荊の墓標 39

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「別に殺してはいないわ。ハデスも、あなたの愛しい人も無事よ」
そう言って、少女は笑いながら長い髪をかきあげた。華奢な体つきは豊満な女性の肢体をしていた前皇帝とは違う。だがその仕草は紛れようもなくあの女帝と同じだ。
「……どういうことだ?」
 プロセルピナの言葉を一応は信じ、ロゼウスは崖へと向けていた目を彼女の方へと戻す。さきほどの魔術はロゼウスの目から見ても殺意を万全に果すものではなかった。たぶんプロセルピナは本当に二人を崖下に落としただけだったのだろう。
「シェリダン王がいると厄介だわ。だから、ちょっと隔離させてもらったの」
 もう疑いようがない。
 彼女は、プロセルピナの正体はデメテル=レーテ。先代皇帝だ。
 ハデスの手によって殺されたという彼女が、何故若返った姿でこんな場所にいるのか。それもだいたい見当がついている。その理由まで。
「乗っ取ったのか……?」
「人聞きが悪いことを言わないで。この娘はもともと魂を持たない人形よ。その中にちょっと、お邪魔させてもらっただけ」
「人形?」
 ロゼウスはプロセルピナの姿をじっと見つめる。どこからどう見ても人間だ。先程戦った感触では肌が接触したのは数度しかないが、それでも温かく柔らかい人間の肌だった。人形のわけがない。
「ええ。暗黒の末裔に伝わる禁術の一つよ。死者との交わりによって作り上げた受精卵の成長を促進させ意志を持たない人間を作る。ハデスは自分の精子と私の卵子からこの人形を作り上げた。私はそれを借りてるだけ」
「やっぱり乗っ取ったんじゃないか。たとえ意志があろうとなかろうと、人間としての器を奪うなんて」
 ロゼウスはプロセルピナの姿に険しい目を向ける。これでようやく合点が行った。
 ハデスが自分の娘だと言ったプロセルピナ。その容貌は、デメテルに瓜二つ。実の姉弟である二人の一部を使って魔術によって作り出された人間には魂がない。
 デメテルはある程度の予言ができる。未来を先読みして、この結末を知っていたのだろう。彼女はわざと自らの死に抗わず、遺伝上は自らの娘にあたる身体へと乗り移ったのだ。
「そうまでして生きたいのか!」
 全ては運命に逆らうため。
「生きたいわ」
 静かに彼女は頷き、少女の顔立ちで睨みつける。妖艶な美女の面影が、全体的に華奢な少女の立ち姿に重なった。
「皇帝として私がこの世にある以上私の選定者であるハデスまでその運命に巻き込まれてしまう。あの子を死なせない。絶対に死なせはしない。そのためなら私は、皇帝であることを捨てる」
 プロセルピナはプロセルピナとしてそこに存在するが、魂はデメテルのものだ。大地皇帝としてのデメテルに肉体は死んだがその存在自体は消滅していない。
 運命が捩じれる音が聞こえるようだ。ロゼウスにはデメテルの思惑がわかった。彼女はハデスの殺意も裏切りも暗黒の末裔の魔術も自らの命も全てを使って、自分と弟に降りかかる宿命を歪めたのだ。
 デメテルは皇帝ではなくなった。だが彼女自身はまだ存在している。ここに帝国史の例外がまた一つ刻まれた。次の皇帝に殺されるのではなく位を放棄した先帝。その場合彼女とその選定者の命運は、どうなる?
「あなたは、これからもう死ぬことはないのか? ハデスも……」
 自らがシェリダンだけでなく二人をも殺すと言われているロゼウスとしては複雑な気持ちになって、思わずプロセルピナにそう問いかけていた。彼女はにっこりと笑う。
「ええ。そうみたいね。始皇帝の頃からそもそも、この世の決まりなどは神様がわかりやすく条文にするのではなく各々の想いと行いから例を重ねていくもの。皇帝の代替わりに際して次の皇帝が先代の皇帝を殺すことや前の皇帝が死んで次の皇帝が玉座に着くと選定者は死ぬのがこれまでの決まりだったけれど、私の今のこの行動でまたその例も変わったわ」
「皇帝がその立場を放棄すれば、命を失う事はないと? 廃帝デメテルよ」
「なんとでもお言いなさい。私はこの結果に満足しているの」
「できればぜひその反則技を俺にも教えて欲しいね」
 だが、デメテルが宿命を捻じ曲げたということは、ロゼウスにもそれが可能であることを意味するのではないか? ロゼウスはそれに賭けてみたくなった。
 彼の言葉をうけて、プロセルピナはしかし沈鬱に眉を寄せる。
「……いいえ。これは暗黒の末裔である私たちだからこそできたこと。それに、あなたがどんなに未来を変えたいと願ったところで、シェリダンを殺すことだけは避けられないのよ。彼を殺さねばあなたは皇帝にはなれないから」
 痛ましいものを見つめるようなデメテルの視線が癪に障る。
「何で……どうしてっ!」
「知らないわ。よりにもよってあなたを皇帝に指名した神様に聞いてちょうだい」
 すげなく切り捨てながらも、プロセルピナはロゼウスを見てどこか辛そうだ。
 彼女には未来が見えている。たぶん、ロゼウスとシェリダンが迎える終焉の光景も。
 けれど、彼女は決してそれを口に出す事はない。
 このまま冷たくロゼウスを見放すかと思えたプロセルピナは、しかし次の瞬間ふいに優しくこう言った。
「一つだけ方法があるわよ。ロゼウス王子」
 え、と顔を上げたロゼウスに微笑んで告げる。
 プロセルピナの右手が上がる。
「貴方が先に死んでしまえば、シェリダン王を殺す事はないでしょう?」
 その右手にはすでに十分な魔力が貯められている。
「ロゼウス様!」
「兄様!」
 シェリダンとハデスが崖下に吹き飛ばされ、プロセルピナがデメテルとして正体を明かした辺りから魔物たちや魔の植物の動きは止まっていた。手こそ空いていたが重い話の流れ上これまで動くに動けなかった他の者たちも、その暴挙には口を挟まずにはおれなかった。
 ロゼウスは間一髪でプロセルピナの攻撃を避ける。
「どういうつもりだ! デメテル帝!」
「できればプロセルピナと呼んで欲しいわね。私はもうデメテルではないのだから」
 またもや攻撃の用意をしながら、プロセルピナが先程とは打って変わった無表情で告げる。攻撃に神経を集中し始めている。
「私はドラクル王やカミラ姫と違って、あなたに直接的な恨みはないの。だからどうしてもあなたが死ななければ気が晴れないなんてこともないの。でもね、ロゼウス王子。あなたは、その存在自体が危険すぎる」
 闇色の光球が地面で炸裂したかと思うと、爆風を縫ってプロセルピナが斬りかかってくる。手には先程と同じ剣が復活している。
「きゃあ!」
「こいつら、また!」
 そしてこれまで、躾けられた犬のようにぴたりと動きを止めていた魔物たちもその活動を再開し始めていた。もとはハデスが召喚したはずの冥府の魔物たちは、いつの間にかプロセルピナの支配下にある。
 彼女の正体がわかったところで、形勢は変わらない。むしろ本領を発揮したプロセルピナの前で、一行は不利になっていくばかりだ。
「くそっ!」
 舌打ちしてロゼウスは毒づいた。崖下に落とされたシェリダンの安否も気にかかる。プロセルピナは死んではいないと言ったが、この状況ではその言葉を信用するのも難しくなった。
 先程一時的に攻撃をやめてロゼウスと会話をしたのは、この猛反撃の準備を整えていたというわけか。
 これまでどうにも敵か味方かわからなかったプロセルピナだが、この攻撃を見るだに彼女は味方ではないようだ。
 ハデスが世界の全てを復讐のためには放り出せるというのなら、姉も同じと言うわけか。彼女は自らの思惑のためにこれまでロゼウスに味方し、そしてこれからは敵対する気だ。
「好き好んで他人を不幸にしたいわけではないわ。でもロゼウス皇帝、あなたを生かしておけば、ハデスが辛い目に遭わされる。私としては、それを見過ごすわけにはいかないのよ!」
 そしてプロセルピナにも打算はある。
 デメテルとハデス、両方の高位魔術師の力を継いだこのプロセルピナの器を以ってしても、皇帝としての本領を発揮したロゼウスには勝てないだろうと。
 だからできれば、ここで殺しておく。そして殺せなくても――。
「油断大敵よ、第四王子ロゼウス殿下」
 後の事は彼に任せておけばいい。
「!」
 いつの間にか、ロゼウスたちは大勢の兵士に囲まれていた。

 ◆◆◆◆◆

「あなたの役目は、彼らがここに着くまでの足止めですか?」
 予想外の一団の登場にロゼウスはさすがに顔を引きつらせる。そんな彼を嘲笑うように、プロセルピナは優雅に微笑んだ。
「お好きに解釈なさってどうぞ。どちらにしろ、このままあなたをドラクル王のもとへと連行させていただくわ」
「――!」
「ドラクルですって!?」
 ロザリーが声をあげる。長兄を、長い間そうだと信じていた男を敵視する妹は、今は簒奪者となった彼の名前に顔色を変えた。
「私に課された命は、ロゼウス王子の捕獲。あなたを王城へと連れて行きます」
「どうして、あいつが……ッ!」
「どうして、とはおかしな問ですね。ロザリー殿下。ドラクル様はずっと、あなた方のお兄様として過ごしていたのですよ。ご兄弟の皆様にお会いしたいと思うのは、当然ではありませんか?」
「カルデール公爵!」
 プロセルピナの背後から、兵士たちの一団を引き連れて現われたのはカルデール公爵アウグスト卿だった。第一王子ドラクルの腹心の部下にして第三王子ヘンリーの友人としてローゼンティア王族とも馴染み深い彼の姿に、一行は眉を吊り上げる。
 これまでは、ローゼンティア滅亡に始まるこの一連の出来事が始まるまでは彼は信頼ができる貴族の一人だった。だが今は違う。
「この裏切り者! 私たちをドラクルのところに連れて行ってどうするつもりなのよ!」
「裏切り者とは心外な。私はもともとドラクル様の部下であり、あなた方に対してはもとより裏切るも何もありません」
 カルデール公爵アウグストが引き連れているのはもちろん、ローゼンティアの兵士たちだ。久々に見る同胞の姿がこんな形となって、元王族の彼らは悔しい気持ちでそれを見る。
 アウグストに連れられた兵士たちは皆一様にどこかに感情を置き忘れてしまったかのような表情をしている。それだけ訓練された兵士ということか、それとも……
「後ろの人たち……まさか、彼らはノスフェラトゥ?」
「何!?」
 兵士たちの顔色を眺めその異様さに気づきあることを指摘したジャスパーの言葉に、アンリが驚愕の声をあげた。よくよく見てみれば、確かに彼らローゼンティアの兵士たちには生気と言うべきものがない。
「よく気づきましたね。さすがはジャスパー王子」
 にっこりと、この状況が嘘のように穏やかに笑ったアウグストがジャスパーを褒める。そんな見せ掛けの経緯も感嘆の様子も、今となっては白々しいばかりだ。
 アウグストは傍らに立っていた兵士の一人の頬を撫でて口を開く。
「彼らはノスフェラトゥ。私の、可愛い忠実な部下たちですよ」
 頬を撫でられた兵士は微動だにしない。それどころか、アウグストに触れられたことそのものをまず意識してはいないようだ。
 ノスフェラトゥ。それはローゼンティアのヴァンピルの最大の能力にして禁忌。暗黒の末裔が死者の胎から胎児を取り出すのと同じように、使えながらも使えない術。
 死んだ者の体に偽りの命を吹き込み、人形とする術だ。ちょうど目の前にいるプロセルピナのようなものと言えば聞こえはいいが、実際にはもっと下等な術だ。ハデスが作り上げたプロセルピナは魂こそなくとも身体的には普通の人間と同じように生きるのだが、ノスフェラトゥはそうではない。
 彼らは術者の命により、ただ動くだけの本当の意味での人形となる。すなわち生ける屍。偽りの命とはただその身体を動かすためだけのものであり本当に蘇らせるわけではない。そのため、いつかは身体が腐って使えなくなってしまう。
 吸血鬼にとって最も屈辱的な末路だ。
「なんてことを……カルデール公爵!」
 自国の民を生ける屍扱いにされてアンリが拳を握り締める。無表情で佇む死体の兵士たちは恐れよりもただただ哀れを誘う存在だ。
「仕方がないのですよ。王権派の抵抗活動は思ったよりもしつこくてドラクル様に素直にこの国を譲り渡してはくださいませんでした。それならばもう、武力で鎮圧するしかない」
「それはお前たちの都合だろう! 自分の欲望のために罪なき民の命を弄んだこと、赦されると思うな!」
 二十六年間第二王子として生きてきた気迫を持って、アンリが叫ぶ。
 しかしアウグストはものともせず、彼の主であるドラクルがよくするように薄っすらと微笑んでいる。
「私たちの都合? では、簒奪をせねばドラクル様が不当に貶められていたのは、誰の都合なんです?」
「そ、それは……」
「綺麗事などでご自分を誤魔化すのは、やめておしまいなさい、アンリ王子。あなただって王ではなく大公の子。ご自身の立場を欺かれた恨みはあるでしょう?」
 闇の深淵へと誘惑するように甘く、アウグストがアンリに向かって囁く。
「あなたはただ、ロゼウス王子を我等に差し出してくださればよいのですよ」
「っ! 断る!」
 アウグストの誘惑に一度は視線を迷わせたアンリだったが、続く言葉にははっきりと拒絶の意志を示した。
「ドラクルの目的はロゼウスを殺すことだろう! 殺されるってわかってる弟を、みすみす渡せるか!」
「兄様……」
 アンリの言葉に、ロゼウスが小さく瞳を揺らす。王の子と王弟の子、立場は違っても味方となってくれるアンリ。
 そんな兄弟のやりとりは知らぬと言いたげに、アウグストは冷めた目で二人を眺める。
「……別に殺すとは言ってないんですけどねー」
 ドラクルの命令はとにかくロゼウスを彼のもとへ連れて来いというものだ。そしてできれば他の兄妹も。
 だが、エヴェルシードの者たちはいらない。
 兵士たちが一斉にローラ、エチエンヌ、リチャードに剣を向ける。
「!」
「あなたたちは要らないんですよ。ドラクル陛下がお望みなのはそこの王族方四人だけですから」
「待て!」
 ノスフェラトゥに辺りを囲ませてエヴェルシードの侍従たち三人に攻撃を仕掛けようとしたアウグストを、ロゼウスは止める。
 遅まきながらプロセルピナが何のためにハデスとシェリダンを崖下に落としたかわかった。これに巻き込ませないようにするためだったのだ。ハデスは近頃ドラクルと連絡をとるのを拒否しているらしく、シェリダンにいたってはロゼウスを除けばもっとも強い恨みの対象だ。彼らがここにいれば、もっと事態はややこしかったに違いない。
 だが、だからと言ってエチエンヌたちを殺させるわけにもいかない。
「彼らに手を出すな! 用があるのは俺なんだろう!」
「ええ。そうですよ、ロゼウス殿下。あなたに用があるのですから、この者たちに邪魔をされては困るのですよ。だから殺すのです。……シェリダン王はどうしたんです? 一緒にいたと聞いていましたのに。彼まで殺すのが私の任務なんですけどね」
 アウグストは肩を竦めて見せる。やはり彼は、プロセルピナがシェリダンを崖下に落としたことを知らない。
 彼は何を考え、彼女は何を考え、ドラクルは何を考えているのか。たとえ同じ集団に属していても個々の思惑は別々だ。ロゼウスたちはどうするべきかわからなくなる。
 考えろ。最悪なのは、ここでロゼウスもシェリダンも捕まること。しかしその最悪の可能性だけはデメテルが回避してくれた。
 ロゼウスが捕まっても、シェリダンが自由であれば道はある。
「……ドラクルのもとに向かうのは、俺一人では駄目なのか?」
「連れて来いと命ぜられたのはあなた一人ですが、そこの者たちを残しておけばどうせ邪魔立てしてくれるでしょう。シェリダン王に関しては見つけ次第殺せと言われておりますが、その部下に関しては何も。ですからここで殺していくか、殿下が望めば共に王城に捕虜として向かっていただくことになります」
 ロゼウスに選択の余地はない。
「では、彼らも共に。殺す事は許さない」
「かしこまりました」
アウグストの命により、エチエンヌたちに縄が打たれようとする。
 しかしそれを、突如として周囲を覆った煙幕が阻んだ。
「何だこれは!?」
 アウグスト隊が叫びを上げて煙から顔を庇う。魔力を含ませた煙は、術者が攻撃したい相手だけを攻撃するというものだ。
 魔術の専門家であるプロセルピナが一緒にいる以上、こんなものは目晦ましに過ぎない。しかしアウグストたちが煙に苦しんでいる一瞬の隙に、驚いているロゼウスの手を誰かが引いた。
「向こうへ! 荊が茂っているから馬では追って来れないわ!」
 凛とした声音でいいつける、その人をロゼウスは知っている。煙の隙間から新たな敵の姿を見て、アウグストも困惑の叫びをあげた。
「ルース殿下!? 何故!」
 ロゼウスは彼女の言葉どおり荊の森へと向かいながら、ローラやエチエンヌを囲んでいた兵士たちも片付ける。
「とにかくあっちへ!」
 何が起こったのかよくわからないながら、一行はルースに導かれるままローゼンティア軍からの逃亡を開始した。