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挫いた足の痛みは馴染んだ魔術によってすでに消えている。だがその部分が、今も妙に疼く気がするのは何故だろう。
ルースによって強引に割り当てられた部屋の一室に、最重要警戒人物としてハデスは押し込められていた。部屋の広さはそこそこで調度類も揃っていて何不自由ないが、閉じ込められているという閉塞感はそれだけで快適とは言いがたい。
だが今のハデスには、それすらもどうでも良かった。寝台の上に腰掛け、行儀悪く片足だけ寝台の縁に立ててそれを抱えるように座り込む。眠るように目を閉じている。白い瞼に影が落ちる。
床に伸ばしたもう片方の足は何ともない。でも抱え込んだ方の、崖から落ちて一度挫いた足がどうにも疼く。
このままこの部屋に幻の痛みを発する無傷の足を抱えて緩く閉じ込められていれば、もう何も行動しなくてすむ。
予言で見た未来を招くことも、それに逆らうことも。
もともと、デメテルの一存によって作成されたハデスと言う人間の存在は姉である彼女を失えばこの世界のどこにも帰属しない。このまま柵のないまま、命の終わりまでまどろんでいることだって可能だ。目を閉じて耳を塞ぎ、何も気にせず何も考えず眠りたい。
その眠りの外で、誰が死んでも構わないというのであれば……。
「!」
ふいに、瞼裏を一つの面影がよぎり、ハデスは瞳を開いた。
崖下で締め殺そうとしたのに、できなかった。彼の死に無関心でいる自信はどうしてもない。
そのすぐ前まで殺し合っていた相手に向かってあっさりと休戦を持ちかけられるその神経。図太いと言えばいいのか、寛容とでも言うのか、それともただの愚かさか。恐らく彼の行動はその全てを内包し、そしてそのどれでもないのだろう。
魔術で癒した傷もすぐには痛みが消えない。病を癒してもその場で病人が全快にはならず、疲労は蓄積されているのだから当たり前だ。身体が痛みを忘れるまでは堪えねばならないそれを、彼はあっさりとハデスから奪いとる。
背負われたその身体に感じた暖かな温もり。自分よりはたくましい武人であるとはいえ、少年らしい薄い背中から感じた心臓の鼓動。
この熱を、この心臓を止めてしまおうとしていたはずなのに、それが与える安らぎに誰よりも縋っていたのも自分だった。
「……殺したくない」
あの時、唇から零れた本音。
「死なせたくない」
死なないで、と縋り付いた。
――ハデス、私は……。
やはり、馬鹿だと思った。あんな男のどこがいいのかと。
シェリダンはハデスから見ても、同性から見ても魅力的な人物だ。別に性的な意味合いを含むわけではなく、人間的に好ましい。
だがハデスには、ロゼウスの魅力とやらはわからない。あんな、大きな物事に流されるだけで自分から一切行動することのない軟弱者のどこにシェリダンは惹かれると言うのか。
彼のために命まで賭けて。
ロゼウスと共に居ることで、シェリダンが得られるものなど何もない。むしろ王の座を失い、王の名を失い、全てを失っていくばかりだ。ロゼウスにさえ執着しなければ巻き込まれることのなかった災難を、彼は好んで引き受けているように見える。
馬鹿だな、と繰り返す。
だが憎めない。嫌えない。平然と己を矢の雨に晒すことができる。その愚かさが何よりも得がたいものに思える。
愚かだと繰り返しながら、その実は彼の一途な愚かさに憧れていた。自分はあんな風に常に堂々としていられない。闇で生きるしかできない立場ではあるが、闇で動くのは人目を気にしなくていいからだ。好んで暗がりを歩いていたのは自分。
憧憬と嫉妬、羨望と不安、そして確かな友愛と。
感じていたのは本当。失いたくない。その存在を。
けれどやはり彼は望んで死地へと訪れるのだろう。その愚かさ故に。
「……僕が言ったって、聞きやしないくせに。本当の我侭は、誰なんだよ」
恨めしげに呟いて再び顔を伏せてしまう。影のかかる視界に二人の人物が繰り返し訪れては去る。
ハデスたちを崖下へ落としたプロセルピナ。その直前に見た表情はまるで彼女のものではなく、姉であるデメテルそのものだった。そのこともできれば確かめたい。
シェリダンと共にメアリーに案内されてこの屋敷に辿り着いたとき、ロゼウスははっきりと「デメテル帝」と口にしていた。いくら顔が似ているとはいえ、ロゼウスが別人を混同するようなややこしい表現を使うことはないだろう。では彼は本当に死んだはずのデメテルのことを口にしたのだ。ハデスが殺したはずのデメテル。
彼女が生きているということ、そしてプロセルピナのあの表情を重ねればわかる。
ハデスがデメテルを殺したと思ったあの瞬間、あの禁術。デメテルはそれを逆手にとって、自らの娘であり姪にあたるプロセルピナの身体を乗っ取ったのだ。彼女ほどの魔術師ならば、そんなことができてもおかしくはない。
なりふり構わないのは、彼女も同じだったということか。皇帝でありハデスの主君でもあるデメテルは次代皇帝であるロゼウスが即位する前に死ぬ運命にある。彼女は彼女で、あの冷静な表情の裏で焦っていたと言うのだろうか。
「姉さん……」
プロセルピナを乗っ取るという形であっても、デメテルが生きていたことについてハデスは何ともいえない感情を覚える。憎悪? 殺意? 脱力感? 悔しさ? だが一番強いのは……安堵なのかもしれない。
これも滑稽としか言いようのない話だが、彼女が死んでいなくて良かったと。
「……馬鹿だ。僕は……僕が一番の馬鹿だ」
目元が熱くなるのを感じ、ハデスは透明な雫が零れる前に手で顔を覆った。渾身の目論見が失敗し、全てが終わったのに何故か哀しいだけではない。それがいっそう惨めだ。
死んでしまえと叫んだその唇で死なないでと囁き、殺したいと願った相手が生きていてこんなにも安堵する。
「僕は一体、どうすれば……」
プロセルピナとデメテルが連動しているのであれば、皇帝と選定者の寿命の呪いはどうなったのか。予言で見た未来の通りならこれから先最後の、最終幕と呼ばれる大決戦があるはずだが、それはどうなるのか。
何より、例えその時が来たとしても、もう自分が一番に望んでいることが何なのかわからない。
わからない自分を、ようやくハデスは認める。
◆◆◆◆◆
夜も更けた。
各々自室で自らの意志を確認していた者、仲間の部屋に集まってお互いの胸の内を確かめていた者たちも、そろそろ寝に入ろうかと言う頃だ。
リチャードの部屋を出て、シェリダンは自室へと戻ろうとする。その廊下に、白くぼんやりと浮き上がる人影を見る。
一瞬ロゼウスかと思った。すぐに違うと気づく。髪が長い。
同じ顔であるロザリーに関してはそんな間違いもないことを考えると、やはり彼らは似ていると言う事だろう。ロゼウスとロザリーの外見の相似以上に、ロゼウスとルースは何かが似ているのだ。
その白皙の面相に浮ぶ、どこか壊れそうに儚い表情が。
「……私に何の用だ」
シェリダンが声をかけると、穏やかな微笑を浮かべて佇んでいたルースが顔を上げた。常に俯きがちな彼女の頬を見事な白銀の髪がさらりと撫で、輝きを散らしていく。
普通の男ならばそれは冬の風に凍える花を掌で覆い隠して守るように何に代えても守らなければと思わせる風情なのだろうが、生憎とシェリダンはその手の常識とは縁がない。彼がルースから感じるのはその外見の美しさをもってしても隠しきれない胡散臭さだ。
単独で彼女と関わるのは、きっと面倒なことになるだろう。メアリーにルースの指示だと説明され、ここまで来る道中もずっと考えていた。ヴァートレイト城へ向かうことになったあの一件からずっとそう思っていたのだが、この場を逃れやすい理由もない。敵前逃亡は性に合わない。
「少し、お話を。ほら、私はあなたには本当の目的を話しているでしょう?」
そもそもの発端となった例の話を蒸し返されて、シェリダンが不機嫌に眉をしかめる。手近な客室の扉を開けて、中へと彼女を招き入り込んだ。屋敷は広く、一行に一室ずつあてがってもまだ空き部屋が半分以上残っている。
もっとも、その分だけ見つかりやすいだろう。こんなところに留まれるのはもって一晩が限度だ。わかっているからこそ今日ぐらいは野宿ではなくまともな寝台で休みたいものだが、この女に捕まってしまってはそうもいかないようだ。
「……お前の本当の目的とは何だ」
「あらいやだ。シェリダン王ともあろうものが、忘れてしまったの?」
応接テーブルの椅子の一つにどっかりと腰を降ろして尋ねたシェリダンに対し、部屋の入り口で扉を塞ぐように立ったルースがまたしても微笑む。
シェリダンに女性に椅子を勧めるような神経がないことは今更だとしても、ルースはルースで気分を害した様子もなく立ったまま話を続ける。
「あなたにだけは本当のところを伝えましたのに」
「本当の目的、な。お前はあの時、自分の狙いはドラクルを退け自分がローゼンティアの王位に着くことだと言っていた。だが先ほどロゼウスたちには、『ドラクルを殺せ』と言ったのだろう」
「ええ。それがどうしたの? 別におかしいことではないでしょう? 私が玉座に着くためには、ドラクルが死んでくれないと」
「嘘だな」
淀みなく紡がれたルースの言葉を、シェリダンははっきりとした口調で否定する。
「お前は確かにその雰囲気と情報量からうまく立ち回っているつもりだろうが、ボロが出始めているぞ。お前の本当の目的は『王位を継ぐこと』だと? そしてそれを私にだけ伝えたと。そこからまず矛盾しているだろうが。ロゼウスたちにもドラクルを殺せと告げておいて私にだけ本当の目的を話した? それならロゼウスたちに話した『ドラクルを殺せ』がまったくの嘘だと言う事になるだろう。だがお前は矛盾しないと言った。それもまた本当であると。では私にだけ真の目的を告げたことにはならないな」
口元に微笑を浮かべたままのルースを睨み上げ、シェリダンは目つきを険しくして問いかける。
「それでは聞かせてもらおうか。今度こそ、お前の本当の目的とやらを」
ルースは動き出した。部屋の入り口から歩き出し、応接テーブルのシェリダンのもとへと向かう。
席には着かず、傍らから顔を覗き込むように接近した。一見して男を誘うような艶かしい仕草で、顔を近づけてくる。襟元を肌蹴るように彼の喉首に絡む白い指。
この距離なら囁き声でも聞こえる。
「嘘をつくコツは、大部分の嘘の中に一握りの真実を盛り込むことだと言うが、お前は配分をしくじったな。本来明かしてはいけないところまで明かしてしまった。これならば、嘘と真実に境があるようでないハデスの方がまだ上だ」
「ええ。そうでしょうね。だってハデス卿は、自らが周囲を騙すためについたはずの嘘をいつの間にか真実にしてしまった方だもの。――愚かなことよ」
これが本当の顔ということか、たかだか一王国の王女、それも薔薇王家の闇が明かされた今では王女ですらないと明らかになったはずのルースは、帝国宰相たるハデスへの侮蔑を隠そうともしない。
吐息が触れるほどに近づき、これまでとは違う種類の毒々しい笑みをはいた紅い唇を目にし、シェリダンは眉をしかめる。
常に浮かべているような透明な感情の読めない微笑ではなく、毒々しい笑みを唇に浮かべ、目元からが優しげな翳りを取り除いたルースのその顔は驚くほどにロゼウスに似ている。
二人は異父姉弟だ。ルースの父はヴラディスラフ大公フィリップ。ロゼウスの父はローゼンティア国王ブラムス。二人の母はクローディア=ノスフェル。
ロゼウスからは、自分は父親似だと聞かされるシェリダンだが、疑問があった。確かにロゼウスとドラクルは似ているが、ブラムス王とはそれほどまで似ているだろうかと。王家は濃い血統を保つローゼンティアであれば王族の血縁は皆それぞれ誰かしらの面影があるものだ。ブラムスとフィリップに関しては一卵性双生児であるというから二人のとこから生まれた子どもたちがどちらの子どもであるのか見分けがつかなくともしょうがない。
周囲からそう言われ続けて思い込みとなっているだけで、本当はロゼウスは父親であるブラムス王ではなく、母であるクローディア妃に似ているのではないか? そんな風に考える。吸血鬼にしては異常に出血や負傷に強いロゼウスのその体質は王家のものというよりも、母方の生家、ノスフェル家の特色が強い。
人は己が見たいものを見るのだ。
ロゼウスとドラクル、二人が瓜二つだと言うそれが誰かの望みに歪められた真実ならばまた、シェリダンもその歪んだ鏡の世界にいるに違いない。
だが彼はそれを己で自覚しているからこそ、鏡像のまやかしに騙されたくはない。
真実はどこだ。
「ルース=ノスフェル=ヴラディスラフ。お前の本当の目的は、ローゼンティアの王位などではないだろう?」
ぴくり、とルースが髪と同じ白銀の眉を動かす。
「どうしてそう思うの? それでは私の目的はドラクルを殺す方だと考えている?」
「ああ。他にも何か隠し事はしているかもしれないが、お前の目的と言う意味ではそれが最も近いのだろう。……ローゼンティアの玉座が欲しいからドラクルを殺すのではない。逆だ。お前はドラクルを確実に殺したいからローゼンティアを滅ぼしたのだろう」
ルースはドラクルの腹心ではあるが、アウグストと違って表立ってドラクルの行動の補佐をするのではない。彼女が言いつけられる仕事はいつもあくまでも直接的な事態の進行には関係がないような小事ばかりだ。
それでも彼女はドラクルのやることをこれまで見逃すことによって、消極的にローゼンティアの滅びとエヴェルシードの侵略に加担してきた。それは他ならぬ彼女自身の意志である。
他の者がどう評価を下すのかは知らないが、少なくともシェリダンの眼にはルースが兄であるドラクルの顔色を伺い、ご機嫌伺いをしなければ生きて来られないような女には見えない。彼女には彼女の目的があって行動しているのであって、何かの罪の意識や崇高な使命などに囚われるようなことがないように思える。
ルースが動く時、それはあくまでも、その行動が彼女の欲望に沿う時。
シェリダンの眼にはそのように映っている。だが真実はどうだろうか。
毒々しい、熟して腐る前の果実の色をした唇が甘い芳香を漂わせながら開く。
「正解よ。シェリダン王、あなたは本当に鋭いのね」
悪戯の見つかった子どものように、ルースが無邪気に笑う。その笑みはもはや狂気を通り越して虚無に近い。彼女はどこを見ているのだろう。
「さすが、始皇帝がその魂をもってしても器を奪うことのできなかった人格だわ」
「お前……」
シェスラートの一件の様子も詳細に知っているらしい態度を見せるルースに、再びシェリダンの警戒心が強まる。
そんなことを露とも気にしない様子で、ルースは彼の額に己のそれを軽く触れ合わせるようにして、更に近い距離でついに本心を明かした。
「そうよ。私の本当の本当の、本当の願いは、ドラクルを殺すこと」
正義など知らぬ、道徳など知らぬ、仁義など知らぬ。この世のあらゆる観念に縛られることのない虚無を統べる者が唯一、執着するその願い。
ドラクルを殺すこと。そのためなら自国を滅ぼすことも、他国を巻き込むことも、実の両親も養父も殺害することを厭わないという精神。
それはともすれば憎しみとまちがえそうなほどに強い、
「お前は、ドラクルを愛しているのか……?」
何も生まず、何にも繋がらない虚無の愛。
「そうよ。私は片親とはいえ血のつながった実の兄にしか恋情を抱けない罪の女」
兄妹である、その、誰よりも近くて遠い絆。血の繋がった家族だからこそ永遠であるのに、だからこそ永遠に結ばれないという絆。
シェリダンの脳裏に、ふっとエヴェルシードで別れてきた妹のことが過ぎる。彼も愛していた、実の妹であるカミラを。だからルースの言葉を世迷言だとは一刀両断に否定できない。
「私はあの人を愛しているの。でも彼は永遠に私のものにはなってくれないの。だから――」
その動揺が、警戒し張り詰めさせていた心の一瞬の隙になった。
「ぐっ!」
喉に這わされていた指が、シェリダンの首をぎりぎりと締め上げる。吸血鬼の握力は桁違いだ。ルースはその細腕とも思えぬ力で、シェリダンの喉首を締め上げる。
「ドラクルが心に呪いをかけられているのはブラムス王。でも彼が愛しているのは、そんなドラクルの理不尽な要求を受け入れて飲み込んだ優しいロゼウス。私を永遠に見てくれないあの人はロゼウスが好きなの。でもロゼウスが愛しているのはあなた。だから」
だから、とまたしてもその言葉で区切られた言葉の続きを、シェリダンは薄れいく意識の中で聞く。
「ロゼウスの愛するあなたを引き裂いてドラクルに献上したら、あの人はどんな顔をしてくれるのかしら?」
好きな人の反応なら私はなんでも見たいのよ、と。
ルースが、その狂気をあらわにした。