荊の墓標 36

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 ガシャンと音を立ててグラスが砕け散る。
「何よ! 女王である私の言う事が聞けないと言うの!?」
 カミラは怒りのままにそうやって食器を薙ぎ払うと、食事中に案件の奏上に来た男を一喝した。可哀想なのは今日の料理を作った料理人たちと、この部屋の後片付けをする侍女たちである。
「女王陛下、ですが……」
「あなたとの問答は無用よ! いいから、先日の通りになさい!」
「そんな……!」
 怒鳴られてもめげずに食い下がろうとした男に、カミラはデザートの皿を叩きつける。すでに吟味の終わった件に関して、今更がたがたと。
 男の言い分には確かに一理ある。訴えももっともかと思われる。
 だがしかし、ここで男の言葉を認めてしまえば他の件もそれに関して往々に調節しなければならない。城に何事かを申し出た団体だけを常に優遇するわけにはいかないのだ。しかもそれは数日前にこれで完全決着だとけりをつけたはずの案件ではないか。
「女王陛下! お話をお聞きください!」
「聞きたくないと言っているのよ!」
 このままでは埒が明かないばかりか女王の機嫌の下降するままに部屋の被害が増えるばかりと判断した侍従の一人が、バイロンを呼びに行った。数ヶ月に一度は実家のある城下の下町に戻る宰相は、しかしここ最近はそれもなくずっと王城シアンスレイトに留まっている。カミラの面倒を見るたびに。
「女王陛下!」
 バイロンがやってきた部屋で見たものは、乱れたテーブルに床下に割れた皿とグラス。デザートを頭から被った男と、明らかに苛立った形の女王。
 状況を見れば、若き女王がヒステリーを起こして訴えに来た民の男を甚振っているようにしか見えない。
 しかし、デザートを被っているとはいえ男の顔に見覚えのあったバイロンは、二人が言い争っているのが何の案件に対してか理解した。城に何事かの用件でやってくる人間など決まった相手でなければ到底覚えることの叶わないほど多いのであれば滅多にないその記憶は、その男がつい先程バイロンの方も訪れたことが理由だ。
 宰相は深く溜め息つく。
 カミラにももちろん言いたいことはあるのだが、その前にこの男を部屋から出す方が先決だ。
「卿、貴殿はここで何をしておられる」
「さ、宰相閣下」
「卿の持ちこんだ件は先程、このワラキアスがしかとお聞きしたはずだが」
「そ、それは……」
「わざわざ女王陛下のお食事中に無礼にもこちらまで赴いて、何をしておられるかと聞いている」
 男が押し黙る。こめかみに脂汗をかいている。
 カミラは仲裁に入ったバイロンの、すでに男の用事を聞いているという言葉に眉間に皺を寄せた。それはつまり。
「お、恐れ多くも、わたくしは先程宰相閣下にお話した件を女王陛下に直接聞いていただきたいと」
「それが無礼だと言っている。私が明日議題にかけるといったものをこんな時間に女王陛下のお耳にいれる必要がある。貴殿の申す事は火急ではないと判断されたが?」
「そ、それは……」
 カミラは深く溜め息をついた。そして、眼差しを先程よりさらに険しくして告げる。
「出て行きなさい。この場から即刻! そうでなければ、明日は朝の議会の前にお前の首を刎ねるわ!」
 女王の恐ろしい命令に、男は尻尾をまくって退散した。
「女王陛下……」
 残されたカミラとバイロン、そして周囲の小姓や侍女たちはこれでようやく落ち着いたと安堵の息を吐いた。どうにも怒りっぽいこの女王様は、人の神経をすり減らす。それを制御できるものは極少数しかいない。
「グラスを叩きつけ、デザートの皿を投げつけるのはやりすぎです。これをたてにあの男がまた女王陛下に対する風聞を流しでもしたらどうするのです?」
「ふん。そうなったら、今度はあの男の所業をこちらが流してやるだけよ」
「ああいった手合いは気に入らなければすぐに自分が被害者面をするのが得意です。対応は慎重になさるのが賢明です」
 バイロンの言葉に、カミラはじろりと彼を睨んだ。彼のいうことはもっともなのだが、感情が納得できないのだ。
「カミラ陛下、陛下のお気持ちをお察しいたします。あの男は私に話を通しては自分に有利な条件をつけてはくれないと判断し、女王陛下が真剣に議題内容を考え判断をくだすことがないだろう食事時を狙ってあえてここに来たのでしょうから」
 カミラの対応もあんまりではあるが、先程訴えに来た男は男で問題だったのだ。彼は宰相バイロン=ワラキアスよりも無能で甘い判断を下すだろうとカミラの能力を見くびって、適当に言いくるめて自分に有利にことが運ぶようにこの時間にこの場所を訪れたのだから。
 だが、カミラを腑抜けと侮ったことがそもそもの間違いだ。
 カミラの対応は問題だが、彼女は話そのものを聞く気がなかったわけではない。むしろ全て聞いた上で、あれだけ彼女を怒らせたのが男の言い分だったのだ。
 まだ若すぎる女王だから適当な言い回しで言いくるめられると不敬にも女王を見くびったのが男の敗因だ。しかも、気性の激しい最高権力者として彼女の下す処断は常にバイロンよりも苛烈である。
「ですが女王陛下、あのような輩をいちいち相手にしていてはまともに国政が進みませんよ?」
「わかってるわ」
 食事時の訪問など、それこそ話半分に聞くか断ってしまうのが王の常だ。それをまともに招き入れるのだから、カミラは確かに仕事熱心な王ではあるのだ。
 だが、足りない。そうあえて言うのであれば心の余裕とでも言うべきものが。先程のことだって、カミラが冷静であれば本来は彼女一人で治めることが出来たはずの事態である。
 こうして身近に接するようになりバイロンも知ったが、カミラはけして何もできない人間ではない。むしろ行動力という点で見れば人一倍活動的で、何かを行う意志が強い。参謀さえ優秀であれば、充分王になれる器だろう。それができないのは、やはりまだシェリダンの事が気にかかっているからであろうか。
 妹は常に兄の後ろに追いやられてきた。
カミラに足りないのは絶対的な余裕。だがそのことに本人が気づいていない。無意識下で肩肘を張ってるためか、自らの精神の限界を認められずにいるのだ。
 だがこのままでは、このエヴェルシード王国は……。
「食事を続けてください、女王陛下」
 不穏の種はすでに撒かれていた。

 ◆◆◆◆◆

「災難でしたね。ワラキアス宰相閣下」
「イスカリオット伯……」
「こんな時間までお仕事御苦労様です」
 気品ある顔つきの青年はそんな言葉と共に、彼の執務室の前でバイロンを出迎えた。王城内部で立ち話と言うわけにもいくまい。バイロンは部屋の扉を開け、ジュダを招き入れる。
「また女王陛下のヒステリーにつき合わされたのですか?」
 言葉を飾るということを知らないような率直な発言をする普段言葉を飾りすぎる青年の言葉に、バイロンは溜め息と共に答えた。
「女王陛下をただのヒステリー娘だと侮りその逆鱗に触れた者の後始末に付き合っていたのだ。勘違いはしないでいただきたい」
 ここ最近、バイロンは自分の呼吸と言う呼吸が溜め息に変換されているのではないかと思う。
 ジュダは整った造作の中、唇を薄く笑みの形に歪めた。バイロンが椅子を勧めたにも関わらず彼は入り口から数歩入ったその場に立ったままである。
 狂気伯爵。ジュダ=キュルテン=イスカリオット。
 八年前には自らの一族を惨殺するという乱行を犯した貴族。殺戮の魔性と呼ばれるエルジェーベトとは、また違った意味で恐れられている青年だ。
 シェリダンがまだこの国の王であった時、彼はそのシェリダン王に味方しているように見えた。しかしそもそもシェリダンがエヴェルシードを追われる原因を作ったのもジュダだ。彼は土壇場でカミラに味方して簒奪に手を貸し、シェリダンをその玉座から引き摺り下ろした。
 だが、少なくともあの頃のバイロンの眼から見てジュダがシェリダンを忌み嫌っていて王として不適当と扱っている様子はなかったし、簒奪が成功し政権がカミラへと交代してもジュダがさほど真剣にカミラを立てる気がないのもわかっている。簒奪の協力者としてはちょくちょく借り出されているが、それでもジュダはカミラに心の底から忠誠を誓っている様子ではない。
 それどころか、最近のこの青年は何にも心動かされることはないような有様だった。シェリダンを追放してカミラを玉座につけたことも一体何が目的だったのか。特にその功績でカミラから何か褒美を貰った様子もなければ彼女の熱心な派閥でもないジュダの扱いには、エヴェルシード中の貴族が首を傾げている。
 いっそバイロンやエルジェーベトのようにカミラを手助けしながらもあからさまにシェリダンを立てる様子を見せてくれればまだわかりやすいのだが、そんな様子でもないようだ。
 彼は一体何を考えているのだろう。
 バイロンはもう四十過ぎになる。だが、まだ三十年も生きていないこの若者の考えていることがわからない。
 人は大人になればなんでもできるように子どもの頃は考えていたものだが、実際にもう大人と言うより老人と呼ばれるに相応しいほどの年齢となって、そんなこともないのだなと知る。願っても叶わないことばかりで、いつも最悪の事態を止めることができない。
「宰相閣下、現在のこの国の様子はどうです?」
「それはこの城に引き篭もっている私などより、貴殿の方がよくご存知ではないのか。イスカリオット伯」
「私は領地に住んで領地の資料に目を通しているだけ。あなたはここに住んでいるが、国中から集められる情報を知っている。それらを考えれば、あなたの方がこの国をよく知っているでしょう。何せあなたは一人で三人の王に仕えた宰相閣下だ」
 三人。ジョナス、シェリダン、カミラ。
 四人目はいらない。
「何が言いたいのだ。伯」
「そろそろこのエヴェルシードは危ないと言うことですよ。王城だけではなく、エヴェルシード全域で民の不満が高まっている」
「……王が代われば、当然それに伴った改革が行われる。だが、民衆の暮らしはそう簡単に変われるものではない。ジョナス王が退位されてシェリダン王の治世になったのももともと急な話だったのだ。それが半年もしないうちにまたカミラ王の治世となり、民はついていけないのだろう」
「それはよくわかっていますよ。だが、我々の仕事はそうやってこの国が潰れないように策を講じることでしょう。民のことを思いやるのは勝手ですが、それで国を滅ぼしてしまえばまた路頭に迷うのは民ですよ。これまで絶対王制の軍事国家だったこの国で、いきなり王家が断絶して指導者がいなくなったところで民が生きのびられるはずはないのですから」
「ではどうすればいいのだ」
 もっともなことを言うジュダに、だがバイロンは苛立った口調で尋ねる。ジュダの言うことは確かに正しいが、しかしそれはカミラの未熟な統治能力の補佐を務め、彼女を排するにしろ持ち上げて甘い汁を啜るにしろどちらにしても利用することには変わらない輩との対応をしたことがないから言える言葉だ。
 カミラが努力していることも、そのやり方が無茶であることもバイロンは知っている。そのおこぼれに預かろうと、あるいはカミラ自身の存在を玉座から排してしまおうと虎視眈々と狙っている貴族たちのことも。そんな上層部の混乱に巻き込まれて、国内各地で民が疲弊していることも。
 このままでは民衆の不満が爆発して内乱になる。内乱。それはもっとも恥ずべき事だ。皇帝によってアケロンティス帝国においてこのエヴェルシード公爵領を任されている王が、自身の能力のなさを自ら示しているも同然だからだ。
「簡単なことだ」
 しかしそんな恐れを払拭することを、ジュダは容易だとあっさり言ってのけた。
「カミラ女王に不満が集まるのであれば。新しい王を玉座に据えればいい」
「だがそれではまた国民に負担がかかる。それに次の王がカミラ女王より優れていると誰が知るのだ」
 国の慶事には民も祝い金として祭を開く。そうまでして即位を祝った新王の統治が以前よりもまともなものであるという保証はない。しかも新王を据えるとは言っても、実際今この国にはカミラの他には王族が一人もいないのが現状なのだ。
 そのバイロンの考えも、ジュダは簡単に治めた。
「それはまったくの新王を立てる場合でしょう。祝いの慶事もいらなければ、カミラ女王より優れている事はすでに実証されている。そして王族である。そういった人物が再びこの国に立てばいいのですよ」
ジュダはあっさりと言い放つ。
「シェリダン王さえこの国に戻れば、全てが解決します」