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シェリダン=エヴェルシードはハデスの頭の中にある「王子様」像をことごとく打ち壊していった。
別に彼の容姿が貧乏ったらしいとか、行動が所帯じみているとか、品がないとかそういうことを言いたいわけではない。
むしろ、外見だけで言えば彼はこれ以上ない「王子様」だった。
エヴェルシード人の容姿は白い肌と蒼い髪と橙色の瞳が特徴だが、シェリダンの持つ色彩は変わっている。海底の藍色の闇を浚ったような髪、琥珀の中で炎が燃えているような朱金の瞳。体つきは多少華奢だが、それでも弱弱しいというほどではない。健康的な少年そのものの体格だ。
言葉遣いも、立派と言う程でもないが下品でもない。身支度もちゃんとしている。能力的に他国の王族と渡り合えないわけでもない。
立ち姿は一幅の絵のようで、人目を惹きつける。剣の腕は王国でも有数で、誰の前に出しても恥ずかしくない王子様だ。
その彼に唯一の弱点があるとすれば、それは血筋ということだろう。シェリダン王子の立場こそエヴェルシード世継ぎの第一王子だが、彼の母親は庶民の出。貴族であり正妃を母に持つ第二子、カミラ王女には血統では敵わない。
そしてシェリダン自身も、母親が庶民だということを気に留めていた。いや、むしろ母親を慕い、父親である国王を嫌っていた。
庶民の格好に身をやつして平気で下町を歩く彼は、身分に囚われぬ柔軟な思考の持ち主だった。自らが辛酸を舐めているからか他人に厳しいところが少なからずあったが、それでも無為に人を貶めたり蔑んだりする性格ではない。
王よりも民を、自分よりも誰かを気にかけることのできる彼は、方向性さえ間違えなければきっと良い王にあるだろう。ハデスでさえそう思った。
そしてふいに我に帰る。何を馬鹿なことを。自分は皇帝の座を簒奪するために、彼の命を利用しようというのに。
エヴェルシード人であるはずの彼が、何故未来の皇帝たるローゼンティアの王子と関わりを持つことになるのか。ドラクル王子に近づいていたハデスはそこから情報を掴む。
軍事力を一切持たない、表向きは一枚岩を名乗るローゼンティアの隣が世界一の軍事国家だと武勇で名高いエヴェルシード。内乱一つ起こそうにも軍事力を持たないローゼンティアに、ドラクルはエヴェルシードを利用して戦争を仕掛けようと言うのだ。
ハデスはそれを、止めることもなく見ていた。世界を治める大地皇帝である姉デメテルも、特に止めはしなかった。
ドラクルの生まれは、いわばローゼンティアと言う国があの状態で存続していたならばいずれ必ず起きていただろう腐臭の結晶。その彼が隣国を利用してでも自国の転覆を企むのであればそれでも構いはしない、と。そして利用されるシェリダンもシェリダンだ。君主の愚かさが即座に国民の生命に響く世界で、彼らは意図的に破滅の道を歩む。
ハデスはそれを傍観し、時折求められて手を貸した。例えばシェリダンが父王を幽閉した時の監視役、などは。
予言の能力で見る未来の通りに行動し、いつか来るその時を間違えないようにあらゆる陣営と手を結んで簒奪の足がかりを作った。行く先々で方々に甘い顔をし、自分でも嘘ばかりついている自覚はある。
ロゼウスが皇帝になるという運命を知らないドラクル王子たちからして見れば、ハデスの行動はかなり奇異に映るだろう。だがそれでもいい、欲得ずくの人間だとしてもようは適度に信用されればいいのだ。信頼などいらない。自分は一人でいい。
その方が、いつか裏切る時に気が楽だろう。
――ハデス、私に力を貸してくれるか?
馬鹿なシェリダン、僕なんかを信用なんかして。ロゼウスと共に破滅の宿命の中心にいる彼だけは、決して僕を信用してはいけなかったのに。
庶民に対して気さくな王子様、その後王様にもなった人物。平気で民の着る服を着て城下をうろついていたシェリダンには身分による差別感などない。彼の母親はもともと庶民。カミラ姫との対立でどうしても血統の差は感じずにはいられなかっただろうが、それと相手を身分や格好で差別するのは別なのだ。それが本人の努力で何とかできないことなら尚更だ。
生まれながらの王族は、普通偽りの選定者たるハデスを認めない。姉皇帝の愛人であるとすれば尚更だ。どうせ色仕掛けで帝国宰相の役職を奪い取ったのだろうと。
ハデスの選定者の証である選定紋章印は、彼が生まれた直後にデメテルが両親を殺して父親の腕の皮を剥ぎ弟である彼に移植したもの。
ハデスにそれをどうにかする選択権などなかった。しかし周囲はそう思わない。
少しでも理解を示してくれたのは、シェリダンだけだった。
次皇帝ロゼウスを陥れるための道具、いつでも捨てる駒、そのつもりで彼に近づいた。そのために彼を利用した。
デメテルに対する反発のせいで、ハデスもこれまで品行方正とは言いがたい行動を幾つもしてきた。王子様らしくないシェリダンとは気が合って、彼といる時間に救われていたのも事実。
だけれど、すでに歯車は動き出してしまった。
もう止められない。ここで素直に止められるほど、ハデスはシェリダンのように強くはない。
デメテルを殺し、ロゼウスを殺して皇帝の座を得る。道具として生まれてきて使い捨てられるなどまっぴらだ。この復讐を簒奪を捨ててしまえば、ハデスにはもうそこに存在する意味がない。存在理由を失って真っ直ぐに立ち続けることができるほど、ハデスは強くない。自分でそうわかっている。
何としてでも復讐を成し遂げねばならない。
運命の日は近づいてきて、ついにロゼウスとシェリダンが出会うところまで来てしまった。
二人がいるところを見ていると、ぎりぎりと胸が締め付けられる。シェリダンがあまりにも幸せそうだから。
引き裂くために出会わせたのに。
僕は僕であるために、姉を殺しロゼウスを殺しシェリダンを裏切るだろう。皇帝になったとしても、世界を統治できる自信があるわけではない。そもそも二人を本当に殺せるかどうかも定かではない。皇帝になりたいというよりも、簒奪しなければ自分の意味が失われるのだ。
後のことなどどうでもいい。
これは自分を生み出した世界に対する復讐。
復讐は、それを行うことこそが目的なのだ。成し遂げられればそのあとの事はどうでもいい。
デメテルの玉座を奪ったその瞬間に死んでも構いはしない。
狂った思考の中で一掴みでも幸せの欠片を得られれば、もはやそれでいいのだ。あるいはそれすらも本当は必要としていないのかもしれない。
自分はただ、破滅してしまいたいだけなのかもしれない。
そんな弱さを認めて我が身を振り返り、今更行動を正す強さなんて、持っていない。
◆◆◆◆◆
頬を撫でる優しい手。自分を膝の上に抱き上げる。彼が泣いているのを見かけると、怒るよりまず先に心配してくれた。強がって拭った目元が腫れると、水で濡らした布で拭ってくれた。
――どうしたの? ハデス。誰かに苛められたの?
――姉様……。
ハデスはデメテルが十九歳の頃に生まれた弟だ。それぐらい齢が離れていれば、親子に見えると言っても過言ではない。もっともデメテルは皇族になったその日から身体の老化が止まっているためいつになってもその外見は十八歳の女性のままだったが、それでも二桁に満たない年齢だった頃のハデスから見れば立派な大人に思えた。
――あなたは私の大事な弟よ。何も心配することはないの。さぁ、何かあったらちゃんと姉さんに話して。私がすぐに解決してあげるから。
繰り返し繰り返し聞かされたその言葉は頼もしく、自分を撫でる手はただやわらかだった。母のような姉。彼女がいれば両親がいないことも気にならなかった。どんな誹謗中傷も、ハデスが言い返す間もなくデメテルが相手をやり返す。
――ふん、七光りが。
――誰が七光りですって?
――こ、これは皇帝陛下! その、こんな小さな子どもを皇帝領に留めるのはどうかと……。
――この子は私の弟であり、選定者よ。私の手元において何が悪いの?
――贔屓が過ぎますぞ! いくら皇帝と言えど、血筋だけで側近を選ぶなど!
――七光りと言ったのはお前自身だわ。ハデスの魔術師としての能力はすでに一流よ。それを七光りと言うのなら、優秀な家族を持つ人間は遺伝の法則から当然優秀だと言う事になるわね。だったらお前は何? 七光りで自らの身内を取り立てさせることも自分自身がその恩恵に預かることもできない凡夫でしかないお前は何?
ハデスを貶めようとする人間は、デメテルと対峙しなければならない。彼女は弟の身辺に常に気を配り、細心の注意を払っている。ハデスの身の回りの者を選ぶ基準は彼女自身の周囲に侍る人間を決めるより厳しい。
――宰相閣下、どうぞ皇帝陛下にお取り成しを……。
ハデスがデメテルの弱味だと知られてからは、逆に姉皇帝に近づく前に彼に取り入ろうとする者も増えてきた。何をするにしても、デメテル。良いことも悪いこともハデスの世界は全てデメテルが基準となっている。彼は彼個人で存在する人間ではなく、常に姉であるデメテル帝の付属物だった。
――ハデス、あなたは何も心配しなくて良いのよ。
宮廷で陰口を叩かれた時、社交の場で失敗をした時、姉皇帝に反発を隠さず皇帝の弟をたぶらかして笑い者にしたい性質の悪い女が寄ってきた時、全てハデスが手を下す前にデメテルがハデスの周りから害虫を遠ざけていた。気づけば侍女や侍従の顔ぶれが変わっていることがよくあった。昔働いていた人は? と聞いても誰も答を知らない。仲が良かった同年代の小姓も、優しかった年上の侍女もいつの間にかいなくなってしまった。彼らがハデスを中傷していたとか、大臣の手先でハデスに仇なそうとしていただとか聞くのはいつも後の話だ。ハデスが知らない間にデメテルは動いている。
――ねぇ、姉様。
――なぁに? ハデス。
――その……僕は学校、とかに行かなくていいの?
――学校? ああ、国学府のこと?
――そうじゃなくて、もっと普通の……庶民が通うような……。
――行く必要ないわ。あなたは私の弟だもの。
――でも、世間の一般常識とか、そういうのも勉強しなければいけないんだってみんな言ってたよ?
――……みんな?
――うん、みんな。
――そう。でも、あなたはいいのよ、行かなくて。あなたは特別なの。だからみんなと同じことをする必要はないの。
その頃、世界にはまだ「黒の末裔」を差別する風潮が強かった。
黒髪に黒い瞳に黄色い肌、魔力を持つ者が生まれる事が多いこの特殊な一族の権威が段々と持ち上げられたのはデメテルが皇帝になって数十年が経ってからだ。ハデスが少年の頃にはまだ黒の末裔は差別迫害の対象だった。
ハデスの知らないところで、デメテルは全てに手を回していた。真綿にくるんで守るように、少しも傷をつけないように。どんなものからもハデスが傷つくことがないように守っていた。
それでも途切れ途切れに聞こえる噂話から、ハデスは自分の立ち位置がどんなものか自分でわかっていた。
――だってどうせハデス様は……。
――皇帝陛下の弟君ですもの、そりゃあいい御身分よねぇ……。
振り払っても振り払っても纏わりついてくる腐臭。
ハデスがどんなに努力しても、こと冥府のことに関してはデメテルより詳しくなってもそれでも姉皇帝を超えることはできない。
彼女なくして彼の存在は成り立たない。
優しい姉。誰よりも優れていて素晴らしい姉。ハデスにとって母でもあり、姉でもあり、一番身近な存在だったデメテル。
自分を守ってくれる彼女への思慕が募ると同時に、相反する憎しみが増していったのは何故だろう。大好きな姉を尊敬していると口にしながら、その裏側では嫉妬を抱き、時折鬱陶しさを感じていたのは。
――姉君と仲が悪いのか?
――どうして?
――なんとなく。
後にシェリダンにあっさりと見破られることになるその感情を、昔のハデスは自覚していなかった。
デメテルに守られながら、デメテルがいることで貶められる自身の立場。好きでその腕に刻んだわけでもない選定紋章印。
それでも、あの夜まではまだデメテルを姉として愛していた。自分はただの姉が好きな弟でいられた。
――ハデス、あなたのことは私が守ってあげる。ずっとずっと、必ず守ってあげるから。どんなものからも……。
だが、それならば彼女に傷つけられた分の痛みはどうすればいいのか。
――姉様、やめて!
今も生々しく血を流すこの傷口を、どうすればいいのか。
――ねぇ、姉様。あなたにとって、僕は何?
徹底的に人を貶めるか、逆に自虐的になるか。そんなことでもしなければもう自分で自分がここにいるのかどうかもわからない。
――私を挑発するあなたが悪い。だいたい、被虐趣味なのは卿の方でしょう?
――ほら。こうされるのが気持ちよいんでしょう? 痛めつけられるのが。若い肌を切り刻まれ、滑らかな背を鞭打たれ、その可愛らしい白い尻を叩かれて赤く染められるのがお好きなのでしょう? 口に猿轡をはめられ、目隠しをされ、手首をきつく縛られて無理矢理脚を開かされるのが楽しいのでしょう?
蔑んだ口調で言うドラクルの言葉は半分当たっている。そうだ。そうでもしないと自分の存在すらも自分でわからない。
痛いことや辛いことや苦しいこと、他人に積極的に押し付けるそれらが大嫌いなのに、そうでもしなければ自分を認識できない。
僕をこんな風にしたのは誰だ?
◆◆◆◆◆
「……いらない」
薄闇に沈む花畑は虹色だ。もっとも、この暗さでは足下に咲き誇る花の色などいちいち識別できない。
皇帝領の花畑。
冥府から戻って以来姿を晦まし続けていたハデスはようやくここまで戻って来た。薔薇大陸皇帝領。そこには現在の皇帝である大地皇帝デメテルの居城がある。
しかしそれも今日までだ。
「殺さなきゃ」
ぽつり、と呟いた言葉が夜風に流され虹色の花々の上を滑っていく。
「殺さなきゃ……姉さんを」
あの人はもう、僕にはいらない。
陰鬱に呟いて、ハデスは口元に薄い笑みを浮かべる。病んだ微笑は俯いた目元にも影を落とし、その端正な容貌を一際儚げに見せた。
絶望と希望を繰り返し、愛と憎悪の狭間で揺れ惑い、もはや血の乱行でしかこの気分を鎮めることはできない。
今のハデスを作ったのはデメテルだ。だから、とハデスは彼女に償いを求める。恨みを晴らそうとする。
彼女が生きている限りその存在に縛られ続ける。デメテルが皇帝であっても、なくても。そしてデメテルが皇帝である以上、彼女がこのままただ死んでもハデスはその亡霊に悩まされ続けるだろう。例えハデスの目の前から本人が消えたとしても、世界が彼女を忘れない限り。
それを、自らが皇帝になれば変えることができる。
ハデス自身が皇帝になることでやっと彼女を超えられる。だから、是が非でもその至高の座を得たかった。
足下で柔らかな花々を今も踏みにじっているこの花畑。
皇帝領の景色はその皇帝の精神状況を表わすのだと言う。こうして美しい虹色の花々を咲かすデメテルの精神は常に安定しているのだという。
ハデスがもし皇帝になったとしたら、きっとこの花畑は白黒の影の世界のような色彩に染まることだろう。
何故なのかは自分でわかっている。わかっていて、止められない。
「……僕はもう、それ以外は何もいらない」
皇帝の座が欲しい。たった一瞬でいい。デメテルを追い越したい。もう彼女の付属物でありたくない。
だからこの願いさえ叶えば、他にはもう、何もいらない。
「さよなら、姉さん」
ハデスの右手が銀色に光る。正確にはその爪の先だ。冥府の魔物との契約によって手に入れた特別な爪が、刃のような鋭い輝きを宿している。
機は熟した。デメテルの皇帝としての力は今が最低値だ。これを逃せばもう後はない。
彼女を殺し、そしてロゼウスをも殺す。そうなれば後はもう、ハデスの天下だ。
あの人を、殺さなきゃ。