荊の墓標 42

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 それぞれの傷痕はさして深くないが、被害は大きい。
「くそっ!」
 舌打ちと共にテーブルの上を叩きつけ、シェリダンは毒づく。その反応に項垂れて謝罪を述べるのはリチャードだ。
「申し訳ございません」
 寝室で銀廃粉の影響のために眠り続けていたロゼウスの警護をその時していたのはリチャードだった。彼は襲撃をかけてきたルースにあっさりと昏倒させられ、ロゼウスを奪われてしまったという。
 ルースが手加減したのかあるいはこれも何かの思惑なのかわからないが、リチャードはさほど大きな怪我を負ってはいない。しかしまったく足止めの役目を果せなかったのだから、本人としては不幸中の幸いとも思えない様子である。
「それを言うならば、わたくしですわ……」
 そしてもう一人、この場で盛大に落ち込んでいる人物がいる。
「わたくしが、人を呼びに行けなかったから……」
 リチャードに言われて救援を呼びに行ったはずのメアリーだが、それは叶わなかった。彼女は彼女で屋敷の中庭で戦っていたシェリダンたちのもとへ向かう前に、ハデスの魔術によって眠らされてしまうのだ。
「別に、お前たちのせいではない。私の見通しが甘かっただけだ」
 実際、誰の責任でもない。ルースとプロセルピナという世界最強の女性二人組の襲撃に渡り合える人物などそうそういるはずもない。
 強いて痛手をあげるとすれば、ハデスのまたもの裏切りか。メアリーを眠らせ、ロゼウスが連れて行かれるのを阻止しようとしたシェリダンの動きを更に邪魔した。今は縄で縛り上げて一室に監禁しているが、相手が魔術師である以上無意味とも思える。
 プロセルピナにぼろぼろにされたジャスパーはヴァンピルの高い再生能力を持ってしてもいまだ完全回復にはいたらず、アンリに付添われて休んでいる。ロザリーとエチエンヌがハデスの見張りをし、ローラが給仕に回っていた。
こんな時に食事もないだろうが、食べなければ身体が持たない。
 一行はこれから、ロゼウス奪還のためにローゼンティア王都に建つ王城へと向かわねばならないのだ。ローゼンティア人にとってシェリダンやリチャードのようなエヴェルシード人は見ただけで憎悪の的だ。ロザリーやメアリーはともかく、第二王子であるアンリは市井の人々に顔も知られている。
 組んだ腕に顎を乗せ、シェリダンはその道行きの困難さと共に、その果てに待っている相手のことを思う。
「ロゼウス……」
 警戒はしていたつもりだったのに、まんまとルースに掻っ攫われてしまった。眠り続けていたロゼウス自身はこの状況を何一つ知らないだろうに。
 ドラクルの下に連れ去られて、どんな目に遭わされているか……。
 ぎり、と唇を噛み締めてシェリダンはいっそう深く項垂れる。
「シェリダン様……ハデス卿はどうなさるのです?」
 そこに、遠慮がちなリチャードの言葉がかけられた。
「ああ……それも考えねばな」
 ハデスのことは、縛り上げて部屋に放り込んだままだ。ロゼウスを助けに王城に向かうのであれば、彼の問題も先延ばしにしている場合ではない。
「あの……わたくし、お料理を手伝ってきます」
 二人の男の話の思い雰囲気を察して、メアリーはそう申し出た。控えめに一礼すると、部屋を出てローラが食事の支度をしている調理場へと向かう。
 彼女の気配が完全に消えた所で、リチャードが再び口を開いた。
「我々は二手に分かれた方が良いのでしょうか。ロゼウス様の奪還を行う者たちと、残ってハデス卿を見張る者と。ジャスパー王子もあの通り重傷ですし」
「やめておけ。それでは先程と同じだ。ただでさえ私たちの戦力は偏っている。これ以上戦える者を減らして行動するのは得策ではない。それに恐らく、ジャスパーもあの調子では明日までに回復するだろう」
「本当ですか?」
「ああ。私がロゼウスを見ていた限りの経験ではな。アンリ王子もそう保証した。それよりお前の方は大丈夫か? リチャード」
「私はかすり傷だけですので、お気遣いなさらず。陛下こそ……」
「私に怪我はない」
「そうですか」
 それだけやりとりすると、また話題が途切れてしまった。
 ジャスパーの怪我が治るまでに丸一日、それだけ待ってくれとアンリは告げた。行動を起こすのは真昼が良いだろうとも。ヴァンピルにとって本来は夜こそが活動時間帯で、昼は眠りの時間だ。これまではシェリダンたち人間の常識に合わせて昼日中に行動していたが、ローゼンティアでは夜に動くのは目立つ。
 闇討ちならぬ光討ちだ、と。ヴァンピルにとっての眠り際を狙って行動した方がいいという。怪我をした者も無傷の者も、昨夜の戦闘で疲れきった体を癒す必要がある。
だが苛立ちは、焦燥は、消えない。
 ロゼウスが攫われたことだけではない、リチャードが指摘したハデスのことも引っかかってはいる。
 プロセルピナによって落とされた崖下で、彼を背負いながら道を歩いた。少しはわかりあえたと思ったのだが、それもまたまやかしか、それとも自分の勝手な思い込みだったのだろうか。
 解決しなければならない問題は山積みだ。シェリダンには焦りだけが募る。
 自分がいつ死ぬか、いつ死ぬかと考えながら過ごす日々は嫌なものだな、と。
 だが未来が見えているからこそ、哀しくも前向きに考えられる物事もある。神に祈りはしない。だが今だけは運命とやらに期待している。
 シェリダン=エヴェルシードを殺すのはロゼウス=ローゼンティア。それだけは変わりないのであれば、ロゼウスがいない今この場でシェリダンが命を落とすはずがない。
 真っ暗な未来から手探りで自分に有利な条件を拾い上げ、シェリダンは行動を起こす。
「よし」
「シェリダン様」
 ふいに椅子から立ち上がった主君の姿に、リチャードが顔を上げた。
「ハデスのところに行ってくる。一度彼とも話し合わねばならないからな」
 リチャードは先程までの自らの言葉がシェリダンにそれを促すようなものとは思っていなかったようで、ちょっと意外そうに目を瞠った。彼としては、ただハデスに対する処分をどうすべきかを問うたつもりだったのだ。
「私が同行いたしましょうか? シェリダン様、もしもまたハデス卿が裏切ったら」
「必要ない」
 怒りや苛立ちではなく、苦笑気味に告げられたその言葉に、リチャードは胸中では躊躇っている風情を見せながらも存外あっさりと引いた。
「……わかりました。お気をつけて。この言葉も、不要なものとなりますように」
 シェリダンが幼い頃から侍従をしているリチャードは、彼の交友関係を良く知っている。皇帝陛下の弟という大層な立場にありながら姉の愛人であると噂されるハデスと、母のことで王家に引け目があったシェリダンはそのためか、それともそれはそれで別だったのか、確かにかつては友人だったはずなのだ。
 もはやカミラのものとなったエヴェルシード王としてでもなければ、この一行のリーダーとしてでもなく、ただのシェリダンとして友人であるハデスとの話し合いに赴こうとする彼に護衛など申し出るのは野暮だ、と。リチャードは己を戒めて主君を送り出す。
「ありがとう。……たぶんハデスとは、ここでの話が最後になるだろうからな」
「長い人生です。ハデス卿の寿命については、デメテル帝が画策したおかげで延びたのでしょう。一度は疎遠になったとしても、お互い生きていればまた必ず会えますよ」
 リチャードは死んでしまってもう帰らない己の家族のことを思い返して言ったのだったが、その言葉はまたしてもシェリダンにそれとは違う意味で意識をさせた。
「……ああ、そうだな」
 しんみりと頷く主君を優しい眼差しで見つめるリチャードは知らない。自分より十も若い主君の寿命が、自分とは比べ物にならないほど短いことを。
「行ってくる」
 シェリダンは静かに微笑むと、彼を監禁した場所へと向かうために部屋の扉に手をかけた。

 ◆◆◆◆◆

 前髪を乱暴に掴まれたまま、ロゼウスは王の寝室へと引きずり込まれた。
「うぁっ!」
 プロセルピナの用意した純銀の拘束具によって力の出せないロゼウスは、ドラクルに突き飛ばされて寝台に倒れこむ。苦しい身を捩り、兄を振り返った。
「ドラクル……」
「王をつけてもらおうか? 今の私は、ローゼンティア国王なんだよ、ロゼウス」
 ぎし、と寝台を軋ませて、ドラクルは倒れこんだロゼウスの上に覆いかぶさってくる。ロゼウスの両腕を拘束する腕輪は腕の間を鎖で繋いでいるが、その長さには十分な余裕があった。ドラクルはロゼウスの両手首を掴んで顔の横で押さえつける。冷たい鎖が胸の上に落ちた。
「ああ、本当に久しぶりだね。私のロゼウス」
 真上から覗き込まれ、所有格で呼ばれる。彼の手によって鎖で縛られるのも、暴力を振るわれるのも慣れている、当然のやりとりのはずだった。――シェリダンに出会うまでは。
 今ではもう、ロゼウスはドラクルのこの言葉を信用しない。彼が欲しいのは、ロゼウス自身ではないのだから。
「は……離して、兄様……」
 とは言っても十年もの歳月、身体と心に刻み付けられた恐怖は簡単に消えるものではなく、ロゼウスは声を震わせながらそう哀願した。
「駄目だよ。離したらまたすぐ、お前は逃げてしまうだろう?」
 声だけは薄気味悪いほどに優しげに、ドラクルは弟にそう言い聞かせる。だが穏やかなのは声ばかりで、それ以外の態度はとても兄が弟にするものとは思えない。
 それも今では当たり前なのだと、ロゼウスにももうわかっている。十七年も経ってようやく知った真実、自分たちは兄弟などではなかった。
 その出生が、ドラクルの中に狂気を育んだ。当然報われてしかるべき努力を踏みにじられた彼が、怒りを露にすることはわかる。でも、だけれども。
「離して、兄様……もう、俺を自由にして」
 彼の悲しみの元凶はヴラディスラフ大公フィリップとローゼンティア王ブラムスであって、他の多くのローゼンティアの者たちは関係がない。ただ王に従い慎ましやかに大陸の辺境で暮らしていただけの民を、ドラクルは自らの復讐のためといってこれまで多く手にかけすぎた。
 ローゼンティアにとっては侵略者であるエヴェルシードだって、ドラクルがシェリダンを手引きしなければあそこまで過激な行動には移らなかっただろう。戦争のために死んだ者はエヴェルシードにだっているのだ。その意味では彼らも被害者である。
 そして今度の事態を引き起こしたのはドラクルだ。加害者となった以上被害者でも、今では嘆くだけなど許されはしない。
「兄様……もう、やめて」
「やめる? 何を?」
「全部……ローゼンティアを無理に支配するのも、エヴェルシードに手を出すのも、全部、やめて。俺を恨むのは構わないけれど、アンリ兄様やロザリーにまで、刺客を差し向けるのはやめて」
「アンリたちに刺客なんて差し向けた覚えはないよ、私は。彼は私の大事な弟だ。ロザリーも、もう妹ではないけれど、大事な家族だからね」
「でも、でもプロセルピナ卿が」
 従わないなら殺しても構わないと。
「そうだよ。いくら私が彼らを愛していても、向こうの方で私の言う事を聞かないなら仕方がないじゃないか。
「兄様!」
 咎めるような声をあげたロゼウスに、ふと冷ややかなドラクルの眼差しが降りる。
「でももう、お前がいるならば関係ないかもね」
 そう言って彼は歪に笑うと、動けないロゼウスの唇を奪った。
「ん……ぅう!」
 滑り込んでくる舌の感触に、ロゼウスは初めて嫌悪感を覚える。嫌だ、触られたくない。
 彼以外のひとに。
「やめて! 兄様、嫌だ!」
 やっと唇が解放されると、そのまま鎖骨に降りたドラクルの舌先に叫ぶ。身を捩り抵抗を表わそうとするが、銀の拘束具のせいでそれもかなわない。
しかし微かとはいえ抵抗されることが気に食わなかったのか、ドラクルはゆっくりと顔をあげた。
「どうした? ロゼウス。お前はこの部屋に来るまでにも四度ほど抜け出そうと抵抗していたね、その身体では何もできないことがわかっているだろうに。それに今も、何故私を拒む?」
 全く素直にならないロゼウスの態度に、ドラクルも少し苛立ってきたようだ。初めこそ小動物が怯えるようなその姿を見て嗜虐心を満足させていたが、そればかり続いても興が冷める。
「兄様、俺は……」
「そうだね、お前はいつも私に怯えていたね。新しい玩具を手に入れたから試そうとすれば震え、他の奴らを交えて楽しむとすれば青褪め、強烈な薬を飲ませようとすれば涙を流す。でもいったんそこを通り過ぎてしまえば、後は従順な、私の人形だった」
 そうだろう? 耳元で囁く。
 私の可愛いロゼウス。囁かれた、聞きなれた言葉に、ロゼウスの身体がびくりと大きく震える。日毎の寝台で繰り返された言葉は呪いのようだった。
「いや……いやだ!」
 叫んで、せめてもの抵抗をと腕に力を込め、ドラクルの胸を押し返そうとする。その姿を見下ろして、ドラクルが瞳を細めた。
「……そうしていると、まるであの頃に戻ったようだね」
 十年前、男同士ではもちろん、男女のことすら何も知らなかった七歳のロゼウスをドラクルが無理矢理犯した初めの頃と。
「私がお前に触れるたびに、お前は怯えて泣き叫んだ。いつも聞きわけがなくて、それで」
 ドラクル自身もあの頃は若かった。泣き叫ぶ弟に苛立ち、しまいには手をあげるようになった。
 バシ、と乾いた音が室内に響く。ロゼウスが大きく目を見開き、喉が引き攣れたように声を失う。じわじわと叩かれた頬に痛みが滲んできた。
「お前がいつまで経っても強情だから、私だって乱暴しなければならなくなるんだよ、ロゼウス」 
 十年前と同じ言葉で、幼子を宥めるようにドラクルが言う。
「そうしたらお前はまた火がついたように泣き出して、ますます手に負えなくなった」
 今のロゼウスはそこまで激しく泣き喚くことなどしない。だが、刻み込まれた恐怖がまざまざと蘇り、動けなくなってしまう。
「仕方がないから私はお前が落ち着くのを少し待って、泣き止み始めたお前に言った」
「あ……あ……」
「『お前が聞きわけのない悪い子だから、私はお前を打たなければならないんだよ、ロゼウス。殴られたくなかったら、いい子にして、言うことを聞きなさい』」
 当時のロゼウスは毎日のように繰り返し殴られ、それを聞いて。
「やめて……兄様、やめて……」
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて! なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 ちゃんと言う事を聞くから、殴らないでくれ、と。
 他の兄妹の前で見せるのとは打って変わって冷酷な表情をした兄に、涙ながらに懇願した。
 エヴェルシードのヴァートレイト城でどこからか現れたドラクルに犯された後、恐慌状態に陥ったロゼウスはシェリダンの前でもそう口走った。ドラクルによる行為の強制は、初めは単純な暴力を伴うものだったのだ。
 思い出したロゼウスの瞳から涙が溢れ出し頬を伝う。ヴァートレイト城の時の事は、まだあの場に突然ドラクルが現れたのが信じられなくて夢のようだと思っていた。だけれどあれは確かに現実で、そして今のこの状況も現実以外のなにものでもない。
「お前が最初から私に逆らわず、いい子にしていれば殴る必要なんかないんだよ」
 あの頃のように楽しげに冷酷に笑ったドラクルがそう宣告する。叩かれ、あの頃の恐怖を思い出してしまった衝撃でもはや鎖がなくても動けないロゼウスは、何も考えることができなくなる。
「十年間もかけて、お前はだんだんと私を愛するようになった」
 放心状態のロゼウスの顎を捕らえてもう一度口づけ、ドラクルは言う。
「戦争前に別れる最後の方ではお前は自ら私に抱いてと迫り、腰を振るようにまでなったのに、最後は私を殺して自分も死ぬとまで言ったのに、どうして今またもとに戻ってしまったんだい?」
 十年もかけて調教した弟がまともな理性を取り戻したのを見て、その理由を認めたくはないが勘付いているドラクルは不快げに目を眇める。
 ロゼウスにかけられた、呪いとも言うべき思い込みを解き放ったのはシェリダン。ドラクルはそれが気に入らない。
「言っただろう、ロゼウス」
 毒々しく赤い唇が、泣き顔の弟を見つめながら歪む。
「悪い子には、お仕置きだ」

 ◆◆◆◆◆

 じゃらり、と耳障りな鎖の音が響いている。寝台の足に固定されたそれがロゼウスの体の動きを厳重すぎるほどに封印する。吸血鬼としての能力を封じられて今の彼はか弱い人間の少女程度の抵抗しかできない。
 そしてドラクルはその程度の抵抗が通じる相手ではない。公正な条件で一対一で真剣に戦ったとしても彼に敵う者などそうはいないのだ。いかなロゼウスと言えども、そう簡単に振り払える相手ではなかった。
 何より、過去にその身体と心に刻み付けられた恐怖が彼の動きを縛る。
 剣だこのある大きなたくましい手、だが醜さとは無縁の整ったその手が、優しく頬を撫でてくる。そのことすら恐ろしい。ドラクルが優しくするのはいつも、ロゼウスに酷いことをする前後だった。今も彼は、先程自分がはたいたばかりで赤くなったロゼウスの頬を撫でている。
 寝台に仰向けに両腕を固定されて転がされているロゼウスの上に、ドラクルがのしかかる。その手がロゼウスの胸元に伸び、口元には笑みをはいたその表情のまま、暴漢のようにロゼウスの服を引き裂いた。
「あ……」
「どうした? 生娘じゃあるまいし、今更裸を見られたくらいで動揺する間柄でもない」
 ロゼウスが着ているのは貴婦人のドレスのように絹でできているような繊細な服ではなく、旅用の男物の頑丈な衣服だ。それを紙のように容易く引き裂いて、露になった白い肌を見下ろしドラクルは笑う。
 舐めるようなその視線に、ロゼウスの身体が震える。すっかり彼に怯えたその様子に、ドラクルが笑みを消し、傷一つない鎖骨に触れながら言った。
「本当に、すっかり元に戻ってしまったようだな……これがシェリダン王の力か?」
 出された名に、思ったとおりにロゼウスは反応を見せる。正直なその様子に内心のつまらない思いを隠し、ただロゼウスを嬲りその絶望を深くするためだけにドラクルは続ける。
「やれやれ。シェリダン王には困った者だ。私が彼にヴラディスラフ大公を名乗り頼んだのはローゼンティアに侵略して、国王とその妃たちを殺すこと。お前を彼にあげるなどと、一言も言った覚えはないと言うのに」
 ヴァンピルは一度生命活動を停止した程度で真実の死には至らない。ましてやノスフェル家の出であり、これほど強い力を持つロゼウスがその程度で死ぬはずがない。
 適当なところで国王夫妻たちを除いた兄弟姉妹を蘇らせてエヴェルシードの軍勢を引かせ、ローゼンティアのぎ玉座を我が物として奪うはずだったドラクルの目論見はシェリダンの予想外の行動によって崩された。彼はドラクルが復讐の証に手中にすることを望んでいたロゼウスを見初め、エヴェルシードに連れ帰ってしまったのだ。
「可愛いロゼウス。お前がいなければ、私の目的は達成されない。ローゼンティアから王の血脈を、この私の手によって奪う。お前はシェリダン王ではなく、この私の花嫁となるべきだったのに」
 あまりにも利己的で独りよがりな恐ろしい企みを、ドラクルは今となっては当然のようにロゼウスに話して聞かせる。聞くロゼウスの顔色が、一言ごとに悪くなるのもお構いなしだ。
「王となったならばお前を鎖に繋いで閉じこめて置こうか、それともハデス卿にでも頼んで、手足を斬りおとして生きたまま飾っておこうかと考えていたのに、シェリダン王がお前を攫って行ってしまった」
 狂的に歪む口元が、ロゼウスの怯える表情を楽しんでいる。
「だがお前はようやく戻って来た。王となった私のもとに」
 そう言うと、ドラクルはロゼウスの唇に己のそれを重ねた。するりと滑り込んだ舌が、口腔を貪っていく。
 幾度目かの深い口づけに呼吸を奪われながらも、ロゼウスはできるかぎりの抵抗をする。それはもはや抵抗の形を成さぬほどに非力なものであったが、拒絶の意志だけはドラクルにも伝わっている。
 銀の糸を引くようにして唇を離したドラクルを見上げ、ロゼウスは呼吸困難のために赤く上気した顔で尋ねた。
「兄様は、俺がいらないんじゃなかったの……?」
 その目元は、今しがたの長い口づけのためか潤んでいる。
「あの時、ローゼンティアがエヴェルシードに攻め込まれる前、最後だと思って縋った俺をあなたは突き放した」
 一緒に死んで。これほど熱烈な求愛もそうはあるまい。だがドラクルはロゼウスのその言葉を哄笑で返すと、逆にロゼウスが逃げ出したくなるほど乱暴に彼を抱いた。
 それで彼が壊れてしまっても構わないというように。
「ああ、そうだな」
 自分で言ったことを忘れたわけではなかったのか、ドラクルはロゼウスの言葉に頷いた。
「あれも確かに私の本心だ。お前が憎いよ、ロゼウス」
 対象へと憎悪を告げながら、ドラクルは平然と微笑んでいる。その神経がロゼウスにはわからない。何故、
「憎いなら殺せばいいじゃないか……どうして……」
 何故、自分を殺しはしないのかと。
「わからないのか? お前には。そうだな、わからないのかも知れないな」
 口づけが降りてくる。
 けれど今度は唇にではない。額に。優しく、それこそ兄が歳の離れた弟に親愛の情から行うのに相応しい優しい口づけ。
「こんなにも私から憎まれているくせに、お前は本当には誰のことも憎んだことがないのだから」
 ロゼウスは感情の薄い人間と言うわけではない。喜びもすれば怒りもするし、家族に対する親愛の情もあれば罪なき者を殺せば罪悪感が芽生える。決して他人の情に疎い性質ではないのだが、ドラクルは彼が憎しみを知らないと言った。
「そんなこと……」
 そんなことない、と告げようとしたロゼウスの言葉が途切れる。そんなことない? ないと思っていた、自分では。そんなに綺麗な感情の持ち主ではない自分は、敵対する者を簡単に憎める。自分をセルヴォルファスへと連れ去ったヴィルヘルムのことはシェスラートに肉体を乗っ取られていたとはいえ殺害したことを後悔したことなどないし、ミカエラを殺したハデスのことも憎んでいる。エヴェルシードに攫われてきた当初はシェリダンもエチエンヌやリチャードたちも、誰もが憎しみの対象だった。
「お前が思っている憎しみなど、憎しみのうちにも入らないよ」
 さらりとロゼウスの疑問を流して、ドラクルは続ける。
「殺す方が簡単だ。ただ目障りなだけならば、殺せばいい。だけど憎しみとは、そんなものではないんだよ」
 嘲るようにも、諭すようにもとれる不思議な声と表情でドラクルはそう言った。ロゼウスにはそれが理解できなかった。
 殺す方が簡単だ。だから殺さない。
「私はお前を永遠に憎み続ける」
 だから私の側にいろ。
「そしてお前も私を憎めばいい。憎んで憎んで、そうしていつか私を……」
 今度はドラクルの言葉が途切れる番だった。続きがやけに気になって、ロゼウスは思わず尋ねた。
「私を……何?」
 しかしドラクルは答えずに、ロゼウスの両手首を握る腕にふいに力を込めた。
「痛っ!」
 小さく声をあげるロゼウスを無視して、体重をかける。
「そういうことだ。ロゼウス、私はもう、お前を手放してやる気などない」
「俺は、ここには留まらない!」
 ローゼンティアに、という意味ではない。実質的にこの国に留まる事は不可能だろうが、ロゼウスが言いたいのはそうではなく、ドラクルのもとには留まらないということ。
 だって自分はシェリダンを選んだのだ。たとえ彼がいつか自分に殺される運命を持とうとも。
 だから、ドラクルを選ぶことなどない。 
 それでも、ドラクルはロゼウスの反応など意に介さず一方的に宣告する。
「お前の気持ちも都合も関係ない。そんなもの私の知ったことではない。お前はもう私のものだ」
 ドラクルが片手をロゼウスの手の上から退け、代わりに自らの衣服の襟元へと伸ばす。釦を外し始めたその行動に、ロゼウスは今度こそぎくりと硬直する。
「離れたいなどと言っても、離れられなくしてやる」
 壮絶な笑みが、ドラクルの口元に浮んだ。