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「なあ、最近のこの国はどうなってしまったんだ?」
薔薇の生垣に水を遣りながら、男は隣家の主人に尋ねる。そこは城下町で、男の家のすぐ隣は商店だった。
店の支度を始めながら、隣家の主人は言う。
「さぁな。エヴェルシードの奴らが引き上げてからこっち、何の音沙汰もねぇからな」
「音沙汰がない……?」
夕暮れである。人間とは昼夜逆転の生活を送る夜行性のヴァンピルたちは、この時間が「早朝」だ。一日の始まりから不穏な気配を感じ取り、男たちは店の仕度や垣根の手入れをする振りをしながら話し合う。
「何だ? お前さんは何か情報でも握ってるっていうのかい?」
「そういうわけじゃないが……」
生垣の手入れをしながら、男は隣家の主人に語る。
「どうも、王城の辺りが変らしい」
「……王城? 国王陛下か?」
「ああ」
男たちが話している内容は大っぴらにできるものではないものの、民衆の間でも口から口へと伝わって今ではほとんどの者が知るところだ。
「ドラクル王が何かやらかしてしまった、らしいぞ?」
城下に流れるこの不穏な空気。もとはと言えばその不信感は王城から始まった。どこにでも口の軽い者はいるだろうし、そうでなくとも国の機密なんて大層なことを考えずに、自分が王城で見聞きしたことを家族にだけはと思って話してしまう勤め人はいる。流れてきた噂のせいで、ローゼンティアは現在不穏な気配に包まれていた。
「一部の組織が『また』クーデターを起こすっていう噂もある」
「本当か!?」
「ああ。それに、陛下だけじゃない他の王族方が帰ってきたとか来ないとかで、そこから新王を選ぶって噂もある」
「だが、王城にはまだヘンリー王子がいるだろう?」
「ドラクル王に与したから処刑、じゃないか?」
「そうかぁ……」
実際のところ、ローゼンティアの民衆はまだ王であるドラクルに対して信用もしていないが、不審を抱くほどではなかったが、だがここに一石が投じられる。
「おい! 聞いたか!」
「ん?」
「何だ?」
店の開店準備を始める店主と薔薇の垣根の手入れをする男のところへ、もう一人の男が駆け込んでくる。それもまた同じ町の顔見知りの一人だった。
「大変だ、大変だ、王が――」
◆◆◆◆◆
「なんじゃと! 城下で暴動とな!?」
家臣からその報告をもたらされ、アンは大きく目を瞠った。
「へ、ヘンリー」
「……規模はどれくらいなのだ?」
動揺するアンの傍らで、ヘンリーは細かいことを情報を持ってきた兵に聞く。政治に疎いアンにはそれが大変なことだとしかわからないが、ヘンリーはもっと多くのことを考えているらしい。
「原因は――え? 何?」
兵の報告が進む途中で、ヘンリーが怪訝そうに顔色を変えた。その理由はアンにもわかった。報告をもってきた兵の話に寄れば、民衆たちは下級貴族に先導されて、口々に王の悪口を言いながら王城に向かってきている……そんな内容だった。
「どういうことだ? なんでそんないきなり」
確かにここのところドラクルは民衆に対して飴を与えていない。だがしかし、要求を理由もなく無碍に退けるということもしていないはずだ。暴動とはそれらの平和的対話を繰りかえしてそれが首尾悪しく終わった場合、もうこれしかないとして暴力を使うものだ。それが、ドラクルが彼等を積極的に虐げる姿勢を見せたわけでもない、その言葉を無視したわけでもないこの時期にいきなり?
ヘンリーは兵の話に不審を感じて、更に二、三聞き返しながら細かく事情を聞いた。別にその兵が嘘をついていたり嘘の報告をするよう誰かに頼まれたというわけでもない。むしろそんな企みをするならば今国の全権を握るドラクル相手に行うはずである。ただただ困惑した様子のその兵を用事が終わり解放すると、ヘンリーは険しい形相で腕を組んだ。
「ヘンリー」
そろそろ良いかと、アンが話しかける。
「なぁ、どういうことじゃ? 暴動などと……」
昨今のローゼンティアは荒れている。確かにドラクルは前ほど真面目に執務をしなくなった。しかしそれは内情を知るヘンリーから言わせてもらえば以前はエヴェルシードに侵略された国の建て直しをする段階で忙しすぎ、いくら国王と言えどもずっとあの状態で仕事をし続ければ潰れてしまう。今は少し休みすぎかもしれないが、これから順を追って調子を取り戻すなら許容範囲だ、と思う。
だがその一方で、こうも囁く声がするのだ。本当にそうか? ドラクルにとって今は休息をとるための期間のようなもので、また以前のように文句のつけどころのない立派な王として執務を行うという保証がどこにある? と。
いまだ民衆を揺り動かすほどドラクルが国政を放棄しているわけではないとはいえ、王城内で見る分には不安になる者もいるだろう。彼は最近部屋に閉じこもり、臣下に姿を見せないどころか、いつも不機嫌そうに廊下を歩く姿しか見かけられない。
そう、ロゼウスがこの城に連れて来られたときから。
このままでは国は傾いていくのかもしれない。だが、それが民衆レベルの暴動を起こすほど進んでいるかと思えば、そう考える事はまた難しい。
これは自らの眼で確かめるしかないのか。
ドラクル自身が動かないと言うのであれば、自分が……。
「姉上」
「何じゃ?」
「私はこれから城下へ参ります。少しの間、城のことをお願いいたします」
ヘンリーはアンにそう告げるが、姉は応じない。
「待て!」
「姉上、確かめねばならないのです。王城の中からだけではなく、実際にこの国が今どんな岐路にあるのかということを。止めないでください」
「そうではない! ヘンリー、わらわも一緒に行く、と言っておるのじゃ!」
「……は?」
アンの言葉に、ヘンリーは呆けたように一言発すると沈黙する。
「……危険なのですよ? 暴動が発生していて」
暴動と言うからには城下では民衆が荒れ狂っているのだろう。下級貴族の先導による組織的な動きがどのようなものかは見てみないとわからないが、安全ということはあるまい。
姉の身を案じていったヘンリーに、しかしアンはだからこそだと強く返した。
「そんな時だからこそ、わらわも行かねばならないのじゃ。国がこんな大変な時に、わらわ一人だけのんびりとしておるわけにも行かぬじゃろう」
それに、とアンは続ける。
「わらわが城にいたところで、ロゼウスを助けることもできなければ、アンリたちすら牢から出すことも叶わぬ」
口惜しそうに彼女はそう言って身体の横で拳を握り締める。平穏な時には感じない劣等感が今はその身に一杯だ。
政治的な能力など、十三人兄妹で王子が七人もいるローゼンティアの王女には必要ないと思っていた。だが今現在、揺らぐ国の中で何一つできないことがアンには悔しい。
「状況を見るだけであればわらわでもできるであろう? もしも困った状況になって誰かがその場に残り、誰かがドラクルに報告に行かねばならぬ段になったとしても二人いたほうが好都合じゃ。ヘンリー、おぬしのことじゃから部下は連れて行かず一人で城下を見に行くつもりじゃったろう? わらわも連れて行け」
――城下に出て、民の様子を見たことはおありか? アン王女。
――ドラクルがこの国にとって良い国主だと、貴女は本当に思っているのか?
彼女よりもずっと若いはずのあのエヴェルシードの王は言ったのだ。自分のその目で民の様子を確かめろ、と。
ずっとこの国が平和であれば、アンがこうして動く必要はなかっただろう。ずっと平和で、この国には何の憂いもないのであれば。だがそんなことはなかったのだ。
綻びはとうに始まっていたのだ。彼女たちが気づかなかっただけで。もとはと言えば、その綻びがドラクルを追い詰めた。
もっと早くに気づいていれば何とかなったかもしれない事態を、ここまで悪化させたのはその無関心と油断だった。
「……わかりましたよ、姉上」
二人は城を出て、城下町へと向かった。
◆◆◆◆◆
あるいは同じようにして隣国である炎の国を通り抜けてきた者たちならば気づいたのであろう。それは仕組まれた滅びだと。
しかし彼らは気づかない。
そしてかの国とは違い、この国に彼の後を継ぐ者は、いない。
「王は狂人だ!」
「あの男は狂っている!」
「即位を認めるべきじゃなかったんだ!」
民衆たちが手に手に武器を持ち、口々に叫ぶ。街のあちこちから火の手が上がっていた。
「王を殺せ!」
泣き濡れた薔薇の国は、堕ちる。
◆◆◆◆◆
「あっちだ、あっちに反乱軍が!」
「くそ! どこのお貴族様だよ!」
「大変だ、金物屋の三男坊が若い連中率いてクーデターに便乗したって!」
「うちの小麦を勝手に持っていかないで!」
「どけ! 水が足りないんだ!」
「あなた、どこへ行ったの!? あなたーっ!!」
「これもそれも全部ドラクル王のせいだ!」
城下町は混乱の最中だった。アンとヘンリーは地味な衣装に着替えて街へと降りてきたものの、この様子ではろくに情報を聞くこともできない。
そして通りを忙しく駆けるひとびとに乱暴に突き飛ばされながら、聞きたくもない罵声ばかりは耳に入ってくる。
「……大丈夫ですか、アン」
「大丈夫じゃ、ヘンリー。それより……」
ヘンリーは姉を庇うようにし、アンは弟にしがみつく。二人は寄り添いあって、フードで目深に顔を隠しながら路地裏を行く。今大通りを歩けば慣れてない二人はすぐに民衆に押しつぶされるだろう。
吸血鬼の活動時間帯は夜が主だ。街を燃やす炎が、暗い夜空に映えている。
「ど、どうするのじゃ、ヘンリー」
アンは不安を堪えて声を絞り出すものの、震えるその腕はヘンリーの服をしっかりと掴んでいる。
初めて降りてみた城下ではしかし、彼女たち王族を排除する運動に賛成を表明するものと、その暴力に晒されて泣き叫ぶ者たちに分かれている。
「王を殺せ!」
「そうだ、殺せ!」
「ドラクル王を殺せ、あいつが全部悪いんだ!」
誰かに操られた末の暴発とはいえ、燻っていた火種はもとから彼ら民の中にあった。王制をとる国家では、治世に関する不安は全て国王へと向かう。民衆は自分の生活が大事で国のことなど普段は二の次だが、有事になると途端にこぞって王に国を守れと声高に叫ぶ。 それができなかったブラムス王や、ブラムス王が期待をかけていたドラクル王、エヴェルシード侵略後のローゼンティアを上手く治められなかったかの王などもう必要はないと。
「王の首を刎ねろ!」
街に住む者たちの敵意は王城へと向かう。此度の騒ぎは王に不満を持つ一部貴族が先導して城下町の民衆を巻き込んだものだ。王に敵意を向ける者と、彼らの暴動に巻き込まれて被害を受けた者たちの憎悪と恨みが一身に国王ドラクルへと向かう。
アンとヘンリーは逃げ惑うひとびとに紛れて、被害の様子を見る。死傷者が出るほどの火事があちこちで起こっているようだ。吸血鬼はただでさえ火に弱いというのに。
「こんな酷いことになっているだなんて……」
ヘンリーが顔を曇らせながら言った。彼もここまで被害が大きいとは予想していなかったらしい。
そして街の被害と同時に王城へ向けて行進する反乱軍の装備をも見て来た二人は、それが今すぐに王城に扉を開かせるようなものではないが、いつかは正門の守りを突破するだろうとも見てとった。
「アン、少しいいですか? あの丘へ昇ってみましょう。あそこからなら街全体を一望できる」
「ああ」
ヘンリーの提案で、二人は街の裏路地を抜けて高台へと上った。街外れの丘は、よく王城の裏手から遠乗りのコースとして使うことが多い。人間であれば半日以上もかかる結構な距離だが、ヴァンピルの身体能力をもってすれば瞬く間に到達する。
こんな時期に遠乗りを楽しむ輩もいないだろうとのことで、二人は誰もいない丘へと辿り着き街の風景を眼下に見下ろした。
「ああ……」
城下を見下ろしてアンは溜め息をついた。王城の窓からではいくら街に近くとも、その分見えなかったものが、今この目にはっきりと映っている。
「北地区が……」
夜空を焦がす大火、城の側の家々や商店が赤い炎に包まれている。焦げた匂いがここまで届いてきた。紅い家々を燃やす紅い炎。
「でも、あれでは王城には届かない」
街の被害と黒い王城との距離を目で測り、ヘンリーが言う。そう、暴動は彼らが当初予測していたものより凄まじかったとはいえ、一朝一夕で城の警備を破れるようなものでもない。
むしろこれでは、街の被害を広げるだけだ――。
王のやることにけちをつけてまで一体何を考えているのかと、ヘンリーは歯噛みする。しかしその横で、アンは地面にへたりこみ絶望的な呻きを漏らした。
「ああ……ローゼンティアが滅びる」
「え?」
彼女の言葉に、ヘンリーが大きく目を瞠って反論した。屈みこんでアンと視線を合わせる。
「姉上、冷静になってください。何を馬鹿なことを、あれではドラクルに傷一つつけることはできないでしょう。彼はまだ無事です。この反乱もすぐに鎮圧できるでしょう」
ヘンリーの計算では、このぐらいの暴動でドラクルは揺らがない。反乱の首謀者さえ掴めばすぐに鎮圧できるだろうと踏んだ。暴動に参加した民衆が王城の正門を破るよりも、ドラクルが彼らを抑える方が早いだろうと。
しかし、そんな彼の考えはアンの力ない首振りによってあっさりと否定される。
「ヘンリー……もう、無理じゃ」
「何故」
「先ほどの声を聞いたじゃろう。ひとびとが口々に『ドラクル王を殺せ』と叫んでおった。それが、このような被害をもたらしたのじゃ」
「そんなこと、街ならばまた再建できます! 我々の寿命は長いんだ。いくらだって――」
「そうではない」
ぴしゃりと弟の言葉を封じて、アンは街を焦がす炎と同じ色の瞳から涙を溢れさせながら告げる。
「民の信頼なき王など、王ではない――。いくらドラクルが優秀であろうと、今度のことで家を家族を失った者たちはもはやドラクルを許しはしないじゃろう。もともとその暴動だとて、ドラクルへの不満を訴えたものじゃった。それを、力で押さえつけては永遠に民の不満は消せない」
暴力には暴力で。その構図自体は単純だが、現実では暴力を持ち出してしまった後の方が対応に困ることがある。
薔薇の国が燃えている。家々の垣根に植えられていた薔薇の甘い匂いが、焦げたにおいに取って代わられる。
二人の眼下で、ローゼンティアが燃えている。燃えて崩れ落ちていく。
「わらわたちは、もう戻れぬところまで来てしまったのじゃな……」
はらはらとアンが涙を零すが、強くなる一方の火が丘の麓まで迫っていた。熱気が頬を乾かして、濡れた痕も残さない。
「……姉様」
気遣わしげなヘンリー自身の声も酷く弱弱しい。彼等の眼下で燃える国。あちらこちらから火の手が上がり、民衆が逃げ惑う。あるいは武器を片手に王城へと行進する。
この国は滅びるのだ。
今になってわかった。ようやく知った時には遅すぎた。
「……姉上、私はドラクル兄上は、立派な王になるものだと思っていました」
「わらわもじゃ。ロゼウスよりもドラクルが相応しいと。ドラクルならば、きっとローゼンティアを導いてくれるのじゃと」
だが結果としてこの国は燃え堕ちてしまった。
「……私たちは間違えてしまったのでしょうか」
「わからぬ」
わからない、ドラクルでなくても、ロゼウスが王になったとしてもこの結果は変わらなかったのかもしれない。
でも、それでも……願ってはいけないだろうか。
「王を殺せ!」
「俺たちの暮らし向きがエヴェルシードに侵略されて以来悪いのは、全部ドラクル王のせいだ!」
風に乗って流れてくる怒声の嵐。半ば自ら仕込んだこととはいえ、ドラクルがエヴェルシードのカミラ女王と取引してローゼンティアを取り戻した時にはさすがドラクル王だと褒め称えた者たちが今は憎悪をむき出しにして。
自分たちは、なんて勝手な生き物なのだと。自分を立派だと思ったこともないが、他人も所詮そんなものだと今更思い知る。
「王を殺せ!」
自分たちはドラクルを信じ、愛していた。彼の治める国が見たかった。そこはきっと楽園のように立派で平和で、居心地が良いのだろうと。
だけどその夢が裏切られた今でも、彼を責める気は起きない。期待をかけたのはこちらの勝手だ、そして自分たちはドラクル側の存在だ。彼を支えてやらなければならなかったのに。
「……一度だけ、一度だけ言わせてください。アン」
「何じゃ、ヘンリー」
これが最後だと、意を決して顔をあげたヘンリーがアンの目を捉え真剣に告げる。
「私はあなたが好きでした。……いいえ、今でも……愛しています」
思いがけない告白にアンがぱちぱちと瞬く。普段は険しく見えると評判の目つきがそうすると和らいで幼い印象を与える。
ヘンリーは続けた。
「一緒に逃げませんか? ……私と一緒に」
数日前は王城の牢獄でシェリダンたちに向けた言葉を今ここで彼女に告げる。
「ドラクルの治世がもう駄目で、国が終わるのならば私たち王族の存在する意味はない。いいえ、一度でもドラクル方に与した私たちは暴動を起こした民衆に捕まれば八つ裂きでしょう。そのぐらいなら……逃げませんか?」
何とか城の裏手から王城に戻ってこの事態を伝えても、きっとドラクルは今までと態度を変えはしないだろう。そういうひとだとわかっているし、それでいいと思って今までついてきた。
けれど、ヘンリーは死にたくない。そして、アンを殺したくない。だからこそ言う。
「逃げませんか? 私と一緒に、逃げてくれませんか?」
何もかも捨てて。この絆以外は何も持たずに。炎に焦げた薔薇のにおいを運んでくる風の導くままにどこか遠くへ。王族の責務も他の兄妹たちもドラクルもこの国も何もかも忘れて、捨てて。
多分答は、あの時以上にわかっていた。
「……それはできぬ」
あまりにも綺麗に笑いながら、アンが首を横に振る。
「わらわたちは王族じゃ。それは変わらぬ。何があっても変えてはならぬ。ドラクルじゃとて、やり方は多少間違えたが、それでも自らの宿命と戦ったのじゃ。わらわたちだけ逃げてどうする」
あるいはひとはこの選択を愚かだと罵るのだろう。
逃げればよかったのに、と呆れるかもしれない。
だけど彼女たちにとっては、それができなかった。しなかった。
自らが望んだわけではない。だけれど、この世に王族として生まれたのだ。父親がブラムス王とフィリップ卿のどちらであろうと祖父王の血を引くことには変わりない。だから最期まで、王族として死んでいく。
「偽り続ける方が容易くて、逃げれば平穏な未来が開けるかもしれぬ。じゃが」
「……そうですね」
二人はここまでドラクルを信じてきたのだ。彼を信じた自分を間違ったとも思っていない。ただ、少しだけやり方を間違えただけで。
「もっと早くに、ドラクルの孤独に気づいてやるべきじゃったのだろう。だが、もう言っても詮無いこと。あとはロゼウスに任せるしかあるまい」
あんなにも強くロゼウスを求める姿を見てようやくわかったのだ。ドラクルが本当に欲しかったのは何であるのか。
誰もが少しずつ間違えて、そうして歴史の道筋を狂わせていく。
「わらわはドラクルの妹として二十六年間生きたこと、後悔しておらぬ。今もしておらぬ。だから、王族である自分を捨てる気はない。……ヘンリー、おぬしは?」
いつの間にかヘンリーの頬にも涙が伝っている。すぐに乾かされるがその分後から後から零れていくそれを袖で拭いつつ、ヘンリーも頷く。
「そうですね。私も、ドラクル兄上の弟として生まれたことを誇りに思っています、今でも。だから最後までそうとして死んでいきます」
「まぁ、痛いのやら苦しいのやらはわらわももう御免じゃ。やるべきことをやったら、適当に逃げようぞ。なぁ」
その逃げるという言葉は先程のヘンリーが持ちかけた逃亡とは違い、確実に破滅へと繋がっている。
全てが終わったら、きっと二人は死ぬだろう。筆頭はドラクルとはいえ、その一派として深く罪を重ねすぎたから。民衆に正体がバレたらきっと槍を持って追い立てられる。それでもこれから街へと下りて、王族としてできる限りのことはするのだ。
わざと重苦しくならないようアンが冗談めかして笑うのに、ヘンリーも頷いて返す。ふと気づいて、アンを促した。
「姉上……その、先程の、答は」
最期だからと遂に明かしてしまった恋心の行末は、とヘンリーはついつい問いかけてしまう。アンは一瞬きょとんとして、ついでやわらかに微笑んだ。
「わらわも、お前を愛しておるぞ、ヘンリー。……弟としてでも、よければな」
ヘンリーは苦笑して、それで十分ですと答えた。もとより彼女のドラクルへの恋心を二十年も見つめ続けてきたのだ。彼に向けるのと同じだけのものを返されるとは思っていない。ただ、その二十年の長さだけ姉だと思っていたはずの相手に邪な恋をしてしまったことを許してくれるならばそれだけで十分だと。
「……行きましょうか」
「ああ」
二人は、死出の道連れに手を繋ぎ、眼下の街の混乱を治めるべく丘を下りていった。