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ぱしゃん、と水の跳ねる音がする。
川の水にそのまま浸かるには少し肌寒い季節だが、火照った肌を冷やすにはちょうど良い。かといってただ浸かるだけですませるというわけにもいかず、身体にこびりついた情事の名残を全て綺麗に洗い落とす。
「終わったか?」
「ああ」
背中合わせで自らの肌を洗っていた二人は、それぞれに声をかけあって川から上がる。汚れる前に途中で脱いだために、衣服の方は無事だ。この季節に洗濯をして乾かないとなったら困りものだ。
石の転がる川辺から柔らかな下生えを踏む地面まで辿り着いた時、ロゼウスはぐい、と背後から腕を引かれた。
「あっ」
逆らわずにその力に任せて背後に倒れこむ。抱きしめられたと思った途端に、地面へと押し倒された。
「シェリダン……」
川辺には体を拭くための布しか持って行かなかった。先程まで着ていた洋服は木の枝に干してある。
従って、今現在二人は裸だ。
「……まさか、まだやるってわけじゃないだろ?」
覆いかぶさるというより抱き合ったまま横になっているという形で、生身の胸と胸を合わせたまま下にされたロゼウスは表情の見えないシェリダン相手に戸惑った声をあげる。
今のシェリダンの体重は全てがロゼウスに預けられている形だ。そのぐらいヴァンピルであるロゼウスにとってなんともないが、自分の肩口に埋められてしまったシェリダンの顔が見えないのはどうにも不安を煽る。
身体を洗ったばかりでまだそこかしこに水滴の残る肌と肌を合わせる。膝を絡め、指を絡めて手を繋ぐ。平らな胸も引き締まった腹から腰にかけても露にしたまま、ただ身を寄せる。
シアンスレイト城での頃の生活と違って、川の水などで洗い立ての髪は石鹸の香りなどしない。だが、うなじにはりつく藍色の濡れ髪の様子は艶かしく、ロゼウスはシェリダンのそのうなじを見つめながら囁くようにして尋ねた。
「……どうしたの?」
くぐもった声で返答がかえる。
「もう少しだけ……このまま……」
肩口に顔を埋められているため、ロゼウスの肩の方で熱い吐息が触れた。答えたシェリダンは一度繋いだ指を解き、ロゼウスの体へと手を伸ばし抱きしめる。
密着した肌。触れ合う吐息。自分を抱きしめる強い力。
震える身体。
震えている? あのシェリダンが。
自らの愛した国の民たちから事情も知らず心ない言葉と共に石を投げられても、動じる事はなかったのに。
それに気づいた時、ロゼウスは呆然とした驚きのあまりに身体の力を抜く。するとますます力を強めたシェリダンの腕が、裸の身体に食い込んだ。軋むような苦しさを感じるけれど、声をあげられない。
ああ、そうか。
今になってようやくロゼウスは知る。
シェリダンも本当は、死ぬことを恐れているのだということを。
「……い」
「あ?」
「離れたくない……お前と」
彼は噛み締めた唇から血を流す。かそけき囁きは、ロゼウスの肌を通して胸に響いた。
死ぬこと自体が怖いわけではない。エヴェルシードの武人は生半な苦痛などに負けはしない。
だが、その果てにロゼウスを残して逝くのが辛いのだと。
死ぬのが怖いわけではない、だが死にたくない彼はその先の暗黒に震える。
あと何度、こうして肌を重ねられるだろう。
あと何度、口づけを交わせるだろう。
あと何度、手を繋いで夜を眠ればその時を厭わずに迎えられるのだろうか。わかっている。そんな日はきっと永遠に来ない。
できるならずっとこのままここでこうしていたい。今この瞬間に時が凍りつき世界が滅びるなら、どれほど幸せだろう。
だがそんなことは、それこそないのだと知っている。
誰かが死んでも世の移ろいは止まらずに歩みを前に進める。死は絶対なのに、二度と取り戻せないのにそれでも人は喪失を抱いて前へと進む。それは果たして強さなのか、弱さなのか。
この瞬間に感じている肌の痛み。白皙に食い込んだシェリダンの爪の痛みすらもいつかロゼウスは忘れてしまう。一つの命が終焉を迎えて後、どんな風に世界は動いていくのか。何も変わる事はなく。それを自分が知れないのが、辛い。
死にたくない。
できればこのままずっと、二人で生きていきたい。
誰も邪魔をしないで。誰も責めないで。互いの存在さえあれば、もう他には何もいらないから。ドラクルのことも皇帝のことも何もかも全て捨てて逃亡できればいいのに。そうすれば未来は変わるだろうか。
変わったとして、そんなこと本当にできるはずがないけれど。
どんな社会でも柵はある。全てを捨てる事ができる人間などいるはずはない。このまま仲間たちを置いて運命から背をそむけて手に手を取り合って駆け落ちしたとしても、きっと自由になどなれない。全てを捨てるということは自分で解決すべき問題も投げ出してしまうのと一緒だ。
背負うものが元から何もなければそれでも良いかもしれないが、生憎と彼らにはそれが多すぎた。果すべき役目を放り出して逃げたりしたら、自分で自分を許せない。
相手の手だけをとるには、大切なものが多すぎた。
できるなら全てを守りたい。味方はもちろん今は敵となってしまった愛しい人たちも、彼らが巻き込んだ無辜の民も。みんな、みんな。
どうして平和でいられないのだろうか。
争いによって出会っておきながら平和を望む。どうしようもない矛盾の中に自分たちはいる。
気づけば彼らの世界は、どうしようもないことで構成されていた。そもそも生命の存在には理不尽が付きまとう。どんな風に生まれてくるかなど、本人が一切選べないのだから。
どうしようもなく生まれて、解決できない問題に悩み、また仕方がないのだと嘆いて生きていく。いつか必ず訪れる死を避ける術も知らないまま。最期まで運命に蹂躙されるばかりで抵抗を知らず。
それでも生きていく。生き足掻く。人生などどうしようもないのだと胸の内で悲鳴をあげながら、心から血を流しながらそれでも今の地獄より少しだけマシな居場所が欲しくて。
……そんな場所が、本当に欲しくて。
「ようやく手に入れたと思ったのに」
頬を流れる透明な雫とは裏腹に乾いた声でロゼウスは呟く。正面向いた先に仰ぐ空の藍闇と白い月。背の下には茂る青草の下生えのやわらかな感触があり、鼻腔には川の水の匂いが漂ってくる。触れたシェリダンの体温は暖かい。
幸せになりたい。なりたかった。どれだけの人を踏みつけにしても、蹴落としても幸せになりたかった。
もう、たぶん、叶わない。
「好きだよ、シェリダン、本当に……」
「ああ、私も」
残り時間は少ないと言う。現皇帝デメテルに死期が迫っているのだと。外見上は健勝そのものの彼女に一体何が起こるのかさっぱりわからない。そしてハデスたちが当然のように告げる未来、ロゼウスがシェリダンを殺すと言う事もわからない。絶対に、絶対にそんなことはしないのに、したくないのに。
それでも、別れの予感はあった。
「……悪かったな、そろそろ行くか、ロゼウス」
「うん」
シェリダンがロゼウスの上から退いて、身を起こす。二人は手早く衣服を身につけて、すでに寝ているであろう仲間たちを起こさないように忍び足で戻った。
◆◆◆◆◆
世界帝国アケロンティスにおいて皇帝の権力は絶対である。それがどんな暴君の荒唐無稽な、あるいは残虐非道な命令だとて、それが勅令だというそれだけで人は逆らえない。
皇帝は選定者という存在を持つ。神に選ばれたその代行者。皇帝の意志は神の意志。逆らう事は許されない。
皇帝領に仕える者は、皆妙な矜持を抱いて生きている。世界で最も権力を持つ至高の存在の足下近く這い蹲ることができるのがそれほど嬉しいのか、決して皇帝の機嫌を損ねないよう、彼女の顔色を窺ってばかり。
もちろん、そんな側近たちを選んだのも現皇帝である大地皇帝デメテル自身の責任だ。有能な彼女は一人でなんでもこなせるため、ただ仕事をするだけの機械程度の利用価値しか部下に求めない。能力と人格は比例するわけではなく、故意か偶然か知らないが、特にデメテルが集めたのは仕事こそ完璧にこなすがその人格性という点においては鼻持ちならない嫌な連中ばかりであった。
彼らは皇帝という存在の側近くに在りながら、逆に皇帝という存在に対して敵対意識も持っていた。自分たちはこんなに有能であるのに、この小娘に敵わないというのか。そんな気持ちでデメテルを見ていることがわかった。
十八歳で皇帝となったデメテルは神の理に従い、その時点で身体の成長を止めている。化粧で多少年上に見せてはいるが、肉体の年齢はせいぜい二十五、六に見えるかどうかというところだ。どちらにしろ四十五十をとうに過ぎた政治の重鎮たちにとって見れば小娘だろう。だが彼らは表立って皇帝に逆らうことはできない。
彼らがその苛立ちの矛先を向けた相手は、皇帝ではなく、その弟だった。
完璧なる知性と魔力、そして美貌をも持ち合わせた大地皇帝デメテル。虐げられている民、黒の末裔出身であることを除けば欠点などない彼女の、唯一の弱味がこの弟にまつわることだった。
そもそもデメテルの選定者として認められているハデスは、本来正式な選定者ではない。これは公然の事実として、誰もが知っていることだ。
選定者は皇帝と言う存在が誕生するその時に、身体の何処かに「選定紋章印」と呼ばれる紅い痣を天より与えられる人間のことだ。選定者の指名により、皇帝は選ばれるという。
何故そんな仕組みになっているのか、正確には誰も知らない。それは神聖なる悲劇と呼ばれた帝国成立の際の事件に関わる秘密だとも、神がより効率よく帝制を確立するための縛りだとも言われている。
神が皇帝と言う存在を示したいのであれば、何故紋章を皇帝の候補自身に授けないのか? 選定者とは、何のために存在するのだろうか? その理由を誰も解明できない。真実は神のみが知る。
ただ、皇帝は選定者と言う自身に絶対服従を誓うしもべを持つ事は世界中に知れ渡っている。時々の例外があるとはいえ、その多くは身内から生まれると言う事も。
選定者は皇帝が正しく神に選ばれたことを示す存在。だが一部の例外はある。
例えばこんな話がある。自らは皇帝にもなれると思いあがったある野心家が、選定紋章印を真似た偽の紅い痣を友人に刻ませて皇帝領を訪れたことがかつてあった。
当時の皇帝は怒ることもなく、あっさりとその男に一時的に玉座を譲り渡した。
玉座を譲り渡された野心家は激務に耐え切れず、一月ともたずに衰弱し、二ヶ月を越す頃には自ら皇帝の下へと足を運び、頭を下げて頼み込んだ。貴方こそ皇帝に相応しい、どうか戻っていただきたい、と。
すると、皇帝は笑い出した。
皇帝は自身の選定者を呼び寄せ、その紅い痣を特殊な薬品を染みこませた布で洗い落とした。……そう、当時の皇帝自身も騙りの皇帝だったのだ。野心家は驚いて皇帝を問い詰めるが、返って来たのは意外な言葉だった。そなたを待っていた。
野心家だった男の身体には、紅い痣が浮んでいた。
選定紋章印は選定者として相応しい者に授けられる。その基準が如何なるものであるかは、誰も知らない。
こんな例があっても、それでも皇帝には選定者が必要とされている。
皇帝が何故選定者を必要とするのかわからない。そもそもこのような例を持ち出されては、皇帝という存在に本当に選定者が必要なのかすらわからない。
現にデメテルは選定者に関して二度目の例外を作った。
ハデスはもともとの選定者ではない。もとの選定者の選定紋章印をその肌に移植して無理矢理選定者とされた存在だ。
そこにつけ込まれて、ハデスは生まれた時から軽く扱われがちだった。
皇帝が選定者である実父を嫌ったために選定紋章印を移された、偽りの選定者。野心家の男にはあとから選定紋章印が浮んだが、ハデスにはそれがない。その能力がいかほどの物かさえ人々は知らない。
そしてもう一つ、ハデスには侮られる理由がある。
それは彼が、姉皇帝の愛人であるということだった。
あの時は、あの時までは人並みの忠誠心も家族としての敬愛も姉であり皇帝である存在に対して持っていた。
優しい姉だと思っていた。自分が何のために作られたか、それを知るまでは。
それは彼が十六歳になった夜。
――おやめください! 姉上!
デメテルは誰よりも優秀な魔術師だ。彼女に魔術を使われて、まず勝てる者はいない。
もっとも、ハデスにとってそれは青天の霹靂だった。彼がこれまで姉に使われた魔術と言えば怪我や病気の治療やそう言ったものであり、自らに姉が危害を加えると言う事を予測すらしていなかった。
優しい姉だと思っていた人は、ハデスがどんなことをしても手をあげたこともない。だからその時のハデスは、魔術によって自らの身体が自室の寝台に固定されたその瞬間も、何が行われるか全くわかっていなかった。気づいたのは、デメテルの手が明らかな意図を持って服の中に滑り込んだ時。
――姉様、やめて!
肌を優しく撫でられて、わけのわからない感覚にぞくりと鳥肌が立つ。ゆっくりと服を脱がされて裸にされて、羞恥で顔を紅く染めながらもまだ事態が信じられなかった。
――大人しくして、ハデス。あなたに痛い思いはさせないはずよ。
十六歳になった彼には、その行為が何をするものかわかっていた。だが、経験した事はない。初めてのことを、姉と。何故こんな……。
――ハデス、私の弟。私の、大事な……。
潤んだ瞳で自分を見つめるデメテルは、皇帝でも姉でもなく女の目をしていた。
ハデス自身は拘束されて動けず、デメテルが全てを行う。本来ならば臣下の身分にあるハデスの方が奉仕するべきだ。だが、けれど、だけれど。
――やめて、おやめください、姉上、皇帝陛下……。
すすり泣くハデスのものを自らの入り口に導いてデメテルが苦しげに顔を歪める。
生暖かく濡れた膣内が自らの性器をしめつける。結合の感触に、行為が進むにつれて、嫌悪以外の感覚を覚える。
荒い息、汗ばむ肌、髪を振り乱して腰を振る女の姿。初めて見た異性の身体は姉のものだった。皇族という立場にありながらデメテルが羽目を外したところを見た事のないハデスは、自分も分不相応な無茶をすることや、女を呼び寄せて遊ぶことなど全くしていなかった。しておけば良かったと、あの時後悔した。そうすればあんなに衝撃を受けることもなかったのではないかと、真剣に思う。
――やめて、もう許して、姉様! こんなこと許されるはずがない! 僕らは実の姉弟なのに――!
精神的な背徳感を、身体は反映してくれない。瑞々しい女の肉に包まれて、体は正直に快楽に反応していた。
彼女の中で射精にまで導かれて、全てが終わった後に、心の底から絶望する。
敷布を汚す二種の液体。紅い血と、白い精液。内股を同じように血と精液で汚した女が笑う。もう彼女を姉とも思えない。
デメテルは男を知らなかった。彼女は男遊びを趣味とし、誰でも良くてたまたま倫理を踏み越えて弟に手を出したという手合いではない。相手が弟のハデスであると十二分にわかったその上でハデスにこんなことをしたのだ。
それを知った瞬間に、もう二度と逃れられないのだと悟った。
――愛しているわ、ハデス。あなたは私のものよ――
彼は美しい蜘蛛の巣に絡めとられたのだ。
◆◆◆◆◆
デメテルの愛人と知られてからは、ハデスを見る人々の眼は変わった。
帝国宰相。それが新しくハデスに与えられた称号だった。役職ではない。役職と言えるほどハデスはその役目を果してはいない。
本来自身が最高峰の政治能力を持つデメテルに宰相など必要ないが、そこには建前というものがある。帝国宰相の名を与えられてからは、これまでのようにハデスが表立って批難されることは少なくなった。誰もが彼にひれ伏して頭を下げる。
そして、以前よりも影で嘲笑うことが多くなった。
嘲笑はハデスだけでなく、実弟を愛人扱いにするデメテルにも向けられた。これまで誰が言い寄ってきてもまったく興味を示さなかった女皇帝は両親を殺しても高潔の人と見られていたが、色に関する話題は呆気なくも彼女の名声を一度地に落とした。所詮人の話題は下衆なゴシップに向かいやすいということか。
以前よりも更に蔑まれた目で見られているのがわかる、帝国宰相の名。これまで以上にお飾りの称号だろうと笑われるたびに、望まずその地位を与えられたハデスの自尊心は傷つく。
これまでのようにお上品な努力などしていられなかった。幸いにもこれだけは誰にも負けないと言える才能、冥府に通じる門を開く力を持っていたため、迷うことなく冥府の魔物たちと契約した。死に物狂いで彼は強くなった。
だが、デメテルには敵わない。
一度悪意を持ってしまえば、もはや姉を皇帝として相応しい人格だと認めることなど不可能だった。彼女を皇帝にした結果、それがこの自分の命だとわかっている。ハデスは両親が大分高齢になってからデメテルの声によって「作られた」子どもだ。彼女がハデスという存在を望まなければ、自分がこの世に誕生しなかったことはわかっている。
けれど、ハデス自身はそんなこと望んでいない。
運命は残酷だと知ったから、せめて抗いたかった。ここでも幸か不幸か、ハデスには「予言」という未来を見る能力が与えられた。
その力が伝えてくる未来は、決して幸せなことばかりではない。自分に関係があることもないことも、見てしまうのは悲惨な光景ばかりだ。そしてハデスは基本的にそれに対して何も出来ない。
何も出来ない。何もしない。
そもそも何かをすることなど誰からも望まれていない、それがハデス。
皇帝領にいるハデスの評価は高くない。外の国からして見れば彼の魔術師としての実力は申し分ないが、皇帝領にしてデメテルの側近く仕える者たちは彼女の弟である帝国宰相を決して評価しない。
体のいい八つ当たり要因にされていることはわかっている。
しかしハデス自身に誰にも文句を言わせないだけの実力があれば、そんな陰口などそもそも存在しないはずだ。
皇帝領にいる間、ハデスはずっと孤独だった。
姉皇帝の寝所に侍る時間が嫌だった。拒否したくてもその権利などハデスにはない。そもそも彼の立場は皇帝の弟と言うよりも愛人として成り立っている部分が大きいのだ。
禁じられた関係を続けながら、日に日に増す無気力感。時々矢も立てもたまらなくなって、どんなにハデスが無茶を仕出かしてその後始末に追われたとしても。デメテルは本気で怒ることすらない。
何をしてもしなくても同じ。ハデスには生きている実感と言うものがいまいち薄い。だからそのうち、姉へのあてつけの意味もあって男と寝るようになった。
乱暴にして。姉譲りの顔でその手の男に囁けば、呆気なく相手は篭絡された。もはや痛みでしか自分を現実に繋ぎとめられないことを無様だと自分で笑いながら、それでも止めることができない。
生きていても、今この瞬間に手首を切って死んでも同じ。デメテルにとって、ハデスはただのお人形遊びの人形だ。それがわかるから尚更無気力で自棄になる。このまま生きていても死んでいても代わりないまま日々は続くと思っていた。
ある日、その未来を予言の力によって目にするまでは。
次の皇帝の誕生とデメテルの権力の崩壊。
新しい皇帝が生まれる事は、皇帝の死を示す。
そして皇帝が死ねば、その選定者も死ぬ。
ハデスはデメテルの正式な選定者ではない。だからどの程度運命が連動しているのかわからないが、少なくとも死の危険が付きまとっているということだけは確かだ。
冗談ではない。何故、望んでもいない選定者の地位など与えられ、姉皇帝の玩具にされたままで死ななければならない。そのぐらいなら――。
僕は、皇帝の座を奪う。
これまで屈辱と忍従の日々の代償を、返してもらう。どうせ意味がないのだろうと避け続けていた帝国公爵、つまりは諸外国の王たちとの社交にも交じり、自らの権威を固めるべく暗躍する。
予言の中で見た少年は美しかった。
まさに白皙の肌、髪は白銀の光沢を持ち、長い睫毛も光り輝く銀色だ。通った鼻梁に、紅い唇が絶妙な配置で治められ、指先から足の先まで美しい完璧な美貌を備えた少年。
何よりその、深紅の瞳。
固まった血のような深い深い紅い色をしたその瞳。彼の持つ色彩はシュルト大陸東方の吸血王国ローゼンティアの民としては当たり前にありふれているものだが、その中でも特に深い紅の瞳が印象的だった。
本当に美しい、美しすぎる少年だった。薄気味悪いほどに。
ハデスの予言の力は未来に起きる光景を断片的な無音の映像として夢に見ることだ。だからその少年を捜す手がかりは夢で見た光景しかない。
あの美しい少年ならば、見間違えることはないだろう。だがいくら顔がわかっていると言っても、それだけでどこの誰だかわかるものか? 世界は広いのだ。ローゼンティア人だとはわかっていても、一国全てが捜索範囲ではデメテルの退位の日までに捜し出せるかわからない。
予言の能力で視る未来は、それが起きるはっきりとした日付までは知ることができない。夢と同じ場面に出くわして初めてその時だったのだと知ることもある。だが今回ばかりはそんな言葉で流してしまうわけにもいかない。焦燥を募らせると共に随分早くから計画を立て、下準備をしてきた。全てをはじめたのは大体十年前くらい。
その頃、各国の王たちと交流をしている中で新しい顔が交じり始めた時期だった。父親から譲位された若い国王や世継ぎの王子たちが社交の場に顔を出す時期。その中でハデスは一人の少年を見かけた。
以前から夢で見ていた時期皇帝の少年について、ローゼンティア国王とどうも顔立ちが似ているような気がしていたのだが、それが彼を見て確信に変わった。
ローゼンティアの王子ドラクル。十年前、十七歳だった彼は夢で見た少年とよく似ていた。しかしハデスが予言の能力で見たのは彼ではない。
それでもこれだけ顔立ちが似ているのであれば、血縁者の誰かであるという可能性はある。特に吸血鬼は長命で十年二十年では姿形の変わらない種族だ。彼についていけば、あの夢の少年が見つかるかもしれない。
そして期待は叶えられた。
――ドラクル王子、あれは?
――私の弟ですよ、ハデス卿。ロゼウス=ローゼンティア第四王子です。
夢よりも幼い顔立ちだったが、彼こそがあの予言の未来の人物だと知った。そして当時のロゼウスの姿と夢で見た光景との差異から、彼があの予言の年齢に達するまで猶予があることもわかった。
ハデスが夢で見た少年の年頃は十六、七歳。吸血鬼の性質上これ以上ということはあっても、これ以下の年齢だということはないだろう。
ローゼンティア王国の王子から次の皇帝へ。その少年は、何の憂いも知らず生きているようにハデスには見えた。不公平だと思った。世の中にはもっと恵まれない環境で努力している人間もいるのに、生まれ持った才能で全てを手に入れてしまうなんてあんまりだ。
それは愛され望まれている王子と姉皇帝の玩具以上の価値を持たない自身とを比較して生まれる嫉妬だとわかっていたが、止めることはできなかった。そのぐらい、ロゼウスを包む環境は優しすぎるくらいに優しかった。
しかしその後、ドラクルが狂う。
何の欠点もないような第一王子は、実は王子ではなかった。彼の憎しみはこれまで弟だと思っていた本当の第一王子ロゼウスへと向かい、ドラクルはロゼウスを虐待するようになる。
ロゼウスが不幸になることで多少の溜飲を下げながら、しかしハデスの見た未来は変わらない。彼はそれでも、皇帝になる。
その頃の夢は、彼が一人の少年を殺す夢だった。全身を返り血に染めて、無造作に亡骸をひっつかんでいる。
ロゼウスに殺される人物に関して、見えて得た情報は蒼い髪。ただそれだけ。瞳の色はその時点ではわからない。段々と過去に遡るようにして知れた情報と本人と出会うのが彼の場合はほとんど同時だった。
蒼い髪の一族は、この世界には一つしかない。武の国エヴェルシード。
そこの国唯一の王子様が、夢で見たとおりの少年だった。シェリダン=エヴェルシード。
彼はロゼウスに殺される。ハデスは出会う前から知っていた。
知っていて、この少年に近づく事が運命を覆す鍵だと思った。彼は皇帝ロゼウスの心に最も近くなる存在だ。
デメテルを殺害し、そしてロゼウスまで殺害するにはそれなりの準備が必要だ。まずあの姉を殺すのが生半なことではない。彼女の力を削ぐところまで運命を進め、途中で舵を切り替える。決してロゼウスを皇帝にはさせない。その至高の座を得るのはこの自分だ。
そのためには、誰だって捨て駒にしてみせる。ドラクルも、セルヴォルファスのヴィルヘルムも、シェリダンも、その妹カミラも、全ては自分の目的を達成するための駒だ。
用済みとなれば、いつだって捨ててしまえばいい。
ハデスには、何もいらなかった。