荊の墓標 41

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 ドラクルの私室を出たルースを迎えたのは、黒髪の少女だった。その身に宿す魔力によって、どうせ盗み聞きをしていたのだろう。
「プロセルピナ姫」
 先の皇帝であった少女に対し、ルースは気安く呼びかける。皇帝であった時には人目を気にしなければならなかったが、今ではそういった柵もない。もっとも、周囲の思惑がどうであろうがデメテル自身はもとからそういったものを気にするような性格ではなかったが。
「次の動きが決まったわ。私と一緒に国境の森へと向かってほしいの」
 ルースが仕掛けた罠、銀廃粉の威力によってロゼウスはしばらくあの屋敷を動けないだろう。そこを強襲するのには、ルース一人ではなくこの万能の力を持つ元皇帝の魔術師が共にいた方が都合がいい。
 にこやかに話しかけたルースに対し、プロセルピナは現われた時と変わらない表情で不思議そうに尋ねる。
「何を考えているの? あなた」
 瞳と同じ漆黒の柳眉がゆっくりと潜められていく。
「彼らを裏切ったり助けたり、協力をしたり罠にかけたり」
 さすがのプロセルピナにもルースの心情は見えにくいのか、その顔には矜持の高い知識人が自らに知らない事柄があるのが許せないと言ったような感情が書いてある。
「あら、ですけれどあなたも似たようなものではなくて?」
 ルースはルースで、己の本来の身体を捨ててまで未来を変えようとする彼女にそう問いかける。
「私は確かにドラクルの側にいながら、ドラクルを裏切るようなことをするわ。でもそれは、あなただってそうでしょう? プロセルピナ姫。いいえ、デメテル陛下。あなただって初めはロゼウスたちに力を貸しておきながら、今はそうして裏切っている」
「私にとっては、それが必要なことだからよ。薔薇皇帝に借りを作っておくのが。それが、あの未来の歯止めになる……」
 プロセルピナはルースに答えながらも何事か自分の中で考えているようで、その語尾は尻すぼみに消えていく。やがて顔を上げた彼女は、先程と同じような表情で佇むルースに再び声をかけた。
「あなたはどうなの? ふらふらと自らの立場を定めない。カルデール公爵が言っていたのももっともだわ。あなたにとって、誰が敵で誰が味方なの?」
「そんなことを聞かなくとも、あなた様なら、私の答がわかっているのではないの? 予言の力を持つ皇帝よ」
 プロセルピナの問にルースは答えず、質問に質問で返す。答を返したくない相手が使う常套手段であり、それがわかっているプロセルピナは眉を潜める。
 そしてもっと眉を潜めざるを得ないことには、確かにプロセルピナはルースの真の望みを知っている。
 だが、だからこそ、今のようにはぐらかされても誤魔化されても諦めきれず、その答を聞きたいと思ってしまうのだ。
廊下の壁に腕を組んでもたれかかりながらプロセルピナは問う。彼女の身体のすぐ脇に、ドラクルの私室に繋がる扉がある。
 ヴァンピルの聴覚は人間とは異なって鋭い。それを知っている二人はほとんど囁くような声で言葉をかわす。
 この場所を移動すればいいようなものだが、多分この機会を逃せば同じようなやりとりを行う機会が二度とないだろうとわかっていた。
 ルースの行動は引き金となり、舞台を最終幕へと導くだろう。その主役の一方はロゼウスでありもう一方は彼女たちの王であるドラクルだが、ルースは舞台を整える係りだ。
 この戦いが始まれば、もう引き返すことはできない。逆に言えば今ならドラクルを止めることもできる。彼を説得して良き王となるべく導けばローゼンティアは平和を得ることをできるだろう。
 ロゼウスたちにとってもここは最後の契機だが、それはドラクルたちにとっても同じだった。今からならやり直せる。それぞれが欲しいものを一つずつ諦めれば国は治まり、安息を得る事ができるだろう。
 だがルースは諦めない。この道は破滅に繋がるとわかっていて、なおその背を押す。 
 欲しいものを得る事が破滅にしか繋がらないと言うのであれば、彼女はそれでもそれが欲しい。破滅こそ彼女の望むもの。
「……どうしてそんなにドラクル王を殺したいの? あなたは彼を愛しているのに」
 ドラクルはけしてルースを振り返らない。彼はルースが裏切らないことを彼女自身の弱さだと捕らえているが、本当は違う。彼女は己の罪に怯えるためにドラクルを裏切らないのではなく、彼女の確たる目的があって彼に与しているのだ。
 いっそ彼の考えている通り、ルースが自己の責任の重さに向き合う事ができないほど弱く、自分のことだけを愛していれば幸せだったろう。
 己のことだけが好きで、大事で。だから己の心を守るために何人をも殺せる。そのぐらい愚かであればもっと早くに自滅していた。その方が世のためにも彼女自身のためにも平和だったろう。
 しかし世界はそう上手くはいかないものだ。歯車はずれ、狂っていく。
 ドラクルはルースを愛していない。そして妹の自分に対する愛情にも気づいていない。
 それは当然だった。何故ならルースは、彼女の気持ちを彼に伝えてはいない。
 ロゼウスがドラクルに虐待されながら、それでも俺は兄様が好きだよ、と呟いた。その程度ですらルースは伝えてはいない。だからドラクルが気づかなくてもそれは仕方がない。
 プロセルピナが理解できないのはそこだ。何故ルースは自分の気持ちを兄に伝えることをしないのだろうか。
「……あなたにはきっとわからないわ」
 真っ直ぐに見つめてくるプロセルピナを見返し、ルースはこれまでとは違う種類の笑みを浮かべた。作り笑顔が癖のようになってしまっている彼女の、しかしそれは滅多に見せない表情だ。
 今にも泣き出しそうな、行き場を失くした迷子の表情。
「あなたはもう一線を越えてしまった。私が躊躇い、踏み出せないその道をすでに踏み、通り過ぎてしまった。だからわからないのよ」
「ルース姫?」
 そう言われても、プロセルピナにはすぐに思い当たるような心当たりはない。簡単に考えれば肉体関係のことを指しているようにも聞こえるが、血族と肉体関係があるのはルースも同じだ。プロセルピナがハデスと肌を合わせるように、ルースもドラクルと寝ていたはずだ。
 今更何を言うのだろう。
「線なんて、あってないようなものでしょう。この世に罪なんてありふれていて、改まって気にするようなことなどないわ」
 プロセルピナは願う。愛する者の未来を。自分は弟であるハデスに嫌われてもいい。それでも彼の生を願う。どんなことをしてでも、どんな形でもいいから生きていて欲しいと願ってしまう。
 ルースは望む。愛する者の破滅を。兄であるドラクルの気持ちなど関係ない。ひたすらに彼の死を望む。彼に与える未来などこの世界に用意しない。どんなことをしてでも必ず殺す。死んでもらう。
 同じように血縁を愛し、近親愛の醜さに溺れて道を間違えながら二人の女は全く正反対の望みを抱く。どんなことをしてでもハデスを生かそうとするプロセルピナ、どんなことをしてでもドラクルを殺そうとするルース。
「私はハデスには生きていて欲しいわ」
 ポツリと呟いたプロセルピナの言葉は、真摯な祈りに満ちていた。それは彼女の本心からの願いだ。ルースは首を横に振る。
「私はそうは思わない」
 プロセルピナとルースにある決定的な違い。ルースはそれに気づいている。プロセルピナは気づいていない。
「……とにかく、力を貸してはくれるわね」
 この話は切り上げようと、最後はうやむやになったやりとりを強引に切ってルースは確認の言葉をかけた。
「ええ。それがあなたの、そしてドラクル王の望みなら。私もできれば、ロゼウス王子には死んでもらいたいからね」
「あの子の生きる未来を知りながら、それでもそう言うの?」
「人はそう簡単に諦められない生き物なのよ」
「……そうね」
 その通りだわ、と。プロセルピナの言葉に何を重ねたのか、ルースは小さく頷いた。
「協力してね。プロセルピナ姫。あの人の望む未来のために。そしてあの人の破滅のために」

 ◆◆◆◆◆

 この場所を動くに動けなくなった。
「ロゼが目を覚ますまで、とにかくみんなで気を張っているしかないわね」
「そうだな。人数は結構いるし」
 ルースの襲撃はいったん引いた。しかし、彼女に銀廃粉の攻撃を受けたロゼウスは毒に当てられてそのまま昏倒してしまった。同じ部屋にいたロザリーの方はシェリダンが身を盾にして庇ったが、ロゼウスは正面から吸血鬼にとっての毒である銀廃粉を受けたのだ。意識を失い、運び込んだ寝台で昏々と眠り続けている。
 ルースに首を絞められたシェリダンの傷の方は駆けつけたハデスが魔術で癒したが、ロゼウスの銀廃粉の方はどうともしようがないという。できたとしてもロゼウス相手では治療を申し出るなどしないだろうハデスだが、この件に関してはシェリダンの求めに応じて詳細な説明をくれた。いわく、人間とヴァンピルでは身体のつくりが違うために、時々こうして人間には無害だがヴァンピルには効果覿面の毒のようなものがあるのだと。人間の魔術師にそれを治す事は不可能なのだと。
 そもそも毒、毒と繰り返すが銀廃粉という物質自体は別に毒でも何でもない。ただの銀と数種の植物を混ぜた粉だ。
しかし人間にとっては全く無害なその粉が、ヴァンピルにとっては毒になるのだ。
 ロゼウスはノスフェル家という特殊な血統の生まれであるため通常のヴァンピルよりはどんな薬物にも耐性があるのだが、それでも今回喰らった量は相当なものであるらしい。
 アンリたち同じ吸血鬼にもどうにもならない問題だと聞いて、シェリダンは唇を噛む。救いは、毒のようで毒ではないこの物質は後遺症なども残さず、一定期間経てば身体の中で分解され自然に元に戻るということだった。しかしそれまでは長い休息を必要としなければならない。
 ロゼウスは目前で銀廃粉の包みをぶちまけられたために多量の粉を吸い込み、それを体内で分解するために今眠り続けているらしい。
 事態の責任は自分にある。寝台の上のロゼウスの白い寝顔を見つめながらシェリダンは瞼を伏せる。
 あとの者たちは自分たちの見張りの時間になるまで各々身体を休めるために出て行った。シェリダンは一番にロゼウスの枕元での看病を買って出た。
 とは言っても銀廃粉の中毒に関する治療法はないのだから看病もするほどのことはない。熱が出るわけでもなければ、食事や細かいことの補佐が必要になるわけでもない。
 ただ眠り続けているロゼウスの、その顔を眺める。その肌の白さは元からだというのに、こんなときだから一層病弱に見えて不安な気持ちになる。実際にはロゼウスは、シェリダンなど比較にもならないぐらい頑丈なのであるが。
 普段、こんな風に寝台に一人横たわって眠るロゼウスを見ることがないからだろうか。シェリダンはふと思い返す。
 今は野宿で雑魚寝が基本だが、エヴェルシード王城でまだシェリダンが王として暮らしていた頃は、一つの寝台に二人で寝ていた。目を覚ますと相手の健やかな寝顔があって、あるいは彼の方が先に起きていて、そんな風に隣にあることが当然として過ごしていたからか、こんな風に一人眠るロゼウスを眺めることなどほとんどない。
 今と同じように、死んだように眠り続けるロゼウスを見つめていたのはたった一度だけだ。
 死んだロゼウスを見つめ続けて目覚めを待った、あの時だけだ。
 シェリダンは思い返す。ロゼウスと出会った頃を。あの頃はこんな関係に、こんな運命に巻き込まれることなど思ってもいなかった。
では様々な難題や柵に巻き込まれた今は不幸で昔は幸せだったのかと問えば、そんなことはないとシェリダンは言い返す。ロゼウスがどう思うかはまた別だが。
 初めて出会ったとき、シェリダンの眼を惹き付けたのはロゼウスの瞳だった。紅い紅い極上の柘榴石のような瞳。その中には虚ろな祈りが虚しく詰まっている。
 祖国を守るために懸命に戦いながらも、どこか彼は冷めていた。確かに命の危機に瀕してもヴァンピルの本性はそう簡単に現われるものではないというが、それにしてもロゼウスは冷めていた。そのことに気づいたのは、もっと後。
 まず造作の美しさに惹きつけられ、そして深紅の魂に見せられた。ものは試しとシェリダンがローゼンティアの民の命と引き換えにその身を差し出せと要求したところ、いともあっさりとロゼウスはその要求を呑んだ。
 民のために簡単に我が身を犠牲にする精神。それはまさしく王族の鑑。
 だがシェリダンは知っている。ロゼウスという存在がそれほど高潔なわけでもないことを。民のために侵略者の親玉であるシェリダンに身を捧げたのは事実だが、それは彼にとって何にも耐え難い恥辱を伴う、という程のことでもなかったのだ。兄に虐待され続けた身体は男を受け入れるのに慣れていたし、男であるという矜持に凝り固まらない分女装にも順応するのが早かった。
 彼には自分というものがなかった。他人のどんな心でも受け入れる? 当然だ。主張すべき自分がなければ他人を受け入れることなど簡単だ。
 何かを積極的に行うわけではない。ゼロから物事を作り上げるほどの気概はない。例えばローゼンティアの国民を真にエヴェルシードの不当な搾取から救うためにシェリダンを殺してエヴェルシードを滅ぼし返し、祖国を取り戻そうなどとは考えない。
 ロゼウスはその場その場で、自分に無理なくできる範囲のことしかしない。それもやはり命を懸けて貫きたいほどの「己」がないからだろう。持っている能力は優れていても、性格的に王には向かない人物だ。彼がローゼンティアを統治すれば標準以上の王にはなれるだろう。だがしかし、良き王とはならない。そのくらい傍目で見ているシェリダンですらわかっている。
 それでも、だからこそ、そんなロゼウスだからこそシェリダンは惹かれたのだ。彼はシェリダンを拒絶する事はあっても相反しない。
 あまりにも透明だった。それは儚く、危うく、異常なほどに。誰かのためにお前の右腕が必要なのだと言われたら、ロゼウスは躊躇いもなく自分の腕を斬りおとすだろう。そういう人間だ。それは出生の事情から憎しみと孤独と、罪悪感に裏返す自らを正当化したい思いとに苛まれるシェリダンにとっては、何よりも得がたいものに思えた。純粋と言うには浅はかで、優しいというには私欲に走りすぎている、けれどその愚かささえも、貫き通せば一つの真実になるのだ。
 ロゼウスはドラクルに虐待されていた。その事実を認めたくなくて、彼に愛されていると思い込むことで自らの心を守ろうとしていた。愚かとしか言いようのない行為だが、それを選んだところにロゼウスの真実はある。肉親の情に縁のないシェリダンと違って、ロゼウスにはドラクルでなくとも彼を愛してくれる人物は他にいくらでもいたのに、彼はドラクルを選んでいた。
 シェリダンが父王を恨んだように、ドラクルを恨み、憎んでしまえば事は簡単なのだろう。自分は悪くない。悪いのは相手だ。それは確かに真実だが、残酷にもまた、一つの真実を見逃している意見だ。ロゼウスがドラクルを見放せないのは、彼の心の傷に気づいていたからだろう。
 ドラクルは愚かで残酷な簒奪者だ。だが両親たちの手により彼らの都合の良いように踊らされ上辺の権威に翻弄され続けた彼の心にも傷はある。ロゼウスが自らを救うことよりも選んだのは、ドラクルのその傷を包みこむことだった。彼には癒せはしないそれを、自らの身体を盾にすることで雨風から守っていた。
 ロゼウスの選択もまた愚かだ。自らの痛みを他者にぶつけるような人間の浅ましさを指摘せず放置したことが、今回のローゼンティアとエヴェルシード、二国間の争いの火種を生み出したとも言える。
 だが、それでも、弱い人間の弱さを無様だと切り捨てずにいてくれる、ロゼウスのそんなところにシェリダンは惹かれたのだ。
 初めはただ、欲しかった。子どもが玩具を欲しがるように彼を望んだ。
 けれど段々と彼の様々な面を知っていくにしたがって、憧憬や支配欲のようなものは薄れ代わりにどうしようもない愛しさが溢れていった。彼もシェリダンとはまた違った意味で不完全な存在だ。それがどうしようもなく愛おしい。
 真に彼への気持ちをシェリダンが自覚した、ロゼウスが美しいだけの人形ではないのだと思い知ったのは彼に裏切られた時。ローゼンティア王族が蘇ることをシェリダンに告げずに、驚愕するその反応を嘲ってさえ見せた。
 醜い、だからこそ美しい。相反し隣接し内包し混在する二つの感情とその真実。焦がれる気持ちがあったから憎しみは更にかきたてられ、シェリダンはロゼウスを「殺した」。ヴァンピルは一度死んでも蘇る事ができるが、そうでなかったらあの場で全てが終わっていたに違いない。
 そしてロゼウスを一度刺したシェリダン自身は、一つしか命を持たないただの人間であるのだ。
 この関係はシェリダンがロゼウスを殺したことから始まり、ロゼウスがシェリダンを殺すことによって終わる。
 ハデスはそう予言した。どんな形かはわからずとも、近い未来必ず訪れる終焉。
 今はそれが少し怖くて、苦しい。
 ロゼウスに出会った初めの頃だったらきっと、こんな風に思う事はなかっただろう。あの時のシェリダンはとにかく破滅を望んでいた。ロゼウスはその道連れ。破滅を望むシェリダンと、彼は共に逝ってくれると言った。
 けれど今ではお互いに、お互いの生を望んでいる。
 皮肉なことに死にたいと思っていたときにはそれは訪れず、生きたいと願うようになって初めて知った。
本当にお互いのことが好きで仕方がないのならあるいは心中と言うのも一つの手だろう。はじめに望んでいたのはそれだった。共に死んでくれるならそれだけでよかった。 
世界は個人の望むように動かせるものではないし、世の中には変えられないものの方が多い。過去に手を加えることなどできないし、生きているということは喜びにも勝る労苦がある。
 死はいつだって救いだ。もちろん恐ろしさもあるが、それでも死によって救われるという言葉を否定はしない。離れ離れになるのがいやならば一緒に死んでしまえばいいのだ。わかっている。死は救いなのだと。だけれど、だけど、それでも。
 それでも生きていてほしいのだと。
「……早く目覚めろ、ロゼウス」
 大丈夫だとわかっているのに不安になるのは、この状況に慣れていないからだ。
「早く……」
 どうか目を覚まして、いつものようにこの自分の愚かさも孤独も全てを包み込むように微笑んでほしい。