荊の墓標 39

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「う……」
 硬い地面と土の匂いを頬に感じ、呻きながらハデスは身を起こした。
「な、なんで……」
 頭上を仰げば鬱蒼と木々の葉が生い茂っている。ひらひらと花びらのように木の葉が舞い落ちる。体の下に無惨に折れた枝が転がっていた。どうやら崖から落ちた際に、あの木の枝葉の茂みをクッションにしたらしい。
もちろんこの崖の高さだ。それだけではこんな軽傷では済むまい。ずきずきと痛む右足首を庇いながらハデスは思った。先程の魔術によってここへと落とされた際に、死なないような手加減もされていたのだと。
「プロセルピナ……」
 違う、あの時の彼女の表情は。
「姉さん……」
 プロセルピナの顔で笑ったのは、確かに彼が殺したはずの姉、デメテルであった。
「もう、何がなんだかわからないよ……」
 何故、プロセルピナの身体にデメテルの魂があるのか。確実に殺したはずなのに。これまでの感情がないような挙動は全て演技だったのか? 遺伝的には娘であるはずの少女の中身は姉。
 もはや、悲しむべきか喜ぶべきかわからない。殺し損ねたことを嘆けばいいのか、それとも彼女が生きていたことに安堵すればいいのか。
 ハデスは額を抱えて蹲る。落下の際に無傷とはいかず、痛めた足首。折れてはいないが、挫いたようだ。治癒の魔術をかけるが、痛みはすぐには引かない。
「ぅ……」
 小さな呻き声が聞こえた。
「っ、シェリダン!」
 少し離れた場所で乱れていた藍色の髪を目にしてその正体を知る。ハデスと一緒に、彼と戦っていたシェリダンも同じように崖下へと落とされたのだ。
「生き……てる」
 声が聞こえたのだから当然なのだが、眉を歪めて苦しげな表情を作った彼の様子にハデスは思わずそう呟いた。シェリダンはまだ意識を取り戻さないようで、硬く瞼を瞑ったままだ。彼の剣は別の場所に放り出されている。
 ハデスはまだ魔術の馴染まない、痛みの残る足を引きずって、彼のもとへと歩み寄った。
 少年らしさの残る薄い胸は上下し、唇はちゃんと呼吸を繰り返している。
 また先程のようにハデスは一方で安堵し、もう一方でそんな自分に違和感を覚えた。
 ついさっきまで、殺そうとしていた相手だ。
 こうして無事を確かめて安堵するなんて馬鹿げている。理性はそう考えるのに、心がそれを受け入れない。
 手を伸ばし、シェリダンの首を軽く掴んだ。力を込めずに首筋を押さえ、今にも絞め殺せるようにする。
 親指の下で感じる脈拍。確かに生きている。今なら殺せる。今この瞬間にシェリダンが目を覚ましたとしても、仰向けに寝ている彼に馬乗りになったハデスを、首を絞められながら振り払うほどの力はさすがにないはずだ。
 ここでシェリダンを殺せば、運命はまた覆る。シェリダンを自分の手にかける事がロゼウスが皇帝に即位するための絶対必要条件だというのならば、その前に彼が殺されてしまえばロゼウスが皇帝になるという未来ごと潰せる。望みのない、真っ暗な明日を変えられる。
 だけれど、ハデスの手からは力が抜けていく。
 そして透明な雫が頬を伝って彼が覗き込むシェリダンの頬に落ちた。
「ぅ……ハ、デス?」
 目を覚ましたシェリダンが見たものは、立ち上がり袖で涙を拭っているかつての友人。だが、シェリダン自身の頬も濡れている。目元は乾いているからシェリダン自身が意識を失っている際に自分で涙を流したわけではない。それだけで彼は、自分が倒れている間何があったのかを察した。
「痛……!」
 身を起こしたシェリダンから離れようと動いたハデスが、足首を押さえて動きを止める。
「どうした?」
「足が……」
「落ちたときに挫いたのか? そもそも、よくあの高さから落ちて私たちは無事だったな」
 プロセルピナの魔術によることをハデスはシェリダンに伝え、そしてこれからどうするかを話し合うことになる。
「こうなったら、一度協定を結ばないか? 私にしろお前にしろ、自分一人では上に戻れないだろう?」
「見くびるなよ。それとも馬鹿にしているのか? 僕一人なら、魔術ですぐに戻れるに決まってるだろ!」
「ふぅん。そしてまたすぐにあの娘に落とされてくるのか? それはいくらなんでも馬鹿らしくないか?」
「……」
 結局、ハデスはシェリダンの言う事を聞いて、一度二人で元の場所へと戻ることになった。元の場所に固執するというよりも、むしろシェリダンにとっては仲間のところというべきだがそれがローゼンティア軍の襲撃により変更されているなど崖下の彼らは知るよしもない。
 まだ治りきらない足首が痛むというハデスを、シェリダンはしょうがないな、と言う風にひょいと背負いあげる。所謂おんぶの姿勢である。
「なっ……! お、下ろしてよ!」
「無理をするな。動けないんだろう? 心配せずともちゃんと治ったらこちらから放り出してやるから」
 角度にして直角の断崖絶壁を身長の二十倍以上登れるような技術は二人にはない。シェリダンはハデスを背負い、崖沿いの道なき道を歩き出した。どこかで坂になっている箇所を見つけ出し段々と上に登らなければならない。面倒だ。
 彼に背負われているハデスはハデスで、気まずい思いをするばかりだ。先程まで殺そうとしていた相手に、何故自分は背負われていたりするのだろう。もはや情けないという言葉などでは語りつくせない。
 だが、安心する。
 シェリダンの背に背負われ、その背中に身体を預け、肩口に額を押し当て、暖かな体温を感じる事は彼を酷く安心させる。まるで幼子に返ったように。
 物心がつかないような小さい頃はよくこうして姉の背に背負われていた。あの頃は唯一、無邪気に甘えていられた。今となってはもう夢物語だ。第一、外見年齢十六、実年齢は百歳近い男がこんな風に誰かの背に負われることを望むなど間違っているだろう。
 それでもこの体温は安心する。先程他の誰でもない自分の手で消しかけた体温。崖の上での戦いだけでなく、崖下に落ちてまだ目を覚ます前のシェリダンさえもハデスは殺そうとしたのだ。
 それなのに。
「……で」
「ん?」
「……ないで、死なないで、シェリダン」
「ハデス……」
 肩口に顔を埋めて呟いた。シェリダンが微かに首を動かしても俯いたハデスの黒髪しか見えない。
「死なないで」
 殺そうとして、死ねばいいと思って、駒として利用して、だが生きていて欲しかった。矛盾している。
 いつの間にかロゼウスを陥れるための駒の一つではなくシェリダン自身をハデスは必要としていた。それが叶わないことを知っているから、理不尽な癇癪を起した。
 しかし今、死んだはずのデメテルがプロセルピナとして蘇ったり、己の腕から選定紋章印が消えたりして改めて思う。
 自分が欲しかったのは、こんなものではない。皇帝の座なんて、本当はどうでもよかった。赤い痣のような選定紋章印はただそこにあるだけで、痛みも何もない。だが、あれは重荷だった。ずっとあの刻印はハデスにとって何より重たいものだった。
 めぐらせた思惑の幾つかが叶い、幾つかが裏切り、幾つかが立ち消えて、そして今思う。
 失いたくない。
 定めに踊らされてこれ以上何も失いたくない。
 シェリダンに死んでほしくない。
「すまない、ハデス」
 だが君はやっぱり選ぶのだろう。最後にはロゼウスに殺されるその道を。この世の誰も彼を止めることはできない。たとえ彼の愛するロゼウス自身さえ。シェリダン=エヴェルシードは自由だ。
「どうして、だよ。どうしてあんな奴がいいんだ。どうして!」
 顔を上げないまま問いかける。顔を埋めたシェリダンの肩が濡れる。ロゼウスなんかのためにお前が死ぬ事はない。何故、とまた繰り返し問いかけた。
「ハデス、私は――」
 彼の口から初めて聞いた、その本当の気持ち。
 なんでそんなことを言うのかわからない。やっぱりお前は馬鹿だとハデスは彼を罵った。怒るでもなくシェリダンはそれを受けとめる。
 ふいに、道の先から誰かが近づいてくる気配がした。
「……誰だ?」
暗い森の中をランタンを持って歩く、それは華奢でか弱げな一人の少女だった。雰囲気がどうも鋭くなく、二人は最初、それがただの村娘かと思ったくらいだ。しかしその認識は次の彼女の名乗りで一変する。
「シェリダン王、それに、帝国宰相閣下ですね。わたくしはローゼンティア第五王女、メアリー=ローゼンティア」
 ロゼウスの妹の一人だ。何故こんなところで?
「あなた方を迎えに来ました。ロゼウスお兄様と引き合わせて差し上げます。わたくしについてきていただけませんか?」
 メアリーの思いがけない言葉に、二人は顔を見合わせた。

 《続く》