荊の墓標 39

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「プロセルピナ! やれ! あれはお前の敵だ!」
 それまでまったく動かず、表情を変えることもなく大人しく佇んでいた黒髪の少女にハデスが命じた。
 その内容はどう聞いても父親が娘に下すようなものではない。そもそも、彼らの関係についてもハデスの「娘」という言葉を聞いただけで結局精確なところはわかっていない。
 だがそんなこと、些細な問題だ。実際にハデスの短い叫びに従ってプロセルピナと呼ばれた少女がロゼウスに飛びかかってきたことを考えれば。
「くっ」
「ロゼウス!?」
 まっすぐにロゼウスに向かってきた少女の手には、いつ何処から出したものか、闇色の剣が握られている。その攻撃を避けながら見ていると、彼女は何の前置きもなく何もない空間からありとあらゆる物を取り出している。彼女が何者であるかはともかく、ハデスやデメテルと同じ第一級の魔術師だということは確からしい。
「余所見をしている場合じゃないよ! シェリダン!」
 そう言って、ハデスはロゼウスの下に駆けつけようとしたシェリダンの足止めをする。ハデスは見た目こそ若いが百年近く帝国宰相として生きている。当然、剣の修行も年数だけですでに人並ではない。シェリダンやリチャードのように才能に恵まれているわけではないが、年月に裏打ちされた彼の実力は決して弱くはない。
 ハデスはシェリダンと戦いながら、更に幾つか呪文を唱える。
「我に従う冥府の魔物よ、今この瞬間においてその命以って盟約を果せ! 出でよ!」
 素早く唱えられた魔物たちの名前の通りに、続々と冥府の魔物がこの場に溢れかえる。
「シェリダン様!」
「ロゼウス!」
 リチャードやローラ、ロザリーたちはそれぞれ森に溢れた魔物たちに分断されて、ロゼウスたちとの合流が難しくなっていた。特にシェリダンは魔物たちをその場に生み出したハデスと剣を合わせていたせいで、一行からかなり離れた位置に道を分断されることとなった。
「ローラ! エチエンヌ!」
 双子人形とリチャード、ジャスパーは魔物たちの掃討で手一杯だ。アンリとロザリーは位置の近いロゼウスのもとへ駆けつけようとしたが、そちらはそちらでプロセルピナの魔術に阻まれる。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 プロセルピナが掌から放った光が地面にあたると、そこから人の背よりも高い草花が生えた。一瞬にして魔の庭と化した地面で、その花たちが襲い掛かってくる。
「このっ!」
 アンリが剣で、ロザリーが素手で魔の植物たちを引きちぎるが、ロゼウスの下へは行けそうにない。魔の植物は一度倒してもまた後から後から生えて来るのだ。
「倒しても倒してもッ」
「きりがない!」
 一方ハデスが魔術によって呼び出した魔物たちも、一体どこからどこから沸いてくるのか倒してもすぐ次が現われるのだった。エチエンヌたちはそちらの相手に手を焼く。
「アンリ王子! ロザリー姫!」
 魔術的なものの判断は無理だと潔く早々に諦めて、リチャードが離れた場所で魔の植物を相手にしているローゼンティア王族二人へと助言を請う。
「魔術に詳しくない私たちではこの魔物の相手ができません! 何か対処法はご存知ないですか!?」
「いくら魔力を持ってるったって、俺たちは黒の末裔の魔術は専門外だ!」
 返って来たのはアンリからの頼りない答だった。舌打ちしたリチャードは、打開策を見つけられないまま、目の前の敵を斬り付ける。
「罠にかけて、一気にワイヤーで締め上げるってのは!?」
「その間に次の一団が一瞬で現われたら終わりよ!」
 ローラとエチエンヌも己の特殊な武器を駆使して効果的な策を考えるが、画期的な案は浮ばない。
 そんな中、場を切り裂くように澄んだ一声が迸った。
「全員伏せて!」
 リチャードたちにしろアンリとロザリーにしろ、この場にいるのはいずれ劣らぬ戦闘の達人ばかりだ。反射的にその言葉に従って地に伏せる。彼らの頭の上を、全てを焼き尽くす光の矢が通り過ぎていった。
「ジャスパー!」
 いつの間にか手に光る弓をつがえたジャスパーが魔力の矢で敵を一瞬にして焼き払っていた。
 ヴァンピルは魔族。人間よりも魔物に近い種族だがそれ故の弊害もある。彼らは魔力に近すぎて自身でそれを操る能力が極端に低い。人間の身体が髪や爪が勝手に伸びるからと言って一瞬でそれを変化させることはできないのと同じようなものだ。
 ジャスパーはそんなヴァンピルたちの中では特殊で、他の兄妹よりは魔力の扱いに多少の融通が利く。彼の二つ名の由来ともなった髪の飾りの宝石、それに普段から己の魔力を溜めて必要な時に取り出せるようにしているのだ。
 ローラたちが十分に敵の注意を引きつけたおかげで弓の具現も間に合った。彼の魔力で、辺りの魔物たちを一瞬にして焼き尽くせたかのように見えたが。
「駄目だ……ッ、また湧き出てくる!」
 一度全てが蒸発したかに見えた地面からまたうじゃうじゃと魔物たちが湧き出てきたのだ。アンリとロザリーが相手をしていた魔の花も再び芽を出してくる。
「畜生! どうすりゃいいんだよ!」
 デメテルが皇帝になった時も世間は大騒ぎだった。異端とされる魔術師の一族の底力は計り知れない。
 今まさにその力を目の当たりにして、彼らは成すすべがない。
「アンリ兄様、僕、以前に聞いたことがあるんです。こういう場合、ハデス卿はどこかに必ず魔法陣を隠しているはずです」
「隠し魔法陣?」
「ええ。それを消せば魔物たちの供給は止まるはず。考えてみてください。ここは冥府じゃない。いくらなんでも後から後から魔物が出現し続けるのはおかしいです」
「わかった。探してみる」
「それまでは、敵を引きつけておきます」
 ジャスパーたちはそんな調子で魔物たち雑魚でありながら、後ろから襲われればひとたまりもない邪魔者たちの相手を余儀なくされた。
 一方シェリダンはやはり一行から少し離れた位置で、ハデスと剣戟を交わしている。
「抵抗を止めてくれる? シェリダン。僕が用があるのはロゼウスだ。君は黙ってこの場を見逃してくれるだけでいい」
「そう言われて、この私がほいほいとそう簡単に引き下がると思ったのか!? お前の目的はロゼウスを殺すことだろう。そんなことはさせない!」
 ハデスとシェリダン。お互いに直接剣を合わせたことはそうないが、互いの実力自体は知っているつもりでいた。だが実際に剣を合わせてみると、思ったよりも相手の強さがわかる。思ったよりも、強い。
 互いにそう思いながら、しかし二人の少年は口を動かすこともやめようとはしない。
「お前は本当に馬鹿だな、シェリダン! だから王になって三ヶ月で玉座を奪われたりするんだよ! まったく、呆れてものも言えないよ! 」
「減らず口を叩くのには現在進行形で事欠かない輩が言っても説得力がないな! 貴様に馬鹿だ愚かだと罵られたところで、私の心は変わらない! ものも言えないというのなら、余計な口出しはやめてもらおう、かっ!」
 最後の一言と同時に腕に力を込め、シェリダンはハデスとの鍔迫り合いを制する。いったん後方に引いたハデスの間合いにすかさず踏み込み、自分の優位に持ち込んだ。構えを取り損ねたハデスは無様にそのまま斬られることこそないものの、一度体勢を崩すと後は防戦一方になる。
 ぎり、と歯軋りしながら彼はシェリダンに叫んだ。
「何故わからない! あいつを殺さなければ、お前だって死ぬんだぞ!」
 間接的にとはいえ、シェリダンにロゼウスを愛するように仕向けたのは確かにハデスだ。皇帝としてのロゼウスの力を削ぐには、彼の弱味を作る必要があった。それがシェリダンの存在だ。
 しかし、体よく扱うための駒として付き合っていくうちに、ハデスはシェリダンの真実を知ってしまった。
 今はできれば、彼を死なせたくない。
 ロゼウスが皇帝になるということは、シェリダンが死ぬということだ。何故かどれだけ事態を屈折させても、それだけは変わらない。シェリダンの死なくしてロゼウスの即位は成り立たない。
 ハデスはそんなもの知らない。たとえ世界にとってはそれが必要であったとしても、シェリダンを殺してまでロゼウスを皇帝にする必要がどこにある。
 けれどシェリダンは、決してその言葉に頷かない。
「構わない!」
 堂々と主張された一言に、ハデスの目の前が怒りとそれ以外の感情で紅く染まる。
 どうしてそんなにロゼウスが好きなんだ。どうして!
「この……馬鹿がッ!」
 もういい。忠告はした。十分にしてやった。それでも聞かないと言うなら、もういいじゃないか。
「そんなに死にたいなら、ロゼウスに殺される前にここで死んでおけ!」
 ハデスはそう言って、魔力の助けまで借りて一度シェリダンから距離を取った。持っていた剣を投げるという暴挙に出て、それをシェリダンが防いでいる間に掌に魔力の球を作り出す。
「これで終わりだ!」
 しかし。
「それは困るわ」
 女の声が言った。耳に馴染んだ響だった。
 ロザリーやローラのものではない。もちろんそれ以外の男たちでもない。だが、しなやかな豹のような妖艶な響きを持つその口調は、プロセルピナとはかけ離れている。
 それでも振り返ったハデスとシェリダンの視線の先で、掌をこちらに向けて口を開いていたのはやはりプロセルピナだった。
 その顔には良く知っているのに、彼女の顔で見るはずのない表情が浮んでいる。
「姉さん……ッ!」
 ハデスが思わず叫ぶのと同時に、二人は彼女の掌から生み出された魔力によって勢いよく吹っ飛ばされる。強風に吹き飛ばされるように地面から足が離れ、体が宙に放り出された。
「わぁああああ!」
 彼らが剣を振るっていたその場所の奥は、ローゼンティアへと入り込む崖となっていた。

 ◆◆◆◆◆

 エヴェルシードはローゼンティアのほぼ真西に位置する国だ。だから国境を接していれば北東からでも南東からでも、どこからでも入ることができるように思える。
 だが実際にはそんなことはない。ローゼンティアからエヴェルシードに訪れる時も、またその逆も、彼らはほとんど西の街道をそのまま通ってくる。
 ロゼウスたち一行はエヴェルシードの王城での問題の後北東の森を通るようにしてローゼンティアに向かったが、国境まで来た際にもエヴェルシード北東から即座にローゼンティア北西にそのまま入ることはなかった。彼らは国内に入る際は少しでも西の街道近くに向かって、もどかしいようでも地道に歩を進めていた。
 エヴェルシードの北東からローゼンティア北西に至る道は、土地の高低差によって崖になっている。
 シェリダンがハデスと、そして他の者たちがハデスたちの生み出した足止めの魔物たちの相手をしている間、ロゼウスは最初に彼に向かってけしかけられたプロセルピナと戦っていた。
 闇色の剣をかわしながら、ロゼウスは相手の様子を窺う。情けないことに今は丸腰であるために、基本的に避けるしかできない。
 武の国エヴェルシードの人間であるシェリダンたちと違って、国では平和に暮らしていたロゼウスたちはいつでも武器を携帯する習慣というものがない。そのため、エヴェルシードで一応剣を扱う人数分エルジェーベトから用意してもらった剣は、荷物のある場所に置いてきてしまっている。ハデスとプロセルピナの突然の登場に意表を衝かれたということもある。魔術で空間を移動する彼らは人間の兵士と違ってはっきりとした足音などを聞かせないためにその接近に気づくのが遅れた。
 よって現在、ロゼウスはプロセルピナの闇色の剣を避ける一方だ。
 白刃の閃きをかわしながら観察するところでは、プロセルピナと呼ばれたこの少女は本当にデメテルにそっくりだ。
 黒い髪に黒い瞳、淡い色のきめ細かい美しい肌。年の頃は十四、五歳で確かにその分デメテルよりも印象は幼い。妖艶な色香を持っていたデメテルに比べて、プロセルピナは同じ顔立ちでも清廉な雰囲気を身に纏っている。
 長い黒髪はデメテルと同じ巻き毛、ぷっくりとして厚ぼったい唇が紅い。だがその可愛らしい容姿とは裏腹に、彼女は一切己の感情らしきものを見せない。
 デメテルと瓜二つと言うことは、当然ハデスにも似ていることになる。しかもハデスはプロセルピナのことを自分の娘だなどと言っていた。
 だが、帝国宰相に子どもがいるなんて話はロゼウスもシェリダンも聞いたことがない。それに邪推のようでもロゼウスの感覚としては、あのハデスがデメテル以外の女性と関係を持つとも思えない。
 そして何より、実際に今、この目の前にいる少女だ。
 ロゼウスに斬りかかる動きには一部の無駄もなく、彼でさえかわすのがやっとだ。ハデスがロゼウスに彼女をけしかけた訳も知れる。
 どんな攻撃を仕掛けるにも表情一つ変えずに動き、呼吸も乱さずに剣を振るうのでやりにくい相手だ。戦闘において呼吸の読めない相手ほど厄介な敵はない。
 しかしそれとは別に、ロゼウスには先程から気になっている事がある。
 目の前にいるのはデメテルにそっくりで、ハデスの娘という少女。
 デメテルが死んだという報告と共に彼はプロセルピナを連れてこの場に現われた。彼が殺したという言葉と共に。
 そして何故か、姉にそっくりな少女を連れている。この妙な符号はなんだ。
 目の前にいる少女は。
「――デメテル陛下?」
 ロゼウスはそう呼びかけていた。
「……」
 確証はない。でも感じるのだ。
 目の前にいるのは、あの大地皇帝と同じ存在だ。
「あなたはデメテル陛下だろう!? 何故そんな姿に!」
 目の前にいるのは、皇帝デメテルではないのか? だがハデスは彼女は死んだと言った。自分が殺したとも。ハデスのことだから例えば人に暗殺させて自らの眼で死体も見ずに死んだなどと軽く言うことはないだろう。殺したというからには確実に手をかけたその実感があって言っているに違いない。
 実際に彼の腕からは選定紋章印が消え、ジャスパーはロゼウスが皇帝だと宣言した。そう考えれば確かにデメテルは死んだらしい。
 だとしたら、この違和感は、胸騒ぎは何だ。
この何ともいえない不安は。
「くっ」
 刃の一撃が来て、ロゼウスは後方に跳んでかわす。追って斬りつけてきたプロセルピナの剣を身を屈めて避けると、下方から脇腹を狙って蹴り上げた。
 ガッと鈍い音がして、プロセルピナが血を吐く。ロゼウスと距離を取り、蹴り飛ばされた箇所を庇うように手を当てた。
 その顔は無表情で感情の一つらしきものも浮かんでおらず、ひたすら人形じみている。
「……人形?」
 ロゼウスはハッとした。そうか、この目の前の少女は。
「!?」
 その時、彼の視界の端で何かが薄青く光った。
 ここからでは少し距離のある崖際で、シェリダンとハデスが戦っている。だが先程までは剣を持っていたはずのハデスが今は手ぶらで、その代わりに掌に魔力の光を溜めている。
 離れていても目を射る光のその凶悪さに、ロゼウスはハデスの殺意を感じ取った。それが衝動的なものであれ何であれ、彼はシェリダンを殺す気なのだ。
「待て――!」
 止めようにも、ここからでは届かない。ロゼウスから二人の位置は遠く、シェリダンとハデスの位置は近すぎる。ローラやエチエンヌ、ロザリーたちもこの事態に気づいた。ハデスが強い魔力を使い始めたためか、魔物たちの動きが鈍っている。だが彼らからも距離があって、シェリダンのもとへは間に合わない。
 目の前のプロセルピナのことを忘れ、ロゼウスは駆け出した。だがわかっている。ここからではハデスがあの力の塊をシェリダンにぶつける方が早い。
 定められた運命によればシェリダンを殺すのはロゼウス自身のはずだとか、今ここでプロセルピナに背を向ければ背後から斬られる可能性があるだとか、そんな諸々の理性的な事柄は頭から吹っ飛んでいた。ただ彼を守りたい一心でロゼウスは駆け出したのだ。
 しかし数歩も行かぬ内に、事態は進む。
「これで終わりだ!」
 叫んだハデスの言葉を軽くいなすように、華やかな色気のある声音でプロセルピナが言った。
「それは困るわ」
 思わず振り返って見たその顔は知らない。だが浮かぶ表情は間違いなく彼らの知るデメテルのもの。
 背筋にぞくりと寒気が走る。その感覚は大きな魔力が動いたことを示す証だ。プロセルピナが穏やかな微笑を浮かべたまま、魔力の風を放つ。
「わぁあああ!」
「うわぁああああ!!」
 シェリダンとハデス、二人が戦っていた場所はエヴェルシードとローゼンティアの国境線の崖際だ。
「シェリダン!!」
 二人の体が、夜明けの虚空の闇に真っ逆さまに吸い込まれていく。