荊の墓標 41

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「ジャスパー王子と何かあったんですか?」
 屋敷の中にシェリダンが戻るなり、そう率直に尋ねて来たのはエチエンヌだ。彼の隣には、双子の姉であるローラもいる。
「……まだ休んでいなかったのか? エチエンヌ、ローラ」
「ちょうど起きたんですよ。そろそろリチャードさんと交替しようと思って」
 エチエンヌはそう言うが、彼の目元には燭台一つを灯しただけの夜の暗がりにもわかるほどはっきりと隈があり、ローラの肌艶も心なしか悪い。
「……ほう、二人でか」
 あえてそのことには触れず、シェリダンはとりあえず見て明らかにおかしいとわかる点を突っ込んでみた。見張りは通常一人でするところを、ローラとエチエンヌは二人一緒にいる。
「ええ。何せ私とエチエンヌは双子人形。一心同体なのですもの」
 ローラはころころと笑って見せるが、それでシェリダンが誤魔化されるはずもない。自分のことが心配で起きていたらしい双子の金色の頭に手を乗せると、二人一緒に柔らかに撫でた。
「私はお前たちには随分心配をかけているな」
「シェリダン様!」
「いえ! そんなこと……」
 俄かに慌て出す双子の言葉をあえて無視して、シェリダンは続ける。
「だが、それでもこれだけは譲れない。ロゼウスのことだけは」
「……」
 二人は押し黙り、廊下に一瞬だけ沈黙が訪れる。シェリダンは二人の背を押して、中庭の景色が見える涼しいそこから、暖かい部屋の中へと戻した。
「お前たちに帰る場所がないのをいいことに、私はお前たちとリチャードには自分の我侭のせいで苦労をかけているな」
「そんなことありません! シェリダン様、あなたが昔僕たちを助けてくれた恩に比べれば」
「そうですよ。このぐらい当然です」
 自らの身勝手さを詫びるシェリダンの言葉をエチエンヌが強く否定する。
「それにロゼウス様のことだって、シェリダン様のことには代えられずとも、私たちだって気にしているんです」
 弟の言葉尻に乗って主君へと口を開いたローラが零したのは、彼だけではなくロゼウスのことも案じる台詞だった。
「ありがとう、ローラ、エチエンヌ」
 二人の言葉を聞きながら、シェリダンは思う。確かにエチエンヌやローラ、それに実家が取り潰しになったリチャードも、シェリダンが死ねば帰る場所がない。けれどこれだけロゼウスと近しい間柄となった彼らのことであれば、ロゼウスもきっと皇帝としての寿命が続く限りは面倒を見てくれるだろう。
 心配すべきことはいくらでもある。だが本当の意味で案じなければいけないことは、ほとんどない。
「……果報者だな、私は」
「え?」
 ささやくようにひとりごちたシェリダンの言葉に、エチエンヌが不思議そうな声を上げ、ローラは小首を傾げた。自分など大した人間ではないと知りながら、それでもついて来てくれる彼らの心が嬉しい。
 わかっている。かつては王の名こそ冠していたものの、本来シェリダンというこの一人の少年にできることなどたかが知れている。
 世界は自分一人死んだところで何も変わらない。自分という一人の人間の存在は所詮そんなものだ。
 心残りはいつだって他者利益より自分の感情の問題で、シェリダンは自分が生きる死ぬに伴って派生する問題よりも何よりも、ロゼウスとまだ一緒にいたいというこの想いをついつい優先する。
 何が正しいか間違っているかよりも、いつも己の一番の気持ちを重視して他のものを切り捨てる。それが更に未来を歪めていくとわかっていても。
 ローラやエチエンヌ、リチャードのこと。
 エヴェルシードに侵略され、玉座をドラクルに簒奪されたローゼンティア。カミラの手に委ねたエヴェルシード。
 魂だけプロセルピナという少女に移して蘇ったデメテル帝と、彼女の弟でありながら彼女を殺したハデス。
 クルスやジュダ、エルジェーベトにバイロン、残してきた様々な知り合いたち。遺していく人たち。
 そして、自分を殺すと予言されているロゼウスのこと。
 これまでの人生で出会い、培い、触れ合ってきた数々の愛しい者たち。心残りはいくらでもあるが、全てを片付ける時間がないのが悔しい。
 失うとわかっていて見るからこそ、世界はあまりにも美しい。いつか自分の手の中から滑り落ちていくと分かっているものに、まだこんなにも心を残している。
 消さなければいけないのに、こんな執着は。
「ローラ、エチエンヌ」
 胸中での短い逡巡の後、これまでとは口調を改めてシェリダンは双子の名前を呼んだ。
表情がわかりやすくきつくなったわけではないが、五年来の付き合いである二人にはシェリダンのどんな些細な変化も見逃せない。彼の様子が常と違い、それが何か良くないことの前触れであるように感じたローラとエチエンヌの方でも気を引き締めて、シェリダンの言葉に耳を傾けようとする。
 しかし彼が口を開く前に、先ほどシェリダンが後にしてきた中庭の方から轟音があがった。
「なっ!」
「襲撃ですか!?」
「……ジャスパー王子ッ!」
 中庭にはジャスパーがまだ残っていたはずだ。彼が屋敷に戻って来た気配もなければ、襲撃者とのこちらの陣営が出会わなければこんな破壊音が生じる理由もない。
「行くぞ!」
 自らの腰に佩いた剣の柄に手をかけ、シェリダンは再び夜の中庭へ向けて駆け出した。

 ◆◆◆◆◆

 轟音の発生源は中庭だ。その破壊音に気づいて、次々と部屋の扉が開き、人影が飛び出してくる。
「ちょっと、何があったのよ!」
「ロザリー! お前じゃないんだな!」
 ローゼンティアの兄妹も、そんな風に声を掛け合いながらやってきた。ヴァンピルである彼らが音を聞いてから駆け出すまでは早く、まるで飛んできたように即座に、初めから庭側の回廊にいたシェリダン、ローラ、エチエンヌと合流した。
 さっと集まってくれたのはいいのだが、途中に大声でなされた会話が気になる。木々を薙ぎ倒したくらいでは発生しない轟音を聞いてアンリが思わずロザリーに尋ねた言葉だ。 ローゼンティア一の怪力王女は普段から一体何をやっていたのだろう……。
 まさかこんな時に確かめる暇もないので、シェリダンたちはそれについては深く考えないことにして中庭へと一直線に駆けた。
 手に手に己の得物を引っさげて彼らが駆けつけた庭園は、先ほどシェリダンがジャスパーと話していた状態とは全く様変わりしてしまっている。
 雷でも落ちたかのような轟音の痕、木々は倒れ、下生えは焼け焦げ、花は灰となっている。
 黒い人影が、破壊の爪跡の中心地にただ一人佇む。
 そしてその灼熱に焼かれた地面に、無造作に一人の少年が投げ出された。
「ジャスパー!」
「ジャスパー王子!」
 少年の華奢な身体が地面を引っかいて立ち上がろうとし、あえなくその場に崩れ落ちる。立ち上がる力も残っていないジャスパーの全身は煤にまみれ、衣服には血が滲んでいる。
「う……」
 呻く彼はまだ灰にはなっていない。息もちゃんとあるようだ。
 だが早急に治療を施さねばまずい状態には変わりない。
「ちぃ!」
 気に食わない相手とはいえジャスパーはロゼウスの弟だ。見捨てておくわけにもいかず、シェリダンは剣をしっかりと握り走り出していた。
 中空から闇色の剣を取り出し、プロセルピナが応戦する。表情一つ変えずにジャスパーをボロ雑巾のようにした彼女は、向かってきたシェリダンに対しても余裕の態度を崩さない。
 けれど、今のシェリダンの役目としてはそれだけで十分だった。続いて走り出したロザリーとエチエンヌが、さっさとジャスパーを回収する。
「ジャスパー! ジャスパー! しっかりして!」
 弟の名を呼びながらロザリーが動くのを見て、シェリダンは攻勢から一転して後ろにさがった。プロセルピナはシェリダンに積極的に仕掛ける様子は見せなかったが、調子に乗って彼女との戦いに深入りすると後が怖い。
 特に相手の思惑がわからないこんな場合には。
「デメテル陛下!」
「プロセルピナよ、シェリダン王。デメテルはもう死んだの。もうどこにもいない。今の皇帝陛下はあなたの大事な大事な、薔薇の王子様だわ」
 ハデスに人形のように連れられてきた当初とは比べ物にならない嫣然とした表情で、プロセルピナは笑う。その顔がデメテルでなくて誰だろうと彼らは思う。
「お前たちの目的は何だ! やはりロゼウスか!?」
 しっかりと剣を構えなおし、シェリダンはプロセルピナにそう問いかけた。ここにいるのは彼女を除けばシェリダン、ローラ、エチエンヌ、ジャスパー、アンリ、ロザリー。ロゼウスの警護にはリチャードが残っているはずだ。メアリーとハデスも、まだ屋敷の中にいるはず。
 プロセルピナがハデスと結託している様子はない。初めはハデスにとって都合のよい生き人形として作られたはずの彼女の肉体はもう、デメテルのものとなってしまっている。二人が結託している様子がないということは、ハデスのことは今は気にしなくていいだろう。リチャードの腕はシェリダンも信用している。
 危ういのはこちらか、とシェリダンはなおも目の前の少女に意識を集中した。
 プロセルピナは余裕のありあまる表情でシェリダンたちを見ている。
「ロゼウス王子が目的? ええ、そうね。そう考えるのが普通よね……」
 どこか面白がるような響で持って、プロセルピナはシェリダンの問いかけに対しそう口を開いた。
「でも気づいてる? シェリダン王。ロゼウス王子はもちろんドラクル王に執着されているけれど、あなたも大概あの人に狙われているのよ」
「何?」
 思いがけない言葉を耳にし、シェリダンの表情に一瞬動揺が生まれる。
 すかさずプロセルピナが魔力の塊を放つが、シェリダンは咄嗟の判断でそれを避けた。もともとプロセルピナが相手だ。こちらの問いかけに対して何を言ってもおかしくないという、妙な気構えがあったのだがこの場合はそれが功を奏したというべきか。
「どういう意味だ?」
「少し考えてみればわかるのではない? あなただってロゼウス王子と出会った最初の頃は、彼の心を占めるドラクル王が憎かったのではない? 今はそれと逆のことが起こっているのよ。完璧にしつけたはずのロゼウス王子から心を奪っていったあなたのことを、ドラクル王は気にしている」
 ちろりと赤い舌で唇を舐めると、プロセルピナは剣を握ったままのシェリダンに宣告した。
「私はドラクル王からあなたを連れて来いと言われているわ」
 シェリダンはこの頃良く、ロゼウスと出会った頃のことを思い返す。出会いは主にロゼウスにとって最悪のものだったはず。自分は彼に人質をとって無理強いした。心も身体も抉るように傷つけ弄んで、そのくせ自分を見ない彼に苛立った。
 どう聞いても洗脳であり虐待としか思えない行為をドラクルに強いられていたロゼウスが、その兄の名を呼ぶたびに目の前が嫉妬で赤く染まった。
 勝手な話だが、ロゼウスがドラクルを憎めない分、自分がドラクルを切り刻みたいと思うほどに。
 だがシェリダンは冷静に返す。
「――嘘だな」
プロセルピナが睫毛をぱちぱちと瞬かせ、今度は少し、本当に驚いたような顔をする。
「……どうしてわかったの?」
「あなたの目的が私なら、ジャスパーがあそこまで身体を張るはずがない。むしろ率先して私を引き渡すだろうな」
にやりと不敵な微笑を口元に刻み、シェリダンは皮肉げに吐き捨てた。
「なるほど」
 納得したようにプロセルピナが頷く。彼女に言い返したその裏で、しかしシェリダンは焦りを感じていた。
 自分で言ったことだが、その論に寄れば彼女たちの目的はロゼウス。つまりここにいるプロセルピナは彼らの目を集めるための陽動であり、別働隊がいるのだろう。アウグストの時の様に人数を集めた軍隊が潜んでいる様子はないので、恐らくルースが。
 今更見破ったところで、まんまと策にはまってしまってからでは遅すぎる。屋敷へと足止めする役割であるはずの彼らが、今はプロセルピナによって足止めされている。
「どちらにしろ、同じ事よ。ロゼウス王子が奪われればあなたたちはどうせ取り返しに来るのでしょう。そしてあなたを捕らえても、ロゼウス王子はあなたを取り戻しに来る。どちらにしろ同じ事」
「――そうはさせるか!」
 人は幾つものことを同時にはできない。とりあえず今は目の前にいるこの少女を倒すことだ。
 シェリダンは剣を振りかぶった。

 ◆◆◆◆◆

 轟音はその部屋にも届いた。
「な、何ですの!?」
「メアリー姫、できればテーブルか何かの下へ」
 ロゼウスの部屋には警護を任されたリチャードの他に、久々に再会したロゼウスの妹姫メアリーもいた。二人して昏々と眠り続けるロゼウスの目覚めを待っていたのだが、突如として屋敷の一角から凄まじい音が聞こえてきたのだ。
「あの方向には」
「確か中庭があったはずですわ」
 咄嗟に剣を抜いてロゼウスの眠る寝台を守る体勢に入るリチャードと、恐る恐る部屋の扉を開き、廊下へと顔を出すリチャード。
 しかし驚異は廊下からではなく、窓からやってきたのだ。――寝台のすぐ側にある窓から。
 ロゼウスの白い寝顔に灰色の影が落ちる。気配に気づいた二人がはっと振り返ったところに、静かにその影は口を開いた。
「迎えに来たわ、ロゼウスを」
「ルース姫……」
「お姉様……」
 リチャードが緊張にこめかみへ汗を浮ばせて剣を構えた。メアリーが胸の前に手を組み、不安そうに窓枠に立つ姉を見上げる。
「悪い事は言わないわ。二人とも、ロゼウスを渡してくださらない?」
「お断りいたします」
 リチャードははっきりと拒絶の意を口にした。
「この方は、私の大切な主が大切にしている方です。お渡しするわけにはいきません」
「私の弟よ?」
「こちらにはロゼウス様の兄君であるアンリ王子も、ロザリー姫もいらっしゃいます。それに何よりロゼウス様御自身が望まないでしょう。シェリダン様のお側を離れることを」
 リチャードの淡々としているが意志の強さを感じられる口調に触発されたか、ルースが二、三度ぱちぱちと瞬く。
「ではロゼウス自身が望んだらどうするの? ドラクルへと渡してくれるの?」
「あなた方が自分たちの行動をどう捉えているかはわかりませんが、一言だけ言っておきましょう。よくもそんな厚顔なことが言えたものだと。ドラクル王子がロゼウス様にしたことを考えれば、この方が彼の下にお戻りになるはずがありません」
 リチャードの言い分に、窓枠から部屋の中へと降り立ちながらルースがおかしそうに笑う。
「そうかしら? ドラクルがしたことも、シェリダン王がこの子にしたことに比べたら大差はないと思うのだけれど。ではドラクルとシェリダン王とは、何が違うのかしら……?」
 おっとりと小首を傾げるルースの表情には人を警戒させるようなものは何らない。しかしリチャードはそれがまやかしであることを知っている。
「さぁ、何故でしょうね」
 ドラクルとシェリダンの違い、それはリチャードも考えていたことだった。ロゼウス相手に酷いことをしたというのであれば、それはシェリダンも同じだ。ドラクルやハデスに唆されてローゼンティアに攻め込んだことも、だからと言って見逃せることではない。
 ではあの二人は、一体どこが違うのだろう。何となくはわかるそれを、リチャードは上手く形にできない。
 戦いの邪魔になるだろう思考を止め、リチャードはこれが最後の無駄口と唇を動かした。
「けれど、どちらであったとしても関係がないのです」
「?」
「ロゼウス様が望もうと望まぬと、私が従うのはただ、シェリダン様のご命令のみ。ですからあなたは、この場から排除させていただきます。ルース姫」
「ええ。そうね。そうこなくては」
ルースが静かに微笑んで、その底知れない眼差しをリチャードに注いだ。彼の背後で、白い人影が動く。
 ――メアリー姫、武術の心得はありますか?
 ――いいえ。けれどわたくしも吸血鬼。その気になれば、人並には戦えるはずです……
 ――では兄君や姉君と戦う御覚悟はありますか? 
 ――そ、それは……
 ――それならばあなたの役目は、敵襲を受けた時にすぐ、他の人の助けを呼ぶことです。
 あらかじめ打ち合わせていた通りに、メアリーが部屋の外へと出て、走り出す。
「無駄よ、そんなことは」
しかし彼女の頼みの綱である他の者たちも今はプロセルピナと交戦中だ。ルースはメアリーの逃走を歯牙にもかけず、リチャードへと向き直る。
「……どうせまともにやりあったのなら、あなたたち人間が私たちヴァンピルに敵うわけなどないのにね」
 彼女はどこか憐れむような光を瞳に湛えた。
 次の瞬間、常に冷静を崩さない二人が表情を変えると同時に剣戟の音が室内にこだましていた。