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早く、早く助けを求めないと! あの人がルースお姉様に殺されてしまう前に!
かねての打ち合わせによりリチャードから指示されていたメアリーは救援を求めるべく屋敷の中を走った。
皆どこにいるのだろう? 先ほど大きな音がした中庭が怪しいだろうか。
ルースにしろプロセルピナにしろドラクルにしろその部下であるアウグストにしろ一筋縄ではいかない相手ばかりだ。一人では勝てないことがわかっているため、一人の時に攻め込まれた場合は何よりも真っ先に助けを呼ぶ事が最善だと彼らは打ち合わせていた。
「わたくしに……もっと力があれば……!」
ロゼウスを助けられない。ミザリーもミカエラもウィルも、最期を看取ることさえできなかった。メアリーは今でも兄妹同士で戦いたくなどない。しかしただ仲良くしましょうといわれて、そう簡単には友好的になれないのが世の常だ。
それでもあっさりとは引き下がりたくないからこそ、彼女は廊下をひた走る。さすがの身体能力で広い屋敷をすぐに駆け抜けると、中庭に幾つかの人影が見えた。白髪の頭は彼女の兄妹たちがそこにいることも示す。
けれど。
「みんな……きゃッ!?」
彼女が声をあげようとしたその時、背後から黒い袖に包まれた手が伸びた――。
◆◆◆◆◆
剣を持つ腕が痺れ、がくりと地面に膝をついた。刃の切っ先が泥に埋まり、それでかろうじて崩れ落ちそうな身体を支える。
「こんなものなの?」
可憐な声と共に黒い長靴の足がシェリダンの目の前の地面を踏む。
「シェリダン王、あなたの実力は」
プロセルピナ。大地の女神の娘の名を持ち、何よりも彼女自身がかつてはその大地神の名を持つ者であった。しかし己の命をかけて運命を捻じ曲げようとした、女神の名を持つ人間はその名を裏切って大地を破壊する。
美しい薔薇の庭園は雷光と炎に焼けつくされ緑の跡もない。
大地皇帝の名を捨てた偽りの女神は世界に牙を向く。
「もう少しできるかと思ったのだけれど……」
「あなたに、勝てるくらいなら、私はとっくに、自分が皇帝になっている!」
シェリダンは威勢だけは失わずに反論しながらも、その内容はすでにプロセルピナへの負けを認めてしまっている。
皇帝の座についていた彼女に、ただの人間である自分が勝てるはずはない。それを痛感した。
「そんなことじゃロゼウス王子を助けに行けないわよ?」
「わかっている!」
剣を横へ薙ぎ払い、目の前にあったプロセルピナの足を斬りおとすことを目論んだ。しかし浅はかな目論見はやはり失敗し、長靴に包まれた足はさっと避けて視界から消えてしまう。
慌てて顔をあげると、剣の届かない範囲にまで離れたプロセルピナが冷めた顔つきでシェリダンを見下ろしている。
何か言いたげなその唇が開き、瞳を眇めながら彼女は言った。
「わからないわね。何故あなたたちが彼に拘るか」
「何?」
今更のようにそう言ったプロセルピナに、シェリダンの方が意表を衝かれた。
「だってそうでしょう? 彼はあなたにとって疫病神だわ」
プロセルピナの言葉どおり、確かにシェリダンにとってのロゼウスは本来忌まわしい存在なのかもしれない。彼の存在がなければドラクルが道を踏み外し、エヴェルシードを利用してローゼンティアに攻め込ませることはなかったはずだ。
国を追われたのも、全てを失ったのも、もとはと言えばすべてロゼウスのせいだと言える。極め付けはシェリダンを殺すのがロゼウスであるという予言だ。
「関わらなければ、近づかなければこの世の人間が持てる全てを手に入れられるほどの才覚があるというのに、何故あなたはそれを手放すの?」
たぶんおそらくシェリダンは、ロゼウスがいなければエヴェルシードでそれなり以上の生活ができたはずだった。王としてそれなりに文武に優れ、庶出の母を持ちながらも兵士たちの信頼を勝ち取り、異母妹をも改心させた。
それはシェリダンが元から持っている力だ。ロゼウスは関係ない。むしろロゼウスと出会ってからは、シェリダンは以前にも増して災難続きだ。
それをプロセルピナは指摘する。
「彼が有能であることと、あなたに利益をもたらすことは決して等しくはないはずでしょ?」
ロゼウスは皇帝として世界に必要な存在ではあるが、シェリダンが個人的に彼から得たものなど何もない。それどころか、彼の問題に巻き込まれるほどに一つずつ失ってきた。
「あなたは――」
言いかけた彼女の言葉がそこでふと不自然に途切れた。
「……終わったのね」
「ええ」
その視線の方向を追い、シェリダンはもう一人の女の姿を見る。白銀の髪をなびかせて夜空を背景に立つのはルース。
その腕には一人の少年を抱えている。
「ロゼウス!」
煤を吸い込み、血を吐きそうに痛んだ喉を酷使してシェリダンは叫んだ。
「ロゼ!」
「ルース、お前……!」
ジャスパーの容態を見ていたアンリと、彼に弟を任せてこちらへ走り寄ろうとしていたロザリーが声をあげた。
その悲鳴に紛らせるようにして闇の隙間を縫い銀色の光がルース目掛けて飛んだ。その正体にシェリダンが気付いたときにはすでにルースは自らに向かってきたナイフと、ロゼウスを絡めとろうとしたワイヤーを片方の手で叩き落している。
「なっ!」
「さすがは化け物と言うところですね!」
エチエンヌが仰天している間にも、ナイフだけを投げたローラはワイヤーの追撃を放つ。今度はロゼウス回収目的ではなく純粋にルースを倒すために飛んだそれもまた彼女はあっさりとかわした。
「危ないわ。ロゼウスに当たってもいいの?」
「あなた方に連れて行かれるくらいなら、ロゼウスさまだって多少怪我してもこちらへ残った方がマシなはずです」
まだ意識を取り戻さないロゼウスの心中を勝手に代弁し、ローラが険のある眼差しでルースを睨む。
「ロゼウス様を返してください」
「……本当にそれでいいの?」
「……何?」
「あなたのそれは本心? ねぇ、本当はこの子が、もうあなたたちのもとに帰らない方がいいのだと望んでいない?」
胸中を見透かされたローラは、ルースに驚愕と怒気の織り交ざった視線を向ける。その手は眼にも止まらぬ早さで動き、まだ持っていた隠しナイフを複数投げた。
両手でロゼウスを抱いたルースをプロセルピナが援護し、ナイフを空中で打ち落とす。他人の手を借りておいて、ルースは嫣然と微笑んでいた。その顔はロゼウスとよく似ている。
「ねぇ、ロゼウスが帰らない方がいいんでしょう? シェリダン王の大事な腹心のローラ=スピエルドルフさん?」
「……うるさいわねッ!」
接近戦では勝てないだろうと己の体力腕力を自覚しているローラはひたすらナイフとワイヤーの遠距離攻撃に集中する。その軌道を読みきれず、残りの者も迂闊に手出しできない。
正確無比な狙いでもって刃はただルースだけを狙っていた。その腕に抱かれたロゼウスには当てない。当てるつもりはない。
だが、ルースの言った事は一面ではローラの心を言い当てていた。ロゼウスが戻ってこないことを願った? そうだ。当たり前ではないか。彼と一緒にいたらシェリダンが死んでしまう。だけれど。
「だけど! それでも! 私はその方を渡すわけにはいかないのよ!」
シェリダンの中で、自分がロゼウスに勝てないことなどローラはとうに知っている。
けれどそれでも、彼女の望みはシェリダンの望みを叶えることだ。
だから。
「要するにあなたたちが全員死んで、これ以上シェリダンさまたちの邪魔をしなければそんなことはどうでもいいのよ!」
敵が襲ってくるから何かを切り捨てなければいけないのだと恐れることになるのだ。だがロゼウスを奪おうとするルースたちがいなくなれば、これまでと同じ日々に戻るだけだ。
「そう。同じように敗者の王を望む身でもあなたはその道を選ぶのね」
ルースが何故か哀しそうな、残念そうな口調になる。しかしロゼウスをしっかりと抱いたその腕は彼を離す気はなさそうだ。
「ロゼウス!」
ローラの攻撃によりできた隙を狙って、シェリダンは駆け出そうとした。プロセルピナの方にもこれまで様子見をしていたエチエンヌのワイヤーが伸び、彼女の腕を絡め取って一瞬だけ行動を妨げる。
今この一瞬を逃せば、もう彼女たちをここで止められる術はない。
だけれど、走り出したはずの足がガクンと止まる。腰に抱きついた重さに動きを封じられた。
「駄目だ……ッ!」
「ハデス―――?」
いつの間に屋敷から中庭に出て来ていたのか、背後からシェリダンの腰にしがみつく形でハデスが彼の行動を邪魔した。
駆け出す勢いを封じられたシェリダンはハデスと二人してその場の地面に倒れこむ。そう体格の変わらない少年が全力でしがみついているのを、いくらシェリダンでも簡単に振りほどくことはできない。
「ハデス! 離せ! ロゼウスが!」
「……いやだ!」
ハデスはハデスで、全力でシェリダンの足止めをしていた。
「……絶対に離さない……!」
その瞳に薄っすらと涙が浮んでいる。
「離さない。ここで離したらシェリダンはロゼウスのもとへと行くんだろう。あいつに関わると、死ぬのに」
「え?」
近くにいたエチエンヌが怪訝そうに声をあげた。後方では新たな悲鳴があがっている。
「メアリー!」
異常に気づいたローラは必死で元皇帝とヴァンピルの王女を足止めしようとするが、ただでさえ厄介な二人相手にそう長くはもたない。反撃を食らって、逆に華奢なその身体が庭園を転がる。
「ローラ!」
エチエンヌの悲鳴。
腰にしがみついたままのハデス。
アンリやロザリーが慌てているのは、ハデスに引きずられてきたメアリーが重傷だからか。
ルースの腕に抱かれたロゼウスはまだ目覚めない。
彼の警護をしていたリチャードは、どうなった……?
様々な考えが一度に頭を過ぎるが、そのどれもを確かめる術がシェリダンにはない。ハデスに動きを封じられたままの彼に、目的を果たして撤退の姿勢に入ったプロセルピナが問いかける。
「あなたの人生を擲つほどの価値が、本当に彼にあるのかしら?」
「ある!」
プロセルピナの問いかけに、ハデスに羽交い絞めにされたままのシェリダンは即答した。
「あなたにわからなくても、私にはそれがある。だから――」
プロセルピナより一足先に駆け出していったルースの姿はもう見えない。ロゼウスは彼女に連れて行かれてしまった。
シェリダンを足止めするハデスを見下ろしながら、プロセルピナが何とも言えない表情で再び口を開く。
「では――追ってきなさい。あなたの全てをかけて。私たちのように、ロゼウス王子自体には何の執着もない人間といくら話したって無駄なのよ。ドラクル王との決着は、あなたたち自身がつけなければ――」
発された言葉はシェリダンへ。それだけを告げるとプロセルピナも彼らに背を向ける。彼女の足下に一瞬で移動用の魔法陣が敷かれた。
「追ってきなさい、シェリダン王」
彼を、ロゼウスを。
失いたくないのであれば。
「くっ……!」
プロセルピナの姿が魔法陣から発された光の中に消える。
後にはただ、荒れた庭園と歯噛みする人々だけが残された。
《続く》