207
船は進路を見失い、花は春を待つのを止めた。堤防は決壊寸前となり、亀裂の入った壁はもうあと一撃で完全に破壊されるだろう。
内部から膨れ上がり彼らを押し込める壁を壊そうとする水の力によって。
エヴェルシードの状況はそんなものだった。
庶民はまだいい。彼らは王城の現状など知らない。ただ夜毎下町の酒場で安い酒を仲間と飲み交わしながら、国中に流れるピリピリとした不穏な空気を感じ取るのみである。
貴族もまだいい。自らの血統に無意味な矜持を持つ彼らはやはりいざと言うところで始皇帝シェスラート=エヴェルシードの血を絶やすことに抵抗があるのか、現在の王のやり方に不満を持ちながらも表立って反乱を起こすことはなかった。彼らの記憶には更に、イスカリオット伯爵ジュダ卿がシェリダン王から離反し王城に攻め入ったことも新しい。その彼と、この時点では中立派をうたう王国最強の女戦士、バートリ公爵エルジェーベトを敵に回しては勝ち目などあるはずがない。
しかし、その彼らの間にいる兵士たちはもうすでに限界だった。
「聞いたか? クロノス卿の投獄の話」
「ああ。なんでもご子息のクルス卿のことで、女王様に直談判に行ったって話だろ?」
「反逆の剣聖、クルス=ユージーン侯爵はシェリダン王に惚れこんでるって一部じゃもっぱらの噂だったからな。だがよ、父親が息子を捜しに行きたいってそんなに悪いことか?」
「そんな単純な問題じゃねぇんだよ。今クロノス卿が国を空けたら貴族共の力の均衡が崩れるだろうが」
「それだけじゃねぇぜ。そもそもシェリダン王に心酔してたクルス卿を捜しに行くって事は、シェリダン王を捜しに行くってのと同義だろう? つまり、クロノス卿は真正面から女王に喧嘩を売ったんだよ。お前なんか認めない。シェリダン王の方がマシだってさ」
「いや、あの熊みてーなおっさんはそこまで絶対考えてねぇだろ」
「俺もそう思う」
「まぁな。でも女王の方でそういう意味に受け取る可能性はあるんじゃねぇか? だとしたら、あのヒステリックな女王様が怒り狂ってクロノス卿を牢にぶち込んでもおかしくねぇぜ」
「そんなことでか?」
「やれやれ。これだから女王なんか嫌だってんだ。エヴェルシードには女王なんか必要ねぇんだよ」
クロノスのことが引き金となり、兵士たちのカミラに対する不満は更に高まっていく。
もともとエヴェルシードでは歓迎されない女王である。しかも、カミラに力を貸す振りをしてその実無力な女王よと侮って傀儡に仕立て上げれば上手い蜜が啜れると思っている貴族階級とは違い、戦を起こすとき真っ先に送られる兵士たちは完全に実力主義だ。戦争に打ち勝つ力がない者を、彼らは王とは認めない。
カミラはセルヴォルファスとの戦いに勝利したが、その後の利益が思ったように得られなかったことが兵士たちの不満の発端となっている。結果を出さなければ意味がないのだ。しかし一度の戦いでそれなりの出費をした後で、すぐにまた他国に攻め込むなどという無謀なことは出来ない。そんなことをすれば今度こそ有能な王が玉座について安定しているというローゼンティアから逆に攻め込まれるだろう。彼らはかの国の恨みを、充分にかっているのだ。
しかし、今現在のこの国が纏まらない状況では、戦いに出向かず国内に留まっていても同じことのように思える。不自然に浮かれた熟した果実のような腐敗一歩手前の空気を漂わせるこの国は、すでに滅びる寸前の様子だ。
このままではまずい。
誰もがそう感じていた。不安に苛立ち、怒りに不満、形こそ違えど誰もが変革の必要性を感じていた。
そのためには、今の国王は邪魔だ。
兄を追い落として玉座についたカミラ=ウェスト=エヴェルシードはしかし国王に相応しくない。彼女の破滅の葬列にこちらまで付き合ってやる必要はないのだ。
始皇帝の血統が絶えることがなんだというのだろう。それよりも、今現在この国で暮らす者たちの命と生活の方が重要だ。
しかしカミラがその玉座にいる限り、エヴェルシードは何一つ変われずに腐っていくばかりだろう。
そう、彼女は王として不適格だ。だから。
「カミラ女王はその座を明け渡せ!」
数ヶ月をかけて高まり続けた兵士たちの不満がついに爆発する。
「この国にあんたみたいな女王なんざいらねぇんだよ!!」
シェリダンが名君だったとは思われないが、それでもカミラよりはマシだと人々は語る。実際はローゼンティアとの争いやイスカリオット伯の暴走など、シェリダンが引き金であってカミラにその責がない問題も多いのだがそんなことは民には伝わらない。
王城で反乱が起こる。
城に集った兵士たちが怒りの矛先を全てはそのせいだと不甲斐なき女王へ向ける。
手に手に槍を剣をその他の武器を持った男たちは王城の中庭、城門前と言った場所に集い、揃って声を張り上げる。
「カミラ女王の退位を要求する!」
◆◆◆◆◆
欲しいものはいつも手に入らなかった。
「この日が来たのね」
カミラは自室の窓から、そっと外を眺めて呟く。中庭や城門前に押し寄せた兵士たちが怒号を張り上げる。鉄色の甲冑が光を反射して目に眩しい。文官と残った少数の兵士では荒れ狂う男たちの行動を阻止できず、騒ぎは更に大きくなっていく。
この数ヶ月、エヴェルシードに溜まり続けた澱のようなよどみを受けとめ続けた最下級の者たち、兵士たちはついにその怒りを爆発させた。
幾百幾千も集った人の心という強大な力のうねりが、現在のこの国の君主であるカミラへと押し寄せる。彼女の責任であるものもないものも、王である、ただそれだけの理由で贖いを彼女に求められる。
もともとエヴェルシードは、酷く危うい均衡の上で成り立つ国家だった。
何と言っても、子種が少ない。王位を継ぐ者が極端に少ないエヴェルシード王家は、伝統の割りに常に断絶の危機にあった。
王家のせいだけではない。国のシステムにも問題がある。他国に侵略して富を土地を奪う国は無法者、野蛮人と呼ばれて時に酷く忌み嫌われる。そして侵略戦争は得るものも大きいが、その分リスクも大きい。今回のように、はるばると遠征をして得た利益が少ないとその不満は一身に国王の責として向けられる。
エヴェルシードは武の国、戦いの国。
安定して和平を貫いた時期も長いのだがそれでも今日までこの日がそう呼ばれてきたのは、初代国王にして始皇帝である男、シェスラート=エヴェルシードの性情によるところが大きい。
始皇帝はエヴェルシード人、もとはザリューク人と呼ばれていた民族の一人だった。ザリューク王家の最後の生き残りは自らの国を滅ぼした敵である当時の暴虐の大国ゼルアータを、かの国に苦渋を舐めさせられた国々の者を率いた解放軍により滅ぼしただけでは飽き足らず、その上にこの地上の全ての国を征服して《世界》と言う名の一大国家を作り上げた。
それが世界帝国アケロンティス。
つまりこの国は、シェスラート=エヴェルシードの者なのだ。帝国とは周辺諸国を併合して支配に治める国のことをさす。帝国の中に納まる一つの国として、エヴェルシードは自らのその名をとり、一つの国を作り上げた。
常に冷たく無表情でありながら、まるで戦いを好むかのように全世界に戦を仕掛け見事勝ち抜き世界の征服を果した戦神、シェスラート=エヴェルシードのその性情を受け継ぐ国を。人間の中で最も強き猛き一族の住まう国として、武の国エヴェルシードを作り上げた。
初代国王とは名ばかりで、皇帝として世界中を治めていた彼はほとんどエヴェルシードに足を向けることはなかった。実質の統治は腹心のソード=リヒベルクに任せ、しかしシェスラート=エヴェルシードの名は今でも強く語り継がれている。
暴虐の大国を打倒する復讐を果たし、新しい世界の形を作り上げ、選定紋章印という形で神の承認さえ得た男。
その存在感は死してなお強烈だ。一説によると不老の魔人とも呼ばれたシェスラート=エヴェルシードは人間の身とは思えぬ三百年と言う長い間、世界帝国を統治し続けたという。本当かどうかなどもちろん後世の人間に判断する術はそう多くはないが、それでも語り継がれているということこそが重要なのだ。
自分はその末裔だ。カミラは強くそれを思う。シェスラート=エヴェルシード=ザリュークの子孫であるカミラ=ウェスト=エヴェルシードだ。
だがここで血統は途絶えるかもしれない。カミラの代で、始皇帝の名誉に泥を塗ることになるのかも知れない。
「カミラ女王の退位を要求する!」
窓の外から聞こえてくる。彼女を破滅へと追いやろうとする怒号が聞こえてくる。
いつ滅びるとも知れない危うい均衡の上に成り立つ国ではあったが、その終焉の役目を受け持つのがまさか自分であったとは。
シェリダンを玉座から追い落としてから、まだ数ヶ月しか経っていない。シェリダン自身も即位後四ヶ月で退位と言う、半年にも満たない期間しか玉座にいなかったが、ここで終わればカミラも似たようなものだ。
どちらにしろ滅びる道しか待ち受けていなかったのだろうか。自分たちには。あるいはこれの立場が逆で、カミラの後始末をシェリダンがつける形だったらどうなったのだろう。あの兄ならカミラがどんな問題を抱えて残しても、上手く処理できたのだろうか。
「カミラ女王はその座を明け渡せ!」
「この国にあんたみたいな女王なんざいらねぇんだよ!!」
窓の外では兵士たちが、カミラの退位を求めて怒鳴る。しかし勝手なことを言ってくれるものだ。果たして彼らの中には今カミラが退位したところで、新たに国を導く者の目当てがあるのだろうか。そうでなければこの国は滅びるだけだ。指導者を失くして上手くやっていけるほど、気性の荒いエヴェルシードは良い国ではない。
それでも愛していた。
どんな形でも、この国が好きだった。
どうしてもこの国の王になりたかった。そのために異母兄まで罠にかけた。
外で叫ぶ彼らの中には深く考えず、カミラがただ女王だから退位を要求する者もいるのだろう。
エヴェルシードは武力を重視する国柄、男尊女卑思考が強い。この国では女王は歓迎されない。差別思考が強く、平民であればまだしも王族の女性は特に肩身が狭い。王女たちは他国や国内の有力な貴族に嫁いで婚姻関係を結ぶくらいしか価値がないのだ。
カミラは女として生まれてきただけで、両親に疎まれた。
正確には少し違うか。父は初めからカミラになど興味がなかった。そして父である国王の愛情を得たかった母は、王女ではなく王子が欲しかったのだ。
他の国では、男女に関係なく正妃の血筋が尊ばれることもあるのだという。また、それほどまでとは言わずとも、庶民出の妾の王子と正妃の王女であれば、身分の関係から王女の継承権が高いことが多い。
それを、下町上がりの妾妃の子どもが男であり正妃の子どもが女である場合は、問答無用で男子が第一の王位継承権を持つほどに男尊女卑思考が強いのはエヴェルシードくらいのものだ。
私が男であれば、迷うまでもなく王になれたのに。
本当はこんな考え方をしてはいけないことはわかっている。それはエヴェルシードの男尊女卑思考を認めることだ。その考え方自体が歪んでいるのだと身を持って知っているのに、自分が不利益を被るのが不当であることに気づきながら世界のあり方に流されようとするのはただの臆病者の腰抜けの考えだ。
でも、それでも、思ってしまう。自分が男だったならば。
自身ではどうしようもできない生れによって、得られるはずの幸福を紙一重で失う悲しみ。自分だけではない。カミラにだってわかっている。エヴェルシードにはまだまだ同じような事に苦しんでいる人々がいて、この差別は不当だ。それを改革する労苦を負いたくないばかりに自分が男として生まれていればなどと考えるのはただの逃げだ。
それでも男として生まれたかった。
永遠にシェリダンの背中を悔しく思いながら見つめ続けるのではなく、せめて対等の立場で競い合い負けるのであれば、まだ納得ができたのに。
だが窓の外では絶えず怒号は響き渡る。
「女王を殺せ!」
数ヶ月前に、王を殺せと叫んだのは自分だった。シェリダンを殺せ、と。しかし今、カミラは同じように民から弾劾されている。
それでも彼女は、女王だ。このエヴェルシードの王だ。疎まれても厭われても、自分で望んでこの地位についたのだ。
だからこの人々の怒りまでも受けとめる。それが最後の責任だ。
だが――。
眼下で、群集が騒ぎ出した。何事か起こったらしい。けれど、何が? 女王たる自分はまだここにいる。
怪訝に思ったカミラは窓枠に取り縋り眼下の光景に目を向けて耳を澄ます。人並みが漣のように割れていくのを見た。そして誰かが叫ぶ。
「シェリダン王だ!」
何ですって?
遠くから一つの人影がこちらへと向かって来る。その人影を通すように、人々が列を割った。
「シェリダン王が帰ってきたぞ!!」
カミラは驚きの声を上げる。愕然と目を見開いた。
帰ってきた。
このエヴェルシードに、嵐をもたらす王が。
◆◆◆◆◆
牢獄の中は薄暗く冷たい。灰色の石壁が静かに佇んでいる。苔むした牢獄の中は湿っていて、間違っても居心地が良いとは言えない空間である。
今まで何度もここに罪人を謀反者を規則の違反者をぶち込んできたのだが、自分がここにぶち込まれる立場になろうとは。
戦に負けた代償として首を斬られる覚悟はあったのだが、牢獄にぶち込まれる覚悟はそういえばしていなかったなぁ、と状況のわりにのほほんとクロノス、クロノス=ユージーンは考える。
国から出奔した息子を捜しに行きたいと女王陛下に申し出たところ、すげなく却下されてこの牢屋にぶち込まれた。状況を一言で説明すればそう言ったことになる。
クロノスは自分の立場からすれば息子を大事にするのは当然だと思っていたが、その逆であるカミラの立場と言うものを確かに深く考えてはいなかった。カミラによって玉座を追われたシェリダン王を信望していたクルスがいきなり国を出奔したとなれば、そこには高確率でシェリダンが関わっている。二人が一緒にいる可能性も高い。
であれば、クロノスがクルスを捜しに行くと言うのはシェリダンを捜しに行くことと同義だ。しかし男尊女卑思考の強いこのエヴェルシードに歓迎されない女王であるカミラの治世下にシェリダンが戻れば、彼女は玉座を追われる。それがエヴェルシードだからだ。
玉座を追われた王の末路は、誰よりも雄弁にカミラ自身が証明しているではないか。彼女はシェリダンの命を狙った。彼が国に戻れば、今度は彼女が命を狙われる。簒奪という事を起こす前ならばまだしも、もう彼女は行動に移してしまったのだ。それが見逃されるわけはない。
クロノスの行動は軽率だった。誰がそれを否定できよう。
「まったく……」
「本当に馬鹿だな」
「!」
突如牢獄の中に響いた自分以外の者の声に、クロノスは驚いて飛び上がる。武人として成り上がったからには気配を読むことには自身があったのだが、思考に没頭しすぎていたらしい。
よりにもよって、ただの文官でしかない彼の接近にも気づけないとは。
「宰相閣下」
「クロノス=ユージーン。陛下の逆鱗に触れたそうだな」
王城地下の牢獄へとやって来たのは、宰相バイロン=セーケイ=ワラキアスだった。クロノスよりも幾つか年上の宰相閣下は、平民宰相と成り上がり元侯爵ということで個人的にも他の貴族よりは親しい。
だが、こんな場所で会うのは勿論初めてだ。
「宰相、どうしてこんなところへ?」
「あなたがいる以外に、何かあるのか、クロノス卿」
「まあそりゃそうですが」
クロノスがぼりぼりと頭をかきながら、じめじめとした牢屋の中を眺め回す。お世辞にも環境がいいとは言えないここはどう考えても一国の宰相閣下が話し合いをするのに相応しい場所とは思えない。
「宰相閣下、こんなところに来てはいけません。肺を悪くしますよ」
「ありがたい申し出だが、私はあなたに話があるのだ、クロノス卿。私の身体を気遣ってくれるのならば、あなたがそこから出てきてくれないかね?」
「そう言わないでくださいよ、宰相閣下。女王様直々にこの牢屋にぶち込まれたんですよ。出られるわけがありませんよ」
「出られるとしたら?」
意味ありげに笑って、バイロンはそうクロノスに言った。
しかしクロノスはあけっぴろげのない苦笑で返す。
「出られませんて。私にだって女王陛下を怒らせてしまったことぐらいわかります。あのご様子だとまだ数日はお怒りが解けないでしょう。私を出せなんて命令がくだされるとは思いませんが」
あははと楽観的に笑うクロノスの目の前にバイロンはそれを突きつけた。
「そうだな。だが今女王陛下の命令はないが、ここにこの牢の鍵はあるんだ」
「宰相?」
訝しげに彼を見返すクロノスに、バイロンはふっとやわらかく相好を崩して微笑みかける。
「逃げろ。クロノス=ユージーン」
「……何を仰っているんですか。宰相閣下。そんなことをしたら」
「女王陛下のもとにはこの後、私が直談判に行く。何、内密だが私はかつてあのシェリダン王にも喧嘩を売って啖呵を切った人間だ。女王陛下相手に怖気づくこともないさ」
「だがしかし!」
そんなことをすれば罰されるのはクロノスではなく、勝手なことをしたバイロンである。
「クロノス。あなたのやったことは多分正しいのだと思う」
「え?」
「息子を捜しに行きたい。あなたの立場としてそれは当然だろう。だがカミラ陛下にも陛下の立場がある。国王が死ねば国中に影響が出る。代替わりもまた同様。だから彼女は常にそんな不用意な発言をするわけにはいかないのだ」
「はい。この牢獄の中で私もようやくそのことに思い当たりました。無神経でした。できれば女王陛下に謝罪したいのですが」
「だがカミラ女王の怒りは滅多なことでは解けないだろう。それに、あなたの言う事にも一理ある。カミラ女王の方が立場が上だから今回はこのような形になっただけで、クロノス卿、あなたの言う事が全て間違っているというわけではないのだ」
バイロンは溜め息をつく。それこそ先程クロノスから肺を悪くすると指摘された、黴臭い牢獄の空気を深く吸う。
「今のエヴェルシードは澱んでいるのだ。流れをせき止められた川の水が濁り行くように」
このじめじめとした暗い空気こそ、今まさにエヴェルシードに充満するものだと。
「このままではいけない。誰かが、何か動き出すことが必要なのだ」
「宰相閣下、あなたは……」
「私では役者には向いていないが、それでもまあ何とか、やってみようと思う」
クロノスはバイロンの瞳を見る。宰相の橙色の眼差しには静かな決意と覚悟が宿っていた。彼はすでに心を決めているのだ。
この国と、彼の仕えた王たちのために死ぬ覚悟を。
「カミラ女王陛下は悪い王ではない」
「知っています」
「ああ。私たちは知っている。だが国内にはそう思っていない人間も多い。彼女は正しき補佐がつけば、必ずエヴェルシードを導いていける人間だ。だが周囲はそれを認めず、このエヴェルシードに巣食う永の思想が追い討ちをかける。女王は治世には向かないと」
世界一の強国家が抱える闇。それを、誰かが払拭しなければならない。バイロンにはそれを果す理由がある。
「悔いているのですか? 宰相閣下。あなたの存在が引き金となって、ジョナス国王が第二王妃を見初めたことを」
「……」
平民宰相と呼ばれるバイロンの提案によって城下を視察した際に、シェリダンとカミラの父であるジョナス王はシェリダンの母、ヴァージニアを見初めた。
シェリダンが生まれて来なければ良かったなどとは言わないが、二人の兄妹の運命を狂わせた歯車のひとつは間違いなくバイロンだ。彼があの時城下の視察に自らの地元を提案せず、ヴァージニアが見初められることがなければシェリダンは生まれてこなかった。望んで生まれてきたわけではないシェリダンの苦しみも、彼がいる限り玉座にはつけなかったカミラの労苦も全てバイロンが生み出したようなものだ。
その責任を、彼はこれから取るという。
「いけません。宰相閣下。あなたはまだこの国に必要なお人だ。あなたが死ねばそれこそこの国は立ち行かなくなってしまう」
「それでもやらねばならないのだ」
二人がそう話し合っているところ、どこかから地響きにも似た唸りが聞こえてきた。
「な、なんだ?」
「始まったか」
バイロンが苦渋の表情を浮かべて空気とりの小窓を覗く。そこからは何も見えないが、音だけは牢の中心部より鮮明だ。
「兵士たちによる反乱だ。女王の退位を求めている。クロノス卿、できればあなたにはあちらを止めてほしい。女王陛下の方には、私が」
「その必要はありませんよ」
バイロンがそうクロノスを促しかけたところで、それまでこの場にはいなかった第三者の声がかけられた。
しかも今度クロノスがその気配に気づかなかったのは先程のように油断していたからではない。外の喧騒の正体を知ろうと神経を張り詰めさせていた彼の警戒網をその人物が抜けたのは、それだけ彼の方が優れていたからだ。
「父上、宰相閣下。今、あなた方に出てこられては困ります」
「君は……」
「クルス!」
牢の中と外で、二人の男はその青年の姿を眼にして叫ぶ。
クロノスが女王に申し出をしてまで捜しに行こうとしていた一人息子、クルス=ユージーン侯爵がそこにいた。