荊の墓標 42

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 断言したアンリの言葉に、玉座から立ち上がったドラクルが僅かに眉を潜める。
「絶対に?」
 シェリダンを睨んでいた視線が弟の方へと向かう。目つきは険しいが、シェリダンに向けていた時のように敵意ばかりではない。
 その代わりドラクルの目には、憐れむような嘲りの光が宿っている。アンリの愚直なまでの正義感を、彼は憐れむ。
 だがアンリは退かなかった。
「そうだ。ロゼウスは絶対にローゼンティアを継ぐ事はない。他の兄弟で争うのは無駄だ。この玉座に相応しいのは、あんたしかいないんだから」
 ロゼウスは世界皇帝だ。すでにデメテルが退位した形になる以上、彼の即位は確実だ。そうでなくても、世界皇帝に認定された者は即位を拒む権利はない。
 皇帝に与えられるあらゆる能力と権利の中で、唯一皇帝の手に入らないもの。それが、帝国玉座を辞退する権利。
 ロゼウスはローゼンティア王にはならない。
 彼は皇帝だから。
 皇帝は国王を兼任することはない。
 歴史上にたった一人だけ、皇帝と国王を兼任した皇帝がいる。始皇帝シェスラート=エヴェルシード。しかしそれは彼が帝国の基礎を作り上げた始皇帝ある故のもので、皇帝が国王を兼任する事は現在では好まれない。
 だからロゼウスは、絶対にローゼンティア王にはならない。
 アンリはそういう意味で口に出したつもりだったのだが、ドラクルの返答は予想と違ったものだった。
「何故そんなことが言い切れる。ロゼウスがいくら口で継承権を辞退するなどと言ったところで、私が信用できると思うか? あれを私の手元以外においておけば、誰がロゼウスを擁立しようとするかわかったものではない」
「え……」
 ドラクルの言葉は、ロゼウスが皇帝であることをかすめもしない。
 まさか、彼は……
「ドラクル」
 シェリダンが口を開く。
「貴様まさか、知らないのか?」
 呆けたように彼らがドラクルを見上げる中、見つめられた当人は怪訝な顔をした。彼らが何故そんな反応をするのかわからないと言った顔つきだ。
「知らない? 私が、何を?」
 ドラクルは不機嫌な顔つきになる。もともと上機嫌だったというわけでもないが、磨き上げた頭脳と卓越した思考力を持つ彼にとっては、無知を宣告されるのは何より腹立たしいことだろう。
 嘘だろう? まさか、この期に及んでそんなことを知らなかった? ハデスもルースも、今はプロセルピナまで側にいるというのに?
 そしてシェリダンたちは、ドラクルの傍らに立つルースが微笑んでいることに気づいた。
 彼女が笑みを浮かべていること自体は普通だ。いつも微笑んでいるルース。けれど、今の笑みが意味するのは違う。
 彼女はロゼウスが皇帝になることを知っていて、ドラクルに隠していたのだ。
何のためにかはわからない。そしてここで今、彼らが明かすのを阻む様子もないのだが。
「ド、ドラクル!」
 驚きすぎて焦りすぎて、アンリが多少どもりながらも口にする。
「ロゼウスは皇帝なんだ!」
「……は?」
 今度はドラクルが呆けたような顔になった。元が整っているだけに大袈裟に崩れたりはしないが、玲瓏な目元が多少歪んでいる。
「戯言を……」
「嘘ではない」
 シェリダンはジャスパーを手で招いた。証を見せろという合図に、ジャスパーは服の腰をまくり、その紅い紋章印を見せる。
「ロゼウスは次の皇帝だ。大地皇帝デメテルの跡を継ぐ者」
 ほとんどはハデスの腕にあったものと同じ、しかし細部は異なっている。薔薇を中心に置いたようなその紋章を目にして、ドラクルが瞳を見開く。
「ジャスパー、お前……!」
「ドラクル兄上、僕が次の皇帝の選定者です」
 瞳を伏せて、どことなく苦しげにジャスパーは告げる。その後をシェリダンが引き取って、堂々と声を張り上げた。
「第三十三代皇帝、ロゼウス=ローゼンティア! だからこそ、彼は王にはならない!」
「な……」
 玉座を背に、ドラクルは絶句する。中途半端に一音を発したまま、言葉が出てこない。
 これまで考えもしなかったことだ。自分が憎みに憎みぬいた弟が、よりにもよって《世界皇帝》だなどと。どう考えればそんな結論に至ると言うのだろう。
 確かにロゼウスはその頭脳も身体能力も完璧だ。それはドラクルも敵わないと思ったほどに。だが、王に相応しいのと皇帝に相応しいのでは訳が違う。
 問題が大きすぎて、とてもではないがここで信じられるようなことではない。
「まやかしだ! そんなもの!」
「嘘じゃないんだ、ドラクル!」
「ふざけたことを言うな! あれが皇帝だなどと、そんな戯言で私を惑わそうとはいい度胸だな!」
「違う、俺たちは……!」
 アンリが説得しようと試みるも、彼の言葉ではドラクルは動かせない。必死なその様子とは打って変わって冷淡すぎるほどに冷淡なシェリダンの言葉の方が、まだドラクルに突き刺さる。
「言わなかったのか、誰も。未来を予言するハデスも、前皇帝であるプロセルピナも、みんなお前の近くにいたというのに」
「――ッ!!」
 今度憐れむような眼差しを向けられるのは、ドラクルの番だった。シェリダンの態度に、白い頬にカッと朱が上る。
「ロゼウス王子が皇帝……」
 ふと、張り詰めた場の空気に震える声が割り込んだ。
「嘘だ、そんなの」
 誰に聞かせるというよりは、自分に言い聞かせたいのだろう声。
「カルデール公爵」
 憤激するドラクルとは対照的に、彼の腹心であるアウグストは青褪めている。
「ルース!」
 ドラクルは彼ではなく、いまも平然とした様子でいる妹姫の方に声をかけた。
「プロセルピナ卿に真偽を問いただせ! そしてできるならば、ハデスを見つけだし連れて来い!」
「かしこまりました、陛下」
 ルースが頭を下げると共に、ドラクルの声は青褪めていたアウグストを呼んだ。苛立ちをぶつけるように、乱暴な口調で命じる。
「カルデール! この者たちを牢にぶち込んでおけ!」
 シェリダンたちは、まとめてローゼンティア王城の地下牢へ囚われることとなった。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝――それは世界を統べる者。
 それはこの帝国の支配者。
 皇帝。
 それは王などよりももっと、もっと優れた者――。

「ふざけるな」
 カツカツと足音も高くドラクルは廊下を歩く。大股で行き過ぎる彼の険しい形相にたまたまそこを通りがかった使用人たちは怯えて頭を下げる。
身の内にじわじわと湧き上がってくる怒りは発散されずに苛立ちとなり、喉まで込みあがりまた胃の腑に落ちる。そのため、幻惑の不快な感触が耐えない。
「……ふざけるなよ」
 誰に向けての言葉なのか、自分の存在を運命と言う言葉で弄ぶ全てのものに対しての言葉か、ドラクルの唇からは低い呟きがこぼれ出す。噛み締めた唇に血が滲んで、ジワリと溶けていく。
 ロゼウスが皇帝? 世界を統べる、帝国の支配者?
 ありえない。そんなこと知らない。今まで聞いたこともなかった。
だが。
 ――言わなかったのか、誰も。未来を予言するハデスも、前皇帝であるプロセルピナも、みんなお前の近くにいたというのに。
 シェリダンの声と共に、憐れむような炎色の眼差しが蘇ってくる。ふざけるな。憐れむだと、この私を。
 ロゼウスの心を奪ったというその存在自体が不愉快なシェリダンと、彼に賛同しついてきた一行、自分の弟妹であるアンリたちも含めて、全てが不快な一行を牢獄にぶち込み、ドラクル自身はひたすら足を動かして自室へと向かう。
 王城内の豪奢な意匠も柔らかな絨毯も何もかも意識の端にすら昇らない。ただ胸にあるのは、出口のない苛立ち。抱え込んでいては気が狂いそうなそれをせめて吐き出すためにと、彼は足を急がせる。
 細緻なレリーフの施された扉。かつての国王の寝室は今はドラクルの部屋だ。彼こそがローゼンティア国王となったのだから。けれどそれすらもどうでもいいことのように価値を奪う一つのことについて確かめるべく、彼はその扉を開け放つ。
「ロゼウス!」
「っ!」
 中には、一人の少年がいた。言うまでもなくロゼウスだ。ヘンリーたちの計らいにより一通りの治療が施された後も解放はされず、こうしてドラクルのもとに囚われている。
 服を着ることも許されず、その首には太い首輪が嵌められ、鎖が伸びて寝台に繋がっている。逃げ出すこともできないよう銀の枷で部屋の中に拘束されていたロゼウスは、吸血鬼にとっては活発に行動する時間帯である夜半に仕事もせず不機嫌極まる表情で戻って来たドラクルの様子に目を丸くする。後手に扉を閉める兄を、怯えた表情で見つめた。
「ド……ドラクル? 何……」
 ロゼウスが最後まで問いかける前に、つかつかと寝台まで歩み寄ってきたドラクルはその腕を押さえ込む。
「正直に答えろ」
 最初にここに連れて来て暴行した日のように、荒んだ表情でドラクルはロゼウスを問い詰める。ぎりぎりと腕に食い込む爪の痛みにロゼウスが顔を引きつらせるのを、意にも介さない。
「ロゼウス――お前が皇帝なのか」
「え――」
「答えろ」
 ますます酷くなる腕の痛みに、ロゼウスは上手な嘘をつく余裕もなく真実を口にした。
「……そうだよ! ハデスが言うには、俺がデメテル陛下の次の皇帝だって……!」
 そしてロゼウスは皇帝になるためにシェリダンを殺す運命にあるのだと。
 しかしそこまでは言う必要はなかったらしく、ハデスからと告げたところでドラクルは腕を放した。その代わり寝台に手をついて横たわるロゼウスの身体を押さえ込むように覆いかぶさる。
「まさか、本当に……?」
 ロゼウスは仰向けに押さえ込まれながら、自らの正面にあるドラクルの顔を見た。青褪めて唇を震わせているその顔には、真に動揺が走っている。この頃になってようやくロゼウスにもドラクルの様子のおかしさがわかった。
 ロゼウスが皇帝である。それはハデスはもちろん、プロセルピナもルースもすでに知っていたことだ。なのに何故、その彼らに囲まれ問題の渦中にいたドラクルがそれをこんな時に改めて自分に聞くのか。
 まさか、ドラクルだけは、知らされていなかったのか?
 ロゼウスが胸の内でその答にたどり着いた時、身体を起こしたドラクルが突然笑い出した。
「ははははははは!」
 狂気じみたその行動に、ロゼウスは思わずびくりと震える。
「そうか! そういうことか! あのガキめ、だから私に近づいて来たのだな……! 道理で選定者ともあろうものが、やけに気前よく力を貸してくれたものだ、全てはこのためだったのだな!」
 ドラクルが言っているのは、ここにいないハデスのことのようだ。ロゼウスたちからして見れば彼は彼で自分の目的のために動いていたのだが、ドラクルにとってはハデスは大した理由もないのに自分に協力してくれていた相手ということになる。
 大地皇帝とその選定者の性質は気まぐれ。この百年間で世界にはそう知れ渡っていた。だから一つ二つの国の存亡に関わる問題にも気軽に手を出しても不思議ではない。そう思ったからこそドラクルはこれまでハデスたちの介入に深い意味を考えなかったのだが、それに次の皇帝の存在が関わっていたとなれば別だ。
「上手く利用されたのは、彼等ではなく私と言うわけか……!!」
 怒気の篭もった表情で、ドラクルは一人ごちる。浮かべた笑みは自分を嘲笑うように、病んでいる。
「くくくくく。はははははは!」
 ロゼウスはそんなドラクルを、彼の身体の下で震えながら見つめるしかできない。
 しかしふと疑問が沸いた。これまでそのことを知らなかったというのであれば、彼は今になって、一体どうしてロゼウスが皇帝であるという事実を知ったのだろう。脈絡もなくハデスがやってきてバラしていったとは考えにくい。では別の誰か。しかし先日会ったルースの様子では違うだろう。プロセルピナも今になってわざわざ告げる理由があるとは思いにくい。それ以外の誰か……まさか。
「兄様……あの……」
 ロゼウスが皇帝であるという運命を知っているのはほんの一握りの人間だ。そしてドラクル側にある者たちが伝えたとは考えられないとなれば、その相手は限られてくる。
 まさかシェリダンたちがドラクルに会った――? 
 ならばそれはどんな状況か、自分と同じように捕らえられてしまったのかそれとも一瞬の邂逅であり逃げ出せたのか、それだけはせめて知りたいと思いロゼウスは口を開こうとしたのだが。
 ぎり、と再び強く手首を捕まれる。
「痛ッ!」
 悲鳴をあげるロゼウスの様子になど構わず、これまで室内に虚しく響くだけだった哄笑をぴたりと止めて、ドラクルが本格的にロゼウスの身体を押さえ込んできた。
「ふざけるなよ」
 低く呟く。
「ドラクル、兄様……」
「お前が、ロゼウス、お前がこの世界の皇帝だと言うのか。帝国の支配者だと? お前が?」
 どろりと闇を含み濁ったその声に、ロゼウスがひくりと喉を震わせる。歪んだ笑みをはいたドラクルの眼差しが恐ろしい。血のような深紅の瞳が、底の知れない病んだ光を宿している。
「あ……あ……」
 視線に縛り付けられてロゼウスは動けない。ドラクルの手が腕から離れたことにも気づかなければ、再び伸ばされたそれが自分の首を捕らえようとするのにも気づけない。
「お前という者は本当に、どれだけ私を馬鹿にすれば気が済む――!!」
 ドラクルの腕に力が込められ、ロゼウスの首を締め上げる。骨ごと砕き潰しそうなその力に痛みを覚えると共に、気道を締め上げられて息ができない。
 声も出せなければ、ドラクルの腕を引き剥がそうとする力も微かだ。涙と共に開きっぱなしの唇からは唾液が零れて顎を伝う。目の前が霞む。
 ドラクルの怒りを伝わる腕の力から感じ、死を予感した。このまま首を締め上げられ続ければ間違いなく死ぬだろう。また生き返りはしそうだが。
 でも、ここで死んでおけば自分がシェリダンを殺す、その予言は成就しなくなるかもしれない。意識を失う直前のロゼウスがそんな考えにまで至った時。
 突如としてドラクルが腕の力を抜いた。解放されたロゼウスは空気を求めて咳き込み喘ぐ。
 死ななかったのが嬉しいような、心のどこかで悲しいような……けれどそんな思いに浸る暇も与えられず、まだ苦しい息が整わない中、ドラクルの腕によって無理矢理再び寝台に縫い付けられる。今度は首を絞められることはなかったが。
「運命とは変えられるものなのか?」
ドラクルが口にしたのは、今のロゼウスが切実に願っていること、そして世界中の多くの者たちが願っていることだ。
「お前が皇帝だと? 私がやっとローゼンティアの玉座に着いたと思ったら今度は皇帝か。何の努力もしたことがないくせに、どれだけのものを手に入れれば気が済むんだ、お前は」
 ちがう。本当の王太子の立場も皇帝の玉座も、俺が望んだわけじゃない。
 言いたくともまだ痛い喉からは言葉にならなかった。
「皇帝を殺す、有史以来誰も実現したことがない事だ。その皇帝の次の皇帝の資格を持つ者でもない限り」
 ようやく整ってきた息の下から見上げたドラクルの表情は、かつてのハデスによく似ていた。ロゼウスを殺して皇帝になると叫んだ彼と。
「では逆に言えばお前を殺せれば、今度は私が皇帝か? なぁ、ロゼウス」
 くす、と小さく笑むドラクルの表情は、残忍な色を宿している。ふいに掴んでいたロゼウスの腕を強く引いて伸ばすと、その上から力を込めた。
 まずい、と感じる間もなく腕の骨を折られる。乾いた音を皮膚の内側で聞いた。
「あ……あああああああああッ!」
 弱った身体に堪える予期せぬ激痛にロゼウスは叫び悶えるが、ドラクルはもう片方の腕を掴んで解放する様子を見せない。銀の枷で通常の人間程度しか力を発揮できないロゼウスが苦しむ様を、冷酷な眼差しで見下ろしている。
「……お前には、なんとしてでも地獄を見てもらわないと。だってお前はいずれ、この世界の全てを奪っていくのだから――」
 そして私は、何にもなれないのだから。