荊の墓標 42

第18章 薔薇の涙に堕ちる国(1)

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 そして薔薇は、この手に堕ちた。

「ただいま戻りましたわ。ドラクル陛下」
 常と変わらぬ穏やかな声と口調。プロセルピナの魔術によって王城へと帰ったルースの様子は、ただ一つのことを除けば常と全く変わらない。
 彼女たちが帰還地点として選んだのは、王城の謁見の間だった。選ぶも何も、プロセルピナの言い分としてはそこが一番都合が良いということである。
 ドラクルは腹心のアウグストと、妹のアン、弟のヘンリーと共にルースの帰りを待ち続けていた。
 彼らにとっての行動時間である夜がそろそろ終わり、東の空は白もうとしている。人々は目覚めるがヴァンピルたちとしてはそろそろ眠りにつこうかという頃だ。
 朝の清らかな光は、魔族である彼らには眩しすぎる。悪夢しか見ない白い夜明けの頃合に、しかしルースとプロセルピナ、二人の女性は王城へと戻って来た。
 謁見の間中央に薄緑の光の円が湧き上がり、その中には複雑な図形と緩やかな線で書かれた文字が埋め込まれる。魔法陣の中から引き上げられるようにゆっくりと、その姿が現れる。
「お帰り、ルース」
 陛下、と公的な呼び方で話しかけた妹に、ドラクルは普通に名を呼んで返す。場所こそ王国の権力の中枢であるが今この状況でかしこまるほど、馬鹿馬鹿しいものもない。
 その理由は、戻って来たルースの腕の中にある。ぐったりとして動かない、くたびれた旅装束の華奢な人影。
「ようやく、あなたの弟が戻りました」
 銀廃粉の毒によっていまだ目覚めないロゼウスを抱え、ルースがその白い面にうっそりとした笑みを浮かべる。激しい戦闘の後にも関わらず傷ひとつない手を伸ばし、彼女は弟の頬にかかる髪をそっと払ってやった。
「ロゼウス!」
 彼の姿に反応したのはドラクルだけではない。長く国を空けていた第四王子の登場に、顔色を変えて駆け寄ってきたのは第一王女であるアンだ。
 しかし彼女が弟に対して伸ばそうとした腕は、ロゼウスに触れる寸前でやんわりと止められる。
「何故止めるのじゃ、ルース。ロゼウスは怪我でもしておるようじゃ。はよう手当てせねば」
「怪我ではありませんわ、アン。この子は銀廃粉を吸って少し眠っているよ」
 ルースに身を預けるまま意識のない様子であるロゼウスを気遣ったアンの言葉に、ルースはいつもと同じ微笑を浮かべて彼女を退けた。
「今のこの国の主はドラクルでしょう? まずは彼に引き渡さなければ。ねぇ」
「……その通りですね、姉様、お下がりください。ドラクル兄上に任せましょう」
「じゃが……」
 まだ複雑そうな顔をしているアンを、背後から追いついてきたヘンリーがその肩を押さえるようにして引きとめた。
 アンはドラクルがロゼウスを敵視する理由、ヴラディスラフ大公の息子であるドラクルではなくロゼウスこそが本当のローゼンティア第一王子だということはわかっているが、それ以上のことには思い至らない。しかし持ちうる情報量こそ姉とさして変わらないヘンリーは、その理由があればこそ、ドラクルがこれまでロゼウスを手に入れることに対して躍起になっていたということがわかっている。
 たぶん己と言う人間はアンよりも醜く、自己利益に執着して欲深い思考なのだろう。そう考えるヘンリーだが、しかしそれ自体を悪いとは思わない。自らの利益にこだわることなど、ひととして当然だ。そしてそう思うからこそ、ドラクルがこれからロゼウスに何をするのかの予想も、ある程度はついている。
 二人は、これまでドラクルがロゼウスに対してどんな態度をとってきたのかをはっきりと知っているわけではない。
「ロゼウス」
 玉座から降り立ち、赤い絨毯の敷かれた謁見の間中央を歩きドラクルは魔法陣からルースたちが現れた地点にまで寄る。
 服の裾が床に着くことも構わずにルースの傍らに屈みこんで、彼女の腕に抱かれたロゼウスの顔を覗き込んだ。
「よくやった、ルース」
「勿体なきお言葉……」
 ロゼウスの頬に手を伸ばして触れながら、ドラクルはまずは妹を労った。
「あなたにも手間をかけさせた。プロセルピナ卿」
「いいえ。これから私も手を貸してもらうんだもの。お互い様だわ」
 ルースの背後に腕を組んで立つプロセルピナにも言葉をかけ、そうして改めてまたロゼウスへと視線を戻す。
 ルースの見積もった計算に寄れば、銀廃粉の影響はそろそろ抜ける頃だろう。ほとんど回復してきているロゼウスも、そろそろ目を覚ます。
「ロゼウス」
 ルースの腕に抱かれたままの「弟」に対し、もう一度呼びかける。これまではどんなに呼びかけても肌に触れても反応のなかったロゼウスが、ここに来て初めて眉根を寄せた。
「ぅ……」
 小さく呻き、瞼を震わせる。
「プロセルピナ卿、今から魔術の準備をできるか?」
「何を? ……ああ、ロゼウス王子が動かないように?」
「そう。縛り上げてくれてかまわない」
「それでもいいけれど。あなたたちにとってはこれの方が馴染み深いでしょう。魔術の檻はいつ緩んだかが目に見えないけれど、これならばその辺もわかりやすいわ」
 ロゼウスが完全に目覚めきる前からその抵抗を予測して、ドラクルとプロセルピナはそんな会話を交わす。プロセルピナがいつの間にか掌に取り出したものは、じゃら、と不吉な音を立てる銀の鎖だった。
 吸血鬼は銀に弱い。銀で作られた拘束具は、ヴァンピルの抵抗を封じる。プロセルピナが指を一振りすると、その拘束具が音も無くロゼウスの手足にはまった。
「これでどう?」
「ああ。すまない」
 話し声が刺激となったのか、ロゼウスが小さく身じろぎする。
「ロゼウス」
 まだ完全に覚醒しきらず、猫の子のようにむずがる様子のかつての弟の頬に手をあて、ドラクルは再び名を呼んだ。
 ふるふると瞼を震わせて、ロゼウスが深紅の瞳を覗かせる。半分とろんとしたその瞳はものをしっかりと見つめている様子ではなく、いまだどこか夢の中にいるようだ。ゆっくりと瞬きを繰り返して、ルースの膝の上で自分の居場所を確認するように視線を彷徨わせた。
「どこ……なんで、俺……」
 寝起きの舌足らずな口調で、混乱した頭が意味のない言葉を零す。
その様子にふっと一瞬和やかな笑みを口元に浮かべたドラクルの表情が、しかし次の瞬間恐ろしく凍りついた。
「シェリダン……」
「!」
 この状況をまだ十二分に理解していないとわかりながら、いや、だからこそロゼウスの口から自然と零れ出たその名にドラクルの胸は波立つ。
「ド、ドラクル?」
 彼の様子の変化にただならぬものを感じて、アンが気遣わしげに声をかけてきた。しかしドラクルは彼女を振り返ることすらせず、再びロゼウスの名を呼んだ。
「ロゼウス」
 静かだが叩きつけるようなその響に、ロゼウスの脳が一気に覚醒する。半分伏せていた瞼をしっかりと開くと、上体を起こし、深紅の瞳で辺りを見回した。
「な、ここは――」
「そう。お前の生家、ローゼンティア王城だ」
 あえて正面の彼から視線を逸らそうとしたのか、首を捩じり天井へと視線を向けていたロゼウスに淡々とドラクルは告げる。
「ドラクル、兄様……」
 恐る恐る視線を彼へと向けたロゼウスは、その瞬間凍てついたドラクルの眼差しと出会う。張り詰めたようなドラクルの無表情は、しかしすぐに意地悪げな笑みへと変わった。
「ああっ!」
「ドラクル、何をっ」
 突然前髪を乱暴に掴まれて顔を上げさせられ、ロゼウスは苦痛の声をあげた。アンが口元を手で押さえ、さすがのヘンリーもこの暴挙には驚いたか、ドラクルを止めようとする。
 ロゼウスの手元でじゃらりと鎖の冷たい音がした。その時になって彼は自らが拘束されていることに気づく。
「目覚めの気分はどうだ、ロゼウス」
「な、ドラ、クル……なんで、シェリダンは……?」
 自らのこの状況よりも、姿の見えない相手のことを気にしたその台詞に、ますますドラクルの神経はささくれ立つ。
「他人のことなど気にしている場合か? ロゼウス」
 ますます強く髪を引っ張り、その勢いでロゼウスを立たせながら、ドラクルは恍惚と残酷の宿る表情で告げた。
「お前はついに、我が手に堕ちたというのに」

 ロゼウスは、ドラクルに囚われの身となる。