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どうして、どうして届かないの?
――お兄様!
小さい子どもにとって、一歳の違いというのは大きい。その一年があるかないかで、日常から吸収できるものが全然違うのだ。
その頃の彼女にとって、兄はとても大きな、強い、優れたものに見えた。彼女の人生に兄がいない月日は考えられなかった、良くも悪くも彼はずっと彼女の生活の一部だったのだ。
庶出の第二王妃の息子と、正妃の娘。立場としてさほど大きな違いがあるわけでもない。どちらも立場は常に不安定だ。だが年齢の壁はそんな難しいことよりももっと直接、彼女の中に実感として降り積もる。
――待って、待ってよ!
在りし日の光景を思い出す。まだ自分たちを取り巻く環境の難しさなど気にも留めず、無邪気に愚かに幸せだった頃。
――ねぇ、待ってってば! お兄様!
彼女よりも少しだけ歩幅の広い彼は、さっさと歩いて行ってしまう。彼女の呼びかける声が聞こえていないのか、立ち止まる様子もない。いくら追いかけても手を伸ばしても、届かない後姿。
一際声を張り上げた。
――おいていかないで!
◆◆◆◆◆
「痛ぅ……」
「それだけ怪我してれば、痛くて当たり前だ! じっとしてろ! 治療するから!」
「うるさい……子犬のようにきゃんきゃん喚くな……どうして出てきた、ロゼウス」
「どうして、じゃないだろ! この馬鹿! 無茶しやがって!」
先程、中庭から城門まで向かう途中、道の両側に並んだ兵士たちから石の襲撃を受けたシェリダンを建物の壁伝いに移動するという人間にはできない荒業で回収してきたロゼウスが、涙目になって怒鳴りつける。
予定ではあの後正扉から出てきたシェリダンを連れてそのまま街中を馬で駆けて王都から退却するはずだったのだが、ロゼウスが飛び出してきたことにより、その計画は崩れ去った。アンリたちには悪いが、このまま城の裏手まで迂回してもらおう。
シェリダンを抱えて人目につかない場所に降り立ったロゼウスは、その怪我の様子を詳しく目にして紅い瞳に薄っすらと涙を浮かべる。
「お前が泣くことではない」
「だって……悔しくて、ムカついて……悲しくて……」
こぼれそうな雫が頬を伝う前にロゼウスは袖でそれを拭い去り、代わりにキッ、とシェリダンを睨みつける。
口を開く前から苦笑を見せるシェリダンに対し、また怒鳴る。
「シェリダンの馬鹿!」
「はいはい。馬鹿で結構だ」
「あんたは大馬鹿者だ!」
「わかっている。それで、エルジェーベトたちの方はどうだ」
「二人に関しては説得したよ。後でアンリ兄様たちと一緒にこっちに来るかもしれないけど」
ロゼウスはどこで落ち合うとも言っていなかったが、シェリダンは深い傷こそないとはいえ身体のあちこちから血を流している。これだけの量の血の匂いであれば、吸血鬼である兄妹たちは簡単に見つけ出せるだろう。
「そうか。……ところで、ロゼウス」
「何? 大人しくしてろよ。治療魔術は苦手だけど、このまま怪我を治して……」
「ちょうど流血しているところだし、このまま血を飲むか? お前に血をやるたびにわざわざ新しい傷を作るのもなんだし」
シェリダンとしては何気ない言葉だったのだが、それはロゼウスの逆鱗に触れたようだ。
「あんたって、本っっ当に大馬鹿者だな!」
「何だ、先程から人を馬鹿呼ばわりして。そんなに言うならやらん」
「いい。もらう。本当はそこまで言うならしっかり懇切丁寧にちゃんと新しい傷を作ってやりたいところだけど、あんまりにも無様で惨めなあんたの様子に勘弁して、今はこれで許してやる」
「誰が惨めだ。それに、私がお前にいつ何の許しを必要とするというんだ」
憮然としたシェリダンの様子には構わず、ロゼウスは手近な樹の幹に体をもたせ掛けたシェリダンの上にのしかかる。
瞼を閉じさせて、その顔や手にできた傷口に唇を寄せる。その辺りに落ちていた石を投げられた傷口なんて、間違っても清潔なものではない。だがロゼウスは、文句もなくシェリダンの傷から直接血を舐め取った。それは別に、ここに水がなくて洗えないからという理由ではなくて。
一つ一つは小さな傷とはいえ、流血するほどの怪我だ。打撲もかなりあるがまずは止血が先だろうと、血を流している傷から処置をする。傷口を直接ざらついた舌で舐められる感触にシェリダンが僅かに呻く。
そうしてロゼウスが全ての傷口を苦手な治療魔術によって塞ぐと、シェリダンはようやくほぅと小さく息をついた。
しかしそうやって気を抜いた隙に、もう一度だけロゼウスの唇が降りてくる。今回は流血の難を逃れたはずの、その唇に。軽く重ね合わせられただけのそれからは血の味がした。
肩に回した腕がそっと抱きしめてくる。シェリダンの肩口に顔を埋めながら、ロゼウスはくぐもった声で小さく言う。
「……まったく、人の気も知らないで、無茶なことして……」
馬鹿だ、本当に正真正銘の馬鹿だ。ロゼウスは悪態を繰り返す。
心配した、不安だった、そんな言葉の代わりに、何故そんな無茶をするのだとシェリダンを責める。事前に全て聞いて、こうなることも、シェリダンがどのような考えでそれを行ったのかも全てわかっていながら、それでも責めずにはおられない。
「……あんたは、馬鹿だ」
「ああ」
静かに頷くのが憎たらしい。
「……だが、これで終わりだ。私のエヴェルシードに関する責任は」
「シェリダン」
「後の事は、カミラに任せよう」
静かにそう言ったシェリダンの言葉に頷きかけたロゼウスは、ふと怪訝な表情で顔を上げた。
「どうした」
「いや、そのカミラが来るみたいなんだけど」
「何?」
ヴァンピルの超聴力でそれを聞き取ったロゼウスが視線を向けた方向から、確かに馬が一頭駆けてくる。騎手は濃紫の髪を靡かせた少女だ。
「カミラ……」
「シェリダン!」
ロゼウスの手によって傷を癒されたシェリダンは、ロゼウスがその上からどいたのに合わせて身を起こす。
そしてやってきた妹と対峙する。
「この卑怯者! いきなり押しかけてきて何なのよあれは!」
馬鹿の次は卑怯者と、妻に続いて妹にまで詰られたシェリダンはますます苦笑するしかない。
「だから何もかにもない。言葉の通りだと言っただろう? カミラ、これからはお前がエヴェルシードの王だ」
「何よ、お情けで私に玉座をくれようってわけ? 随分気前が良いことね。笑わせないでよ! 私を馬鹿にしてるの? それとも憐れんでいるの!? 施しの王位なんて、私はいらないわ!」
「違う。施しではない」
真剣な表情をシェリダンは告げる。
「カミラ=エヴェルシード、お前こそ、この国の玉座に相応しいと思ったからそう告げたまでだ」
カミラが一瞬、虚を衝かれたような表情になる。
「私はこの国を去る。去らざるを得なくなる。全てを押し付けられたお前にとっては迷惑なことかもしれないが、それでもお前に託したい。他の誰でもなく」
何度も敵として渡り合った。
小さなことから大きなことまで、くだらないことから重要な問題まで争いあった。
早く死ね、いや、自分が殺してやると、はりきって命を狙い狙われした。
なのに何故だろう。カミラは凍りついたように動けないでいるまま、その疑問を頭に思い浮かべる。今この瞬間聞こえる言葉が、どこか遺言めいて聞こえるのは。
何故だろう、その遺言めいた言葉を、自分が寂しいと感じるのは。
今まで、ずっと憎んでいたはずなのに。
「カミラ」
名を呼んで、シェリダンは腕を広げる。のろのろと自分も数歩歩み寄ってきたカミラの身体を、母親が子どもにするようにやわらかく抱きしめる。
いや、そんな表現は相応しくない。母親と子どもではなく、これは。
「例えお前自身がそれを認めたくなくても、お前は私の愛しい妹だ。だがお前はそのために全てを失うべきではない。お前はすでに、私に追いつくでも並ぶでもなく、私を追い越したのだから」
兄と妹は抱擁する。
カミラも自らの腕を惑いながらもそっと上げて、シェリダンの背中に回した。間違いなく抱きしめる。本当はいつもすぐ側にあったはずの温もりを。
「お兄様……」
どうして、どうして届かないの?
まだ自分たちの母親の確執も知らず、王家だけでなく国中を取り巻く差別のことも知らず、ただ無邪気に愚かで幸せだった頃。
――お兄様!
――待って、待ってよ!
――ねぇ、待ってってば! お兄様!
彼女よりも少しだけ歩幅の広い彼は、さっさと歩いて行ってしまう。彼女の呼びかける声が聞こえていないのか、立ち止まる様子もない。いくら追いかけても手を伸ばしても、届かない後姿。
一際声を張り上げた。
――おいていかないで!
ああ、でもやはり、あなたは私を置いていってしまうのね。
どんなにおいていかないでと叫んでも。
「愛しているよ、カミラ。私の妹」
今までそれは彼女にとって、ただ忌々しいだけの言葉でしかなかったはず。けれど、だけど、本当は。
他でもない、ロゼウスに助けられて吸血鬼の力を得る前、死の間際に思い浮かべたのはシェリダンの後姿だった。振り返らないその背中に追いつきたくて並びたくてこれまで息切れ破れそうな心臓にも構わず走ってきた。カミラの人生の中に彼のいない日はなかった。
それを疎ましく思っていたはずなのに。
「シェリダン……私は……」
在りし日の言葉を伝えようにも、もう遅すぎる。あまりにも長い時間が経ったのだ。
どんなに願っても、人は過去に戻れはしない。だから良くも悪くも、未来を作って行くしかないのだ。
この瞬間にさえ未来は始まっている。カミラはシェリダンからエヴェルシードを託された。彼の心にどんな思惑があるのかはまだはっきりしなくとも、それだけは確かだ。
「どうか、幸せに。エヴェルシードを頼んだぞ。お前は、きっと良い王になる」
いざというと言葉は喉を塞ぎ、ただ嗚咽が漏れた。
恐らくこれが最後になるだろう永遠の別れに、カミラはただ泣いていた。
◆◆◆◆◆
「結局、カミラはお前が好きだったんだな」
王城へと向けて馬で駆けていくその後姿が遠ざかる。ロゼウスはしんみりとした口調でそう言った。
波打つ濃紫の長い髪、黄金の瞳。美しい容姿に苛烈で奔放な気性。ロゼウスも彼女のことは好きだった。異性で初めて好きになった人間なのだから、初恋と呼んでも差し支えない。
その恋がたった今本当に破れたのだ。いろいろ言いたいことはあるのだが、上手く言葉にならない。
「カミラはお前が好きだと言っていただろう」
「言葉ではね」
本当に大事なことなど、人は何一つ口に出せないものなのかも知れない。
「これが、お前の決着なのか、シェリダン」
「ああ」
「……どうして、エヴェルシードの王に戻らないんだ?」
ずっと聞きたかったことをロゼウスは聞いた。
ロゼウスだけではない。デメテルの力によってエヴェルシードに送られ、エルジェーベトの居城でその決意を聞かされてから、誰もがずっとそれをシェリダンに聞きたかった。だが、彼は他の誰にも決意と覚悟の程は聞かせても、その理由は口にしなかった。
アンリたちがやってくる姿はまだ見えない。当分ここに二人きりだろう。
いい機会だからと、城の裏手からローゼンティア側へと抜ける小さな森の一角で、ロゼウスはついにそれを尋ねた。
なんとなく、ロゼウスにはそのあたりはついているのだが。
「私はもうすぐ、死ぬそうだ。それも、お前に殺されて」
案の定シェリダンの口から返って来たのは、ロゼウスの予想に違わぬ言葉だった。
――シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。あなたはこの一年以内に、《薔薇の皇帝》ロゼウスの運命と関わったことによって、死ぬわ。
――ロゼウス=ローゼンティア! シェリダンを殺すのは、お前だ! お前はシェリダン=エヴェルシードの命を糧に、皇帝という至高の座を得る!
シェリダンは同じ事を、二人の人間から言われている。どちらも素晴らしい予言の能力を持つ人物だ。一人目はサライ、二人目はハデス。もっとも、前者についてはロゼウス本人は知らないので彼は後者のハデスの言葉のみで考えているのだろうが。
一人目のサライの予言の時には、シェリダンもまだそう深刻には捉えておらず、その後のローゼンティア侵入の際のごたごたに巻き込まれて忘れていたくらいだ。予言の内容にしても実感を伴わず、漠然と、ドラクルにまだ狙われているロゼウスと関わり続けるのが危険なのは当たり前だろうと思っていたくらいだ。
そんな気持ちが徐々に、不穏な未来を信じる確信へと変わっていったのはロゼウスが次の皇帝だと、現皇帝デメテルの口からはっきり聞いた時だった。
シェリダン自身も並みの人生を送って来たつもりはないのだが、どうやらロゼウスは軽くその上をいくらしい。次期皇帝の託宣を受けた彼の運命に、すでにシェリダンは巻き込まれてしまっている。こちらもシェリダンの事情にロゼウスを巻き込んでいるのだからお互い様だが。
そしてトドメが、あの冥府でのハデスの宣言だった。
彼ははっきりと言った。ロゼウスがシェリダンを殺すのだと。
ハデスは嘘つきだが、その嘘と長く付き合ってきたからこそシェリダンには彼の本気がわかる。あの時の彼は本気だった。そしてそれ以前にも、シェリダンはロゼウスに関わるなと、ハデスから忠告されている。
だから多分彼らの言うとおり、シェリダンはロゼウスに殺される。
「殺さない」
「ロゼウス……」
「俺は、お前を殺さない。殺すわけがない」
向かい合って立ち並び、ほとんど目線の変わらない相手は真っ直ぐにこちらを睨みつけながら宣言する。
「あんたが死んだら、俺だって生きていけるわけがない」
シェスラートとの決戦の時、弟であるウィルは殺してもシェリダンを殺そうとするシェスラートの意識には抵抗して見せたロゼウスだ。
彼にとって、シェリダンを殺す事がどれほど苦痛なのかわかる。
シェリダンも同じだ。出会った初めの頃、吸血鬼の蘇り能力を隠していたロゼウスに激怒して彼を衝動的に刺し殺したことはある。だが今は、同じ事をできる自信がない。逆に言えば、心中したくても自分からは彼を刺し殺せる自信がないということだ。
「殺したくない……」
ロゼウスは呻く。
紅い唇から言葉が零れる。
絶対に殺したくない、と。
だがこの世界に、「絶対」など存在しない。いや、わからないと言うべきか。
「ロゼウス、だが私とお前は、永遠に共にいることはできない。種族が違うからな。それを承知でお前と共に行くなら、どうせ国の事は相応しい誰かに任さざるをえないだろう?」
どんなに心構えをしていたって、何が起きるかわからないのが運命で現実で世界だ。ハデスはロゼウスがシェリダンを殺すとはっきり告げたが、それがどのような形でもたらされるのかはまったくわからないのだ。
だから先に覚悟を決めた。
どんなことがあっても、ロゼウスと共に生きるという覚悟を。そのために全てを捨てる覚悟を。そして今回エヴェルシードにけじめをつけにやってきた。
「それで、カミラに国を譲るために、あんなことを……?」
「それだけではない。カミラは王たるにふさわしい人物だ。なまじ自分が女であるから、もしも国王として存分に力を振るえる舞台が整えば、このエヴェルシードの永の病である男尊女卑思考も撤廃するように努力するだろう」
シェリダンがカミラに期待しているのは、そう言った面もある。彼女が国を変えてくれれば、この先シェリダンの母であるヴァージニアのように、不幸な女性も少なくなるだろう。
できれば自分がこの手でやりたかったのだが、これから半年もせずに死んでしまうのでは、こればかりは仕方がない。
「それに、現実的な問題もあるしな。実際今年に入って私の即位、その後のカミラの即位。国王の代替わりにどれほどの出費が出るか知っているか? その費用を無駄にしないためにはその王が何年在位すれば報われると思う?」
国王が代わるとは、ただ言葉の上だけの問題ではないのだ。王が変われば国の方針や法令はもちろん、日常使われている品や書類の細かい形式など、全てが変わる。前の王のものを残すわけにはいかぬものも多いし、時期もまずい。奪われてすぐに反撃に出るならまだしもカミラが即位してから数ヶ月、すでに彼女の命令の下、シェリダンの治世の名残は全て片付けられているだろう。それを一から用意するのはまた手間がかかって仕方がない。ただでさえ今年に入ってローゼンティアとセルヴォルファスと、二度も戦争をしたのだ。そんなところで無駄な出費と手間と人心に負担をかけては今度こそ本当に国が滅びてしまう。
「わかってる……俺も一応帝王学は修めているから。……でも、それでも!」
それでも。
ロゼウスには簡単に納得できない問題があるのだ。
「……あんたの名前は、帝国史に残るぞ」
「光栄だな。たかだか在位四ヶ月程の王が」
「ああ、そうだ! あんたはたった四ヶ月しか国を治めなかった、暗君として名を刻まれる! あんたが追放されたことには変わりない、あんたは父親を殺して玉座につき、妹から反撃されて玉座を奪われた間抜けな王として歴史に残るんだ!」
そう、シェリダンの名はエヴェルシードの歴史に残る。
乱暴な手段で国を乗っ取った庶出の王でありその行動は傍若無人。しかもローゼンティアとの戦いは一度は勝ったものの後にドラクルに奪い返されたのだから無効、唯一の光明である兵士たちの信頼も、先程の石の雨降る最後の行進によって失った。
エヴェルシードにおいて、文字通りシェリダンは全てを失ったのだ。
彼の名前は王として刻まれても、その修飾語は酷いものとなるだろう。しかもそれは、カミラがこの先良い治世を行って功績を治めれば治めるほど悪化していく。国とはそういうものだ。カミラが名君となれば、彼女がシェリダンから玉座を簒奪した行為は暴虐の愚王から民を救ったとして正当化され、英雄視される。
シェリダンの名は、本人にはどうにもできないところで汚され貶められていく。
「……あんたは、馬鹿だ」
「そうだな」
「全部、民のためを思ってそうしたんだろう……エヴェルシードがどうなったって、見捨てておけばこれ以上傷つかないでいられたものを、カミラやこの国の人間たちを救いたいがために、こんなことをしたんだろう……?」
「そんな美談じみた言い方をするな。私は私のしたいようにしただけだ」
「でも! 世界はそうは見ない! あんたが他人のためにどれだけ自分の身を削ったかなんて、誰一人記して残してはくれない!」
罵詈雑言を投げかけられ、無数の石の雨を浴び、血まみれになって。
心にもない悪態を吐きまでしてエヴェルシードを救いたかったシェリダンの心は誰にも知られることなく、彼に救われた人々は彼を安君として貶めていく。
そんなことがあっていいのか。
「ロゼウス」
「馬鹿……シェリダンの馬鹿……」
「もういいんだ」
これまでのエヴェルシードは、恐ろしい凪の海のようなものだった。
そこに嵐を持ち込み、嵐に打ち勝って船体を立て直せば、もしかしたら船の中での船長や重役の位置を彼はつかめたのかもしれなかった。
だがシェリダンはその道を選ばない。
彼が示したのは、まだ若く航海に不慣れな今の船長のために、その凪の海でも手ずから櫂を漕いで、舟を自力で進ませる方法。彼の願いは船の中での役職や利権ではなく、ただそのエヴェルシードという舟が、無事に航海を続けることだと。
その中に、自分の名などいらない。
ただ、辿り着いてさえくれればいいと。
自らが助けた人々に罵られ石を投げつけられるとはどんな気分なのだろうか。
ロゼウスは知らない。例え刺され切り刻まれ死の淵から蘇る事はできても、ロゼウスはそんな痛みに耐えたことはない。そんなことはできない。
全てを擲って誰かのために自分を捧げることなど。
できるはずもない。正義を行ったのに、悪人とされて、それで構わないなんて。
もちろんシェリダンだって善人ではない。父王をかつて虐待された恨みにより拷問して苦しめ、しかもとどめを罠にはめたカミラに刺させたこともある。彼女を強姦したこともそうだ。それをロゼウスに強要させたことも。ロゼウス自身だって他の兄妹だってローゼンティアの民だって随分この男に酷い目に合わされた。
彼は人として最低のクズだ。わかっている。でも、それでも。
誰かのことを心から思い、自らの評判を貶めても自らが愛する国のために行動する。虚栄心などではない、心からの行いが、決して報われる日が来ないなんて。
そんなのは間違っている。
思うのに、ロゼウスにはどうすることもできない。ここでそれは違うのだと叫んだらそれはシェリダン自身の望みも、カミラのこれからの治世も乱すことに繋がる。第一、エヴェルシードの民は信じないだろう。
もはやシェリダンの名はこの先ずっと、貶められていくしかない。
「ロゼウス」
「……」
「なんでお前が泣くんだ?」
「お前が、あんまりにも馬鹿だからだ」
馬鹿だ、馬鹿だ、本当に、正真正銘の馬鹿だ。これ以上ない愚か者だ。
なのにロゼウスは、そんなシェリダンを嫌えない。
むしろ、こういう彼だからこそ好きになったのだ。
「……別に私はそれほど凄いことをしたわけでも、立派なわけでも、聖人君子でもなんでもないぞ?」
「でも!」
キッ、と紅くなった眦を吊り上げたロゼウスに対し、シェリダンは全てを失ったくせに、そんなこと微塵も感じさせない柔らかな表情で微笑んだ。
「……もしも私がそういう者に見えるのだとしたら、それはお前のおかげだ。ロゼウス」
「……何故……?」
シェリダンはそう言うが、ロゼウスには本気でわけがわからない。きょとんとするロゼウスに対し、シェリダンは背負うものの何もない、年頃の少年らしい、ただ明るい笑顔を向ける。
「気づいていないなら、大概お前も馬鹿だな、ロゼウス」
「だ、だから、何がだよ!」
「教えてやらん。自分の頭で考えろ」
「シェリダン!」
なんだかやたら楽しそうなシェリダンの様子に、ロゼウスはついていけずに戸惑う。イヤな感じではないが、理由のわからないものは不安だし、自分が追いつけないのは腹が立つ。先程までの涙とはまた別の意味で顔を真っ赤にして、シェリダンへと詰め寄る。
「シェリダン! さっきのはどういう意味なんだよ! 俺のおかげって何!?」
「言葉通りだ」
「それじゃ意味がわからない!」
「だから、自分で考えろと言っている」
「……意地が悪い!」
「お互い様だ」
いつしか暗い空気は晴れていた。
遠くから、アンリやリチャードたちの駆けつける馬の蹄が聞こえてくる。