自身は自分と他の仲間たちのことが大切なのだ。ミザリーを救うために全てを捨てる選択など初めからありえない。
「そう。なら、ロゼウスを押さえていて」
「わかった」
 だからここだけはとミザリーの求めに応じて、シェリダンとクルスがロゼウスを押さえ込む。
「姉様!」
 アンリとロザリーにはリチャードとローラ、エチエンヌがつく。
 しょせんどんなに強くても人間の腕力。吸血鬼にとっては振り払えない力ではない。だけど三人は振り払えなかった。
 そしてミザリーは誰かに突き落とされてそこに落ちるのではない。自ら足を踏み入れるのだ。
 赤い赤い湖。燃え立つマグマ。
 吸血鬼は火炎に弱い。そもそも命を捧げるための生贄なのだから、生きて戻って来られるわけはない。
 ロゼウスたちはミザリーを救いにこの冥府までやってきたのだ。なのに何故。
 疑問を打ち払うのは靡いたコートの裾。熱された大気に煽られてそれが風をはらむ。
 長い白銀の髪がふわりと柔らかに宙を舞って。
 それは永遠のような一瞬だった。
「姉様――――!!」
 死者の世の門が開く。

 ◆◆◆◆◆

「おにいさま!」
「戻って来たわね」
 薄青い光に包まれたと思った瞬間、ロゼウスたちはそれまで踏みしめていた罅割れた大地ではなく、平らな大理石の床を足の下に感じた。
 エリサとデメテルが、一様に疲労した表情の彼らを出迎える。
「それで首尾はどう? ずいぶん時間がかかったようだけど」
 デメテルの問に、彼らは疲れきった表情を更に凍りつかせる。その様子に不穏なものを感じたデメテルとは対照的に、ローゼンティア王家の末っ子であるエリサは無邪気に兄たちに尋ねた。
「ミザリーおねえさまは? ねぇ、おにいさまたち、おねえさまは? ……おにいさま?」
 十歳の少女の声は、ふいに不思議そうな顔と共に途切れる。
 魔法陣のあった床から離れられないまま、白い頬に涙を滑らせる兄の顔に視線を釘付けにされて。

 ◆◆◆◆◆

 遠くの景色を映していた水晶玉に、彼は血の気のない灰色の手を一振りしてその映像を消した。
「やれやれ。皇帝陛下は無事に地上にお戻りになられたようだ」
 水晶玉に映されていた最後の映像はロゼウスたちが冥府の門をくぐりこの地下世界から姿を消したところで終わった。確実に気配が消えたことはここからでもわかっている。
「その犠牲は少ないものではなかったようだが……」
 姉姫を助けるためにこの世界にやってきたロゼウスは、結果的にその姉姫を失うことになった。骨折り損のくたびれ儲けで済ますにはあまりにも趣味の悪い事態だ。冥府の生贄として化物に犯し殺されるのとマグマに自ら身を投げるのと、どちらが楽だなどと言えない。
 ラダマンテュスは目の前に酒の注がれたグラスを置いて、楽しげに肩を揺らした。グラスをどこに置いたかなど関係がない。ここは彼の魔術が支配する空間、彼が今は不要だと思ったものは近くをふわふわと邪魔にならない程度に浮遊していて、またいつでも取れるようになっている。
「運命とは残酷なものだねぇ。ロゼウス=ローゼンティア。この全世界を支配する何者かの手により、世界は彼を皇帝にするために動く。本人もそして周囲もそれを知らぬまま、ただ、踊り続けるしかない。……ああ、今回のことでまた一つロゼウス王子は、皇帝へと近づく」
 幾つもの喪失と別離を乗り越えるたびに、彼は覇王としての器に目覚める。
 ラダマンテュスは脳裏に藍色の髪と朱金の瞳を持つ少年を描き出した。人間離れした美貌の、しかしどこまでいっても人間でしかない少年。彼こそが、ロゼウスの運命を握る鍵だ。
 この冥府ででも読み取れた、ロゼウスの彼への執心ぶり。ではあの少年を失ったら、虚無のヴァンピルはどこまで狂ってくれるのだろうか。
 それを想像すると、今から胸が高鳴り心が躍る。ぞくり、と背筋を走った快感にあわせて、白濁の液体を吐き出した。
 いまだ、一人の少年がその股間に顔を埋め奉仕を続ける場所へと。
「……ぅ、ごほっ、けほ」
 飲み込みきれずに噎せた少年は、それまで咥えていたものからいったん口を離す。その唇から、ぼたぼたと白い液体が垂れた。
「おやおや駄目じゃないか。飼い犬がご主人様の屋敷の床を汚すなんて」
 見れば少年の首には太い首輪が嵌められ、鎖で繋がれている。鎖の先はいつの間にかラダマンテュスの手が握っていた。それを乱暴に引っ張られ、少年は苦しげな顔になる。
「あ……」
「願いを叶えてほしいと言ってきたのは君だろう? 私は条件を提示したまでだ」
 そうしてラダマンテュスは再び少年を自らのものへと押し付けると、涙目の少年を更に抉るように言葉を続ける。
「私を六百六十六万回イかせてくれれば、君の願いを聞いてあげるよ――ねぇ、ヴィルヘルム」
 薄茶色の髪に獣の耳、愛らしい顔立ちの少年がその言葉にぽろぽろと涙を流しながらまた男のものに舌を這わせ始めた。

 《続く》