第17章 虚無の覇帝(1)
224
深い樹海に抱かれた魔族の国、ローゼンティア。
街の景色は、華やかとは言えないがとにかく派手だ。街の家々は赤煉瓦を積み上げているために、どこもかしこも赤い。だいたいどこの家でも薔薇を育てている。
その紅い街並みにあって一際人目を引くものは、これもまた目に鮮やか過ぎるほどに鮮やかな漆黒の王城だった。
ローゼンティア城。国王の絶対王政による伝統的な支配体制が確立しているローゼンティアでは、貴族は城を持つ事は許されない。ローゼンティア国内に存在する城は王城ただ一つである。
王城には王が住んでいる。
ローゼンティア国王。建国者ロザリア=ローゼンティアの血を重んじて代々正統なる血を引く王子王女しか王位を継がなかったその歴史と伝統。
しかし今、その伝統は破られようとしている。
ローゼンティア五代目国王、ドラクル=ヴラディスラフによって。
薔薇の国は簒奪者の手に落ちた。争いの中で埋もれていく真実も。
果たしてこの国のいかほどの人が、自らの王国の真実を知るのであろうか……。
◆◆◆◆◆
「連絡はちゃんと行ったようね。ドラクル王」
アウグストが兵士を引き連れてやってきたときからそれはわかっていたのだが、プロセルピナ――デメテルはあえて国王の前でそう言った。
「ああ。そうだ。使い魔をお返ししよう。デメテル陛下」
「今はプロセルピナと呼んでちょうだい」
「これは失礼した」
ハデスによって作られた偽りにして仮初めにしてこの後彼女が死するその時までの器となる宿体の胸に手をあて、プロセルピナはそう言った。
今の彼女はあくまでもプロセルピナであってデメテルではない。普通の人間はそう容易く自らの存在を示す「名前」を変える事は好まないが、デメテルは違った。
大地皇帝として、そして嫌いだったとはいえ彼女の両親の娘として、ハデスの姉として生きてきた人生の全てを捨てる。その覚悟でもって彼女はあえてデメテルではなく、プロセルピナと名乗る。
自らの身勝手で本来であれば崩御のその時まで捨てること叶わない「皇帝デメテル」の存在を捨てたのだ。民衆から為政者を奪っておいて、自分の人生は自分のものだなどと叫ぶつもりはない。
デメテルは歴代の皇帝の中では間違いなく優秀な部類に入る。その彼女が崩御した意味は大きい。
殺害の実行犯はハデスとはいえ思惑から言って自ら皇帝の座を捨てたデメテルは本来廃帝と呼ばれるはずだが、そのような話はまだ帝国には流布していない。
「我が望みに協力していただけるのはありがたいが、そちらはよろしいのですか? 皇帝陛下。次の皇帝が決まらねば、世界は混乱に陥る」
今現在ロゼウスを巡る問題に関わる者たちの中で、他の者が知っていてドラクルの一派が知らない事実が一つだけある。
「ええ。大丈夫よ。それに関しては問題ないわ」
それは彼が望む弟ロゼウスが、次代皇帝であること。
真実をいまだ知らぬままに、ドラクルはあらゆる手を使い、計画を進める。ロゼウスを手に入れるために。
「ドラクル王? 王の座に着いたとはいえ、あなたにはあなたの望みがあるでしょう。そしてそれはまだ叶っていない。そして私にも私の望みがあるわ。それを叶えるために、私はあなたを利用するわ。だから、あなたもあなたのできる範囲で私を利用しなさい。ローゼンティア王」
「協力してくださるのではないのですか? 私のささやかながらの助力も必要ないと?」
「人が本当に自分ひとりで成せることなどたかが知れているわ。だからと言って、疑うことを知らずにただ人の言う事を鵜呑みにして生きるのもまた愚か。私は私自身が愚かにならないためにこの世界の全てのものを疑って生きるし、自分以外誰も信用しない。ましてや私の家族でも友人でもなくただ目的のために手を組んだ共犯者でしかない貴方相手なら尚更のことよ、ドラクル王」
「それはごもっとも」
プロセルピナの言葉に、ドラクルは肩を竦める。やりづらい相手だ、と彼は思った。
帝国宰相ハデスやセルヴォルファス王ヴィルヘルム、エヴェルシード王妹カミラやイスカリット伯爵ジュダなどと違って、彼はプロセルピナとなる前のデメテルとはほとんど顔を合わせたことはなかった。常に書簡のやりとりに任せ、どうしてもの時だけ顔を合わせて連絡をとる。そのためドラクルも、彼女については深いことを知らない。
いけない遊びに耽る悪い仲間の一人であったハデス、弱味につけこんで甘い顔を見せれば扱いやすかったカミラやヴィルヘルムと違い、プロセルピナは一見穏やかなようでいて隙がない。イスカリオット伯爵ジュダも飄々とした雰囲気の人物だったが、彼は根が真面目で元は誠実な人間だったために挫折も早かった。その根底はドラクルに通じるところもあったので、彼の歪みはドラクルとしては理解しやすかったのだが。
目の前の女――否、今は少女としか呼べないような姿になった元皇帝はとてもわかりにくい。
「何はともあれ、これで私も自由にこちらで動けるようになったわけだし、そろそろ本格的に動き出しましょうか」
「動くも何も、イスカリット伯が抜け、ヴィルが死に、カミラ女王が即位し、計画としては大詰めなわけですがね」
デメテルは当初、皇位簒奪を狙うハデスの姉として問題の渦中にいながらその姿をはっきりとは見せない影の人物であった。彼女がその存在を主張し始めたのはエヴェルシードを訪れてからであり、初めは彼女が何を考えているのか、誰も掴むことができなかった。つまり、帝国最強の力を有するはずの皇帝はどの陣営につくのかが。
ドラクルたちに対してもロゼウスとシェリダンに対しても敵とも味方ともつかぬ態度を取り続けた皇帝は、しかし事態が進むに連れてようやく自らの姿勢を見せ始めた。それは、ロゼウスの中に眠る始皇帝候補だった男、シェスラートの存在に関わること。
かといって彼女の目的がそれだけか? と言われればここでまたしても否やを唱えねばならない。現にドラクルは、シェスラートやロゼッテに関わることは知らない。彼がロゼウスの中で蘇りかけたなどと。
そしてプロセルピナも、今となってはそれを知らせない。「皇帝」にまつわることは確かに世界を治めていた彼女の管轄だが、プロセルピナ自身が今になっても動く理由はそれだけではない。
「そうね。事態は終わりに近づいているわ。皇暦三〇〇三年、この一年は激動の時代よ。それも後の世には、恐らく決して残らないでしょう波乱の裏歴史」
プロセルピナが歌うように呟く。彼女も弟であるハデスと同じく、多少は予言の力を持っている。
その能力で見る未来、それは決して幸せなものばかりではない。中途半端に真実を知り、結末を知らずにいる問題もある。
未来を見る事ができるというのは、幸せなことだろうか。
ある者は言う。幸せだと未来がわかるからこそ防ぎようがある不幸もあるのだと。だが、それがわかっていても絶対に防ぐことのできない災いがこの世にあったらどうするのだろう。
未来を見ることによって、人は限界を知ってしまう。知る事が幸福に繋がるとは限らない。知らない方が想像に余地が生まれ、希望に可能性を生む。
例えばプロセルピナは、目の前の青年王の最期も予言の力によって知っている。
だが、それを本人であるドラクル自身に言うことはない。知らせてしまえば、それがドラクルの生存可能性と本当に粉微塵に砕くのだ。
足掻くために生きているのか、生きているから足掻くのか。
「イスカリオット伯はシェリダン王を諦め、ヴィルヘルム王はロゼウス王子を手に入れようとして殺された。カミラ姫は女王となり、そしてハデスは《私》を殺害した」
ローゼンティアとエヴェルシード、そして皇帝。その問題に関わる彼らは本来自分が手に入れたいものを手に入れるために一時的に手を組んだに過ぎない。笑顔の裏にもあらわなその心の傷口を集いの旗印として。
だが、その大半はすでに抜けた。望みが叶った者もいれば、叶わなかった者もいる。未来はやはり人の思うようにはいかないものなのだ。
「私はまだ動くわよ。本当に欲しいものはまだ手に入っていないからね。ドラクル王、あなたもそうでしょう」
「ええ。私はロゼウスをこの手に入れない限り復讐が完成されない」
中でも諦め悪く活動し続ける簒奪の王と元皇帝は視線を交わす。セルヴォルファスの滅亡にエヴェルシードの安定、デメテルの崩御。刻一刻と変わる世界の中で自らの願いに最短の道を模索し続ける。
「ところで――」
客分であるプロセルピナの手前戻って来た者たちにいの一番に聞く事はできなかったことを、ドラクルはここでようやく口にした。
「ルースはどうした? カルデール公爵」
「それが……」
部屋の隅に控えていたアウグストが語り始めた。