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「あっちよ」
分かれ道に来るたびにそう告げられる声に従い、国境の森を走り続けた。
自分の手を引いている白い手をロゼウスは声もなく見つめる。自分とそう身長の変わらない姉は、振り返らずに一行をただ先へ先へと案内した。
緑が濃すぎて黒に近く見える木々の間を抜け、足下に這うが彼らが通る際には勝手に蠢いて道を開ける荊の森を過ぎる。この荊はローゼンティアのヴァンピルだけを無傷で通すから、一行はルース、ロゼウス、ジャスパー次に他国人であるリチャード、ローラ、エチエンヌ、最後尾にロザリーとアンリの二人という順番で通り抜けた。
森の中に隠れ家的な小さな屋敷が見えてきた。小さくとも屋敷と言うのだから粗末な小屋ではない。ロゼウスにとっては知らない場所だ。
だが他の面々にとっては違ったらしい。
「あれは……」
「どうかした?」
「あの屋敷、日和見の屋敷に似ているわ」
ロザリーが声をあげた。アンリも不思議そうな顔をしている。
その疑問に答えたのは、一行の先頭を走っているルースだ。
「ええ。そうよ。あれは彼の持ち物の一つだから。私も彼とは異母兄弟の一人。生前に貸してもらったのよ」
「生前?」
ロゼウスは怪訝な声をあげるが、ルースは答えない。
日和見。そう名乗る愉快だが不審な貴族に、ロゼウスはドラクルを介して何度か会った事がある。
「あの人は、死んだのか?」
「ええ」
「……」
ロゼウスの言葉にルースは頷いた。最後尾のロザリーとアンリは、何故か沈痛な表情で押し黙る。
「着いたわよ」
喋っている間も足は止めない。視界に入ってきた屋敷の門前に到着したのはそれからすぐのことだった。
「ここ一月ほど手入れはされていないから。少し埃っぽいかもしれないけれど」
そう言って屋敷の中へと案内するルースについて、一行は応接間へと案内された。
セルヴォルファスにいたロゼウスやジャスパー、その頃は皇帝領を目指していたリチャードたちと違い、ロザリーとアンリはこの屋敷の元の持ち主である日和見と名乗る風変わりな男に助けられたことがある。複雑な思いでかつて見た館とよく似た屋敷の中を歩いた。
侍女などは置いていないらしく、応接間に呼び入れた彼らに対し、ルースは手ずからお茶を淹れて振舞う。手伝うでもなくしばらくじっとその姿を眺めていたロゼウスに、姉姫はそっと笑みを含んだ声で言う。
「どうぞ。毒なんて入れてないわよ」
その言葉に、ロゼウスと同じように彼女を警戒の眼差しで見ていたリチャードやローラがぴくりと肩を揺らす。ロザリーやアンリはそこまでルースを疑ってはいなかったようで、ぎょっと目を見開いていた。
「うん、知ってる。何もおかしなことはしてないのは、見てたから。ルース姉様、でも」
底知れない笑みを浮かべる姉を、これまでずっと姉だと信じていた女性を前にしてロゼウスは言葉こそ惑いながら、躊躇うことなく口を開く。
「あなたは何を考えているんですか? どうして俺たちを助けたんだ?」
ルース=ノスフェル=ローゼンティア。ローゼンティア王国第二王女。
しかしそれは過去にそう思われていた際の称号であって、真実は違った。彼女は兄ドラクルと同じくブラムス王の弟ヴラディスラフ大公の娘であり、そしてロゼウスの母親たるノスフェル家の正妃クローディアの娘でもある。
ドラクルを異母兄に、ロゼウスを異父弟に持つ。ルースはあらゆる兄弟姉妹の中で、実は最も何を考えているのか掴みがたく、警戒に値する人物かもしれない。ロゼウスには半分だけ繋がった血のせいでますますそう感じられる。自分の異父姉であるこの姉は侮れない。
「何を、と言われても、そんなことを聞かれて話す私だと思って?」
「話してくださらなければ、俺たちはここであなたを倒してでもすぐに出立しなければならない」
「ロゼウス!?」
過激な発言に驚いたのはアンリとロザリーだ。しかしローラやエチエンヌたちは納得している。このルース姫はドラクル王の腹心なのだ。一度助けられた程度で簡単に信用する事はできない。
「酷いわね。カルデール公爵の部隊から助けてあげたのに」
「兄様……ドラクル王の側近であるあなたなら、命令が出されたその現場にもいたでしょうに、それを取り消す事はしてくださらないのですね」
「それはそうよ。私だって、表立ってドラクルに逆らうわけにはいかない。慎重に物事を進めねば」
「その物事とは、どんな事なのですか?」
敵意を込めた眼差しで、リチャードが彼女を睨みつける。
「確かヴァートレイト城でのことは、もともとあなたがかの城へと向かうように仕向けたのでは? そしてロゼウス様はドラクル王子に会った」
リチャードが持ち出したのは、エヴェルシード勢の彼らとルースの初めての出会いだ。王城シアンスレイトに突如としてやってきたルースは、エルジェーベトが治めるバートリ地方の城にロゼウスの姉であるミザリーと弟であるミカエラが囚われていることを告げに来た。
ロゼウスは唇を噛み締める。ミザリーもミカエラも、もうこの世にいない。
あの時、ルースの言葉に従って出向いたその城には、確かにミザリーとミカエラがいた。しかしその城でまた、ロゼウスはドラクルと再会したのだ。これが偶然であるはずがない。
「あ……」
アンリは怪訝な顔をしているが、リチャードと同じくあの時のルースの訪問を覚えているロザリーはハッとする。確かに、あの時のヴァートレイト城でのドラクルとの出来事からロゼウスとシェリダンの迷走が始まったのだ。直接現場にいたわけではないが、話には聞いて知っている。何より、ヴァートレイト城から戻ってきてからのシェリダンは酷い荒れようだった。
「あなたは一体何を企んでいるのですか?」
崖下に落ちた主であるシェリダンの安否を気にしているためか、リチャードの瞳は鋭く、全身には殺気を漲らせている。ルースがここで下手な返答をしようものならば、すぐにでも襲いかかりそうだ。
そしてそれはローラとエチエンヌも同じ事である。双子は自らの懐から、その特殊な得物を取り出す。
ロゼウスはそれを見ながらも微動だにしない。止める気配はない。
ジャスパーも同じように動揺からは遠く、ロザリーとアンリだけがおろおろとしている。
「――そこまで疑われてしまっては仕方がないわね」
ルースが観念したかのように、ふうと溜め息をつく。リチャードたちは本性を表わすのではないか? と身構えたが、ルースにはこちらを攻撃する気配はなかった。
「確かに私は、様々なことを企んでいるわ。あなたたちに対しても、ドラクルに対しても」
「ドラクルに対しても……」
それがこの現状だと言う事か。一見ドラクルの言う事に何一つ逆らうことのない腹心に見えるルースだが、彼の命令でロゼウスを捕らえに来たアウグストを振り切っている。
「私には欲しいものがある。それを得るためには、いろいろと工作をしなければならないの」
「ルース姉様、あなたは一人で動いているのですか? 他の者たちは大体が手を組み配下を持って動いているというのに」
「ええ。だって、私の行動理由は私にしかわからないものだもの。説得できない部下を何人持っても意味はないわ」
「あなたは一体……」
「ねぇ、ロゼウス、デメテル陛下がああなった以上、あなたが次の皇帝になるのでしょう?」
「!」
突然の話題の転換に、ロゼウスも今度は身構えた。
「何故それを。ルース姉様、まさかあなたが本当に手を組んでいる相手はハデス?」
「違うわ」
「ならばどうして! この世界で国と国を争う出来事に一人で首を突っ込むなど正気の沙汰じゃない! ある程度の道標がなければ、そんなのは無謀で無意味だ」
ドラクルには彼自身が独自に作り上げた権力とアウグストなどの配下と言った力がある。カミラもそうだ。彼女の基盤がエヴェルシードにあった。イスカリオット伯爵であるジュダも。プロセルピナの目的はまだわからないがデメテルには皇帝としての権力があったし、ハデスには予言があった。
だが、ルースには何もない。しかし何の力もない自分をそのまま争いの渦に投じるほど彼女が無謀でないこともロゼウスは知っている。
「あなたの切り札は、何?」
ふふふ、と彼女は笑う。
「ハデス卿と同じもの」
「え?」
何故いきなりここでよりにもよって、本来ならローゼンティアともエヴェルシードとも関係のない彼の名前が出るのか。この場で出てくるのには相応しくない名に思えた。いや、だが彼女がハデスと手を組んでいるのだとすれば……
「先に言っておくけれど、私はハデス卿とは無関係よ。帝国宰相閣下とは何の関係もない。私は自分の力で未来を見るの」
「それはどういう……」
「まだわからない?」
ルースは小さく小首を傾げて、全員の顔を見回した。
「巫女なのよ、私は」
「え?」
◆◆◆◆◆
「巫女……」
ルースの言葉を、ロゼウスは小さく反芻する。
巫女と言えば、思い当たる名が一つだけあった。その人物が生きた時代は、かの始皇帝シェスラート=エヴェルシードの時代と重なる。
始皇帝、シェスラート=エヴェルシードは人間の身でありながら三百年以上生きたという伝説の人物だ。
御伽噺に近いような帝国建国神話だが、それは事実として考えられている。そして一部の者たちは、それが「事実」だと知っている。
だが補足するのであれば、現在シェスラート=エヴェルシードと呼ばれる男はもともとその名前ではなかった。始皇帝、元の名を、ロゼッテ=エヴェルシードという。
彼の即位を助けた人物として、側近のソード=リヒベルクやその妻フィリシア程にも知られていない、一つの名が帝国史の片隅に残っている。
ロゼッテ=ローゼンティア。元の名をシェスラート=ローゼンティア。名を見てわかるとおり、始皇帝のシェスラート=エヴェルシードの名は彼と交換したものだ。
そのローゼンティアの妻は、夫よりもはっきりと帝国史に刻まれている。彼女は始皇帝を好いてはいなかったが、始皇帝の治世のものとで彼女に与えられた役目は十分果した。
サライ=ローゼンティアはロゼッテ=ローゼンティア、もとのシェスラート=ローゼンティアの妻であり、始皇帝に仕えた「予言の巫女姫」である。
「巫女ってまさか、サライ=ローゼンティアの――」
「ええ。そうよ。私は遠い遠いご先祖様であるサライ姫の能力である、《予言》の力を持っているわ」
呆然とするロゼウスに、ルースはこともなげに答えた。アンリが必死に頭を捻り、ロザリーも口元に手を当てて考え込んでいる。
「サライ? サライってあの……」
ロゼウス自身は当人でありながら蚊帳の外状態であったあのシェスラート復活の際、ロザリーやアンリはシェリダンたちと共にサライの幽霊に直接会っている。夫であったシェスラート=ローゼンティアの魂の孤独を慰めるためだけに現世に残っていた彼女は、美しいウィスタリア人の少女姿だった。
魔術は今でこそ黒の末裔の専売特許のように言われているが、実際はそんなことはない。才能と言うものはそれが発揮されやすい家系や環境というものもあろうが、同じ人間にできて別の一族にまるっきり扱えない能力というのも珍しい。
サライはウィスタリア人でありながら、《予言》の能力を持って生まれた姫だ。そして彼女は同時に、ローゼンティアの建国者の祖であるロザリア=ローゼンティアの祖先、シェスラート=ローゼンティアの妻でもある。それは言うまでもなく、ロゼウスたち現在のローゼンティア王家の祖先でもあるということだ。
「三千年も前の、ローゼンティアができるまで千五百年も前の人の能力が今更現われることなんてあるの? しかもルースは、お父様の子ではないのでしょ?」
「いや、逆に、今だからこその先祖返りなのかもしれないぞ。王家の血だって、ここまで薄くなってしまえばローゼンティアの血を引いているというだけですでに条件は同じ、しかもブラムス王陛下とフィリップ大公閣下は双子の兄弟。それにロゼウスの強さだって、ロゼッテ=ローゼンティアの先祖返りだと言われれば……」
アンリの言うとおり、いくらロゼウスがシェスラートの生まれ変わりだからと言って、通常前世の能力が転生後の身体能力にまで影響することはない。生まれ変わりの人物は魂こそ同じものかもしれないが、その肉体はまったくの別物だ。
しかし、ロゼウスとシェスラートの「強さ」が全くの無関係かと言われれば、そうとも言い切れない面がある。ローゼンティアの血を引くロゼウスは、シェスラートの子孫だ。それが、祖先の血を三千年後の今になって強く継承したということであれば……
ルースの巫女の能力も、サライ=ローゼンティアからの遺伝であるのか。
「信じる、信じないはあなたたちの勝手よ。私はあなたたちに信じてもらわなくても構わないわ」
「姉様」
ルースは得体の知れない笑みを浮かべたまま、逃げる素振りも見せない。この底知れない雰囲気、どこかで感じたことがあると思ったら、ロゼウスはデメテルを思い出した。正確には現在はプロセルピナだが、その彼女もこの姉に通じる雰囲気を持っていた。
「……あなたに巫女の能力が備わっていることは、わかった」
とまれかくまれそれを認めぬことには話が先に進まぬだろうと、ロゼウスはひとまずそう口にする。
「だけど、それとこの行動がどう関係する?俺たちをドラクルから逃がしたら、あなたには不利益なだけだろう。何故、助けたんだ?」
あるいはカルデール公爵アウグストの手から助けたと見せかけて、その実彼女一人の手柄に見せかけてドラクルに自分たちを差し出す気かと、ロゼウスは姉を警戒する。
ルースはにっこりと笑って答えた。
「ここにあなたたちを呼んだのは、頼みごとをするためよ」
「頼みごと?」
「ええ。申し訳ないけれど、私の力ではあなたたちを永遠に匿い続けることなどできないわ。でも、一瞬だけドラクルの目を盗むことはできる。その一瞬を使って、あなたにお願いをしたかった」
ここにいてもどうせすぐに見つかるのか。ロゼウスはルースの言葉を聞きながらも考えをめぐらす。公爵の手先に見つかる前に上手くシェリダンと合流できればいいのだが。しかし次のルースの言葉は、ロゼウスのそんな思考を中断させざるを得ないものだった。
「お願いよ、ロゼウス。ドラクルを殺して」
「――え?」
「ドラクルを殺して」
同じ言葉を淡々と繰り返すルースの顔を、ロゼウスはまじまじと凝視する。いつの間にか常に湛えている笑みを消した姉の表情は真剣そのもので、そこに冗談や嘘を交える気配もない。
ルースは真剣に、ドラクルの死を願っている。
「な、んで……いつも、兄様の側にいた、姉様がそんなこと……」
さしものロゼウスも驚き、大きな瞳をさらに零れそうなほど瞠った。ルースはまた微笑を浮かべ。
「あなたにはきっと、この気持ちはわからないわ。でも覚えておいて。私の願いはただそれだけ」
「兄様の、命」
「そうよ」
言葉が出ないロゼウスを押しのけて、すぐ下の妹の前で口を開いたのはアンリだ。
「ちょっと待て、ルース、この際お前の願い云々は置いておくとして、お前が本当の巫女なら、ドラクルが将来何によって死ぬのか、お前は知っているんじゃないか?」
「ええ。知っているわ」
「だったら、何故そんなことをロゼウスに頼む。運命が決まっているなら」
「この予言の力を持つ者以外は勘違いをしているようだけれど、そういうことではないわ、アンリ。予言は夢に見るだけで現実になるとは限らない。望む未来を得るなら、預言者も自らその運命に関わらねばならないのよ。未来を招くにも、未来を変えるにも」
彼らはハデスのことを思い出した。彼もまた、ルースと同じ《預言者》だ。彼は予言される未来に納得できず、宿命を変えるために自らその渦中へと飛びこんだ。
ルースはどうなのだろう? 彼女は未来を変えたいのか、それとも。
「私は、私が目にした運命を現に招きよせたい」
ハデスは運命を変えるために動き続けた。ルースは、運命をそのままに手繰り寄せようとその邪魔をし続けた。
彼ら預言者の目にだけ映る宿命の未来年譜。今はそのどこら辺に当たるのだろう。
「ドラクルを殺すのは、あなたなのよ。ロゼウス」
だから、ちゃんとあの人を殺してね、と。
虚無の笑みを湛えて彼女は笑った。