荊の墓標 44

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「皇帝陛下、いや、あえて言おう、上皇は崩御なされた」
「崩御!? 何故ですか宰相閣下! デメテル陛下の御様子に普段と変わったところなどなかったはず! 大体あなたの方がたびたび城を空けていたのに、今頃になって! 崩御と言うのであればご遺体はどこに……!?」
「そうです! 詳しい事情をご説明ください!」
「それとももしや今度のこと、あなたの差し金では……」
 皇帝の宮殿の入り口にて、ハデスは重臣たちと口論に突入している。次代皇帝の即位が正式に行われる前の皇帝の城には、その勢力図とも言える「気」が乱れているために普段と勝手が違い、直接城の中へ転移することはハデスにもできなかったのだ。
 そのため正門から入ろうとしたのだが、そこではこれまで三十二代皇帝デメテルに仕え働いていた家臣たちに邪魔をされた。彼等に対し、デメテルもハデスも今度のことは何一つ説明してはいない。そしてハデスが姉である皇帝を嫌っていたことはよく知られているために、家臣たちに信用がなかった。
「どういうことですか!? 詳しくお聞かせ願いたい!」
詰め寄る彼らに、ハデスは選定紋章印が刻まれていたはずの自らの腕と傍らに引き寄せたジャスパーを示しながら言った。
「お前たちの求める答はこれだ」
 しっかりと掲げられたのは、ハデスの白い腕。個人差はあるが、魔術師に健康的という言葉が似合う者は少ない。命のどこかを削って使われるというその能力のために、黒の末裔の魔術師は皆どこか不健康な白い肌と細い身体をしている。
 ハデスの見てくれも華奢だ。男らしさや力強さとは無縁の、しかし美しいその腕を彼は堂々と掲げる。
 そこにあるはずの選定紋章印がない。逆の腕と間違えたなどというお遊びではなく、あるはずのものが消えているというその事実。選定者は皇帝と一蓮托生であり、彼ら彼女らは通常皇帝の死に殉じてその生涯を終える。
 そしてハデスの目に促されて、ジャスパーは己の服の腰を捲り上げる。そこにはデメテルの紋章とはまた違った意匠の、しかし確かに選定紋章印としか呼ぶしかないものが存在していた。
「そ、それは!」
「そう、次代皇帝の紋章だ」
 ロゼウスが進み出る。一目でジャスパーの血縁と知れるその顔に、皇帝の家臣たちは納得の意を示す。選定者は血縁から生まれ出ることが多い。
「理由など必要ないだろう。証拠はすでにここにある。姉さん……先代皇帝陛下の考えなど、僕が知るものか。それよりも、ここを数日貸してもらおうか」
「何故」
「いいから、出てけって言ってるんだよ!」
 突然彼らの住居でもある城を追い出されることとなった家臣たちとの口論にまたしばし時間をとられるが、その場もなんとかハデスによって治められた。全ての事情を説明する事はできなくとも、肝心な内容だけは伝えておかねばならない。皇帝領。この場所はもうすぐ、ロゼウスとドラクル、そしてデメテルことプロセルピナとハデスの最終決戦の場となるのだから。ロゼウスとデメテル、皇帝同士の行末を占うに相応しい戦いの場と言えば聞こえはいいが、要は他の国の領土と違い、自由に喧嘩しても誰に咎められることもないのがこの場所というだけだ。
「わかったら、即座に荷物を纏めてこの城を出て行け」
 姿形はまだ少年だが、ハデスはこう見えても九十年程帝国宰相として働いてきた実績がある。その迫力は確かなものだ。
 彼の言葉に最終的に頷いた家臣たちを追い払い、ハデスは一行を城の中へと案内する。とにかく決戦の前に身体を休ませ、気持ちの整理をつけねばならない。
 特に今は幾つもの問題、不安、そして絶望と後悔を抱えている。
ロゼウスは服を与えられ、他の者たちにもお茶が振舞われるなどして休息の用意が整う。使用人たちも高官たちと同じように追い出してしまったが、ある程度の雑事はハデスの魔術で賄えるということだった。城内から段々と人の気配が消えてゆく。
「そうか……アンリ兄様が」
 一室に落ち着いた途端、これまで他の者の手に支えられ人形の大人しく連れられていたメアリーが泣き出した。嗚咽交じりの声で切れ切れに、アンリの死をロゼウスに訴える。シェリダンを庇ってというところでは、さすがにロゼウスも動揺をあらわにした。
「兄様が、シェリダンを?」
 確かにアンリは誰かを守るために身を挺しそうな性格ではある。だがその彼でも、シェリダンを庇うとは……。
「見た目にはシェリダン様を庇われたアンリ殿下でしたが、真実あの方が救いたかったのはシェリダン様ではなく、ドラクル王の方なのでしょう。私の眼にはそのように見えました」
 リチャードが補足する。
「そっか……」
 教えられて、それならば、とやっと彼らも納得する。
「アンリ……」
 誰よりも優しく、兄妹の中で一番面倒見の良かった第二王子アンリ。弟妹の世話を笑顔で引き受けていた彼が、しかし真に尊敬していたのは他でもない、彼にとってはただ一人の兄、ドラクル。
 ロゼウスへの虐待のことがあり、いつしかその感情は複雑な翳りを帯びたものにはなったけれど、兄弟間の愛情が全く失われてしまったわけではない。むしろ心が離れていけばいくほどに、アンリは内心でドラクルを気遣っていたに違いない。
「お兄様は、でも、でも……」
 ロゼウスに縋りつくメアリーの涙は止まらない。ロザリーやジャスパー、そしてロゼウス自身もこれまでに兄妹の死を経験している。ミカエラの処刑――実際に殺したのはハデスだが――をその目にし、ロゼウスの意志ではないとはいえウィルをその手にかけ、ミザリーが自ら進んで冥府の生贄になった場面も見ている。
 だが、メアリーにとってはこれが初めて間近で経験した兄妹の死だった。父王と王妃たちの死は直接目にしたわけではないし、エヴェルシードの侵略によって命を奪われた一度目は蘇る希望があることもわかっていた。だけれど今、灰に変わってしまったアンリが二度と蘇ることがないことは確かだ。
 兄妹で争うことだけでも辛いのに、兄の死を目の前で見てしまった気の弱い彼女の精神状態は混乱の極みにあった。その場にいる身内で最も年長であるロゼウスに縋りついて泣き喚く。
「メアリー、もう泣かないで」
 緩やかな三つ編みに結わいたメアリーの髪を優しく撫でながら、ロゼウスは彼女を慰めようとする。けれどうまくいかない。いくはずもない。
 そこに追い討ちをかけるようにハデスが告げた。
「大事な大事なお兄様の死を悼んでいるところ悪いけどね、死んだのは彼だけではないよ」
「え?」
 ハデスの意味深な言葉に、部屋中の注目が彼に集まる。
「ローゼンティア王族はもうお前ら四人と、ドラクルとルースの二人だけ……ああ、先に逃がしたエリサ姫は生きているけれど」
「俺たちとエリサと、あの二人だけ?」
 その言葉に誰よりも早く反応したのはメアリーだ。蒼白だった顔色を更に青くして、彼女は残り二人の名を叫ぶ。
「アン姉様とヘンリー兄様は!?」
 真っ先にこれまで王城で一緒にした姉と兄のことを尋ねるが、ハデスの表情は変わらない。冷たいような冷静すぎる無表情はとても不吉な予感を見ている者に与える。
「第一王女アン、第三王子ヘンリーは死んだ」
「……ッ!!」
「ローゼンティア王国内で内乱、民衆と彼らを扇動した下級貴族たちのよる反乱が起きたんだ。それを止めようとしたけれど抑えきれず」
「まさか殺害されたの!?」 
 悲鳴のようなロザリーの問いかけ。
「……いいや、自分たちで反乱が鎮静しきれないと知ると、二人逃げ落ちて自害……心中を選んだ。もうドラクルにつくこともできないけれど、彼を裏切ることもできないから、と」
 予言の能力を持つ彼の状況説明は見て来たかのように的確で、メアリーはまた涙を新たにする。ハデスのことだから、魔術で実際に見ていたのかもしれないが。
残ったのは六人だけ、もう半数になってしまったという言葉にロザリーさえも愕然とし、ジャスパーも心なしか沈痛の表情を浮かべている。
「兄様、姉様……みんな……」
 みんな、みんな死んでしまった。アンもヘンリーもアンリも、ミザリーもミカエラもウィルも。すでに兄妹の半分が亡くなり、残った半分同士で殺し合いをするのだ。
「ねぇ、ハデス……」
「何、ロゼウス?」
 ロゼウスは発作的にハデスにそれを問いかけかけた。だが、腕の中で新たな報せにまた激しく泣き出したメアリーの存在を思い、それをとりやめる。
「ううん、なんでもない」
「そう」
 ねぇ、この戦いが終わる頃には、何人が残るの?
 それはとても残酷な問いかけだ。

 ◆◆◆◆◆

 ――ロゼウス、何か困ったことがあったらすぐ俺に言えよ。ちゃんと助けてやるから。
 メアリーを腕に抱いたまま、ロゼウスはアンリについて回想する。
 優しい兄だった。いざ思い出そうとすると、他の言葉が上手く思い浮かばない。優しい兄だった。何よりもそれ。
 第二王子であり、兄であるドラクルと同い年のアン以外は兄妹皆弟であり妹だと、年下の兄妹をとても可愛がってくれた。他の兄妹は相手によって仲が良い悪いなどの相性があったが、アンリに関してはそれがなかった。彼が話しかけ辛い相手はおらず、彼に話し掛け辛い者もいなかったはずだ。王子にしては気さくで人当たりが良く、身内だけではなく臣下にも民にも、顔を知る者皆に好かれていた兄。
 その彼が死んだ。シェリダンを庇い、ドラクルの剣に貫かれたのだという。処刑部屋にある刃物は吸血鬼の命を完全に絶つための道具。誰にも助けられはしなかったと。
 ロゼウスに対してももちろん優しかったとはいえ、アンリは誰よりも長くドラクルと過ごした弟だ。兄であるドラクルを誰よりも心配していたに違いない。リチャードから本当はドラクルを救いたかったのではないかと聞かされて少し納得した。
 彼のやり方は間違っている、ローゼンティアの者としては歓迎できないとその行動を諫めながら、それでもアンリはドラクル自身を酷く心配していた。ドラクルが間違った道に進んでしまったというのであれば、そのドラクルに一番近かったはずの自分が何故彼を止められなかったのだと自らを責め続ける。
 アンリはドラクルを殺したくはなかっただろう。だから、その前に死ぬことを選んだのではないか? なんとなくロゼウスはそう思う。
 優しい優しい、兄様。
 思い出してロゼウスは頬に一筋涙を零す。これまでのミカエラやウィル、ミザリーと違い、唯一ロゼウスがその目にすることのなかった死だ。だが彼が最後にどんな表情で逝ったのかはわかる気がする。
 自らの復讐のために無関係な無辜の民まで巻き添えに自国を滅ぼすというドラクルのその行動。それを間違っていると言うのは簡単だ。実際にそう思っているからアンリはロゼウスたちと行動を共にしていたのだろうし、表立って彼を庇うことはなかったのだろう。だが間違っているからと言って、ドラクルが苦しんでいた時に何一つ彼を助けることをしなかった彼が何を言ったところで無駄なのだ。その苦しみと悲しみを本当い理解するためには、アンリ自身も同じだけの覚悟がなければいけない。
 アンリにとってそれは、明らかに衝動的にシェリダンに対して剣を振り上げようとしたドラクルを命を賭けて止めることだった。
 自分の気に食わない者たちを刺して、ずっとそうして生きていけるわけなどないのだ。シェリダンを殺す事は、ドラクルにとっては卑怯な「逃げ」。それをさせないためにアンリは死んだのだろう。
 きっと彼は、事切れるその瞬間、満足そうな顔をしていたに違いない。そう予測がつくからなおロゼウスは胸が痛い。アンリは自分が誰かを庇った時に、その人物の身代わりに傷つくことを恨みに思うような者ではない。
 アンリだけではない、ハデスの言葉によれば、アンもヘンリーも死んだのだという。こちらはアンリの死の報に比べて、まだ実感が湧かない。
 アンとヘンリーの二人は、無理矢理連れて行かれたメアリーと違い自分からドラクルに与することを決めた者たちだ。アンリと同じように、むしろ彼以上にわかりやすくドラクルを愛していたのはこの二人だ。
 ドラクルに与した。ロゼウスにとってはその一事だけで敵対者と呼んでも構わないのかもしれないが、それでも兄妹だった。彼らには彼らの理由があって、ドラクルよりロゼウスを選んだのだ。最後にもう一度だけ話をしてみたかったのにも、もうそれもできない。
 次々と家族が、兄妹が減ってゆく。知り合いも、敵も味方も、これまで関わった人々が次々と死んでゆく。自分の手で殺した者もいる。あらゆる人々を踏みつけて、血の道の上にこの生を築いた。
 生きるこということはなんて残酷なのだろう。
 だが諦められない。自らの生を、そして愛しい者の生を諦められない。
 この悲しみは、いつになったら終わるのだろうか。
 抱きしめた妹の肩口に顔を埋めて目元が濡れるのを堪えていたロゼウスの耳元に、不意に何かが倒れるような音が届く。
 ――ガタ。
「シェリダン様!?」
「陛下!」
 ローラたちの焦った声とともに、テーブルの上で何かがぶつかる音がした。ゆっくりとメアリーの身体を離しジャスパーの方へと預けると、テーブルの上に蒼い髪が突っ伏しているのが見える。
 もう一人のエヴェルシード人であるリチャードに肩を揺すられているとなればその姿は残る一人でしかない。
「シェリダン!」
 周りの様子を見るに突然卓に突っ伏すようにして倒れたのだろうシェリダンの容態を見ると、紅く染まった顔が目に入る。薄っすらと汗を浮かべた額に手を当てると熱がある。
「何で? こんないきなり……」
「これは……」
 人間とは違った再生能力を持つため普通の怪我や病とは無縁な吸血鬼であるロゼウスは思いがけない事態に動転しかけるが、すぐさま隣から解説が加えられた。
「骨折したからだな。でもこれは僕の魔術じゃ治せないよ」
 ハデスが原因を指摘して渋面を作る。魔術は怪我の治療や特殊な病に対しては手順を踏めば治療できるが、通常の身体的な反応である熱などはどうしようもないらしい。それでも骨折後すぐに、身体が骨を折られたと認識する間もなく治療してしまえば熱を出すこともなかったのだろうが、彼とロゼウスが助けに入ったのはシェリダンが牢から出される際に腕を折られ、処刑部屋でドラクルと話をしていた相当後の話だ。
 そうでなくともこれまでの強行軍と幾たびもの戦闘、崖から落ちるわ、襲撃には遭うわ、監禁拘束されるわで気の休まる暇がなかった。今も気の休める時間とは言えないが、これまで立場上一行の纏め役のような位置にいて問題の矢面に立ち続けたシェリダンに負担が溜まるのは無理もない。
「今夜はよく休ませることだ……次の戦いは近いんだから」
 最終決戦の前に体調を万全に整えておく必要がある。
「色々用意してくるから、隣の部屋にでも寝かせといて」
 使用人を全員追い出してしまったので、ここには雑事をこなせるような者はそう多くない。シェリダンを運ぶ役目はリチャードが引き受けたが、物の在り処を多少なりとも知っているのはハデスくらいだ。
 氷枕を作ってくるのは彼に任せ、ロゼウスは隣部屋の寝台を簡単に整える。そこにリチャードがシェリダンを横たえて掛け布を引き上げた。
「俺が看てるから、リチャードはローラたちと一緒にいて」
 心配する気持ちを押し殺し、リチャードは気を利かせて部屋を出て行った。後から細々とした物を準備してきたハデスが部屋に入ってくる。
 丁寧な手付きでそれらを整えていくハデスに、ロゼウスはそっと尋ねる。
「ハデス」
「何?」

「次の戦いが終わったら、俺たちローゼンティアの兄妹は何人残る?」

 メアリーやロザリーなどの耳のないところで、先程は口に出せなかったことを聞いた。
「……王族として残るのは三人、皇帝であるお前と選定者ジャスパー。そして新ローゼンティア王」
「新ローゼンティア王……」
 それは誰だ、と問う間もなくハデスは続ける。
「それにお前が前に逃がした末姫は生き残る。もう一人の妹も、お前は逃がすだろう」
「そうだな。そうしようとは思っていた」
 メアリーは戦えない。アンリの死を見て、アンとヘンリーの死を告げられて、その上ドラクルとルースを殺すために戦いあうなどできない。
 彼女の事は、できれば今夜中にでもこの場から引き離した方がいいのだろう。
 戦いの末、残るのはロゼウス、ジャスパー、そしてあと一人。ドラクルを殺せば、恐らくルースは彼の後を追うだろう。だから最後の一人は……。
「覚悟を決めておけよ、ロゼウス」
 部屋から出る前に、ハデスが振り返り一言告げた。
「今日が、最後だから」
 ロゼウスは手を伸ばし、掛け布からはみ出したシェリダンの手を握る。そこに確かに宿る温もり。
 失いたくない。失えない。
 彼らの最後の長い一夜が、ゆっくりと過ぎていく。