荊の墓標 42

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 ローゼンティア王都へと潜入。
 ただし、ここからでは全く現在位置がわからない。
「……まさか僕も、ここまで広い隠し道だとは思っていませんでした」
薄暗い地下通路でランタンを片手に、ジャスパーがそう呟いた。この道を通ろうと言ったのは彼であり、その意見は結局採用された。
ロゼウスを取り戻すため、シェリダンたち一行は王城近くの森の中にある王家の墓地、《風の故郷》の墓の一つを暴き、地下から王城に向かうことにした。
ジャスパーの報告どおり、墓地の墓の一つから地下通路がどうやら王城に繋がっているらしい。しかし予想を超えることには、王都の地下は通路などという可愛いものではなく、一つの村をそのまま取り込んだかのような広さを持つ迷路となっていたのだ。
「ちょっとやめてよー、私はエヴェルシードのあの迷路庭園でさえ迷うのよ!」
 道が迷路になっていると聞いて、ロザリーが早々に弱音を吐く。
「それはさすがに迷いすぎだろう……」
 彼女が迷ったという迷路庭園の元の持ち主であるシェリダンが呆れて言う。
「ロザリーお姉様のことはともかく、でも本当に大変ですわよ、この通路は」
「ああ。これだけの広さを持ち、入り口はもう塞いでしまった。ここで迷ったら俺たちのとる道は餓死しかないなーというくらい」
 メアリーとアンリのヴァンピル二人も、この隠し通路ならぬ隠し迷路の規模には不安を感じていた。
「餓死と言ってもお前たちヴァンピルはそう簡単に死ぬこともないのだろう。そうなったら、期待しているぞ」
 シェリダンはそう軽く言い放ち、目線を前に据える。
「今はロゼウスを取り戻すことが先決だ」
 一行の中で最も迷いがないのはシェリダンだ。今はドラクルに対する敵意とも相まって、まさしく向かうところ敵なしの気迫である。
 その姿を見ながら、アンリは様々な意味で苦笑を禁じえない。本当に彼はロゼウスが好きなのだな、とかこれは迷っている場合ではなさそうだな、とか。
 あれは言わない方がいいな、とか。
 シェリダンは常人より度胸がある。ありすぎる代わりに、時折彼のすぐそばにある危険を見逃すことともなる。
 ここで迷い飢えることとなったら、アンリたちに彼らまで助けている余裕はない。何せ彼らはヴァンピル――人間の血肉を喰らう、忌まわしき吸血鬼なのだから。
 もしもそうなった場合、助けるどころかシェリダンやローラたち人間にとって危険なのは自分たちヴァンピルの方だ。
 だからそうならないためにも、必ず出口に辿り着かねばならない。
「ええと、でも確か、迷路の完全な攻略法ってあるのよね」
 ふと思い出したようにロザリーが言った。
「ロゼウスが前に言ってたわ。でも私はどんな方法だったか忘れちゃったの」
「ああ。普通の迷路だったら片方の壁に手をつけてそれをずっと辿ればいつかは必ず出られる」
 ロザリーの問にはアンリが答えた。
「俺とヘンリーが本で読んで、それでロゼウスに教えたんだよ」
 懐かしそうに細めた瞳に、柔らかな色合いが宿る。もともとアンリはローゼンティア人らしくない朱色の暖かな色合いの瞳をしているのだが、それが更に柔らかくなった。
「あんな日々は、もう戻らないんだろうな……」
 ぽつりと零された彼の言葉を、全員が聞く。そして何も言葉をかけることができない。 気遣いではなく、気遣うこともできない現実の前でただ、足を進めるだけ。
「ま、この場合はただ迷路から出ることより、正しい道に進むことが大切だからさ。どこでもいいから出られればいい迷路の抜け方最終手段は役に立たないよ」
「そうね……」
 薄暗いを通り越して真っ暗な地下、石でできた通路も暗い。手に触れる壁の感触はごつごつとしていて、足元にも丁寧に石が敷かれている。だが誰が何のためにこの国の王都の地下にこんなものを作ったのかはわからない。
「きっと、元々の用途は落城の際に王族が逃げる道だったと思うのですが……」
「確かに普通地下に道を作るならそういう理由でしょうけど、でもこの迷路は大掛かりすぎませんか? 逃げてきた王族も迷うでしょう、これでは」
 ローラの言葉ももっともだった。
「……ま、何にしろ、間違いなく王城に辿り着けるなら問題はない。見た所防音もしっかりしているようだしな。この道を使って、敵の懐に入り込めればそれでいい」
 もともと知りえないことをいくら話しても真実など知れるはずがない。今は悩むよりも先に進もうと、シェリダンが促す。
 だがそこに、思いがけず声が響いた。
「この迷路を作ったのは初代国王ロザリアよ」
 今しがた通ってきたはずの背後から突如として響いた女の声。聞き覚えのあるそれに思わず舌打ちを漏らしつつ、彼らは振り返る。
「あなたたちも開けたのでしょう、ロザリア=ローゼンティアの墓を」
 闇の中に埋もれぬ緑がかった黒髪を優雅に靡かせて、そこに登場したのはプロセルピナだった。
「ここは死神の眠る国だもの」
「……あなたか。ここを知っていたのか?」
「いいえ。でもあなたの魂の気配は覚えているわ。私はそれを追ってきただけ」
 シェリダンが舌打ちする。本当に、この《皇帝》という存在にはなんでもありなのか、彼らが見つからずに進もうとしていたのも無駄だったようで、プロセルピナはあっさりと一行に追いついた。いや、最初から王城にこの見知った気配が現れたら捕らえられるよう、網を張っていたに違いない。
 今更剣を抜いたところで無駄だろうか。
「ロザリアの隠し墓地があることは知っていたけれど、まさかこんな風になっていたとはね」
 迷路の天井を興味深そうに見上げ、プロセルピナは微笑を浮かべて視線をシェリダンたちに戻す。
「ようこそ、お客人たち。ローゼンティア王城へ。と、言ってもそこの四人はもともとローゼンティア王族だし、私もこの国からして見れば客の一人だけれど」
 一行の中にハデスはいない。それをプロセルピナはどう思ったのだろうか。ランタンの明かりに眩しそうに目を細めて告げる。
「ドラクルがあなたに会いたがっているわよ、シェリダン王」
 地下の隠し迷路、こんな場所で恐ろしい力を持つプロセルピナに抵抗する術もなく、彼らはあっさりと捕まってしまった。

 ◆◆◆◆◆

 ざわざわと周囲の注目がこちらに向かっているのを感じる。
「くそ……銀の枷か!」
 悪態をつくのは、珍しくアンリの仕事だった。プロセルピナにより捕らえられた彼らは、その場で枷を嵌められた。一行の半分が吸血鬼なので、もちろん魔力を封じる純銀の拘束具だ。
 そのままプロセルピナに先導されて、ローゼンティア王城の廊下を歩いている。城自体が漆黒の石でできている居城、どこもかしこもが光沢のある黒い床に天井で、その漆黒の床の上には緋色の絨毯が敷かれている。周囲の柱や壁に施された彫刻は優雅で豪奢。いかにも王城といった典雅な雰囲気を長年保っているのは、芸術に優れたローゼンティアならではのものだろう。
 シェリダン、ローラ、エチエンヌ、リチャードに関しては捕虜となっても弱気を見せることはなく、その手に枷が嵌められていなければ正式に招待された客が歩くように堂々としている。
 肩身が狭いのはむしろアンリ、ロザリー、ジャスパー、メアリーの方だった。彼らはもともとこの王城に王族として住んでいた。それが今では、罪人のように銀の鎖で繋がれて歩かされている。廊下を歩いていた使用人たちから向けられる視線が痛くて仕方がない。
「動揺するな。堂々と歩け。お前たちは王族だろう」
 項垂れて近くを歩くロザリーに、シェリダンが囁く。
「シェリダン……でも」
「お前がお前の意志で成したことは、誰かに見られて恥ずかしいと思うようなことなのか。そうでないのなら、毅然と顔をあげていろ。自分が間違っていないと思うなら、あるいは間違った行動でも、自分がその意見を翻すつもりがないのなら」
 一度やったことには、出してしまった結果には常に責任が伴うのだ。良いことでも、悪いことでも。その是非を問い処断を下すのは自分ではなく世界であり人であり神であり理である。結果に対して責任を果す気があるのなら、悪いと思っても中途で意見を翻さず断頭台に昇る最後の日まで胸を張って生きることだ。
 もっとも、シェリダンたちはここで首を刎ねられてしまう気はないが。
「シェリダン様、この道順は確か」
「ああ。謁見の間へと向かっているな」
 リチャードの囁きに頷き返して、シェリダンは周りの廊下の様子を見遣る。一度しか訪れたことのない建物だが、その特性や一度通った道は忘れない。王族としてシェリダンは人の顔と名前、そして建物の構造を把握する能力には優れている。
 アンリたちは肩身が狭いようだが、実はシェリダンたちも大変にここでは心苦しい立場にあるのだ。何せローゼンティア侵略を指揮した当時のエヴェルシード国王本人である。ローゼンティア人にとっては恨みの的だ。
 実際廊下の両端に立ち並ぶ使用人たちの半数は王族でありながら連行されているアンリやロザリーに訝りと不審の眼差しを注いでいるが、もう半数はシェリダンとエヴェルシード人であるリチャードに敵意と殺意を向けている。
 そんなことも気にせずに、シェリダンはリチャードと話を続ける。実際こんなにヴァンピルの多い場所では小声での会話など筒抜けなのだが、そうであっても声を潜めたくなるのが人情だ。口を出るのは、当たり障りのない言葉ばかりだが。
「謁見の間ということは、ドラクル王本人と……」
「引き合わされるだろうな。そこにロゼウスもいればいいのだが」
 継承問題に絡むローゼンティアの暗部などはともかく、自分たちがロゼウス奪還のためにこちらを訪れたことはすでに知られているだろう。特に問題ないと見てその言葉を口にしたシェリダンだったが、その台詞を聞いた周囲の様子が変わった。
「……?」
 あからさまに騒ぎ立てる者や怒りを露にする者などはいない。そして、ロゼウスがここにいること事態は誰もが知っているようだ。だが、彼らの態度の中には困惑と焦燥が現れているようだ。
 注意深く周囲の様子を窺ってそれを感じ取ったシェリダンのこめかみに汗が伝う。なんだ、この反応は。ロゼウスに何かあったのか?
 ロゼウスが何かやらかした、という雰囲気ではない。むしろその逆だ。ロゼウスに関してというよりもロゼウスに対しての「何か」に彼らは眉を潜めているような様子がある。この城で今ロゼウスに手を出せる者と言ったら、ドラクルしかいない。そう考えればこの困惑も納得がいく。……ロゼウスは無事なのか?
 残念ながら歩いている最中にその答は得られず、シェリダンたちは謁見の間へと通された。
 アンリたちは王族として慣れ親しんだ場所へ、このような形で来ることになったのを悲しんでいるが、そうも言っていられない。
 予想通りそこにはドラクルがいた。傍らにルースとカルデール公爵アウグストを伴って。逆に言えば、彼ら三人しかこの室内にはいない。一行を連れて来たプロセルピナはさっさと退出する。
 アンとヘンリーはどうしたのだろう? アンリはふと疑問に思った。自分たちと敵対し、ドラクルのもとについた二人、この場での対面ならば、向こうも全員揃い、準備万端でこちらを迎えると思っていたのだが。
一方シェリダンの関心はひたすらロゼウスにあった。ドラクルの側に彼がいない、この場には連れて来られていないのだということを確認し、舌打ちする。もっとも、この場で枷に繋がれたこの状態ですぐに助け出せる可能性は少ないのだが。
「……これはこれは、シェリダン王」
 ドラクルが口を開く。
「我が城へようこそ。もっとも、貴公に入城を許した覚えはないのだがね、エヴェルシード国王陛下」
すでに王ではないのだが、ドラクルはわざとらしくまずはシェリダンにそう告げる。たまたま先頭に立っていたということもあろうが、彼は共にいる自分の弟妹よりもこの隣国の元国王を最初に睨みつけた。
「それは失礼した、ヴラディスラフ大公ドラクル卿、だが、この城の真の主は貴様ではないだろう。許可をあなたに得る必要など、私にはさっぱり思いつかなかったな!」
 シェリダンはシェリダンで、負けじと嫌味で返す。ドラクルもそうかもしれないが、彼の特技も言葉責めだ。
「さっさとそこから退いたらどうだ? 貴様に玉座など似合わんぞ。一回りも年下の弟に嫉妬したくせに正面から喧嘩を売ることも出来ず周囲に甚大な被害を与えて国を乗っ取った偽りの王よ。冠を被った道化とは、これほど滑稽なものもない!」
 とは言ったものの、まともに対面したのは数回しかないとはいえ、シェリダンから見ても玉座に座るドラクルは風格がある。肩口にさらりとかかる白銀の髪に、深い紅の瞳、漆黒に宝石を飾った豪奢な国王の衣装。瞳に影を落とす長い睫毛は良く似た顔立ちのロゼウスだったら憂いを帯びたような印象を与えるのに、ドラクルに関してはその影までもが冷ややかな彩りを酷薄な表情に添えている。唇の色も薄く、笑みをはくその口元は不敵な印象を与える。
「貴様……」
 だがシェリダンの言葉により、その余裕もいつまでも保つものではないと知れた。端正な顔立ちを歪めて、ドラクルはシェリダンを睨む。他の者たちなど目にもくれない。
 華やかで立派な、姿だけみれば正しく民の理想の期待の国王。
 だがその中身はあまりにも人間らしすぎる、傲慢で利己的で残酷。だからこそシェリダンはそれを指して、姿形は派手で滑稽な仕草にて人を沸かせる道化だとせせら笑う。
 しかしドラクルがこれで負けるはずもなく、次の瞬間には一転して余裕の態度を取り戻した。彼らが枷に繋がれているためか、優位を見せ付けるように玉座に深く腰を下ろし、肘置きを使って頬杖をつく。この姿勢では素早く立ち上がれることはない。そんな必要もないと思っているのだ。
「ふん、まあいい。あなたの目的はロゼウスだろう。あの子を取り返しにわざわざこんなところまで来るとは、ご苦労なことだ」
 ロゼウスの名前が出て、急激にシェリダンの周りの温度が冷たくなる。険しい眼差しで彼はドラクルを睨み返す。ここにはロゼウスはいないが、この言い方は間違いなくドラクルが彼の身柄を拘束している。ルースやプロセルピナが攫ったまま隠しているわけではないらしい。すでにドラクルに引き渡された後、どこかに捕らえられているようだ。
「ロゼウスを返してもらおうか」
「断る。あれは私のものだ」
 他の者たちの存在など全く意にも介さず、二人の男は睨み合う。
「ドラクル!」
 そこに、別の男の声がとんだ。

 ◆◆◆◆◆

「もう、いいだろう! もうやめてくれ!」
 ドラクルとシェリダンの睨み合いに割りこんだのはアンリだった。彼はいつの間にかシェリダンのすぐ近くにまで歩み寄ると、シェリダンを押しのけるようにして兄と向かい合う。
「アンリ」
 ずっと同じ室内にいたというのに、やっとその存在に気づいたかのようにドラクルは弟王子の名を呼ぶ。
 アンリ=ライマ=ローゼンティア。
 それがアンリの名。しかし本当はアンリ=ライマ=ヴラディスラフだ。彼もドラクルと同じく、ヴラディスラフ大公フィリップの息子であって王子ではない。それでありながら自分と同じ立場にあるドラクルではなく、真の第一王子ロゼウスと共に行動していた。
「もう、やめてくれ……兄上」
 広々とした謁見の間にポツリと落とされた声は、酷く弱弱しい。一歳しか年齢の違わない異母兄弟であったアンリにとって、ドラクルは兄でありながら兄ではなかった。むしろ友人のような感覚ですぐ側にいて、自分はこの人を支えるのだとずっと信じていた。
 その相手を、アンリは今、「兄」と呼ぶ。
 同じようにヴラディスラフ大公の息子と言う事実を頼るのではなく、王族の兄弟として育てられた二十年以上の月日を信じて。
「何をやめろと? アンリ」
 先程シェリダンに対していたのと比べれば随分優しい声音で、ドラクルは弟に問いかけた。ドラクルにとってもアンリは弟というよりは友人感覚の相手だったが……だが、それでも、弟だ。
「全部、だ。ロゼウスを弄ぶのも、シェリダン王と敵対するのも、この国の民を使って、戦争を起こそうとするのも、全部」
 アンリの言葉に、ドラクルは眉根を寄せて不機嫌な顔つきになる。指先が不機嫌に椅子の肘置きを叩いた。
「そういうことか。優等生のアンリ。お前はきっと、そう言うだろうと思ったよ」
「ドラクル……?」
「悪いけれど、それはできないね。特に、最初のことに関しては」
「ッ!? どうして!? もういいじゃないか! あんたはこうして国を滅ぼし、父上たちを殺し、ロゼウスからだってその立場を奪っただろう! もう十分じゃないか! この上あの子から何を奪いたいんだよ!」
 アンリの声が謁見の間の壁という壁に反響する。その必死な口調は咎めというよりも、甚だ疑問と焦りの様相を呈している。
「ドラクル、もうやめてくれ! これ以上無駄な血を流す戦いを、俺たちは引き起こすべきじゃないんだ!」
 彼らにとってドラクルはできれば正面衝突を避けたかった相手なのだが、今はそうも言っていられない。こうして顔を合わせてしまったからには、言いたいことを言い切るしかない。
「ドラクル!」
 だが、それに対するドラクルの返答は、苛立ちを帯びた低い声だった。
「相変わらず……『良い子』の答だね、アンリ」
 白銀の髪をわずらわしげに掻き揚げ、ドラクルが深紅の眼差しで弟を睨む。
「答は『否』だ。何度も言わせないでくれ。私は私の選択を変える気はない」
「そんな! ロゼウスはあんたから玉座を奪う気なんて最初からなかったんだ。こう言ってはなんだけど、もう国王であった父上たちもいないんだ、だから……ッ」
「それが良い子の回答だというんだよ、アンリ」
「良い子ってなんだよ、俺はただ、一番効率のいい方法を」
「ちがう」
 段上から冷ややかにアンリを見下ろし、ドラクルは続ける。
「お前の言いたいことはわかるよ。そうだね、ここで過去の面倒事を掘り返しても厄介だから父王や王妃たちの殺害と言う私の罪を流してしまおうというのは、いかにも王族らしい功利的で、小ずるい素晴らしい判断だ。そうすれば私の罪はなかったことになる上に、私はこの玉座に座り続けることが許されて、国を正しく統治すれば争いも起きず、ロゼウスを解放してシェリダン王と共に逃がして今生きている者たち全てが納得する道をとれると言うのだろう? そうだな。それは一番いい方法だね、アンリ」
 別にアンリも聖人君子ではないのだ。ドラクルが王として確かに玉座に着くのが最善であると思えば、父であったブラムス王を彼が殺害したことすら水に流そうとする。冷たいようでも、今生きている人間が一番大事だ。だからそれが一番いい方法だと、アンリは思っている。あとはドラクルがロゼウスを解放してくれれば全ては丸く収まる。しかし。
 弟の言葉を軽く認めながら、しかしドラクルの口調はそこに宿る黒い影とは裏腹に淀みなく、止まらない。
「それが、お前の『良い子』の考えだと言うんだよ。お前はみんなを幸せにしたい、そうだろう?」
「あ、ああ」
 ドラクルの言葉を聞きながら、半分釣り込まれるようにアンリは頷く。
 ドラクルは緩やかに病んだ笑みをその顔に浮かべる。ロゼウスとも、その父ブラムス王とも、実父ヴラディスラフ大公ともよく似ているその面差し。もとはと言えばそれが全ての発端だった。
 彼の両脇には忠実な二人の臣下が佇んでいる。二人の表情は対照的だ。ルースは平然と、アウグストはどこか苦しげにしている。
 そしてドラクルは吐き出した。
「私はね、誰も幸せになんかしたくないんだよ」
 アンリが目を見開く。
「な、何を……」
「言葉の通りだよ。私は全てを呪っている。父上も、大公閣下も、ロゼウスも、お前たちも」
 そして自分自身をも。
「みんなみんな不幸になればいい。もはや私の心は他者の苦痛でしか癒されない。……当たり前だろう。これまで王族だから、王子だからと他者のために尽くすように育てられてきた。人の幸せが私のそれとなるように」
 だがその自分は、いらないものだった。
 ならば私がこれまでに払った努力はどこに行く。
「王子である必要がなくなったなら、最初から王子でなかったのなら、あんな風に頑張り続ける必要なんてなかった。……だから、私のこれまでの前払いの努力をそろそろ返してくれたっていいじゃないか」
 人のために、国のために、皆の幸せのために削り切り取られてきた自分。その欠片は一体どこに行ってしまったのだろう。
 頼むから返してくれ――私自身を。
 他者のために尽くすことを幸せとしてきた自分、けれど突如落とされた逆転の世界の中では、人の不幸をこそ望む。
 この力の全てでもって、あらゆる者たちを不幸にする。それこそが今の自分の存在意義。
 国を簒奪したのは、ただ欲しかったから。民が暮らしやすいようにこの国を治めるためじゃない。
「父王も大公もすでに亡い。しかしロゼウスはまだ生きている。……アンリ、お前も知っているだろう。ロゼウスがまだ小さい頃、私はちゃんとあの子に優しくしてやっただろう?」
「そ、れは……」
「だからこそ今、余計に憎いんだよ。優しくした分だけ憎いんだよ。だから甚振るんだ。私はあの子の苦痛が欲しい。ロゼウスがその苦痛に負け、私に屈服し隷従するまで、私は――」
「愚かもいいところだな、偽王よ」
 アンリに向けて話していたドラクルの口上を遮り、シェリダンが再び口を開いた。彼はアンリの肩に手をかけて押しやり、再びドラクルの正面に立つ。
「忘れるな。この国を滅ぼしたのは我が国エヴェルシードだが、それを手引きしたのは貴様だ。その復讐心は貴様が自分で望んだものであり、誰のせいでもない。貴様はロゼウスに玉座を預けて身を引くこともできたのに、それをしなかった。これは紛れもなく貴様自身の欲望が生んだ結果だ。その貴様に、ロゼウスのことを責める権利などない!」
 そしてシェリダンは笑う。
「所詮貴様はその程度の男だということだ」
「お前……ッ!」
「もうやめろ! ドラクル! シェリダン王も!」
 衝動のままに玉座から立ち上がったドラクルを見て、アンリは血相を変える。引く様子を見せないシェリダンを押しのけるように庇うと、ドラクルに向かって叫んだ。
「ドラクル、あんたの言い分はもっともだと、俺も思う! シェリダン王がどう言ったとしても、ローゼンティアは、二十七年間王太子として育てられてきたあんたが、この国を治めるべきなんだ! 俺もそれに反論はない!」
 ことの是非はともかく、すでに簒奪も国王殺害も行われてしまった。時の針をまき戻すことができないのであれば、前に進むしかないだろう。責任の所在は重要だが、裁けばそれでいいという問題でもない。
 そして行動を起こすのはドラクルだけではないのだ。
「だってロゼウスは、絶対にこの国を継ぐことはないのだから――」