荊の墓標 37

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 城門での暴動において、彼が姿を現したのに気がつくと、誰もが驚いて凍りつく。
「お、おい! あれ!」
「ん? どうしたんだよ、ここから俺たちの主張によって女王を引きずり出すまでが重要……って」
「シェリダン王だ!」
 誰かが叫ぶ。その叫びをまた誰かが聞きつける。驚きが伝染し、やがて集団はその後方から動きを止めていく。
 目を大きく瞠って絶句し凍りついた男たちの視界に映るのは、埃まみれで汗臭い鎧を来た彼らとは何もかもが酷く対照的な少年だ。
 エヴェルシードの国王、自らが軍人として戦う戦意と決意を表明する深紅の軍服にも似た国王の衣装を身に纏い、完璧な容姿に更に磨きをかけて歩いて来るのは、彼ら兵士がよく見知った少年だ。
 彼らがよく知り、そしてこの数ヶ月は姿を見るどころか生死すら知れなかった相手である。
 蒼い髪に橙色のエヴェルシード人の中でも特徴的な、夜空を切り取ったような藍色の髪に、琥珀の中で燃える炎のような朱金の瞳。すらりとした肢体は少年らしさを残して細身だが、見ていて居心地の悪いような軟弱さは感じさせない美と強さの完璧な均衡を保つ。
 そして何よりもその顔が、白い瞼に通った鼻梁、特に赤いというわけでもないのに、紅を塗らずともはっとするほどに鮮やかな唇と、生気を感じさせる薔薇色の頬が、炎の瞳を庇い伏せる藍色の睫毛が。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
 彼らの王だ。
「陛下……」
 誰かがぽつりと呟いて、また囁きはさざめくように兵士たちの間を伝染する。
 まるでシェリダンが唐突にその場に何の前触れもなくぱっと現われたかのような驚きようだが、実際にはもちろん違う。彼は普通に城門から中に入って歩いてきただけだ。門前の兵士たちの騒動を見て動くに動けずどうすることもできなかった見張り番の度肝を抜きながらも、勝手知ったる我が城ということで極々普通にシェリダンは歩いて戻って来た。
 城門の外にはリチャードやローラ、エチエンヌの双子人形と呼ばれる、彼の懐刀たちが揃っている。更にローゼンティア王家の一部、アンリとロザリーとジャスパー、そしてロゼウスが。
 彼らに対しては、シェリダンは「その時」が来るまで待っていろと伝えていた。ロゼウスに対しても、ただ大人しく待っていろ、と。
 シェリダンの望む行動に対し、何かできる手伝いはないかと言ったリチャードたち全員の協力を極力断って、シェリダンは単身エヴェルシード王城シアンスレイトに戻って来た。灰色の威容を誇る王城の門の中から入り込み、兵士たちが彼の姿に気づくのを待つ。
 シェリダンの姿を認めた兵士たちは、予測どおりにぎょっとして動きを止めた。カミラの退位を要求して今にも暴発しそうな爆弾のように荒れ狂っていた男たちが、彼の登場によって静まり始めたのだ。
 そしてしばらくすると、全員が動きを止める。もちろん完全に静止したわけではなく、すぐにも暴れそうに怒声を張り上げ槍を打ち鳴らしていたのをやめだ。ざわめきはまだ残っている。
だがそんな動揺激しい兵士たちも、シェリダンが一歩その足を踏み出すと再び動き始めた。
「シェリダン王」
「国王陛下」
「王様」
 シェリダンが一歩足を進めるごとに、人垣が、人波が割れていく。
 彼の歩みをと止めることは許さない。彼を阻む事は許されないというように。
 シェリダンが進むための道を人々は作る。それこそが王の威厳。追放扱いとはいえ、シェリダンの国王としての威厳はまだこの国に残っている。
 そして彼は今日、それを……。
「陛下がお戻りだ!」
「これでエヴェルシードは安泰だぞ!」
「馬鹿野郎! い、今更戻って来たってな」
「だがカミラ女王よりはマシじゃないか」
「拒絶のふりをしたってお前だって道を空けただろう」
「だが一度はカミラ女王にしてやられた王をまた認めるのか」
「どうなるんだ? どうするんだ?」
 兵士たちの動揺は広まる。
 シェリダンが国王であるという意識は確かに短い間とはいえローゼンティア侵略を初めとしてその指導力を発揮したシェリダン王の印象が強い兵士たちの間には根付いている。しかし、誰も彼もがそうして無条件に彼を受け入れるわけではない。
 父王を幽閉するところから始まり、ローゼンティアを侵略してその最後の王族を花嫁とし、更には妹と父親を殺して王位を確立しようとしたシェリダンに対する態度を国民は決めかねている。カミラを認めないという意味で団結して城門前から中庭に通ずる通路に集った兵士たちの間でさえ、意見はわかれている。
 シェリダンを認める者、認めない者。かつての王としての彼の手腕を信じている者、逆にそれ故にシェリダンを信じきれない者、カミラの治世には納得できないがもはやシェリダンにも何の期待もしていない者、むしろシェリダンが今更に国に戻ってきても困るという者……シェリダンに与えられる評価は決して好意的なものだけではない。カミラと同じく彼も若すぎるし、どうせ二人は兄妹で、お互いを蹴落としあう同じ穴の狢だ。どちらが優れているも何もないだろう、と。それでも若干シェリダンに期待する者がいるのは、女王であるカミラは認められないというエヴェルシードの男尊女卑思考が強い証拠である。
 特に天才というわけでも、史実に残るほど優秀と言うわけでもない。あくまでも人間らしい範囲として優秀で、欲深くて、最高で、最低。シェリダン=エヴェルシードはあくまでもそういったただの人間だ。ロゼウスやデメテルやハデスのように皇帝だの皇帝候補だの選定者だのと言ったレベルで話をしている者たちから見ればちょっと剣が使えるだけの、ほとんど何の取り柄もない普通の少年と言ってもいい。
 けれど、それでも彼は王だ。
 シェリダン=エヴェルシードはその短い記述を帝国の歴史に刻む王である。
彼が目指した未来、それは。
「シェリダン!」
 その場のざわめきを打つように高い声が響きわたった。
 城内の自室から騒ぐ兵士たちの様子を見下ろしていたカミラが、シェリダンの登場に慌てて降りてきたのだ。ちょうど城門前から中庭へと通じる通路の途中、城内に入る正扉の真下で二人は向かい合う。
 国王としての紅い衣装を身に纏い、腰に剣を佩いたシェリダンの様子はこれから何を行うにしても準備万端と言う風情だ。軍服に似せたその衣装は機能上何をするにしても動きやすい。
 一方カミラの方はとるものもとりあえず駆けつけて来たという体で、普段のドレス姿だ。

 かつての王と今の王。兄と妹は、敵として対峙する。

 ◆◆◆◆◆

「久しぶりだな、カミラ」
「シェリダン!」
「いや、もうカミラ女王と呼ぶべきか?」
 朱金の双眸に嘲るような色を上澄みのように滲ませ、シェリダン=エヴェルシードは口を開く。藍色の髪、炎の瞳、国王としての深紅の正装がよく似合う。
 とるものもとりあえず駆けつけたカミラは、いつも通りのドレス姿だ。美しいが、ただそれだけ。不審な表情で、突然帰ってきた兄を見つめる。彼女たち兄妹の中では言葉にすればそんな簡単なことだが、国にとってはそうではない。王の帰還。
 それは嵐をもたらすもの。
 船を転覆させ、全てを海の藻屑に帰してしまう黒雲の到来を告げる。
 いまだエヴェルシードにおいてシェリダンの影響は大きく、更にはシェスラート=エヴェルシードから続く始皇帝の血統を途絶えさせようという動きもあるくらいだ。そんな静かな混乱の真っ只中に前王であった彼が戻って来た真意とは。
 決まっている。一つしかない。
「だが私はお前を王と呼ぶわけにはいかない」
 少なくともこの場にいる者たちはみなそう思い、シェリダン自身もそれを思わせる言葉を吐いた。
「……なんですって?」
 黄金の瞳に剣呑な光を宿し、カミラは兄を、否、兄であったはずの男を睨む。こんな男、もう自分の兄でもなんでもない。最初からそんな大層なものではなかったのだ。シェリダンはただの、人間としてのクズだ。
 その彼は告げる。
「率直に言おう。カミラ=ウェスト=エヴェルシード。お前が我が手から奪った、私の玉座を返してもらおう」
「寝言は寝て言いなさい」
 シェリダンの言をぴしゃりと跳ね除け、カミラは堂々とそう言い放った。衣装こそシェリダンのように着飾っていないが、彼女とて伊達にこの数ヶ月女王を名乗っていたわけではない。
 その思ってもいなかった迫力に、兵士の一部はおや? と首を傾げる。
 これまで単純に男性と女性と言う事で男尊女卑思考の強いエヴェルシードではシェリダンの方がカミラよりも優れていると判断されていたが、本当にそうなのだろうか。頭半分背の高い兄と少し距離を置いて睨み合う彼女の眼差しは強く、決して兄であるシェリダンに気合負けしていない。
 シェリダンはその容色の美しさもあってか、さすがは王族の気品と言うべきか、何とも言いがたい迫力がある。兵士たちは彼が姿を現すごとにいつもその迫力に押されていたものだが、今ここにいるカミラからは、シェリダンと同じものを感じはしないか。
 玉座を追われた王と、今まさに追われようとしている女王。
 二人の立場は、皮肉にも今この瞬間、ようやく対等となったのかもしれない。性別も身分も生まれ持った宿命も越えて、ようやくその存在全てが同条件、平等の立場に。
「玉座を追われた王が、今更何の用?」
「先程言ったとおりだ。私の玉座を返せ」
「そんな戯言をほざくためにこの場に来たのなら、その無様な姿を晒す前にすぐに帰りなさい。今のエヴェルシードにお前の居場所などない!」
 普段から不甲斐ない臣下と歯向かう者に対し向けている舌鋒を異母とはいえ実の兄にも鋭く向けて、カミラはそう告げる。
「そうだな。今のエヴェルシードに私の居場所はない」
 彼女の言葉に周囲が思うよりもあっさりと頷いて、しかし、とシェリダンは瞳を細め妖美を湛えて笑いながら挑戦的にその言葉を口にする。
「あなたが今座っている玉座を明け渡していただければ、私の席くらいできるだろう?」
それはカミラを殺してその座を奪い取るという、あまりにも堂々とした簒奪宣言。
「そう……お前はその気なのね」 
 カミラも黄金の瞳をすっと細める。
「ああ。いい加減に決着をつけよう、カミラ。このまま何度も命を狙ったり狙われたりするのはうんざりだ。私はもう全てをお仕舞いにしたい。お前を殺して、この全てを!」
 腰に佩いた剣を引き抜き、シェリダンはその切っ先を離れた場所に立つカミラへと向けて言う。
「私と決闘しろ! カミラ=ウェスト=エヴェルシード! 私が勝てば、その王の称号は私のものだ。このエヴェルシードに、弱き王などいらない!!」
びりびりと周囲の空気まで震わせるような威勢の良い台詞をシェリダンは腹の底から吐き出す。カミラは怖じけた様子もなく、濃紫の髪をなびかせてその宣言を受け止める。
 シェリダンの突然の宣言に対し、カミラの反応に周囲の注目が集まる。折しも今この場に集まっているのは兵士たちだ。エヴェルシードの兵士にとって、強さは世界の全てだった。
 そう、この武の国エヴェルシードに、弱き王などいらない。 
 シェリダンの言葉に、固唾を呑んで行き先を見守りながら兵士たちは内心で頷く。エヴェルシードに弱い王などいらない。たとえ勝負に負けるところを見せることにならなくとも、この場でシェリダンからの決闘の申し込みを拒否するような軟弱な王は、女王だろうとそうでなかろうといらないのだ。
 シェリダンの決闘申し込みに対するカミラの返答に一同の注目が集まる。視線が針のように少女の細い身体に突き刺さり、無言の圧力をかけている。
 カミラがただの気の弱い普通の少女ならば、ここで大勢の男たちに好奇と敵意の視線を受けて、こんなにも堂々としていられるはずがない。
 だがカミラは、集った兵士たちの数の気迫に負けることなどなかった。まがりなりにも一国を治めようという人間が、この程度の人数の兵士たちに怯むようではエヴェルシードだけでなく、どんな国の王も務まらないだろう。
 カミラは女王だ。
 誰が認めずとも、今この国の王はカミラなのだ。
 城門前と中庭に通じる通路に集まった何百人もの男たちの前で、彼女はシェリダンの決闘申し込みへの答を返す。
「いいだろう!」
 少女らしい高い声は、そのか弱い外見に反して力強くシアンスレイト城内に轟く。
「その申し出受け取った! シェリダン=ヴラド=エヴェルシード!! 私が勝てば、貴様は金輪際このエヴェルシードに足を踏み入れることまかりならぬ!!」
 シェリダンがカミラに玉座を要求したならば、カミラはシェリダンに今度こそ正式な国外追放を要求する。
 お互いの名誉と進退を賭けた戦いは了承された。
「シェリダン、私は御前試合の時、王位を奪うために試合を申し込んだ。それと同じ事よ。私が勝ったら玉座は私のもの」
「そして私が勝てば、このシェリダン=エヴェルシードのものとなる。我らは腐ってもあの始皇帝エヴェルシードの末裔だ。腑抜けのようにあっさりと他人に玉座を奪われるなど我慢ならぬ」
「そのくらいならば、私はこの手で私の玉座を掴みとるわ。シェリダン、あなたを殺しても」
「そうだ。それでこそ、武の国エヴェルシードの王として必要とされる気概」
 敵として対峙するこの場には不自然なほど穏やかに、シェリダンは笑った。
「!」 
 カミラは密やかな異変を感じるが、シェリダンはその仄かな笑みをすぐに消してしまい、後には余韻も残さない。すぐにこの先の戦いへと向けて話題を移す。
「さぁ、カミラ。戦いを申し込まれた方の流儀として、お前は好きな得物を選ぶ事ができる。武器は何にする?」
「剣で」
「そうか」
 カミラの言葉を聞いて、丸腰の彼女のために兵士の一人が女王の剣を取りに行く。二人は同じ武器を選んだ。剣はエヴェルシードの嗜みだ。
「着替える時間をやろう。その格好のままでは、いくらなんでも戦いづらいだろうからな」
「結構よ」
 シェリダンは動きやすい格好だがカミラは裾を引きずるようなドレス。それで戦うわけにはいくらなんでもいかないだろうと着替えを促したシェリダンに対し、妹は必要ないと首を振る。
 カミラのための剣をとりに行っていた兵士の一人が戻って来た。彼女はそれを受け取り、いきなり抜く。
「女王陛下、何を」
 まだ決闘の合図どころか、その状態にもなっていないので、剣を悪戯に振り回せば必ず誰かに当たって死傷者が出るような状態。慌てて二人の王が戦う場所を作ろうと先を争ってシェリダンとカミラを囲む環を広げようとする兵士たちに見向きもせず、カミラはその刃を己の膝元に当てた。
 ドレスの長い裾を掴む、と、刃でばっさりと切り落とす。裾がぎざぎざと不格好になるが、気にも留めない。
「私はこれで充分だわ」
 白い膝とふくらはぎを惜しげもなく晒し、世間からすればみっともないとしか言いようのない格好になったとも思わず堂々と彼女は宣言する。
「さぁ、始めましょう」
 シェリダンが、白い羽のような軽さで薄く微笑んだ。

 ◆◆◆◆◆

「父上、宰相閣下。今、あなた方に出てこられては困ります」
 涼やかなその声と共に、彼はその場所に現われた。
「クルス!」
「クルス卿!」
 灰色の石はところどころ黒ずみ、じめじめとして黴が生えている王城の地下牢。埃っぽいその室内にそぐわないほど可憐な容姿の青年が現われる。エヴェルシード人の蒼い髪に橙色の瞳はもはや言うまでもなく、その顔立ちは牢に入れられたクロノスにも、彼を助けに来たバイロンにも見慣れたものだ。
「クルス、お前……」
「お久しぶりです、父上。勝手に飛び出して行って、申し訳ありません」
「ああ……そうだな。だがそれよりも教えてくれ。一体何があったのか」
「その前に、まずはそこから出てもらってもよろしいでしょうか? 外の役人にはすでにとりなしてありますので。――我が主、シェリダン様の名において」
 聞き捨てならない一言をクルスは発するが、それについての追求も後回しだと、クルスは鍵を使って牢獄の扉を開け父・クロノスをそこから出す。宰相バイロンは後に疑われないように、と自らの持ちだしてきた鍵もクルスに奪われ、三人は地上へと上がった。
 地上と言ってももともと地下牢の入り口は王宮の内部にある。城の廊下に出た三人は、更に人気のない場所まで向かった。
 今は城門前から中庭へ向けての通路で起きている兵士たちの暴動とそれを鎮めた何かにより、人の気配はそちらへと多く集まっている。中庭入り口での光景を一目見ようと兵士以外の者たちもそちらに集中しているため、城の上階の方が警備も手薄だった。
 クルスたちは、主のいない玉座が待つ謁見の間へと向かった。思ったとおりにその場所には誰もいない。空の玉座は中庭での戦い次第でどちらの王が自分に座るのかを静かに待ち続けている。
 エヴェルシードの血塗られた玉座だ。
 クルスは窓へと歩み寄ると、硝子にそっと顔を近づけて中庭の光景を覗いた。戦いはまだ始まったばかりという様子だ。
 濃紫の長い髪の少女と、藍色の髪の少年が剣を打ち合わせている。少女の衣装は裾が無理矢理きりとられぎざぎざになったドレスだ。
 周囲の兵士たちは固唾を飲んで見守るばかりで、誰も二人の戦いを止めようとする者はいない。城門の方から誰かがやってくる気配もないということは、リチャードたちの方でも上手く彼らを足止めしているのだろう。
 そして今度は自分の役目だと、クルスは振り返る。
 彼と一緒になって背後から中庭の光景を見下ろしていた父クロノス卿と、バイロン宰相閣下を見上げる。
「父上」
 中庭で、特徴的な藍色の髪からどうもカミラと戦っているのはシェリダンらしいと見て取り驚愕していた二人が、クルスの言葉にはっと我に帰りそちらへと注目する。
 バイロンは大人しいものだが、クロノスはもう我慢ができないようだった。
「クルス!」
 大音量で怒鳴られ、一瞬長い間の不在に関する叱責かと身を竦めたクルスをかまわずにクロノスは大きな腕で抱きしめた。
「心配したのだぞ!」
 クルスは呆気に取られ、バイロンも呆然としている。クルスは確かにもともと小柄な青年だが、体格の良いクロノスの腕の中にいるとまさしく子どものようだ。父親の厚い胸板に顔を押し付けるようにして抱きしめられて息苦しい思いをしながらもクルスは、今までどれほどこの人に心配をかけていたのかと悟る。
「申し訳……ありません、父上」
 きっとユージーン侯爵領の屋敷では、母も一人息子の行方と消息に関して心配しているだろう。旅の間頭の中では何度もよぎったその思いを、クルスはずっと封じ込めてきた。主君であるシェリダンが大変なこの時に、自分の両親のことなど気にしている場合ではない、と。
 だが侯爵を継いだばかりのクルスが国から追放された王を追って出奔したという話は王城にも侯爵領にも国中に届いているだろうから、そのことによって両親がどんな不利益を被るのだろうかと言うことはクルスにとって常に心配な事だった。
 どうやらクロノスのこの、クルスが旅立つ前と面相こそ多少やつれてはいるがそれ以外の態度やなんやかやについてはほとんど変わっていない様子を見ると、父も母も健在であるらしい。
 よかった、と思いながら、彼らのことを平然と放って出奔してしまった自分をすまなくも思う。
 それでもシェリダンを見捨てるなどということができないのもクルスの性格であった。しかしよく考えずとも、とっくに父も母も亡くして妹が敵に回った今では天涯孤独、自分よりも基本的な能力値は上だというパートナーたるロゼウスとどこにでも彼についていくリチャードたち侍従を従えるシェリダンと、特定の民に特に目をかけた覚えはないが国には自分のせいでカミラの怒りの矛先を向けられそうな両親を残してきているクルスでは違う。
「父上……本当に、ご心配をおかけしてすみませんでした」
「ああ。全くだ。この馬鹿息子。どうして一言相談してくれなかった。私たちに何も言わずに国を出るなどと……!」
 すでにユージーン侯爵はクルスからは剥奪された称号だ。侯爵領の管理はクロノスがしていたが、爵位に関しては継ぐ者もおらず宙ぶらりんの形になっている。だがクルスが帰ってきた。
 眼下ではシェリダンとカミラが戦っている。
 まさかあの状態でシェリダンがカミラに勝って何もないということはないだろうから、またエヴェルシードは荒れるだろう。それが、バイロンとクロノスの予測である。
「ユージーン侯爵……クロノス卿、とにかく一度彼と話をさせてくれ。クルス卿、一体何があった? こんな風に現れて、シェリダン様は一体何をなさるつもりだ?」
 宰相にそう問われて、それまで父の腕の中に抱きしめられていた青年は再び表情を険しくした。ちらりと窓の外の中庭での決闘の光景を一瞥してから、バイロンとクロノス二人へと向き直り話始める。
「そのことで僕は、ここに来たんです。父上、宰相閣下、たとえあそこで何があってもあなた方は動かないようにと」
「何?」
「シェリダン様のお考えです。そのために僕は、あなた方に説明と足止めをする役目をあの方から仰せ仕りました」
 バイロンが怪訝な顔をする。クロノスの方も、よく意味がわからないという様子だ。無理もない、とクルスは思う。その計画を聞かされたとき、彼でさえ一瞬唖然としてシェリダンの正気を疑ったくらいだ。
 あの陛下はいつもいつも、こちらの予想を裏切ってくれる。けれどクルスは、そんなシェリダンの臣下なのだ。だから。
「お二人に聞いて欲しいことがあるんです」
 少しでもシェリダンの手助けをしたい。それが彼にとっても、自分にとっても荊の道だとしても。