荊の墓標 39

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 漆黒の瞳と長い髪、きめ細かい肌は白く、整った顔立ち。
 年の頃は十四、五歳ほどの少女。今の自分よりも僅かに幼く見える外見に嬉しいような、哀しいような複雑な思いを感じ、ハデスはほろ苦い笑みを浮かべた。
「姉さん……」
 自分の精子と姉の卵子を使って作られた遺伝上は自らの娘であり姪である少女を、ハデスは腕の中に閉じ込める。
彼女の顔立ちはデメテルにそっくりだ。
 異空間と化していた執務室は、すでに元の状態に戻っている。今誰かが入って来たら、ハデスは皇帝殺害犯として言い逃れできない状況だ。早くここを出て行かなければ。
 執務室の隅にかけられていた衣装を手に取り、ハデスはそれを俯いたまま動かない少女に着せようとした。
 声をかけようとして、なんと呼んでいいかわからないことに気づく。この存在を作り上げること自体に夢中になって、名前が必要なことなど頭の中から抜け落ちていた。
「そういえば」
 ハデスの声には反応し、少女は小さく彼を振り仰ぐ。
「君の名前を考えなきゃね」
 さらりとした黒髪の巻き毛が落ちる頬を優しく包んで、ハデスはしばらく思考する。考えたけれど、結局これしか思い浮かばなかった。
「ペルセポネ」
 だが、これではあまりにも直球過ぎる。
 デメテルの娘を意味するペルセポネ。けれどその響に胸が疼いて、同じ女神の別名に変えた。
「いや……じゃあ、プロセルピナだ。君の名前はプロセルピナ」
「プロセルピナ?」
 少女が初めて声をあげた。今己に与えられた名を鸚鵡返しに呟く。その声は鈴を転がすように美しい。いつか見た硝子の鈴をハデスは連想した。
「そうだよ、プロセルピナ。……お前は、僕のものだ」
 ゆっくりと顔を近づけて、ハデスは少女に口づけする。デメテルと同じ顔をした少女。弟であるハデスはもちろん彼が生まれる以前のデメテルの姿など知らないが、実際に彼女は昔この顔だったのかも知れないと思わせる。  
 前置きもない口づけ。プロセルピナは、抵抗もなくそれを受け入れる。
 先程からずっとそうだが、プロセルピナには感情らしきものがない。肉体は完成されているのに、どうにも精神らしきものが未熟だ。生まれたばかりの赤子だからと言えばまだ聞こえはいいが、要するに彼女は人間ではないのだ。
 暗黒の末裔の行為になぞらえて生み出されたこの術は、本当の子どもを作り出すわけではない。精子と卵子、そして母体となる死体を用いて、肉の器を持つ人形を作り出す術だ。
 作られた人形には魂がない。滅びれば炭になるだけのその身体はやわらかく体温を持つが、心や精神というものが存在しない。脳はあり、情報を処理するがそれだけ。命令と言う形で操るための操作をすれば動く人形そのものなのだ。
 人形の性能は、両親の能力による。両親、つまり精子と卵子の提供者だ。この場合はハデスが父親であり、デメテルが母親である。皇帝にまで登りつめたデメテルの血を引くと言えるプロセルピナは、最高峰の能力を持つだろう。
 ハデスはそれに期待をかけた。デメテルを殺し、その能力を完全に移した人形を作り出すこと。普通の遺伝と違って暗黒の末裔の術によって作り出された肉人形は、父親と母親、両方の能力を受け継ぐ。普通にハデスがデメテルに子どもを生ませてもどちらに似るかはわからず、下手をしたらハデスよりも能力的に劣った子どもが生まれてくるかもしれないが、この方法ならば失敗はない。
 プロセルピナはデメテルの力も、ハデスの力も両方を受け継いでいる。彼女は完璧だ。
「……お前の力なら、きっとロゼウスにも勝てるよ」
 この娘の力があれば、薔薇皇帝を殺せる。そうすればもう怖いものなど何もない。
「だから僕の側にいて……今度こそ、僕だけのものに」
 そして何より、プロセルピナはデメテルに似ていた。
 その身体はただの肉の塊。反射として受け入れるだけで、何の感情も持ち合わせない。わかっていてハデスは再び彼女に口づけた。
 プロセルピナは目をしっかりと見開いたまま、それを甘受している。
 そこには今のところ、何の心の動きも見当たらない。周囲の景色を見る目もハデスを見る目も同じだ。
 口づけを止めた後、ハデスはそのプロセルピナの視線が部屋の一点に固定されているのを見た。
 その先を追って振り返り、苦い顔をする、心臓を貫いて殺し、胎を切り裂いてプロセルピナの身体を取り出したために無惨な有様となったデメテルの身体が横たわっている。
「……あれは、君のお母さん」
「おかあさん?」
「そうだよ。僕の姉さん」
「ねえさん?」
 無邪気な子どもさながらに、プロセルピナが首をかしげる。その手に先程持ってきた衣装を押し付けて、裸の彼女に着るように命じた。
 ハデスはプロセルピナが着替えている間にデメテルの屍のもとへと歩み寄り、その顔を上から覗き込んだ。胴体はぼろぼろの肉の塊として切り裂かれ赤黒い臓物を晒しているが、顔の部分は綺麗だ。まぶたや頬に飛び跳ねた血を拭おうとして、それがもう乾いてしまっていることをハデスは知る。
「姉さん……」
 最後に、本当にこれが最後だと決めて口づけた。花のようにやわらかい唇に自らのそれを重ねる。
 今迄だって何度もこうして唇を重ねてきた。愛人扱いのハデスは何度だって彼女と肌を合わせた。だがこれからは。
「やっとあなたから解放される」
 つぅ、と透明な涙がハデスの頬を伝う。泣きながらも彼は歪に微笑んだ。
「今度は、あなたが僕のものになる番だ」
言って、彼は魔術を一つ放った。室内だと言うのに、炎が燃える。冥府の蒼い炎がデメテルの身体を包み込んだ。
 人界の法則に従わず、冥府の炎は中のものを溶かすように燃えていく。デメテルの死体が端から溶けるように消えていく。
 思わず炎の中に突っ込みそうになった手をハデスはもう片手で抑えた。ぎりぎりと爪を皮膚に食い込ませながら、その痛みで冷静さを保つ。
「終わりだ」
 呪うような呟き。
「もう、これで終わりにするんだ」
 彼の傍らには死んだ女と瓜二つの少女がいる。涙を流した頬は炎の熱で炙られ乾いていく。
 解放なんて誰もされていない。
「もうこれで終わりにするんだ」
 悲鳴にも似た最後の言葉に被せるように、炎の最後の揺らめきが消えた。後には執務室の静けさが残るばかりで、先程デメテルが流した血も零れた精液も飛び散った肉片も何もそこには残らなかった。
 ようやく終わったのだとハデスは思った。振り返って彼は視線を服に着替えていたはずのプロセルピナに向ける。
 そして小さな違和感を覚えた。プロセルピナのその格好。
「……それ」
「?」
 ハデスは眉を潜めた。別にプロセルピナにその服が似合わないというわけではない。
 むしろ意味としては逆だった。似合いすぎているのだ。黒いドレスはデメテルが好んで着ていたもので、彼女の執務室にそれがあること自体はおかしくない。だが、今プロセルピナが着ているものは本来の持ち主であるデメテルが常に身に纏っていたようなデザインとはかけ離れ、誂えたようにプロセルピナにぴったりだ。長いスカートのロングドレスを好んだデメテルの体型ではなく、プロセルピナが着て丁度良く短い、動きやすそうなスカート。何故そんな風に都合の良いものがこの部屋にあったのだろう……。
じわりと胸の内に沸いた違和感を、ハデスは強いて握りつぶす。
 今更だ。今更何を気にしている。デメテルは死んだ。もう何を気にしたところでどうにもならない。
 気合を新たにし、ハデスは黙ったまま立ち尽くす人形の少女へと手を差し出した。
「行くよ。プロセルピナ」
 生まれてから最初に見たハデスを主と定めたのか、プロセルピナは自分からはほとんど口を開かないながらもハデスの命令には従う。
 ブーツを履いた足を動かして、窓際に移動したハデスの方へと歩み寄った。魔術師の長いローブを身に纏うハデスの腕の中に抱き込まれて、窓から逃亡を図る。
 その彼女が、執務室を離れる一瞬、部屋の中を振り返った。
 先程までデメテルの死体が横たわっていた一角は、ハデスの魔術によってもはや跡形もないほどに片付けられている。後には閑散とした執務室が残るのみで、デメテルが最後まで判を押して片付けていた書類が虚しく積まれていた。
 それを見て、彼女はにっこりと人間らしい笑みを浮かべた。

 ◆◆◆◆◆

 黒に近い緑を抱く森の奥深く、赤い街並みに囲まれてその漆黒の居城はある。
「ドラクル」
 王の名を気安く呼んで、彼女は黒檀の扉を開け国王の執務室に入ってきた。手には幾つかの道具と書類を抱えている。
 先王の第二王女として名を知られるルース=ローゼンティア。しかしその実体は先王ブラムスの弟ヴラディスラフ大公爵フィリップの娘だ。そのことは公には国内に知られていないながらも、現在この国の実権を握る上層部は知っている。
 何しろ今現在ローゼンティアを治めるのは、彼女の兄であり父を同じくするドラクル王だ。
「ようやく戻ったか。ルース」
「ええ。報告が遅れてごめんなさい」
 国王の執務室には、主であるドラクル自身と彼の一の臣下であるカルデール公爵アウグストがいた。二人は地図を広げて何か話し込んでいる。最近エヴェルシードが落ち着きだしたためにまた悪化するだろう国内情勢について、各地の有力者の繋がりを確認しながら対策を練っていたところだろう。
「お帰りなさいませ、ルース殿下」
「ただいま。アウグスト卿」
 ドラクルの妹であるルースに対し、形だけとはいえ跪いてアウグストは丁寧な礼をとる。彼はドラクルに命を賭けて忠誠を誓っているため、その妹であるルースに対しても礼儀正しい。
 もっとも、ここまで簒奪の片棒を担いで誰よりも忠実な部下として彼らについてきたアウグストのことを、ドラクルとルース自身は家族のように思っているのだが。
「何か問題があった?」
「いつも通りだよ。ちょっとした小競り合いだ。どうもこの頃国中が落ち着かなくていけないな」
「エヴェルシードの情勢が新王カミラ陛下のもとでようやく纏まってきたために、いつ攻め込まれるのかと皆、気が気ではないのですよ」
「ごめんなさい。私のせいね。カミラ姫の信頼を勝ち得ることができなかったわ」
「いいや、ルース、お前のせいではないよ」
 先日、ルースはエヴェルシードを追い出されてローゼンティアへと戻って来た。表向きはローゼンティアから派遣された相談役という形でエヴェルシードに入り込んでいた彼女を、女王カミラがもう協力はいらないとその手を跳ね除けたのだ。
 その数日前に、エヴェルシード城下では一つの騒ぎが起こっていた。城下と言ってもほとんど王城内部だがそこから広まった噂として、王城にシェリダン王が現われたというのだ。
 カミラの異母兄であり先代国王であるシェリダン=エヴェルシード。彼は他でもないカミラの手によって自らが座っていたエヴェルシードの玉座を追われた。
 突然現われたという彼が某かの入れ知恵をカミラにして、彼女は国をドラクルたちローゼンティアの手を借りずエヴェルシードの信頼できる部下で纏め上げていくことを選んだらしい。シェリダンにとってカミラは自分から権力と財産と名誉の全てを奪った人間だ。どころか、それまでにも一度ならず彼を殺そうとまでした人物だ。その彼女にシェリダンがどういった対応をすればそう言った結論になるのか、ドラクルたちにとってはわからない。
「シェリダン王、やはり侮れないな」
 カミラに取り入り内側からエヴェルシードをローゼンティアの傀儡にするという計画を失敗したというルースに、ドラクルは表面上はまるで気にしていないような態度をとり、寛大な処置を下した。彼女はローゼンティアに戻り今度はその優れた能力を活かして各地の情報収集を命じられたのである。エヴェルシードからはもう手を引くというドラクルの決断だった。
 ルースに対してはそうして大らかな態度を見せたドラクルだが、その内面は複雑だ。
 もともとエヴェルシードはシェリダン王自身がドラクルに半ば唆されて父親を殺し、玉座に座ったような国である。その後、情報を横流しローゼンティアにわざとかの国を攻め入らせるのは、ドラクルの計画の内だった。正式な王の子ではないドラクルがローゼンティアの玉座に着くためには、事情を知る者たちを殺害し一度国を非常事態に陥れる必要があったのだ。
 そう、シェリダン王がローゼンティアに攻め入ったことは、あくまでもドラクルの計画の内。だがそこから、確かに何かが狂いだしていったのだ。
 ドラクルが掌の上で操れる若輩と見くびったシェリダン王は、それ以上のものを実は隠し持っていた。ただローゼンティアを混乱に陥れてくれさえすればよかったかの王は、ドラクルが簡単には奪い返すことができないくらい徹底的にローゼンティアを叩いた。王侯貴族は殺され、司令塔を失って混乱する民を奴隷として監視下に置く手腕はドラクルの予想以上のものだった。
 そして彼は何よりも、かの薔薇を一輪手折っていった。
 長い間ドラクルの弟とされていた、実は従兄弟関係にある少年ロゼウス。シェリダンは彼をエヴェルシードへと連れ帰ってしまったのだ。
 兄と言う立場を利用して、ドラクルは真の第一王子であるロゼウスをこれまでずっと支配してきた。ドラクルにとっては養父であるロゼウスの父親、ブラムス王がドラクルに対してするように、ドラクルは幼い頃からロゼウスを虐待してきた。
 周囲からは実の兄弟と見られ、その内実は玉座を奪う者と奪われる者の関係にある二人。ドラクルはいずれロゼウスが自分から全てを奪うことになると知ったその日から、ロゼウスを自らの奴隷にするべく支配してきた。
 ドラクルにとって、ロゼウスは彼が本来得るはずだった薔薇王国の栄光の全てを握っている存在だ。いくらこうして玉座に座り国の実権を手にしていても、あの「弟」が野放しになっている限り安心はできない。
 ドラクルの権威は、ロゼウスをその手中にして初めて完成するものだ。だが、そのロゼウスは彼の手元にいない。
 ロゼウスはシェリダン王のもとにいる。
 今回エヴェルシードが内乱の憂き目を見ることを避けさせ、カミラ女王のもとで新政権を確立させた影の功労者もシェリダン王。ロゼウスを手にしている彼は、ドラクルにとっては憎んでも憎み足りない存在だ。彼さえさっさと殺しておけばとうにあの弟はドラクルのものになっていたのに。
 ブラムス王を殺し、ローゼンティアを手に入れた今、ドラクルの執着は一心にロゼウスに向かっている。彼を手に入れない限りドラクルの反乱は完結しない。それをいつも邪魔するのはシェリダン王。
 ただでさえ国内が落ち着かずに気苦労が絶えないところへこの報せだ。ルースとアウグストは顔には出さずしかし苛立ちを身の内に溜めているはずのドラクルを気遣う。
「ドラクル陛下。ルース殿下も戻って来られたことですし、少し休憩にしませんか? 私がお茶を淹れてきます」
「ああ、ありがとうアウグスト。では、少し甘えさせてもらおうかな」
 柔らかく微笑んで、ドラクルは書斎の机に広げた地図を畳んだ。ルースがアウグストを手伝って二人部屋を出て行く。
 執務机の前に一人取り残されて、ドラクルは軽く一息ついた。
 国王という仕事は、わかってはいたが重責だ。王権派の抵抗が思ったよりも強いこともあり、ドラクルの治世は思うように安定しない。そこへ更に、エヴェルシード女王カミラの離反や、帝国宰相ハデスの消息が不明になったことなどが重なる。
 何より、ドラクルはまだ望みの全てを達していない。簒奪による偽りの継承とはいえローゼンティア王国そのものは手に入れた。だが彼にとってこの薔薇の国を象徴する存在そのものだった弟が……ロゼウスがまだ手に入らない。
 そのことはドラクルにとって最も心に気にかかる出来事だった。初めこそドラクルの手元を離れては生きられないだろうと考えた弟は、しかし彼以外の男のもとで、平然と生きている。それが酷く苛立つ。
 ドラクルにとってローゼンティアを手に入れることも大切だが、ロゼウスを手に入れることも重要だった。どちらか一方だけでも駄目なのだ。ローゼンティアという国と、ブラムス王の血を引くロゼウスを手元に置いて初めて彼は全てを手に入れたことになる。そうでなければいけないのだ。そうでなければ……。
「ロゼウス、私はお前を――」
 知らず、考えを口に出していた。それを遮るように、窓硝子がカツカツと小さく鳴る。
「これは――」
 外を確かめ、これまである場所に預けていた使い魔が戻って来たのを知ってドラクルは目を瞠った。蝙蝠の足にくくりつけられた手紙を解いて、素早く目を通す。
「ドラクル様?」
 アウグストとルースが戻って来たときに見たものは、窓枠に向いて立っているドラクルの背中だった。小さな蝙蝠がその脇を飛んでいる。
「陛下?」
「残念だがルース、アウグスト。お茶の時間はまたにしてもらおう」
 ドラクルは届いた手紙を二人へと見せた。
「あの方は我らに味方してくれるそうだ。それでは我らは、愛しい薔薇の王子を迎えに行こう」
「御意」
 アウグストがかしこまって頷く。
 口元に笑みをはくドラクルを、ルースは静かに見つめていた。

 ◆◆◆◆◆

「大地皇帝デメテルは死んだ。だから今この瞬間から、あなたが皇帝だ。薔薇の皇帝よ」

 夜明けの森が暗い威容を誇っている。エヴェルシードとローゼンティアの国境の森の中、野営を終えて後はもう出発するばかりとなっていたところ。
 ロゼウスたちは少しでもローゼンティアに近づくために昼夜強行軍で移動をしていた。エヴェルシードの王都を出発してから何度目かの夜明けだ。
何かの前触れを掴んだのか、ロゼウス、ロザリー、アンリ、ジャスパーの四人が一斉に空中を見上げた。
「どうした?」
「来る」
 ヴァンピルは人間よりも身体能力が優れている。視覚、聴覚など五感はそれこそ動物並だ。
 その様子に警戒を強めながら、訝しげに声をかけたシェリダンに短く一言答え、ロゼウスはまた空を睨む。丸腰の彼はともかく、シェリダンはそれを見て腰の剣に手をかけた。
 果たして彼の言うとおり、それからすぐに空間に亀裂が入った。その光景はロゼウスたちよりも、むしろシェリダンたちエヴェルシードの一行に見慣れたものであっただろう。何もない空間が二つに切り裂かれ、黒と濃い紫が入り混じったような暗黒を覗かせている。神出鬼没の魔術師帝国宰相が、好んで使っていた移動法だ。
「ハデス!」
 空間転移の術を使い、黒衣を翻して現われた少年の姿にシェリダンは声をあげた。しかしロゼウスは、ハデスよりも彼の背後が気になったようだ。
「その人は……」
 ハデスの後ろに控えている、十四、五歳ほどの少女。だが、その顔立ちは。
「デメテル陛下?」
「違うし、もう姉さんは皇帝でもない」
 冷たく凍りきった眼差しでハデスはロゼウスを睥睨し、自らの傍らに少女を引き寄せて告げる。
「この子はプロセルピナ。僕の娘だよ」
「娘!?」
 またしてもぎょっとしたのはロゼウスよりもシェリダンの方だ。ハデスに娘? 聞いた事がないぞ!
 シェリダンの最初の呼びかけには応えず、ハデスはただ一人ロゼウスだけを睨んでいた。その視線をすいと動かし、今度はジャスパーを見る。
「選定紋章印」
 ぴく、とジャスパーが身動きし、反射的に紋章印の刻まれた腰へと手を伸ばす。
「色が濃くなっているだろう。紅く、禍々しい刻印。正しき選定者の刻印はそうなる。僕はもう選定者じゃないから……」
 ジャスパーを見ていたハデスが、周りの者たちへもぐるりと視線を一周させる。そうしながら自らの服の袖をまくりあげ、腕を見せた。
「それは!」
「そう」
 ハデスの腕は、ロゼウスもシェリダンも見た事がある。ロゼウスの記憶に深いのは、ヴァートレイト城の湯殿でのできごとだ。
 裸の身体、その腕の一部に、紅い紋章印。
 薄い肌の色に鮮やかだったそれが、今のハデスの腕からは消えている。
「そう、僕は選定者の役目を終えた」
「何故?」
 ロゼウスは問いかける。皇帝と選定者の代替わりは、基本的に前の皇帝が死ななければ行われない。
 ハデスは黒髪のかかる目元にそれだけではない影を乗せて、暗く微笑んだ。
「デメテルは死んだから」
「死んだ……? 皇帝陛下が……?」
 それまで黙って事態を見守っていたアンリやリチャードも、その言葉には黙っていられない。
「本当に?」
「本当だ。だって」
 ハデスは告げた。
「僕が殺したのだから」
「――ッ!」
「ハデスっ!?」
 シェリダンが悲鳴のような声で名前を呼び、他の者たちは声もあげられなかった。
 本来皇帝は自らの選定者に殺されることなどありえない。選定者自身が皇帝の忠臣であることと、その実力差もあって。
 なのに、デメテルはハデスに殺された?  
 彼女が弟に殺されるほどの実力しかなかったということもだが、まずハデスが姉を殺したということに衝撃を禁じえない。
 一同が驚愕している中、一人冷静な者もいた。ロゼウスはちらりと、ハデスの背後の少女に視線を走らせる。彼女は目の前で行われているやりとりにも、何の反応も示さない。まだ。
 黒髪黒瞳、デメテルにそっくりな少女。ハデスの娘だと言っていた。……母親は誰だ。
 カラクリを読む前にハデスの声があがる。道化じみた芝居の仕草で告げた。
「大地皇帝デメテルは死んだ。だから今この瞬間から、あなたが皇帝だ。薔薇の皇帝よ」
「……ハデス」
 うっそりと笑う彼の姿には、これまでとは違う翳りがある。
 口ではどれほど忌まわしいように罵ろうとも、彼は心の底では姉を愛していたはずだ。それがどんな種類の愛情かはともかく。
 そのデメテルを殺して、彼は今どんな気持ちなのだろう。
「ロゼウス、お前を殺せば、この世界から皇帝と言う存在は消える」
「消してどうする? お前が皇帝になるとでも戯言を言う気か?」
 戯言、の一言にハデスがぴくりと眉をあげる。
「デメテル帝を殺したら、お前も近いうちに死ぬ。わかっていたはずだ」
 静かなロゼウスの言葉に、一同は静寂に飲まれる。
「ハデス、お前が本当に欲しかったのは――」
「うるさいよ」
 有無を言わさずハデスはロゼウスへと攻撃を仕掛けた。
「くっ」
「ロゼ!」
 魔術での一撃を、ロゼウスは素早くかわす。シェリダンやロザリー、ジャスパーも臨戦態勢に入る。
「どうだっていいんだよ、そんなことは」
 自分が今、相手を殺そうという威力の攻撃を放ったことなどてんで頓着せずに、ハデスは口を開く。その唇から零れる言葉の一つ一つがすでに虚ろに病んでいる。
「もう、何もかも、どうだっていいんだよ」
 デメテルを殺し、皇帝の座を得る事はハデスの悲願だった。
 姉を殺して復讐となし、その後は皇帝の座を得て優雅に、自分を嘲笑った世界を支配し蔑んで生きるのだと。
 だが実際にデメテルを手にかけて復讐を果たした今では違う。これまで画策を重ねたような熱意がない。今になってわかる。皇帝の座など、デメテルを殺すことに比べれば、ハデスにとってはどうでもよかったのだ。
 いつもいつも魂の大部分を占めるのは姉のことで、それ以外はどうでもよかったのだ。
 だから復讐が果たされた今では、世界の全てが虚ろに遠い。
 後は破滅するだけだ。当然のように待っているそれにも何の感慨も覚えない。
「後はお前さえ殺せれば、僕はもうどうでもいい」
 病んでいるだけに純粋な、彼の根源的な願いを理不尽にロゼウスへと叩きつける。
 お前さえ、お前さえ生まれて来なければ、こんな現実は必要なかったのに!
「忌々しい薔薇狂帝め!」
 叫ぶと同時に、彼は二撃目の光球をその掌に生み出していた。