荊の墓標 41

第17章 虚無の覇帝(2)

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 見た目はたおやかでもその腕はさすがにヴァンピルだ。ルースの腕はシェリダンが全力を込めてもなかなか外せそうにない。首を絞められてはいるが、両手は自由に動かせるこの状態でこれなのだ。何か方法はないか。
 苦痛に自然と細めてしまう瞳に部屋の中を移し、シェリダンは足掻く。
 まだだ、まだ死なない。自分はまだ死なないはず。
 この身を滅ぼすのはロゼウスなのだから。
「……くッ!」
 先ほどまで身を預けていた黒檀の椅子とテーブルとが目に入る。
 その距離は遠くない。シェリダンは自由になる足に全身の力を込め、ルースの身体を避けるようにして思い切りテーブルを蹴飛ばした。
「どこを狙っているの? そんなもの私には」
 ルースの言葉が終わらぬうちに、テーブルはその向こうの椅子を巻き込んで盛大に倒れる。分厚い絨毯を敷かれた室内にテーブルが倒れるだけならばそれほど派手な音は立たない。だが椅子は窓際の家具をも巻き込み、硝子を叩き割った。
「ッ!」
 この屋敷にいるのは耳のいいヴァンピルたちばかりだ。尋常でない破壊音を聞きつけて、すぐに廊下から足音が迫る。
「シェリダン!」
「どうしたの――……ッ!?」
 真っ先に室内に飛び込んできたのは、同じ顔の兄と妹だった。ロゼウスとロザリーが、それぞれ真剣な表情で部屋の入り口で固まる。
 けれど次の瞬間には、それぞれ行動を起こしていた。
「ルース!?」
 姉の暴挙にロザリーが悲鳴をあげる間に、ロゼウスは走り出してルースに一打を与えようと腕を振り上げている。かわすためにルースがシェリダンの首を両手から離し、軽々とロゼウスの爪を避けた。
「あら酷いわ。ロゼウス。理由も聞かずにこの姉に斬りかかるなんて。私の方が襲われて反撃したとか普通考えない?」
 この期に及んでも本気とも冗談ともとりにくい顔立ちで軽口を叩きながら、ルースがさらりと乱れた裾を直す。
「生憎だけど姉様、この甲斐性なしは男にしか興味がないんだ。二十代の美女は好みの範疇外だと思うから、姉様の色香なんてあるかもわからないものはあてにしない方がいいよ」
 混乱しているのか冷静なのか、こちらも感情を見せにくい顔立ちでロゼウスが毒を返す。
 口にした言葉こそ軽いが、その瞳は険しい。
 油断をせずにちらりと背後に視線をやり、シェリダンの無事を確認する。新鮮な空気を求めて咳き込む他は、シェリダンに怪我はないようだ。
 これで心置きなく戦えるというものだ。姉を睨む瞳は、更に険しくなる。
「……どういうつもり? 姉様、なんでシェリダンを」
 弟に睨まれてもルースは動じず、たった今シェリダンの首を絞めていたとは思えない穏やかな表情でルースは告げる。
「そちらこそ忘れたのかしら。ロゼウス、私はずっとね、ドラクルのものなの」
 そこには束縛や隷属の翳りなどなく、ただただ、一途な思いだけがある。しかしその一途さは病と同じ意味を持ち、永遠に救われない様相をも呈す。
「そしてロゼウス、あなたもドラクルのものなのよ――知っているでしょう」
 幼子に言い聞かせるような口調に、一瞬ロゼウスがたじろぐ。
 偽りの愛で自らを絡め取っていたドラクルの存在はいまだにロゼウスの中で重い位置を占める――けれど。
「それと……シェリダンに危害を加えることがどう繋がるの?」
 ルースが表情から笑みを消した。
「ねぇ、ルース姉様。姉様は一度も俺に、本当のことを話してくれなかった。いつもいつも、哀しそうな目で俺を見るばかりで」
 それが墓標を眺める者の眼だと知ったのはいつだろう。
 彼女はいつから、ロゼウスが荊の墓標たることを知っていたのだろうか。
「今も、あなたが何を考えているかはわからない。でも俺も、自分のことについてならもうわかってる――シェリダンは殺させない」
 他の何に代えてもそれだけは譲れないのだと、ロゼウスは姉姫に向けてはっきりと告げる。
 ルースの唇から冷たい嘲笑が零れた。
「そうして、他の誰にも殺させずにあなたがその人を殺すのね」
 ドラクルのようにシェリダンを憎んでいるような他の誰でもなく、ロゼウスこそがシェリダンを殺すのだと。
「――俺はそんなことはしない!」
「どんなに努力しても流されるから、人はそれを運命と呼ぶのよ」
 ロゼウスの決意を冷めた眼差しで見下ろし、ルースは彼女らしからぬ早口で告げた。
「どんなに望んでも、どんなに願っても手に入らないものはあるでしょう。私はこれでも、一番穏便な方法を取っているのよ。ねぇ、ロゼウス。あなたは間違いなく皇帝になる存在よ。私はそれを止めない。あなたを間違いなく皇帝にしてあげる。でも、だからこそ、世界中の名も知らぬ幾千万人幾億人を救っても今、あなたの側にいる人々は救ってあげない」
 謎めいたルースの言葉に、ロゼウスは眉をあげる。彼女は予言の能力によって人より多くのことを知っているようだが、簡単にはそれを表に出さない。
「ハデス卿に伝えてあげるといいわ。彼がどんなに努力しても運命を変えられなかったのは、あの人のせいではないもの。ハデス卿が未来を捻じ曲げようと努力する裏から、私がその軌道を修正していたから」
 誰にも、それこそドラクルにも知られぬ影でルースは動き続けていたという。
「姉様! 何でそんなことを!」
 ロゼウスがどうしても受けとめられない、自身がシェリダンを殺すという予言。ルースはその運命をむしろ積極的に引き寄せているのだという。
 しかしルースは答えず、ただロゼウスを見つめるばかり。
 そしてぽつりと一言、ロゼウスが初めて聞く彼女の本音を零した。
「私はあなたが羨ましいわ」
 焦がれても焦がれても手の届かない眩しいものを見つめるかのような瞳で見据えられて、ロゼウスは束の間逡巡する。それが彼の隙となった。
「うあっ!」
「ロゼウス!?」
 ルースが懐から小さな布包みを取り出すとそれを床に叩きつけるようにして投げた。勢いよく破裂した包みから銀色の粉が飛び出す。
「これは、銀廃粉!」
 騒ぎを聞き付けたらしくようやく駆けつけてきたアンリたちが、室内の惨状を見て驚く。部屋一面が銀色の粉に包まれている。
 煙幕を張ったルース自身は自らがその煙を吸わないよう注意を払いながら、窓から逃げた。
「メアリー! ジャスパー! お前たちはさがれ!」
 自らも口元を覆いながら、まだ部屋の中に足を踏み入れていない妹弟にアンリが忠告を飛ばす。その彼の横からリチャードが彼を廊下に押しやるようにして進み出た。
「アンリ殿下、あなたも。ロザリー姫たちは我々が」
「すまない……頼む」
 銀廃粉と呼ばれる特殊な煙幕は、人間には無害であっても吸血鬼にとっては必殺の毒だ。濃度によって効き目は調節できるが、大概はヴァンピルの動きを止めるという用法で用いる。
それを浴びて室内で動けなくなったロゼウスとロザリーを救うべく、リチャードとエチエンヌが足を進める。
「ロゼウス! おい、無事か!」
 煙幕の張られた瞬間悲鳴をあげて突っ伏してしまったロザリーを全身で庇いながら、シェリダンはロゼウスの安否をも確かめる。初めに首を絞められた彼を介抱していたのがロザリーなので彼女の方が距離が近かったのだ。だが真正面からどの毒粉を喰らったのはロゼウスの方だ。
 王城にイスカリオット軍が攻めてきた時もそうだったのだが、ロゼウスは普通のヴァンピルよりの身体的に強靭だ。銀廃粉による影響も他の兄妹たちほどには受けない。はずだった。
 ぐらり、とその身体が傾ぐ。
「ロゼウス様!?」
 ルースが逃げた窓が開け放たれて換気はすでに始まっているとはいえ、視界を覆いつくす一面の銀はあの時王城で見たよりも数段濃い。
「ロゼウス!」
 意識を失って倒れこもうとしたロゼウスの身体を、間一髪駆けつけたリチャードが支える。

 ◆◆◆◆◆

 漆黒の居城に堂々と舞い戻る。
 彼女が裏切り者だと言う連絡は行われていないのか、門衛はあっさりとルースを中へと入れた。
 緋の絨毯が敷かれた長い廊下、手摺りのついた長い階段を昇り、王の私室へと向かう。このぐらいの時間ならば、ドラクルはいつもの執務室でも謁見の間でもなくそちらだろう。カルデール公爵アウグスト辺りが一緒にいるかもしれないが、彼ならば別に構わない。
 辿り着いた扉をいつもと同じようにノックすると、内側から入室を許可された。
「おかえり、ルース。我が最愛の妹よ」
 悪戯っぽいようなその声は、彼女が彼のもとを一度離れてロゼウスのもとを訪れたことを気づいている。その上で、事態を面白がっているようだ。
 ドラクルはルースを信用している。それは彼女が信頼に足る人物だからということではなく、共に自国を滅ぼした共犯者だからと言う意味でだ。ドラクルに真実を教えて国を滅ぼす要因になってしまった彼女がドラクルを咎められるはずはないと。
 部屋の中には予想通り、腹心の一人アウグストがいた。ドラクルにとっては珍しいことに閨の相手をさせることのない正規の部下として扱われているアウグストは、手に何かの報告書を持っている。
「……ルース殿下。遅かったですね。これからあなたの裏切りについて、ドラクル様に報告書を提出するところだったのですが」
 彼の仕事を邪魔し、ロゼウスの手を取って消えたルースをアウグストは恨んでいるようだ。嫉妬と憎悪、嫌悪がむき出しの顔で彼女をねめつける。
 アウグストはロゼウスが嫌いなのだそうだ。理由は彼が人形のように美しく感情を滅多に面に出さないから。
 否、ちがう。ロゼウスは「感情」は外に出している。笑うべき場面で笑い、沈むべき場面で綺麗な泣き顔を作りと状況によって使い分ける。ドラクルの指示で長く売春まがいのことをさせられていた彼は、男を銜え込んで喘ぐのも得意だ。ただ、「自分の」感情を面に出さないだけ。
 そしてアウグストはそのロゼウスにそっくりな姉であるルースのことも嫌いなようだ。
「裏切りだなんて。よく言うではないの、敵をだますにはまず味方から、と」
 あくまでもロゼウスを惑わすための行動だったとルースはいい、しかしアウグストはそれを信用しない。
「どうでしょう。あなたにとって、味方とは誰のことですか? 敵とは?」
 なかなかいい質問だ。答えずにルースは胸の内で暗く笑う。
 私の味方は誰もいない。そして敵はこの世界の全てだ。
 そうとは言わずに彼女はまた仮面で笑い、アウグストをさらりとかわす。
「私が、ドラクル以外の王に仕えると思う?」
「……」
 その問にはアウグストも黙らざるを得ない。不思議な話だが彼もルースが裏切っているとは疑えても、彼がドラクル以外を愛するとは思えないようだ。
「それでは、何をしに行っていた? ルース。私がアウグストに与えた命の遂行を妨害した理由を述べてみろ」
 ドラクルが手を差し伸べる。優雅にドレスの裾をさばいたルースがその手を取り口づけ、足下に跪く。
「あなたの最愛の弟を揺さぶりに」
「ほう」
 ルースの言葉に、思ったとおりドラクルは表情を変えた。
「虚言と真実とで彼らを惑わしに行きました。今頃は私の言葉を見極めかね、地団駄を踏みながら考えこんでいる頃でしょう」
「地団駄?」
「ええ。ロゼウスにこれをぶつけてきました。しばらくは動けないはずです」
 ルースは胸元に手を差し入れ、銀廃粉の紙包みを取り出した。超高濃度のそれはもともと、彼女がドラクルの協力を得て調合したものだ。
 《死人返り》の一族と呼ばれるノスフェル家の人間は他の吸血鬼のもつ弱点に耐性がある。陽光や銀、聖水などにどれだけのダメージを受けるかは個人差があるが、ノスフェル家の人間にはほとんど効かないことは実証されている。
 ドラクルはクローディアの息子ではなかったが、ルースは彼女の子だ。そしてロゼウスはノスフェル家のクローディア妃とブラムス王の間に生まれた正当な王子。その身体能力はロザリーとは違った意味で他の追随を許さない。
 しかし、それも人よりは、というだけの話。
 同じ王族、同じノスフェル家の母を持つルースは兄妹の中で最もロゼウスと体質が近い。その彼女が自ら作り上げた銀廃粉の粉は、ロゼウスにも十分に負荷を与えられるものとなっている。
「お前のその反則的な代物か。効果の程は」
「撤退時の煙幕代わりに利用したので結果までは目にしていませんが、至近距離でこれを吸い込んではまず無事ではないでしょう」
「そうか。ではどうする?」
 勝手な行動をした妹姫を特に咎めるでもなく、ドラクルは先を促す。
「アウグストの行動を邪魔したからには、代替案があるのだろう、ルース。そうでなければ、私の命だと知っていてそれに背くはずがない」
 椅子に座ったドラクルが長い指を伸ばし、ルースの顎を掬い取る。
「他に何をしてきた?」
「メアリーを持ち出しました」
「あの子を?」
「ええ。ドラクルはあの子をこちらの陣営に引き込みたいのでしょうけれど、それは無駄でしょう。メアリーは争いごとには向かない性格です。ブラムス王を殺して玉座に着いたあなたには、決して従わない」
「……」
 これまで時間のある限り説得し続けた幼い妹姫への態度に対しあっさりとそう言われて、さすがにドラクルも顔を歪めざるを得ない。
「それで、ロゼウスのもとへ置いてきたと?」
「ええ。こちらで持て余し我等の知らぬ間に手引きされるぐらいなら、向こうで足手まといになってもらう方が策としては上々」
「……そうか」
「アンリとロザリーのことも、このまま見捨てるのでしょう?」
 すぐ下の弟と、自分には懐かない妹の名にこれもドラクルは顔をしかめる。しかし次には、不思議そうに尋ねた。
「ルース、ジャスパーはどうした? あの子もロゼウスと共にあちらへといるはずだろう?」
「ええ。そうでした。ジャスパーもですね」
 ルースの中では選定者であるジャスパーが薔薇皇帝ロゼウスを裏切ることなどありえないのだが、ドラクルはそれを知らない。失態に気づき、ぼろを出すまいと努める彼女の不自然さは追及せずに、ドラクルは言葉を紡ぐ。
「そうだな。ミカエラもウィルも、ミザリーも死んだ。エリサは行方不明か。今更何を言っても仕方があるまい」
 アンリとロザリーは彼らの性格上、ロゼウスを見捨ててドラクル寝返ることはないだろう。僅かに胸に走る痛みを握りつぶしてルースに皿に問いかける。
「それで、お前はこれからどうする? 何をしたい?」
「それは、ドラクルが何をしたいかによりますわ」
 魔女のように薄く怪しく微笑んでルースは言う。
「まだあなたの政権が安定しきらない以上、兵を動かすのは最小に抑えた方が良いでしょう。アンリもロザリーもロゼウスも兵には顔を知られた王族。王家の争いを民に見せるのは得策ではありません」
「我がカルデール領の兵ならば心配はありません」
 アウグストが口を挟んだ。だがドラクルは彼を制し、妹の言葉に耳を傾ける。
「それで?」
「こちらで動けるのも少人数。向こうもたいした集団ではないとすれば、やりようはいくらでもあるでしょう。ドラクル、あなたが用があるのはどちらですか?」
 愛しくて憎い、それ故に手の内に納めねば気の済まない弟王子か。
 こちらの思惑通りに動かなかったばかりか予想外の事態を持ち込んでくれた憎き隣国の元国王か。
 ふっ、とドラクルが口元を綻ばせる。
「そういうことか」
「ええ。今ならば攫えます。あなたの同盟者の力をお貸しください。彼女と手を組んで、迎えに行ってまいります」
 ルースは戦術的なものを考える頭もあれば、予言で未来を知ることもできる。彼らの行動などお見通しだ。
ロゼウスにぶつけた銀廃粉の威力も強絶大だ。しばらくあの場所から動けないとなればやりようはいくらでもある。
「――行け、ルース」
「はい」
 敵か味方か、裏切りか忠誠か、ルースの上に今度は正式な命令が下される。