荊の墓標 43

244

 寒い。のに熱い。暑いというよりも熱い。身体が熱を持っている。
 朦朧として夢現を行き来する意識の中で、ロゼウスは様々なものを感じていた。快感と怖気、寒さと熱さ、心地良さと気持ち悪さ、恍惚と絶望、陽気と陰気。
 昇りつめては堕ちていく感覚、麻薬を嗅がされたせいで、意識が浮上して来ない。ふわふわと眠りと覚醒の狭間を意識する。
 身体がぴくりとも動かず、ただ横たわり眠るに任せる。正確には寝ているわけではない、瞑った瞼の下白い視界でぼんやりとするだけ。
 ふわふわ、ふわふわと。
 穏やかで、けれど何かが物足りない。
 足りないと思うのは、横にいる人の体温か。先程までここにいたのはドラクルだ。腕を折られたあの日以来、昼夜問わずに彼に何度も抱かれ続けた。麻薬で麻痺した頭で快楽だけを追いながら、ヴァンピルの底なしの体力が尽きるまで何度も、何度も。
 何故彼がこの部屋から出て行ったのか、ロゼウスは知らない。執務の時間なのかもしれないし、単に自分の身体に飽きたのかもしれない。まったく別の事情かもしれない。
 足りないと思うのは彼の体温?
 ちがう。
 無意識のうちに否定する。目を開けようとして、とろりと零れた瞼が視界を塞いで鬱陶しい。
「……ウス」
 ちがう。
 自分が待っているのは、彼ではない。
「ロゼウス」
 生まれてからずっと一緒に王城で暮らし、自分の生活の面倒の全てを見てくれた兄、ドラクルではない。そうではなく――
「おい! ロゼウス! 起きろよ!」
 誰かが呼んでいる。
 聞き覚えのある声だ。澄んで透明で、自分や「彼」よりも少し幼さを残す少年の声。顔立ちもわかっている。覚えているその顔も聞こえる声も物凄い美形とかそういうわけではないが、整って美しいことはわかる。そんな人物の。
「ちっ。ドラクルめ、また面倒なことを……。中和の術でなんとかできるか? まったく、ここの魔族どもはろくなものを作らないな……」
 声の主は何事かぶつぶつと呟いて、ロゼウスの顔の前に何か翳す気配がする。続いて玲瓏な声で呪文が紡がれるのが聞こえた。
「古より咲き続けるとこしえの銀の毒薔薇よ、その雫は水に落ちれば毒を成し、地に落ちれば炎を成すものよ、今一たびの安寧をその棘に抱く大気に恵みたまえ、死神の遺産よ、我が声に従え!」
 注がれる呪文が目覚まし代わりとなり、薬の影響が抜けてふと軽くなった身体をロゼウスは起こす。
 そして目の前の人物を見た。
 彼もまた、自分が足りないと感じた「彼」ではない。
 だがその顔は確かに見知ったもの、声には聞き覚えがあるはずだ。何故ここにいるのかはわからないが。
「ハデス……」
 何と言って言いかわからずにただ名前を呼ぶと、相手は不機嫌に唇を尖らせた。向こうも何と言っていいのかわからないのだろう。
「お前……どうしてここに?」
 ロゼウスは尋ねるが、返ってきた答は望む者ではないどころか、状況の説明すらしてくれない全く不親切なものだ。
「いいから、行くぞ」
 伸ばされた手は乱暴にロゼウスの腕を掴む。
 そこに行けば。
「シェリダンは?」
 ハデスがはっとしたように振り返った。一度唇を噛み締めて目線を床へと落とすが、意を決したように顔を上げると告げる。
「行けばわかる。さぁ、行くぞ!」
 寝台から剥ぎ取った敷布で裸のロゼウスの身体を簡単に包むと、彼を抱えながら転移の魔術でその部屋から飛び立った。

 ◆◆◆◆◆

 漆黒の王城。こう言うととても物苦しく陰気なようだが、実際生まれ育ち慣れ親しんだ者にはそうでもない。
 部屋の壁は暗くても、空気というのか、そう言ったものが明るかった。
 遊戯盤をテーブルの上に置き、向かい合うようにして座る。色の違う駒を持ち交互にそれを進めて勝ち負けを競う遊びを二人が行い、余った者たちは対局者の椅子の背から身を乗り出して盤上を覗き込んだ。どちらが勝つかなんて賭け事の真似事をして。
 いつも彼に勝てなかった。なのに悔しさよりも、いつも誇らしいような気持ちが勝った。やっぱりあんたは凄いな、と繰り返して、そんなことはないよ、お前だって強いよと繰り返され。
 あの平和な頃に、戻りたかったね。

 処刑広間に朱が散る。
 
「な……に……」
 処刑部屋に朱が散る。赤でもなく紅でも緋でもなく朱だ。それが鮮やかに黒い床の上の白い絨毯を汚した。血の色が映えるように、この部屋だけ絨毯が白なのだ。
 呆然とその光景を見つつ、シェリダンはヴァンピルの瞳の色とは正しくその身体に流れる血の色を透かしているのだと知った。きっとロゼウスやドラクルのような深紅の瞳を持つ者が血を流せばそれは何よりも濃い紅をしているのだろう。だが今この部屋に散った血の色は、朱色だった。
「アンリ……」
 シェリダンよりももっと呆然と放心したような表情で弟の名を呼んだのは、剣を振るった当人であるドラクルだった。勢い良く振り下ろしたその刃は咄嗟にシェリダンとの間に割り込んだアンリの身体を、剣を持つ本人にも止めることができず容赦なく切り裂いた。
 べしゃ、と柔物が硬い床にぶつかる音。そしてごぼり、と何か液体が溢れる音がする。
 それがアンリの身体が床に倒れこみ多量の血を吐いた音なのだと気がついた瞬間、痛いほどの沈黙は悲鳴によって破られた。
「アンリ!」
「アンリ王子!」
「いやぁあああ! お兄様ぁああ!」
 ロザリーが名を呼び、メアリーが半狂乱に陥る。シェリダンは腕の痛みを堪えて、床に投げ出されたアンリの身体のすぐ側へと膝を着いた。傷の容態を一目見て、顔をしかめる。
「これは、まさか……」
 助かりようがないと一目でわかるその傷口。傷が大きいとか深いとか、そういうことではないのだ。傷口の組織がどろりと溶けたように崩れていき、決して塞がらないようになっている。
 扉を瞠っていたアウグストも思わぬ事態に蒼白な顔になって駆けつけてきた。シェリダンを拘束するのも忘れて反対側からアンリの顔を覗き込む。
「《ロドの処刑刀》で斬った者は……ドラクル様、誰か魔術師を!」
 医師では治すことのできぬ傷だと判断して彼はドラクルにそう求める。魔術師との言葉にシェリダンは咄嗟にハデスを思い浮かべたが彼がこんな場所にいるはずもない。プロセルピナはどこに行ったのだろう。
「無理だ」
 アウグストの呼びかけに、しかしドラクルは衝撃のあまり凍りついた声で答えた。
 彼の持つ剣からは今も鮮やかな色をした血が滴っている。それは固まることもなければ粘性を持つこともなく滴り続ける。刃自体に何か細工があり、それがアンリの傷口を塞ぐことのできない要因になっているのだろう。
 ロザリーやメアリー、ジャスパーが喚く。ローラやリチャードがそれでも懸命な止血を試みるが、服の裾を切って作った即席の包帯さえアンリの血に触れた途端ぼろぼろに溶けていってしまう。ドラクルの持つ剣によって斬られた場所の組織が塞がらないことと、それは関係しているようだ。
 唐突にシェリダンは気づく。
 ここは処刑部屋だ。しかも、ローゼンティアの。
 吸血鬼である彼らは一度殺しても蘇ることが不可能ではないという。そんな国の王侯貴族の処刑場ならば、二度と復活しないよう阻止するための処刑具も揃っているのではないか。
 先程アウグストが《ロドの処刑刀》と呼んだ剣は、ドラクルがこの部屋の壁から外したものだ。
 ヴァンピルによって作られた、ヴァンピルを処刑するための部屋とその武器。
「無理だ」
ドラクルが二度繰り返す。
「この剣で斬った者は、どんな魔術を持ってしても助ける事はできない。例え、皇帝でも……」
 あれは、死神の鎌だったのだ。しかしそれが手にかけたのはシェリダンではなく、ドラクルにとって弟であったはずのアンリ。
「う……」
 苦しげに呻き、塞がらない傷口からぼたぼたと血を流しながら、アンリが上体を起こした。
「お兄様!」
「殿下!」
 ロザリーの声とアウグストの呼びかけが重なる。ロザリーやメアリーはともかく、敵であるはずのアウグストまでがこれほどにもアンリを心配しているのは、不思議なような気がしたが。
 その疑問は次の瞬間吹き飛んだ。
 傷は相当痛み辛いだろうに、それでもアンリは起き上がる。立ち上がった彼は、他の誰を振り返るでもなく、棒立ちになったドラクルの方へと真っ直ぐに歩き出したのだ。
「アンリ……」
 名を呼ぶドラクルの声が掠れる。
 ふらつくアンリの足元はおぼつかず、幾度も転びかけている。一歩進むごとに絨毯を小さくはない血溜まりが染めていく。赤い道筋ができた。
傷口が痛むのか、アンリは腹の中心辺りを手で押さえていた。あるいは内臓が零れないようにするためかもしれない。ならば動かなければいいのに。しかし誰もそんなこと言えなかった。
「ドラクル……」
 自分を斬った相手の名を呼ぶ。ここで殺すつもりはなかっただろうが、結局は自分を殺すことになる男の名を。
「ごめんな」
 大量に血を吐きこぼした彼の唇から思ったよりも明瞭な言葉が零れる。その言葉が部屋にいる者たちの思考を奪う。
 アンリが顔をあげる。自分を決して助からない武器で斬った相手を目の前にして。
 彼が終焉に選んだのは、それでも笑うことだった。
「シェリダン王はああ言ったけれど……俺はやっぱりあんたの怒りは正当なものだと思う。だけど……だから……ごめんな」
 これ以上はないというほどに哀しい笑顔だ。ドラクルが凍りつく。縫いとめられたようにその場から動けず、血まみれで微笑むアンリを凝視している。
 そんなことにも構わずに、アンリは続ける。目前に迫った彼の血まみれの手が、ドラクルの頬に伸びた。シェリダンと同じように枷に繋がれていたはずのその手も、剣で一緒に斬られて自由になっていたのだ。
「ごめんなさい、兄さん。わかって、あげられなかった」
 彼は、アンリはシェリダンを庇ったのではない。
 ドラクルにシェリダンを斬らせたくなかったのだ。それがどういう意味を持つのかはよくわからないけれど。何となくそれでは今よりももっとドラクルが駄目になってしまうような気がして。
 だから自分で、刃を受けた。
「ごめんな」
 三度目のその言葉が、彼の最期となった。ドラクルに縋り付いて泣くように微笑んだ彼の体が血に倒れると、その端から灰へと変わっていく。
「いや……いやぁああああああ!!」
甲高い悲鳴をメアリーがあげる。
「……兄様!」
 さすがのジャスパーも声をあげた。ロザリーは震えて後退り、その肩をエチエンヌが支えた。
「殿下……」
 ドラクル側であるはずのアウグストも呆然としている。何よりドラクルが。

 遊戯盤をテーブルの上に置き、向かい合うようにして座る。色の違う駒を持ち交互にそれを進めて勝ち負けを競う遊びを二人が行い、余った者たち……ヘンリーとアウグストは対局者であるドラクルとアンリの椅子の背から身を乗り出して盤上を覗き込んだ。どちらが勝つかなんて賭け事の真似事をして。
 いつもドラクルが勝った。アンリは筋は悪くないのに、最後の最後で詰めが甘い。逆転されて王の駒を持っていかれて、なのに悔しそうな素振りも見せず、我が事のように誇らしげに言うのだ。やっぱりあんたは凄いな、と繰り返して。
 そんなことはないよ、お前だって強いよと繰り返す自分がいた。
 できるならあの平和な頃に還りたい。還りたかった。

 だが、もう二度と取り戻せない。

 ◆◆◆◆◆

「シェリダン!」
 凍りついた場を切り裂いたのは一つの名を呼ぶ声だった。
「ハデス!?」
 意外なそれに仰天し、シェリダンは状況も忘れて声のした方を振り仰ぐ。腕の痛みを忘れて無茶をした所、走った激痛に思わず歯を食いしばった。
「ハデ、ス……ロゼウス!?」
 そしてもう一度視線を部屋の中空に向けると、そこには魔術師の少年ともう一人、求め続けた姿があった。
「シェリダン!」
 離れていたのはたった数日のはずなのに、なんて懐かしい。
「早く!」
 この声に呼ばれるために、ずっと彼を捜してきた。王城にまで乗り込んだ。
「ここから逃げるよ!」
 ハデスが叫ぶ。彼に荷物のように抱えられた格好のロゼウスが手を伸ばした。移動用の異空間の中では、重さは関係ないらしい。
 咄嗟の判断、むしろ無我夢中でシェリダンは駆け出すとそれを掴む。しっかりと、もう離さないというようにロゼウスの手をきつく握り締める。
「走れ!」
 そして号令した。アンリの死にまだ衝撃を受けている王家の兄妹たちを、ローラやエチエンヌ、リチャードなどエヴェルシードの面々が引っ張ってくる。泣き叫ぶメアリーをリチャードが肩に抱え上げ、ロザリーの肩をエチエンヌが支え、ジャスパーの手をローラが引くようにして皆ハデスの用意した異空間へと飛び込んできた。手枷は彼らが最初に現れた瞬間に、一人でに壊れた。
「ま、待て!」
 逃げられることに気づいたアウグストが我に帰り呼び止めるが、そんな言葉に頷くわけがない。ルースはルースで、さすがに笑顔とは行かないが無表情に彼らを見送る様子だ。
 ハデスが空間を開いたのは処刑広間の正面壁の奥だ。部屋の中央に立ち尽くしたドラクルは、そこに辿り着くまでに彼らが駆けて行くのにも興味を示さず、佇んでいた。
「ドラクル――……」
 ロゼウスが何事か言いかける。クスリ漬けにされたなどと聞いていたが、意識はしっかりとしているようだった。その彼がドラクルの名を呼ぶが、彼は振り返らなかった。
 追って来る暇を与えず、ハデスが空間を閉じる。
「皇帝領へ!」
 そして一行は、遥かなる大地へとその身を運ばれた。

 ◆◆◆◆◆

「ドラクル」
 もう呼ぶ事はないだろうその名。人生の最期に口にする名が恋人とか好きな人ではなく兄の名前だなんて男としては不本意というか……でもそれでも結構幸せなのかもしれない。
「ごめんな」
あの時、ドラクルがシェリダンを殺そうとして飛び出したその時、アンリはシェリダンを庇おうとしたのではなかった。
 何故かアンリは彼を殺してはいけない気がした。シェリダンはここでこんな風に死んでいい存在ではないと。それはロゼウスの大事な人だからというよりも、ただ直感として身体が動いたに過ぎない。ドラクルに、シェリダンを殺させてはならないと。
 理由はすぐには思い浮かばずとも、死の淵に滑り落ちながらじわじわと染み入ってきた。ああ、そうだ。アンリが真に庇いたかったのは、シェリダンではない。
 彼の言うことは真実で、痛いくらいに的を射ている。自分の心が抉られても構わないという彼は、だからこそ残酷に相手の傷をも抉る。その胸に見える紅い傷痕を引き裂いて相手の心臓を遠慮会釈なく引きずり出す。自らの傷口からだって、血を流し続けているくせに。
「シェリダン王はああ言ったけれど……俺はやっぱりあんたの怒りは正当なものだと思う。だけど……だから……ごめんな」
 彼の生き方は真っ直ぐで高潔で屈折していて卑怯で大胆で物悲しい。そんな風に生きてみたいと思ったこともなかったがが、多分世の中のほとんどの人は彼のようにはなれないだろうことはわかった。
 そう、それはドラクルも同じ。シェリダンのようには生きられない。自らの罪を否定するでも、その罪悪感のために卑屈になりすぎるのでもなくただ受け入れ、欲望や心の弱さを誰の責任にも転嫁せず、かといって欲を押さえつけて上辺で聖人面をして空虚な絵空事の理想を語るでもなく己の身勝手な願いは願いとして理解し抱きながら敢然とその場に立つなど。
 ああ、ようやくわかったよ。ドラクル、あなたは俺の理想の王などではなかった。そんな存在にはなれない。俺は俺で、自分の理想の人物像を、あんたにずっと押し付けていただけだったんだね。
「ごめんなさい、兄さん。わかって、あげられなかった」
 一人きりで強く立てない自分は、だからドラクルの怒りを聞いても正当だと思った。彼が国を滅ぼし、父王たちを殺したかった気持ちももっともだ。けれど、事態はそれだけではない。
 こんなにもあんたは醜く愚かで傲慢で惨めだったというのに、気づいてあげられなかった。その古拙の笑みの下に深々と口をあけた傷口に。
 ドラクルはやり過ぎたのだ。自らの痛みを訴えるには、無関係な他者の血を流しすぎた。加害者に変わった被害者の言い分を、誰が聞いてくれるのだろう。――俺以外には。
 誰よりも側にいたのに。
 俺こそがそれに気づかなければならなかったのに。
「ごめんな」
 もっと早くに気づいていれば、こんな最悪な事態は回避できたはずなのに。ごめんな、いつも助けてやれなくて。

 遊戯盤のチェック模様。王や兵を操り相手の陣地を奪い合う遊戯。小さなヘンリーやアウグストが纏わりついて盤上を覗き込んでいる。また自分を負かしたドラクル相手に、立派な王になれるね、と。
 大好きな兄さん。
 本当に、あなたに王になってほしかった。
 理性に従って動いた形の上ではロゼウスに協力していたその時でも、本当はあなた以外の王の姿など思い描くことができなかった。
 だから、これでいいんだ。

「ごめんな……」
 ああ、そういえばシェリダン王の死期は近い、と以前聞いたことをアンリは思い出した。たぶんこれも全ては時間稼ぎにしか過ぎないのだろう。
 何となく、ロゼウスが正式に皇帝になったらドラクルはもはやこの世にはいないのではないかとアンリは思う。あのドラクルが自分の憎い弟が皇帝になった世界で息をしていることを許せるとは思えない。
 そしてシェリダンも死んでしまうのだと。だったら、ここで自分一人死んだところで何も変わらないような気がするが、だがアンリはそれでよかった。
 シェリダンがドラクルの弱さについて、真実を指摘した。見当違いの発言ならともかく、彼の言葉は残酷なくらいに正確にドラクルを見抜いている。己を言い当てられてドラクルは激昂し、剣を振り上げた。
 そのままシェリダンを殺せば確かにこれ以上ドラクルはシェリダンと向き合わずに済むだろう。
 だがそれは、本当の意味での解決にはならない。むしろ、そうしてしまった方が後々ドラクルの惨めさが増すだけだ。
 自分に都合の悪い相手だから斬った。気に入らない玩具を壊して駄々をこねる子どもと同じ行動だ。耳に痛い意見だからと耳を塞いで無視をするのか、己の弱さといつまでも向き合わずに。そうやっていつまでも、自分に都合の悪い相手を刺し続けて生きていくのか?
 それでは、彼はいつになっても本当の安息を得られない。
 だからここでシェリダンを殺してしまわなくて良かったのだ。
 胸から脇腹にかけての激痛。血が足りなくなって霞む視界に、血を吐いた口内に満ちた錆の味。
 それでも一歩一歩地を踏みしめてドラクルのもとへと。
 父や母は彼を愛してくれなかったのかも知れない。世界や宿命が彼を裏切ったのかも知れない。
 だけど、自分はドラクルを尊敬していたし、兄としての彼を愛してもいた。王になってほしかった、本当に。その治世を、自分が隣で支えたかった。
 もう戻れはしない上に、結局ここで助けたシェリダンも、ドラクルもいずれは死んでしまうのだろうが……
 時間は多ければ多いほど良いだろう。アンリはもう十分、人生を楽しんだ。一時でも幸せな家族の、幸せな王国の夢を見ることができた。
 だからせめて彼らにも満足な結末を得るぐらいの時間は持ってほしい。幸せに生きてとは言えないけれど、責めて死ぬ瞬間に幸せだったと思えるような人生を。
 アンリはそれを手に入れた。もう、ずっと前から持っていた。

 じゃあね、先に逝ってるよ。

 できるなら可能な限りゆっくりと来て欲しい。処刑用の刃で斬り裂かれた傷口が塞がらず、血と共に命が滑り落ちていく。
 もう瞼が開いていても何も見えない。光も闇もわからない夢幻の空間の中、唇が張り付いて動かなくなり、身体が傾ぐのがわかった。その最期の瞬間まで祈る。どうか、どうか、と。そして世界が暗転し、呆然とした表情のドラクルが遠ざかっていった。自分はそれを微笑んで見送ることができただろうか。いや、見送られたのは自分の方か。

 さぁ、そろそろミザリーやミカエラ、ウィルや父上たちに会いに行こう。