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「兄様、俺はもう休むね。だから」
「え? ……ああ、うん。わかった。おやすみ、ロゼ」
アンリは弟の肩に軽く手を置いて、その額に軽く口付ける。ロゼウスは兄の頬に軽くお返しをすると、去り際にメアリーの頭を優しく撫でてから部屋を出て行った。
「ロゼウスお兄様、どうしたのでしょう? みんないるのに」
「ロゼウスは……いろいろあって疲れてるから、休ませてやろう」
ウィルを殺し、ミザリーを救えなかったロゼウス。自らが何かを誰かに仕掛けたわけではないが、望まずともこの問題の渦中にいる彼。ずっと共にいたアンリたちはともかく、メアリーと顔を合わせるのは多少気まずいのだろう。
広い屋敷では一人一室を割り当てられたが、この状況下で一人ゆっくりと休養をとる者も少ない。それぞれのどこかに集まって、今後の話し合いをしている。
アンリの部屋には、ロゼウスとジャスパーを除くローゼンティアの兄妹が集まっていた。つまりはアンリ、ロザリー、メアリーの三人だけなのだが、ずっと消息不明だった妹、メアリーがここにいることは今までとの大きな違いである。
ロゼウスは先程出て行き、ジャスパーは声をかけても動かなかった。エヴェルシードの面々は彼らで集まっている。ルースは夕食の片付けものをしているらしい。召し使いを一人も雇っていないので、誰かがせねばならないことだ。
ロゼウスたちをここに導き、メアリーを動かしてシェリダンたちを連れて来たルースの真意はまだ闇の中だ。彼女の口から出た「ドラクルを殺して」という言葉の意味もまだわからない。何故、ルースが兄であるドラクルの死を願うのか。
「メアリー、お前はこれから一体どうするんだ?」
「わたくし、ですか?」
応接用のテーブルを三人で囲み、まずは情報収集と意見交換と行く。
「そうだ。できれば、王城の中の話も聞かせて欲しい。あそこには今、誰がいて、何をどうしてる?」
「ええと……」
これまではずっとドラクルたちの支配下にあるローゼンティア王城にいたという妹に、詳細を尋ねてみる。しかし。
「ごめんなさい。わたくしはずっと、城の中でも限られた場所にしか行けないよう監視されていて、今回もルースお姉様に言われてようやく出てくることができたんです」
積極的にドラクル側につくでもないメアリーはやはり城内部にしてもさほどの情報を得られる立場ではなかったようだ。それに、今回の彼女の行動はルースの思惑に上手く乗せられている感もある。
「……そのルースの目的は、聞かされてたか?」
「ロゼウスお兄様の助けになること、だとは聞いていました。それがドラクルお兄様に逆らうことだとは、自然と察せられましたし……でも、わたくしは今までのように、みんなで過ごせるようになりたくて……」
ルースに手引きされたとはいえ、今度の行動はメアリー自身の意志であるらしい。気弱な妹は、王城内部のことをアンリの問に従って、次々に述べていく。
「城の中には、主に誰がいる? ドラクル、あと他の兄妹たちは? それから、貴族や大臣たちはどうしてる?」
「ドラクルお兄様と、カルデール公爵がいつも何かお話をされているのは知っています。それから、アンお姉様、ヘンリーお兄様がおります。お二人もわたくしと同じようにほとんど監視下で、自由な行動はとれないようです」
「……あの二人は、ルースほどには信用されてないってことか」
アンリたちからすればアンやヘンリーがドラクルを裏切るとも思えないのだが、本人はそうは思っていないらしい。第一王女アンと第三王子ヘンリーはドラクル側に与したものの、自由を与えられず監視の中にいるという。
「城の中の人間は、ほとんど入れ替えられています。皆、ドラクルお兄様に忠誠を誓う人間のようです。ドラクルお兄様の主だった部下は、先に述べたカルデール公爵を含めて四人。フォレット・カラーシュ伯爵、ダリア・ラナ子爵、ジェイド・クレイヴァ女公爵とカルデール公爵の四人が、お兄様の腹心で国の四方の守りを固めていますわ」
「大公は?」
「え?」
「ヴラディスラフ大公ゆかりの人間はいないか?」
「いいえ。見かけておりません。もしかしたらわたくしの知らないところで連絡をとりあっているのかもしれませんが……アンリお兄様は、ドラクルお兄様が叔父様たちと手を組んで革命を起こしたと思っているのですか」
「ああ。でなければ、こんなにも大掛かりな反乱だ。犠牲が大きすぎる」
ドラクルの行動について、アンリはこれまでも様々な理由を考えていた。アンリの中で、ドラクルのこれまでの印象とこの反乱が合わないからだ。アンリにとってドラクルは尊敬すべき兄で、こんなことをする人物には思えなかった。ロゼウスに対しては時折人が違ったような態度を見せることもあるが、彼はいつだって王太子に相応しい人物だったのだ。
そのドラクルが、こんな自国も隣国も巻き込んだ反乱を起こすだろうか。それも、自らを王族から排斥しようとした父王への復讐などという理由で。
「でも、城の中にはお父様の時代と違って、若い人ばかりがいます」
「本当か? メアリー」
「はい……アンリお兄様が何をお考えかわたくしにはわかりませんが、確かに城の中には若い人ばかりです。今度の革命は、ドラクルお兄様が以前から繋がりを持っていた地下組織の勢力が起こしたそうです」
「そんなことまで、どこで聞いたの? メアリー」
難しい話はお手上げだと、それまで大人しく口を噤んでいたロザリーが一つ違いの妹に尋ねた。メアリーもロザリーと同じく、政治には疎いはずだ。こんな情報、彼女が自力で手に入れたとは思えない。
「え? あ、はい、これはドラクルお兄様から直接」
「直接?」
どういうことだ、とアンリとロザリーは妹の方へ身を乗り出す。
「あ、あの……わたくしを自分の勢力に引き込むための説得だと言って、ドラクルお兄様はよくわたくしのところまで会いに来てくださったんです」
「あのドラクルがぁ?」
皆まで聞かずにロザリーは嫌そうな表情だ。兄妹で一番の身体能力と腕力を誇る第四王女は、ドラクルとそりが合わない。
「……ドラクルお兄様は、わたくしには優しいですよ?」
控えめにメアリーが言うが、ロザリーはますますふてくされたような顔をする。
「それは――」
自分より弱い者にだけ優しいだけでしょ? 言いかけて止める。それではメアリーが無力だと言っているようなものだ。
だがロザリーからしてみれば、それが真実だと思う。彼女は彼女で、ロゼウスやアンリ、このメアリーとは別の面からドラクルを見ている。
ドラクルは確かに優しいのだろう。兄妹の中の誰も彼に敵わなかった頃は、彼はそれなりに優しかった。部下や民にも人気の高い王太子。だがあの兄はロゼウスがその才能の片鱗を見せる頃には、徐々に態度を変えていった。
自分より弱い者にしか優しくできない優しさなど、本当の優しさではない。弱い者より強い者が苦しまないなどと、誰も言えないのだから。
それにドラクルは、弱くても今は亡きミザリーのような者には冷たかった。あの姉は政治や武芸の才能には恵まれずとも、ここぞというところで芯の強い性格をしていたから、そんな部分がドラクルの気にいらなかったのだろう。
つまり彼は、弱く、自分に縋り、隷属する輩が好きなだけなのだ。崇める者がいなければ立てないハリボテの王様なのだ。
ロザリーが兄である彼をそんな風に思うようになったのは、シェリダンと出会ってからだった。これまでなんとなく感じてはいても形にならなかったドラクルへの思いを形にしたのは、シェリダンの生き様を見て。
自ら汚名を着て民衆の投げる石の雨に打たれても堂々と地に立つ彼は、誰一人崇める者がいなくてもそこに在る王だった。
「……ドラクルを、止めないと」
「ロザリー」
「あの人は、王様には向かないわ」
姉のアンのように詩の才能も持ち合わせないロザリーは、自分の思うことを上手く言葉にできない。だが心の奥底から実感としてそう思うのだ。ドラクルに玉座を与えてはならない。
「ロゼウスが王になれるわけではないけれど、だけど、ドラクルは……」
ロザリーは考え込む様子で俯き、アンリは瞳を閉じて物思いに耽る。メアリーは姉と兄の様子におろおろと二人の顔色を窺う。
「革命の王か……」
袂を分かったかつての兄を思い、室内にはしばし沈黙が降りる。
◆◆◆◆◆
ローゼンティアの一行がアンリの部屋で話し合っている頃、シェリダン、リチャード、ローラ、エチエンヌのエヴェルシード勢もこれからの行動について話し合っていた。
場所はリチャードの部屋だ。
「さて、どうしましょうかね」
「ルース姫の胡散臭さは疑いようがないし、あのメアリー姫はそれほど頼りになるお人だとも思えませんし」
ローラとエチエンヌは難しい顔をしている。これまでは主であるシェリダンの意志に従い、彼がエヴェルシードの玉座を再びその手に得るものと信じてその行動を助けてきたが、今のシェリダンはもはや国を追われた身で帰る場所はない。
権力から遠ざかり、一角の財産も失った。その程度で双子とリチャードがシェリダンを見放すわけではないが、行動の果てに得る物がないこの状態で彼に危険なことをさせるのは本意ではない。
いくらシェリダンの実力を信じているとはいえ、危険は彼らの予測を遥かに凌駕してやってくる。つい先程まで、プロセルピナの術によって崖下に落とされて安否不明となっていたシェリダンだ。
それに、アンリたちローゼンティア勢とは違ってエヴェルシードの彼らはこうも思うのだ。
シェリダンはロゼウスにさえ関わらなければ、こんな目に遭う事はないのでは。好き好んで危険な目や辛い目に遭う必要などない。
カミラによって玉座を奪われたことは仕方がないかも知れないが、このままロゼウスと共にいて命まで失う必要などない。
ロゼウスのことがそこまで憎いわけではない。だが、シェリダンとは比べられない。三人に共通する思いはそれだった。
「シェリダン様」
ローラが意を決して声をあげる。
「何だ? ローラ」
「もう止めませんか?」
「何?」
「そろそろ潮時でしょう。もう止めませんか? あの方に関わるのは」
真摯な緑の瞳に見つめられて、シェリダンの炎色の瞳が不思議そうに瞬いた。
「……お前たちは、もうロゼウスと共に行くのは嫌か?」
ローラがあえて伏せたその名を、シェリダンはあえて持ち出した。問題なのはアンリではない、ロザリーではない、一人だけならばジャスパーも無害だ。
気をつけるべきはロゼウス。彼自身が何も望まずとも、その存在が嵐を招く。
ロゼウスさえいなければ、これ以上傷つくこともない――。
だけれど。
「お前たちがもしも私と共に行く事はできないと言うのなら、そう言ってくれて構わないのだぞ?」
「シェリダン様……っ!」
そうではないのだと声をあげようとしたローラの唇を指先で軽く封じ、シェリダンはわかっていると言う風に首を左右に振る。
「お前たちが何を考えてそう言ってくれるのかはわかる。だがもう、私にはロゼウスと離れて生きるという選択肢はない」
それが必ず死につながる道だとしても。語る彼は穏やかに微笑んだ。その瞳の中に三人は覚悟と言うにはあまりにも透明な想いを見る。
「そんなに、あの人が好きなんですか?」
「ローラ」
テーブルに身を乗り出した姉を諫めるようにエチエンヌが彼女の手首を掴んで声をかけるが、ローラは言葉を止めない。
「そんなに、ロゼウス様がお好きですか! ご自分の命より!」
「そうだ」
一瞬の躊躇いもなくシェリダンは頷いた。
「私はあれを愛している。誰よりも、自分自身よりも」
シェリダンはローラが自分を想っていることを知っている。それでいてはっきりとそう告げた。
ローラが傷ついたようにつぶらな緑の瞳を揺らす。けれど良くできた侍女は泣いて駆け出すでもなく、すとんと元通りに椅子に腰を下ろす。
「それがシェリダン様のご意志ならば、私は従います。ローラはあなたの部下です。あなたのためにお使いください」
「エチエンヌもです」
「リチャードも同じです」
シェリダンがロゼウスを求めるのは、どこに利益が発生するでもない極めて個人的なこと。それでも彼ら三人はついていくという。国を追われてこの旅に出てからシェリダンは彼らに給料も払ってはいない。それこそこの旅で彼らが得るものなど何もない。
それでも。
「……ありがとう、お前たち。そしてすまない」
自分が諦めれば問題は早いのだとシェリダンは知っている。
ドラクルの目的はロゼウスでありローゼンティア。カミラが完全に即位した今では、一度利用した隣国であるエヴェルシードに何の興味もないだろう。だがドラクルがロゼウスに敵うわけはない。彼は次代の皇帝なのだから。
全てから手を引き、ロゼウスが皇帝になろうともドラクルが滅びようともハデスやデメテルが死のうともまったく関係ないと生きて行けば事は単純だ。ロゼウスたちヴァンピルは呆れるほどのお人好しだ。シェリダンたちエヴェルシードに一度はローゼンティアを侵略されたにも関わらずそれを盾にシェリダンたちに協力を迫るようなことはなかった。
たぶん、彼らがこの問題から手を引くといえば、ロゼウスたちは受け入れるだろう。
好き好んで他者を巻き込む趣味はないと、優しいのにどこか世界を閉ざし世界から隔絶されている彼らはこの手を離すだろう。
だからこそシェリダンの方が、握ったこの手を離せない。ロゼウスのこともハデスのことも見捨てて見殺しにすれば問題は容易いのに、そうできない。
厄介なのは人の心。十二分にわかっていたはずのそれを今また思い知る。父王を幽閉して即位した時の願望とはまた違うが、今シェリダンが進む道も先は破滅に繋がるばかりだ。
それでもその道を歩く。
「お前たちにもう一度聞こう。抜けるならその機会はこれが最後だぞ。ここからローゼンティア王城へと向かえば、もう生半可なことでは抜け出せない」
これまでにも何人もの死を見送った。ミカエラ、ウィル、ミザリー。エヴェルシードから来た彼らはまだ皆無事だが、これから先、いつ何時何があるかわからない。
「私はお前たちに対して支払えるようなものを何も持っていない。そんな私にお前たちは命を賭けられるというのか?」
得るものはただ想い一つ。形あるものは何一つ手に入らない。だがそれでもいいのかと。
「言ったでしょう、シェリダン様。ローラはあなたにこの命を救われた瞬間から、あなたのモノです。この命をどうお使いになるも、あなたの自由」
例え今この瞬間死を命じられるのであってもついていく。そんな思いでこれまでやって来たのだと。
「私もです、シェリダン様」
リチャードが言葉少なに、だがしっかりと妻の言葉に頷く。
「そうですよ。それにシェリダン様、それ、ちょっと聞くのが遅くないですか? ここまで来ておいて今更あなたを置いて自分たちは手を引くなんて、僕らがそんなことするわけないじゃないですか」
エチエンヌが、双子の姉とはまた違った微笑で笑う。
「ああ。そうだな」
シェリダンもつられたように、くすっと小さく笑みを零した。
今更あんなことを聞くのがふざけているような、それこそここまで何の益もないのにシェリダンについてきてくれた三人。決して明るくはない過去を抱え、それでも懸命に生きている。
ふと、シェリダンは今未来を知りたいような気になった。自分はロゼウスに殺されると随分前から予言されているが、その詳細は誰もわからないと言う。それがどのような状況でもたらされる死かわからない。事故か、それとも何かの理由あってロゼウスが自分を裏切るのか。
もしもそれが事故でなく、何かの理由があってシェリダンだけを狙うものならばそのままこの三人は見逃してもらえないか。そう願う。未来を見ることのできるハデスにでも聞いて、今度そのこともロゼウスに相談してみるべきだろうか。
死にたくない。死なせたくない。殺したくない。
人が生きるのに高尚な理由などないし、人生に敗者も勝者もない。生き物が生まれる意味などどこにもないし、存在価値など誰が証明できるものでもないけれど。
「シェリダン様、私たちはどこまでも、あなたについていきます」
それでも生きたいのだと、生かしたいのだと願ってしまう。
もしかしたら、それがこの世で一番罪深い祈りなのかもしれない。そんな風に思いながらシェリダンは瞳を閉じた。