荊の墓標 36

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 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
 体調が一番悪くなる悪阻の時期などとっくに終わっているのに、それでも気分の悪さが治まらないのは精神的な負担が大きいせいなのだろう。このままではいつになっても長い謁見や会議などはできず、負担は増すばかりだ。
 カミラの身体のことは、身の回りで働いている侍女たち以外誰も知らない。もちろん国民や国内の貴族も重鎮も知らない。何せ公式にはカミラはこれまで一度も結婚していないのだ。そんな状態で、妊娠などと。
「……どっち」
 胸と腹の間、どちらとも言えぬ場所をさすりながら、空ろな眼差しで呟く。
「どっち、なの?」
 その疑問も、カミラの胸を悩ませる一因である。
 お腹の子の父親である可能性があるのは二人の男。一人は彼女のこの世で最も愛しい相手。もう一人は殺したいほどに憎い相手。
 まさしく天国と地獄。最高の幸福と最大の不幸の二択の答は、全てが終わるその日までわからない。
 刻一刻と迫るその日を待つ一瞬一瞬に、カミラの神経は削りとられていく。じわじわと硬い何かをこそぎ落とすかのようにゆっくりゆっくりとその瞬間が迫ってくる。
 どうやら彼女はお腹が目立たない体質らしく、少しゆったりめの服を着るだけでいまだ誰も彼女の体型の変化に気づいていない。だがそれも時間の問題だろう。あと数ヶ月して臨月近くなれば、嫌でもこれまで隠し続けていた城内の人間にさえそのことは知られてしまう。
 その日が来るのが怖い。
 その時を迎えるのが嫌だ。
 その気持ちが高じて常に苛々とし、落ち着きも冷静な判断も今のカミラからは失われている。そのために補佐としてローゼンティアから派遣されてきたルースがいるのだが、彼女は信頼できる相手ではない。
 ようやく嘔吐感が治まり、カミラはゆっくりと身を起こした。洗面台の前に座り込んでいた脚と腰が痛い。水場にいたせいで体中が冷え切っている。
 エヴェルシード王城の作りは、他国に比べれば一件簡素だがその実優美な装飾がそこかしこに施されている。軍事国家であるこの国は建物の強度を下げるような装飾は絶対にしないが、その分多少費用がかかっても強度を補強した上での装飾なら許されている。だから常人は普通目に留めないような部分が一品物でできていたりするのだ。カミラは水を汲んだ桶を傾けて、自らの吐瀉物を流した。女王のするようなことではないが、こればかりは仕方がない。
 もともとエヴェルシードの王族は軍事国家の人間の常として、一人でなんでもこなせるよう徹底的に教育されるものだ。その気になれば、一人でも生きていける。そう、本当は……。
 けれどやはり人の中にいて、人と関わって、人に認められて生きて行きたいと願うのが人間なのだ。少なくともカミラにそう言った自分の欲望をとめることはできない。
 そして、だからこそシェリダンが生きていれば必ず再びこの玉座を奪い返そうとするだろうと思っている。彼の死を確認するまで、その死に顔を確認するまで安心できない。それもまたカミラの一つの弱味であった。
 洗い場を片付け、大きな鏡で自らの身だしなみに乱れがないか確認してからその部屋を出る。顔色が悪いのは仕方がないとして、他に髪の一筋の乱れも許されない。
 自分は女王なのだから。
 しっかりしなさい、カミラ。内心で己をそう叱咤して、カミラは背筋を伸ばして歩く。廊下ですれ違う使用人たちが、その姿に何の疑問も持たぬように。
 どんなに辛かろうと、時折途方もなく惨めな気分になろうと、それでも投げ出すわけにはいかないのだ。
 この道は、自分で選んだ道なのだから。兄であるシェリダンを追い落としてまで渇望した玉座だ。誰にも渡さない。そのためには自分がまず隙を見せるわけにはいかない。
 痛みさえも感じていないような顔でカミラは歩く努力をする。それだけが今のカミラにできる全てであった。
 逆に言えば、こんなことしかできない。
「カミラ女王陛下」
「バイロン。どうかしたの?」
 執務室へと向かう途中で、宰相であるバイロン=セーケイ=ワラキアスと顔を合わせた。もう四十過ぎになるこの男はシェリダンの治世の下で宰相として働き、そしてそれ以前からもこのエヴェルシードの宰相を務めていた。つまり、カミラとシェリダンの父であるジョナス王の時代からだ。
 軍事国家という体裁からか、エヴェルシードは実力主義の色が強い。とは言ってもその根底に男尊女卑と言う差別意識が働いているので実力で評価されるのは男に限ったことである状況が多いのだが、稀にバートリ公爵エルジェーベトのような例外もいる。
 宰相バイロンは、その実力でその地位を獲得した一人だった。普通は貴族が要職につくことが多い国の政治の中枢を担う宰相という職を、彼は平民から自らの力で昇進して手に入れたのだ。
 ジョナス王は平民の出でありながら有能なバイロンをいたく気に入っていた。しかし、それが逆に仇ともなる。相手が平民と言うだけで差別しないその姿勢は好ましいものなのかも知れないが、彼に関してはその姿勢によって一つの悲劇を作り出す。
 それが、シェリダンの母ヴァージニアの略奪。いかに美しかろうと平民の娘などを愛さなければエヴェルシードが庶出の母を持つシェリダンと女性であるカミラの間で揺れることなどなかったのだ。相手が平民の美しい娘だからと無理強いするだけして捨てるような男も人として問題だが、この件に関してはそうしてくれた方が後々になってこんな風に問題になることはなかったのだ。
 王城内にはいまだカミラではなくシェリダンの治世を望む声がある。もっとも兄であるシェリダンは現在カミラの手によって国を追放され行方不明どころか生死不明ですらあるのだが、だからと言って願う心が止まるものではない。シェリダンの治世というよりも、もはやカミラの支配でなければ何でもいいと思うような輩の方がまず多いのだ。
 そして目の前の男は、そんな優柔不断で事勿れ主義の中立ですらなく、シェリダンの治世を心から望む者である。バイロンが表立ってカミラに反感を示さないのは。ひとえにいつかシェリダンが国に戻って来たときに速やかにもとのまま彼にエヴェルシードを返すためだ。
「女王陛下、どうなされましたか?」
 突っ立ったままじっとバイロンの顔を見つめていたカミラに、宰相は不思議そうに尋ねてくる。はっと我に帰ったカミラは、なんでもないわとその追求を封じた。
 そうして腕に何か書類の山を抱えているバイロンから、午後の執務の内容を聞く。宰相ともなれば書類など近侍の者たちがやってくれるのだが、もとが平民である彼にそんな考えはないらしい。シェリダンにしろカミラにしろ自分でやった方が早いことはさっさと自らの手で行うので、いちいちそれを問題にする輩もいないからだろうが。
どうやら民の訴えは速やかにこの男のもとへと行ったようで、先程カミラが突っぱねて追い払った男たちの話も改めてバイロンの口から聞かされた。
「ですので、この件は私が練り直した後改めて陛下に奏上いたします」
「それでいいわ。明日もこのように、謁見を昼前に回して、午後はできるだけ簡単な書類仕事を量を増やしていいから回してくれる? 休みたいとは言わないけれど、もっと効率よく動きたいのよ。それと、週に一度の軍の視察も……」
 今現在のこの国が荒れていることぐらい、カミラにだってわかっている。
 どんなにやっても、上手くできないのだ。あちこちから漏れ聞こえる不満の声に耳を澄ませても、現状の自分ではどうにもすることができないことばかり。セルヴォルファスとの戦争によって何の利益も上がらないばかりか、そのために使われた軍事予算の穴埋めが痛い。そしてその後に芳しい成果が上がらないせいでカミラに対する全体的な評価が低くなっている。
 しかしこれと言った打開策も見つからないし、的確な助言をくれる相手もいない。バイロンやバートリ公爵エルジェーベトが時折厄介な案件に手を貸して無難にまとめさせるくらいで、それ以上の踏み込んだことは誰もしない。
 当然だ。今のカミラには、何を捨てても彼女のためにつき従う彼女個人の味方など、いないのだから。
 国のためを思ってカミラが失敗をしないように見張る目付け役にはバイロンやエルジェーベトがいる。だがカミラがそれ以上に成果をあげることを期待して手を貸してくれる人間は誰もいない。
 それでも、このエヴェルシードにまだ女王として存在できるだけ自分はマシなのだろうともカミラは思う。
 セルヴォルファスはすでに滅びた。ハデスに唆されたとはいえ他でもないカミラが兵士たちに命じてかの国を攻めさせたのだ。そうして多くの人狼族が死に、王も死んだ。カミラとも面識がある、彼女と同い年の少年王ヴィルヘルムはすでにこの世にいない。
 一瞬でもその背に隙を見せれば、次はカミラが同じ目に遭う。ドラクルと手を組んででもシェリダンを追い落とすことを誓ったあの日から、すでに命運の犀はふられているのだ。今更逃げる場所もない。
 女王としてここに存在するしかないのだ。ただ自分がそうあるように望んだからというだけでなく、そうでなければ、彼女は死ぬしかない。それが定められた道筋だと。
 だからこそ、今この状況で警戒することが必要なのだとカミラにもわかっている。一つの国に二人の支配者は必要ない。二人の人間が同じ玉座を望むなら、争うしかない。
 兄であるシェリダン、彼が次にカミラの目の前に現われる時、その時こそ二人のうちどちらかがその命を失う運命の分かれ目なのだと。

 ◆◆◆◆◆

 ルースはカミラからの書簡を持ち、ローゼンティアのドラクルのもとへと戻って来た。
 エヴェルシードの、地理的関係上抜けるようなとは言わないがそれでも青い空の下から今度は灰色の薄曇のローゼンティアの土を踏む。
「今帰りました。ドラクル」
「おかえり、ルース」
 エヴェルシードが荒れている間はローゼンティアの方は逆に落ち着いている。一度の戦争で大敗した軍事国家相手に油断を見せるなど毛頭ないことで、エヴェルシードが繁栄している間はローゼンティアの民は安心できない。シェリダンとブラムスの治世からカミラとドラクルに覇権が移り変わって今では友好的な関係を取り戻しても、あの戦いの痛手と負担は計り知れなかった。それにローゼンティア側からしてみれば、ミカエラのこともある。今王権を握っているのはドラクルたち反王権派だが、それでも十五歳の王子の訃報は気分の良いものではない。
 そんなわけで、いつまたローゼンティアにとって近くの驚異となるかもしれないエヴェルシードが荒れているということは、吸血鬼たちにとっては良いことだった。いっそ内乱に陥って自壊してくれればもっと安心できるのだが、さすがにそこまではいかないだろう。
 と、いうよりもさすがに隣国の滅びをそこまで傍観してはならないのだ。武の国エヴェルシードの力は驚異ではあるが、一つの国が滅びればそれだけの問題がまた他国に飛び火するものだ。吸血鬼の王国であるローゼンティアでは難民の受け入れなどできないし、隣国が荒野になれば経済的な影響も大きい。そんな危険を見過ごすくらいならばむしろ、ここでエヴェルシードに恩を売って、あの国の舵取りにローゼンティアの手が介入できるようにしておく方が都合が良い。
 だからこそ、ドラクルはエヴェルシードのカミラのもとにルースを送り込んだのだ。適度にカミラの評判を下げ、そして回復して恩を売るようにと。それができる人物はドラクルの信頼厚く策謀の知能を持ちそして何よりもカミラの方でこの提案を承諾するほどの身の証が必要であった。ルースの場合ならそれはドラクルの妹という一言で全て片がつく。
 そうして彼女はドラクルの言いつけどおりエヴェルシードでカミラの評判を意図的に操作するように動き、定期的にドラクルに報告のために戻ってくる。
 これまではただの兄妹だったが現在では建前上は王とその臣下という身分が優先される。ローゼンティアの黒色の石が敷かれた上に紅い絨毯の謁見の間にて、ルースは跪きながらドラクルに状況を報告する。
「カミラ女王の名を落とすことは順調です。女王は身体的な不調も精神的な不安もあって、ここのところ常に苛立っている様子。取り返しのつかない狂態を晒すのも時間の問題でしょう」
 ルースの言葉に、謁見の間とはいえこちらは寛いだ様子で玉座に背を預けるドラクルが満足したように口元を吊り上げる。
「そうか。では、このぐらいで勘弁してあげようか。カミラ女王に関しては。ではルース、お前は今度から今まで下げた分のカミラの評判をそれと気づかせずに持ち上げて救っておいで」
「御意」
「ふふ。ではここからは、堅苦しいやりとりは抜きにしよう」
 ルースの返事を聞いてからドラクルは頬杖ついていた手を外し、指先でルースを招く。
「お兄様……」
 玉座に近寄り、ドラクルの膝に侍るようにしたルースが兄を見上げて微笑む。
「ローゼンティアの方は落ち着いているよ、ルース。エヴェルシードの状況が今また何か仕出かしてもおかしくないほどに荒れているとあって、いつ八つ当たりでまた攻め込まれるかと恐れた王権派の臆病な連中は水面下に潜っている」
「まぁ。それではエヴェルシードの方を私が落ち着かせてしまったら、今度はローゼンティアの方が荒れてしまうのではありませんか?」
 ルースの言葉に、ドラクルはいっそうその笑みを深くした。
「そうだよ。だから、その時がこのローゼンティアの方向を決める一大事だ」
「そこで王権派を打ち倒しあなたが勝てば、今度こそこの国はドラクルのものですね」
「ああ、そうだ」
エヴェルシードが荒れている間ローゼンティアが落ち着いているということは、逆に言えばエヴェルシードが落ち着くと今度はローゼンティア国内が荒れると言う事。隣国の脅威という重石がなくなればローゼンティアの王権派貴族はここぞとばかりにドラクルたち反王権派を排斥しようと動き出して来るだろう。
 だが、土竜がそうやってのこのこと巣穴から這い出てきた時が彼らの最後だ。完膚なきまでに叩きのめし、今度こそローゼンティアの玉座に相応しいのはドラクルであることを認めさせる。
 そうして足場固めをしてしまえば、もうロゼウスが国に戻って来たとしても怖くはない。
 だが、何かがドラクルの脳裏にひっかかる。
「……ルース」
「はい」
「ハデス卿のことなのだが、お前、何か知らないか?」
「何か、とは?」
「彼はまだ何か私たちに隠し事をしている。デメテル帝を倒すという言葉がすでに謀反として彼の大望を晒してはいるが、ハデスにとってはまだ、この私の復讐につきあう理由があるのではないか?」
 ドラクルは考える。彼がブラムス王とその本当の息子であるロゼウスに果たしてどんな形で復讐するかを考えていたとき、自分もその企みにつき合わせろと近づいてきたハデス。彼らは協力関係にあり、ドラクルの復讐が終われば次はローゼンティアの方でハデスの簒奪に力を貸すことになるが。
 それ以外にも、彼にはまだ思惑があるのではないか?
 ドラクルは自身の能力に自惚れるわけではないが有能であるという自覚はしているし、それに対し弱味を握られる部分も多いのだと言う自覚もある。だからハデスが後々の皇位簒奪に関して動かす相手としてもっとも近づきやすいの自分だったのだろうと考えはするが、おかしい。
 まだ何かが足りない気がするのだ。
「これは一体、どういうことだろうな……」
 そんな風に思考にふける兄の姿を、ルースはルースで見つめる。
 ローゼンティア王ドラクルはまだ、ロゼウスが皇帝となるべき運命を持つことを、知らない。