荊の墓標 42

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 部屋の時計にちらちらと何度も視線を送り、前に見たときとほとんど針の位置が変わっていないのを確かめては嘆息して視線を戻す。しかし単調なそれも何十回どころか何百回となく繰り返した今は、大分時間が過ぎているはずだ。
「……のぅ、ヘンリー」
 時計を眺めていても変わらないこの状況に痺れを切らし、アンが口を開く。
 同じ部屋の中、アンよりは落ち着いた様子で待機していた弟王子に話しかける。待機していたとは言っても、本当にすることのなかったアンとは違い、ヘンリーは彼がドラクルから割り当てられた分の仕事をこなしていた。
 アンの溜め息とヘンリーの書類をまくる音だけが響いていた室内。しかし今アンが口を開いたことによって変わる。ヘンリーは仕事の手を止め、姉の方へと顔を向けた。
「いかがいたしました? 姉上」
「別にどうもしておらぬ。しておらぬからこそ、気になるのじゃ。ドラクルがロゼウスを連れて行ってから、もうどれくらい経つか……」
 ルースとプロセルピナの手によって王城に連れて来られたロゼウス。彼女たちにとっても弟である彼のことについてだが、アンたちはドラクルがロゼウスをどのように扱っているのか知らない。久方ぶりに再会した彼と言葉を交わす間もなく、ドラクルがロゼウスを連れていってしまったのだ。
 ドラクルの部屋には現在、誰も入るなと命じられているらしい。アンはロゼウスのことはもちろん、彼と共にいたはずのアンリやロザリーについても事情を知りたがっているのだが、ドラクルが彼女たちのもとに説明に来てくれる気配もない。自然と気になって、彼女は自室に戻ることも躊躇われている。
 ヘンリーはアンのようにロゼウスを心配するわけではないが、彼女が部屋に戻る様子がないのでつきあってこの部屋にいるのだ。もともとヘンリーとロゼウスはそれほど仲が良いわけではない。長兄にして王子として申し分のない能力を有していたドラクルに憧れていたヘンリーは、幼い頃はドラクルにべったりだったロゼウスのことが気に入らなかったのだ。
 大人になった今ではそれほどロゼウスに嫉妬することもないが、他の兄弟が年齢の近い者同士で纏まることが多いのに比べれば第三王子である彼と第四王子であるロゼウスの付き合いは薄い。誰に対しても面倒見の良いアンリが仲介に入って兄弟姉妹の間を取りまとめていたが、その彼も今この城にはいない。
「のぅ、ヘンリー」
「何ですか?」
 再びアンが話しかけてくる。
「ドラクルに取り次いではもらえないじゃろうか」
「……私が? ですか?」
 愛する姉からの思いがけない頼み、ヘンリーは軽く目を瞠る。しかしアンの様子は真剣だ。
「ああ。いくらなんでもドラクルのあの、ロゼウスに対する態度は変じゃった。とにかく一度集まって話し合いたいと思うのじゃが……ドラクルは、わらわの話は聞いてはくれない」
 悔しそうに唇を噛んでアンが言う。
「姉上、兄上には深いお考えがあるのですよ、きっと」
 ドラクルは才能のある者を好む。そのため取り柄は美貌だけで無能と有名だったミザリーには目もくれなかった。アンはミザリーと違って芸術面や他の分野ではその才能を発揮するが、政治的なことには通じていない。そのためドラクルはアンを蔑むでもないが、しかし重要な話を彼女にしようとはしないのだ。ヘンリーはそれを知っているので取り成すように言った。
 しかし今日のアンは引かない。
「ああ。じゃが、それでもやはり気になるのじゃ。ドラクルの先程の乱暴な振る舞い。確かにドラクルの立場からすればロゼウスを疎ましく思ったとしても仕方がないが、しかしこれまでは十分兄弟として仲良くやって来たのじゃろう。あんなことをせずとも良いではないか」
 思い出すのは先程意識を取り戻したロゼウスの髪を乱暴に引っ張り、彼を引きずっていったドラクルの姿だ。確かにドラクルは以前からロゼウスを手に入れるとは言っていたが、あれはやりすぎだとヘンリーも思う。
 それでもまだこの時までは、ヘンリーはドラクルが「多少の」意地悪をロゼウスにするくらいは当然の報復だと思っていた。いきなり自分が父の子ではなく叔父の子だと言われ弟だと思っていた相手に玉座を奪われようとした怒りは並みのものではないだろう、多少の八つ当たりは当然だと。
 しかし彼は、敬愛する兄上の行動を尊重したいのは山々だが、それよりも愛する姉上の懇願が気になった。
「のう、ヘンリー」
 正面の席から、自分の座る長椅子のすぐ隣に移動してきたアンがヘンリーの服の裾を引っ張る。
「なんとかならぬか? ドラクルに、わらわたちともロゼウスを会わせてくれるよう言ってほしい」
 先程ドラクルがロゼウスを連れて行って今どうなっているのかわからないが、一通り話が終わったら自分たちとも会わせてほしい、とアンは言う。
「姉上……」
「ドラクルに信用されておるそなたの言う事なら、ドラクルも聞いてくれるじゃろう? ヘンリー、行っておくれでないか?」
「まぁ……少し様子を見て、声をかけるだけなら」
 この姉に弱いヘンリーは、どうせたいしたことはないのだろうと頷いた。ドラクルの部屋に篭もったまま、出てこない二人。一体何を話しているのやら。
 安心していたのだ。例えドラクルがロゼウスを憎んでいても、地下牢に入れるようなことはない。それならば良かったのだ、と。
 だが王の豪奢な寝室は優雅な牢獄に過ぎなかった。
「兄上」
「……ヘンリーか」
 王である兄の寝室の扉を叩く、途中で従僕に聞いたとおり、彼はそこにいるようだった。ロゼウスの行方も同じ部屋の中だと聞いた。
「お願いしたいことがあって参りました、ここを開けて――え?」
 妙に掠れた、疲れたような声で返事をしたドラクルに向けて、ヘンリーは堅い木の扉の向こうから話かけていた。許可をもらえればすぐに開くつもりでノブに手をかけていたのだが、部屋の前に見張りもいないのに鍵をかけていなかったのか、寝室の扉は台詞の途中で簡単に開いてしまった。
 思わず足を踏み入れてしまった先で、ヘンリーは思いがけないものを見る。
「え……」
 窓の閉じられた換気していない部屋、鼻に届くのは甘ったるい薬と、痺れるような香、血の匂いと、生臭い精液の――
「な、何を!」
 ドラクルは寝台の端に腰掛けていた。それだけならばまだいい。寝台の中央に人影があり、その人物は身動き一つしない。
寝台に血が零れている。横たわるロゼウスの内股がその赤に濡れている。
何より二人とも、ドラクルに関しては簡単な上着こそ羽織っているが裸だ。
「な……な……」
 ドラクルがロゼウスを寝室に引きずり込み出てこない、そうは聞いていた。だが、こんなことは予想していなかった。あまりの事態に動揺しきり、ヘンリーは言葉が出ない。
 しかしはっと気がついて、寝台に駆け寄る。気だるげに腰掛けたドラクルは別段それを止めず、ヘンリーが寄ってくるに任せた。
「ロ……ロゼウス! おい、ロゼウス! 大丈夫か!?」
 近くで改めて見た弟の身体は、そこかしこに痣があり血がつき傷だらけだった。おまけに両腕がプロセルピナの用意した枷で戒められたままだ。顔は涙でぐしゃぐしゃに汚れ、白い肌と髪の上でわかりにくいが、白濁した液が汚している。
 肩を揺さぶっても、ロゼウスは目を覚まさない。呻こうとした喉の奥の声は嗄れているようで、引きつっていた。
「やれやれ。許可もまだ出していないのに入って来るとは、少し礼儀知らずじゃないのかい? ヘンリー」
 髪をかきあげながら、ドラクルが平然とそう口にする。
「ドラクル兄上……」
 目の前の事態が信じられず、ヘンリーは呆然とドラクルを見つめた。

 ◆◆◆◆◆

 もとより肌の色が白すぎるヴァンピルという種族、その色からさらに血の気を引かせた死人の如き顔色でロゼウスが寝台に横たわっている。
「ぅ……あ、姉、様……?」
 泥のように身体は疲れきっていたが、それでも周囲の人の気配や抱き上げられて別の寝台に運び込まれれば嫌でも目は覚める。ロゼウスが夢うつつに瞳を開くと、姉の心配そうな表情が飛び込んできた。
「ロゼウス……良かった。ぴくりとも動かぬから、心配したぞ……もう少し休んでおれ」
 長姉であるアンは貴婦人と称するに相応しい白い手を伸ばして、弟の髪を撫でた。彼女から視線を外して天井を眺めれば、血と薬と香と精液の匂いで溢れかえっていたドラクルの部屋ではなく、違う場所へと移動させられている。どろどろだったはずの身体も誰がやってくれたのか知らないが綺麗に洗われているようで、敷布の感触が心地良い。
 アンの優しい眼差しを見ていると、まるで昔に還ったようだ。小さな子どものように、病みつかれた身体を看病されている。実際は常にドラクルの監視下にあったロゼウスは彼以外の者の看病など受けたことがないし、本当は今は、そんな場合ではないとわかっているけれど。
「もう少しだけここにおる。お前が眠りにつくまでは。今は何も考えずに休んでおれ」
 言い聞かせる声に素直に従い、瞳を閉じた。

 ロゼウスの身体を運び、洗い清めたのはヘンリーだ。
「兄上、これはどういうことですか?」
 その場で問いただそうにも、ドラクルは薄暗い笑みを浮かべるばかりで答えようとしない。だが状況的に彼が弟であるロゼウスをよりにもよって陵辱したことは火を見るより明らかで、ヘンリーはまずはロゼウスの保護を優先した。
 銀の枷をなんとか外し、カーテンを引き裂いてロゼウスの身体を包み抱き上げる。先にアンに簡単に事情を話して部屋の準備を整えてもらい、自身は召し使いの手を借りず自分でロゼウスを浴場まで運んだ。
 汚れた身体を洗い清め、念のために医師を呼んで治療をしてもらう。ヴァンピルは魔族である程度までは魔術を使えるが、再生能力が強いだけに治癒魔術に関しては下手な者も多かった。兄弟姉妹の中でも使える者は限られているが、ヘンリーは特に治癒の術が苦手だったためにやむを得ずそうした。
「ロゼウス様が……」
 医務室に連れて行き、ロゼウスを医師に見せると、相手は当然のように顔を曇らせる。
「この頃はこのようなこともなかったのですが、しかし……」
 続けられた言葉は、ヘンリーの予想とは違った。医師はまるで、こんなことが前にもあったような口ぶりだ。
「どういうことだ? お前はこのことを知っていたのか?」
 問いただすと多少渋りながらも、この状況ではもう隠す意味もないだろう、と最終的に医師は重い口を開いた。
「昔からですよ。ドラクル殿下がロゼウス殿下にきつく当たりすぎて怪我を負わせるなんて」
「私は聞いたことがない」
「そうでしょう。ただの怪我であるならば報告もされますが、このような状態では。それに我々ヴァンピルは放っておけば一日で怪我が治る種族ですから、よほどのことがない限り我々医師は必要とはされません」
 目を伏せて、丁寧にロゼウスの怪我を治療しながらローゼンティアに数少ない医師は言った。
「国がこんな状態であるのにこう言うのも不謹慎でしょうが、私は安心しておりました。ドラクル殿下が御自身も辛いような表情でロゼウス殿下をこちらに運ぶようなことがなくなって。加減が出来ないのだと、仰っていました……」
 ドラクルの行動は昔から? 聞き出せるだけのことをヘンリーは医師から聞きだした。ドラクルとロゼウスのこと、そしてドラクルのこれまでの行状については、ある範囲では国が堕ちる前から周知の事実であったらしい。知らなかったのはむしろ二人の兄妹である自分たちの方で。
 ドラクルの腹心であるアウグストを捕まえても、恐らく余計なことだと聞かせてくれまい。
 壮年の医師が最後に言った。
「あの方が生まれたこの時から、この国は滅びに向かうことが定められていたのでしょう。王族であるヘンリー殿下にこのような話をするのは不適切でしょうが。私は、それでもいいのだと思っていました。今も思っています」
 ローゼンティアが滅びる? この男は何を言っているのだろう? ヘンリーは不思議に思った。多少乱暴な手段を使ったとはいえ、今のこの国の王はドラクルなのだ。ローゼンティアが滅びるはずなどない。
 しかしヘンリーのその自信も、治療の終わったロゼウスをアンのもとに届ける段階になると多少薄らいでくる。弟の寝顔を見つめながら、
「変わったな、ロゼウス……」
「そうかえ? 見かけに変化などないようじゃが」
 ヘンリーが呟くと、アンが不思議そうに言った。けれどヘンリーには、今眼前で眠る少年とかつての天真爛漫だが我侭なお子様であった弟の姿が重ならない。
「アン」
「どうした。ヘンリー」
「ドラクルに直接話を聞きます。向こうも大分落ち着いたでしょう。ロゼウス相手にこのようなことをしたわけを、聞いて参ります」
「わらわも行く」
「アン姉様」
「わらわもドラクルの妹であり、ロゼウスの姉じゃ。真実がどうであろうと、ずっとそう思って生きてきた。兄妹のことに口を出して何が悪い」
 強い瞳で彼女はヘンリーを見返し、ロゼウスがしっかり眠ったことを確認すると連れ立って部屋を出た。アンはいつもはきつめの顔立ちに比べて温厚な性格をしているが、いざという時には王族らしい強さを発揮する。
 それもそのはずで、彼女はブラムス王の血を引く正式な王族だ。兄妹の反芻は王ではなく王弟フィリップの子だと知れた現在だが、アンに関してはブラムスの子ということで間違いなさそうだ。
 そんな彼女が簒奪者であるドラクルに従っているのは、国のためと言うよりもまず、彼女自身がドラクルを愛しているからであった。
「ドラクル、聞きたいことがある」
「なんだい、アン」
 ヘンリーが手配した使用人の手によって綺麗に掃除しつくされた部屋には先程の爛れた情交の痕はどこにもない。
 だがドラクルの目元には、明らかに疲弊の色濃い翳りがある。
 その翳りの中に、ふとヘンリーは自分と同じものを見た。それはどれだけ望んでも手に入らない者を望んでしまった悲しみ。決して、叶わない恋をした。
 アンが愛したのは、公式には兄とされていた第一王子ドラクル、ヘンリーが愛したのは、公式には姉とされていたアン。だが真実は王弟の子であるドラクル、ヘンリーと王の子であるアンの関係は従兄妹同士であって、結婚にも支障がない。
 それでも、手に入らないのだ。こればかりはどうにもならない。
 そして彼らには、単なる恋敵以上の関係がある。
「ドラクル、今後ロゼウスに対してあのようなことは止めるのじゃ」
「あのような? 君が何を知っているというんだい、アン」
「ヘンリーから聞いた。ロゼウスに……その、無理矢理、行為を求めたと……。何故じゃ、ドラクル、そなたならいくらでも相手はいるじゃろう。なのに何故、弟であるロゼウスに……」
「あの子は私の弟などではない」
「だがそう思っていた時もあったはずじゃ。何故、そのようなことをする。第一男同士じゃろう?」
 軽蔑するでもない代わりに心底理解もできないようで、アンはドラクルを問い詰める。
 彼女は彼女で、ドラクルを前にして強気ながらも戸惑っていた。理路整然などという言葉は今この瞬間は存在せず、ただ心の赴くままにしゃべる。
アンはもっと、自分は怒るのだろうと思っていた。これまでずっと愛してきた相手が見るのは自分以外の人物。それも自分にも相手にとっても弟である人物。ドラクルを愛する彼女からしてみればロゼウスは恋敵にあるのだが、嫉妬のような感情は一切彼女の胸には沸き起こらない。
 ドラクルがロゼウスを陵辱した。ヘンリーの口からそれを聞いた時も到底信じられず、怒るよりもまず先に呆れ、そして思ったよりも酷かったロゼウスの状態を見て、怒りが湧いたのは彼をそんな目に遭わせたドラクルに対してだった。
 だがそれ以上に、今目の前でドラクルの様子を眺めて感じるのは悲しみのような感情だ。名前のつかないその感情が、彼女にドラクルのもとに縋ることを躊躇わせる。
 ここで「抱いてほしい」と一言言えば、終わった問題があるのかも知れないが……
「わらわはそなたがロゼウスを手に入れると言った時、てっきりロゼウスを生涯幽閉でもするのかと思っていた」
 ドラクルが望むのはブラムス王への復讐。本人を殺してもなお晴れない恨みを晴らすために、ロゼウスを求めた。
「王国を手に入れて、これ以上にあの子に何を望む? ドラクル、ロゼウスは男だ。そなたの子を生み妃になることはありえぬ。あの子から奪い取れるものは、もうすでに奪いきったはずであろう」
 もういいではないか、とアンは思っていた。ドラクルの立場ではロゼウスを憎んでも仕方がないが、だからといって陵辱という方向に走る必要はない。
 彼が玉座に着いている以上、ロゼウスが王になることはない。求めるものをドラクルは手にしたはずなのに、何故ドラクルはまだ満たされないのか。これ以上ロゼウスから奪えるものなどないのに。
「違うよ、アン」
 彼女の疑問に、彼にしては殊更優しく、そして残酷に言い聞かせた。
「私はロゼウスからローゼンティアを奪いたかったのではない。あの子自身が欲しいのだよ」
 確かに何度もドラクルは繰り返してきた。ロゼウスを手に入れる、と。
 アンの瞳が見開かれる。その次の瞬間には歪み細められる。
「ドラクル、そなたは……」
 彼女は彼を憎むべきなのかもしれないが、何故かできなかった。だがロゼウスのことも憎めない。ただ痛みだけがここにある。
「姉様……」
 ヘンリーの気遣わしげな声が室内に落ちる。
「そなたが本当に欲しかったのは、ローゼンティアではなく、ロゼウスであったのじゃな」
 アンの静かな声が広がった。