荊の墓標 44

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 自分の手が普通の人間からすれば死体の冷たさだと気づいたのは、彼の手の温度を知ってからだった。
 寝台に横たわるシェリダンの手を握る。ロゼウスたちヴァンピルのように蝋人形を見ているように不自然な白さではないとはいえ本来白くてきめ細かい肌をしているシェリダンの手。薄っすらと汗をかいているその手を握り、紅く染まった顔を見る。熱を持つ彼の体は熱い。炎のように。
「シェリダン……」
 ほとんど疲労が原因と言っていいような熱で寝込むシェリダンの傍ら、看病と言うほどすることがあるわけでもないが、ロゼウスはそこにいた。何をするでもなく、シェリダンの寝顔を眺めている。飽きることなどなく、穴が開きそうなほどに熱心に見つめ続ける。
 最後の夜だとハデスに言われた。
 どういう意味だと問い返すまでもない。今日が、最後の夜。このシェリダンと過ごす。意味深なその言い方にロゼウスは明日、自分がこの手でシェリダンを殺すのだということを知る。
 それなのに彼は熱を出して寝込んでしまっている。夜が明け、目が覚めて体調が回復していたら彼はそのまま戦いに出るのだろうか。回復しておらず、倒れそうなままだったらどうするのだろう? いや、たとえシェリダンがどんな状態であったとしても、ドラクルの方で引く気がなければ結末は同じだろう。
 プロセルピナはハデスほど優れた移動能力を持つのではないそうだ。皇帝であった頃のデメテルならば出来たかもしれないが、今のプロセルピナにはできない。彼女はデメテルを母体とし、ハデスの力まで受け継いだ人形の身体に魂を移したためにこれまで以上に強大な力を得ることができたが、逆にできなくなったことも多いとのことだった。
 それでも、プロセルピナが苦手だという空間移動を用いてドラクルたちがローゼンティアから世界の反対側である皇帝領にまで訪れるのは、一日もかからないという。戦いは明日だとハデスは言う。それが最終決戦で、だから今日は最後の夜なのだ。
 最終決戦。最後の戦い。
 それに打ち勝てば、ロゼウスは皇帝になるのだという。
 だが彼が真実皇帝になるためには、もう一つ必要なものがあると、預言者たちは口を揃えて言った。
 それはシェリダンの死。エヴェルシード王である彼ではなく、ただのシェリダン=エヴェルシードの死だと。
 ロゼウスがシェリダンを殺したその時、真実『薔薇の皇帝』は誕生する。
 今になってもロゼウスにはその意味がわからない。自分がシェリダンを殺す場面というのも思いつかなければ、彼を殺せば皇帝としての正式な資格を得るという予言にいたっては全く持って意味不明だ。一国の王を殺して世界情勢が移り変わるとか、そういうことでもないのだと。他の誰かにとって意味があるものでもない。ただ、ロゼウスにとってはシェリダンの死が必要だと。――何故それが皇帝の資格に結びつくというのか?
 世界は皇帝を得るためにシェリダンの死を必要とするのかも知れないが、ロゼウスは皇帝になりたいなどと思ったことはない。
 帝国はシェリダン=エヴェルシードの死を望んでも、ロゼウス=ローゼンティアはシェリダンの死を望んだりしないのだ。
 だいたい、まず自分がシェリダンを殺す心境というものが思い浮かばない。
ロゼウスにとって、シェリダンは何よりも、誰よりもかけがえのない者だ。何と引き換えにすれば彼を殺せるのだろう。自分にとって、引き換えられるもののないほど大切な彼を。
 寝台からはみ出た彼の片手を自らの両手で包み込み、ロゼウスはそっとその手に口付ける。
 熱を持って熱いその場所から、唇が焼け爛れていきそう。そのまま氷のように今自分が溶けて消えてしまえば、シェリダンを殺すこともないのに。
 殺したくない。
 殺したくない。
 殺すはずがない。殺す理由もない。
 だって、失えないのだ。
 どんな理由があっても、たとえ世界と天秤にかけても失えないのだ。たとえばこれまで王の責務とはいえ何人も殺し、必要ともなれば強姦や拷問も厭わなかったシェリダンと、生まれたばかりで罪のない赤子を並べられてどちらか殺したいほうを殺せと言われれば、ロゼウスは迷うことなく赤子を殺す。無辜の民、麗しい乙女も清廉な老人も我が子を抱く優しい母も家族を愛する父も正義を掲げる青年もどんな者でも、シェリダンと比べたら、ロゼウスは間違いなく彼をとる。罪人であっても自分にとって愛しい彼を守るために、罪のない人々をも、殺せる。その時になれば躊躇うことなく手にかける。
 世界と彼を天秤に乗せて、彼に傾けるために世界中全ての人間を殺せと言われても、そうする。彼を助けてくれるというのであればどんな犠牲を払わせる悪魔とでも契約する。
 それは、今自分の側にいる者に対してであっても同じだ。
 ロゼウスは自らの前世だというシェスラートに意識を乗っ取られている間に、ウィルを殺した。自分にとってずっと弟であったはずの彼を、殺した。
 だけどシェリダンを殺す事はできなかったのだ。ウィルは殺せたのに、シェリダンは殺せなかった。
 彼のことだけではない。ミカエラの死を肌に感じた時も、ミザリーを引き止められずに見送ったときも、ロゼウスはそれによって悲しんでも、自分を失うようなことはなかった。
 冷たいようで、でも考えてみれば当然で、そしてそれこそ残酷なことではあるが、ロゼウスは彼らが死んでも生きていけるのだ。
 世界中多くの人々は、本当はそんなものだろう。愛しい恋人や家族が死んだからといって、後を追う者はいないわけではないが稀だ。人は大切な誰かを失っても、その人を想いながらでも生きていける。
 悲しくて辛くてその死を悼むために涙を流すけど、だけど、それでも生きていける。
 ロゼウスにとっても、彼以外の者はそうだった。ミカエラやミザリーが亡くなっても生きていける。
 ウィルを殺し、そしてこれからドラクルを殺したとしても生きて行ける。
 残酷だが、それがロゼウスの真実だ。
 だがシェリダンを失ったら生きていけない。
 生きて、ただ生きていてくれるだけでいいのだ。自分を死ぬほど嫌って憎んで恨むようなことになっても、生きていてさえくれればいい。
 愛してしまったから……好きになってしまったから、ロゼウスにとって、愛とはそういうものだった。かつてドラクルに虐待されても、本当は彼が自分を憎んでいると知ってもロゼウスからはドラクルのことが憎めないように、大事なのは自分が相手を想っていることだった。

 嫌われても憎まれてもいい。だって自分は相手を愛しているのだから!

 もしも今この手を離し、命を終えるまで二度と逢わないで過ごせば彼が助かるというのであれば、ロゼウスは悲しくてもそうするだろう。寂しくて仕方がなくなっても我慢できる。その方法でシェリダンが助かるというのであれば。だがそれを尋ねた時、ハデスは悲しそうな顔で首を横に振った。それは意味がない、と。
 予言とは必ず成就するものだ。そうでなければ意味がない。運命を変えることはできない。曖昧な言葉で誤魔化すのではなく、あらかじめその対象に全てを教えて回避、対策行動がとれるように指示したとしても、それでも成就されてしまうのが予言である。ある人がその日外出先で事故に会うと予言されたとして、その人が家の柱に縛りついてでも外に出ないよう努めたとしても結局は何らかの要因があって出かけることとなり予言通りの運命を辿る。それが《予言》だと。
 シェリダンが死ぬ運命を、誰も曲げることができない。
 そしてロゼウスは、皇帝になってしまえば彼を生き返らせることができない。
 カミラに対してそうしたように、ヴァンピルには人間の死人を生き返らせるなど容易いことだ。だからローゼンティア王子、ローゼンティアの吸血鬼であるロゼウスであればそれは可能なのに、皇帝になった途端本来生まれ持っていたはずのその力を失うのだ。
 皇帝は万能だ。だから死者を蘇らせる力をも持つ。それだけ大変な能力であれば濫用する皇帝が現れてもいいようだが、過去にそうした皇帝はいなかったという。
 そして皇帝は、世界中他の誰を蘇らせることもできるのに、《自らの愛する者》だけは生き返らせることはできないのだ。
 できるのであれば、まず初代皇帝が使っていただろう。シェスラート=エヴェルシード……本名ロゼッテ=エヴェルシードが。だが彼は自分の愛していた真の皇帝になるべきだった男、シェスラートを蘇らせることはできなかった。皇帝は何故か自らの愛する者にだけは蘇りの法を使えない。それは、何のために……?
「好き、なのに……好きだから、だから、俺にはお前を生き返らせることができなくなる」
 シェリダンの手をきつく握り締めて、ロゼウスはその手を今度は額に押し当てる。
 愛しているのに、愛しているから蘇らせることができないというこの不可思議な現実。皇帝は万能と言われているのに、何故できないことがあるのか。
 今だったら、今であればたとえシェリダンが死んでも生き返らせることができるのに。だがシェリダンが死ぬのはロゼウスが殺した時で、彼を殺した瞬間ロゼウスは皇帝になるという。一番肝心な時に一番必要な力が使えない。どうして――。
「……そうだ」
 そこでハッとロゼウスは気づいた。
「《今》、やればいいじゃないか」
 皇帝はこの世界でたった一人、愛する者だけは蘇らせることができない。
 シェリダンを殺した瞬間にロゼウスが真の皇帝となるのであれば、ロゼウスは死んだシェリダンを蘇らせることはできない。
 緊張のあまり思わず体重をかけてしまった椅子がぎしりと軋む。ロゼウスは僅かに震える。
 皇帝になってしまえばロゼウスはシェリダンの生命に手を出すことができない。
 だが、今は?
 次代皇帝と神に烙印されていても、まだ薔薇の皇帝ではなくただの薔薇の王子であるロゼウス=ローゼンティア。吸血鬼王国の王子であるロゼウスは、

 他者に自らの血を飲ませることによって、自らの配下として不老不死にすることができる。

 それはもちろん術者が死ぬまでという制限付きの能力だが、構わないだろう。ロゼウスはシェリダンと共にあることが望みなのだから、不老不死を真剣に望んでいるのではなく、ただ明日にも死んでしまう、殺してしまうのが嫌なだけだ。
 《今》ならば薔薇の王子であるロゼウスの力で、シェリダンに紛い物ではあるが、《永遠の命》を与えることができる。
「そうだ……そうだよ!」
 どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなかったのか。そうすればシェリダンが死ぬ心配などしなくて済む。一度死んだ者は二度と死にはしないのだから。
 だったら――。
 ロゼウスはゆっくりと、熱を持つシェリダンの手から自らの手を引き離す。
 緊張のあまりに体中が震えている。それは歓喜と――それだけでなく、何故か不安を交えていた。
 
 君が久遠を望むなら。
 それを与える力が、自分にはある。

「シェリダン――」
 声にならない声が紡ぐ《愛している》。
 言葉の代わりに唇を強く噛み締める。そのせいで唇が切れて血を流す。その血こそロゼウスが望むものであった。
 己が血に魔力を込めて相手に飲ませれば、ヴァンピルはその相手を不老不死にできる。
 だから。
 ロゼウスは僅かに寝台を軋ませてシェリダンの顔の横に手をつき、そして――。

 ◆◆◆◆◆

「はぁあ~~」
 この緊張下にはとても似つかわしくないと思われるなんとも気の抜ける声を、誰かがあげた。誰か、とは言ってもこの部屋には三人しかしない。そしてその三人のうち誰があげてもおかしくないようなそれは溜め息であり、もしかしたら自分が口にしていたのかもしれない。
「何だか、とうとうここまで来ちゃったのかぁ……そんな感じがするわ」
 どこか疲れた様子を漂わせながらローラが言った。疲れているのは彼女だけでなく今現在この城にいる全員であり、彼らの主君であるシェリダンなどは、極度の疲労と外傷の影響により今は熱を出して寝込んでいる。
「そうだよね……何か落ち着かないな……あのさ、シェリダン様のお部屋に行っちゃ駄目かな。いらないかもしれないけど、お世話させてもらえれば」
 することがなければただその寝顔を眺めているだけでもいいから、と、そうエチエンヌが言い出したのだが、残り二人からは一斉に却下された。
「駄目よ」
「駄目だ」
 双子の姉であるローラはともかく、リチャードまでもがすげなくエチエンヌの提案とも頼みともつかないその言葉を一蹴する。
「なんでだよ!」
「なんで、も何もないでしょ、エチエンヌ。今あのお部屋には誰がいらっしゃると思ってるの?」
「ロゼウス……」
 ローラの言葉にエチエンヌが力なく答えると、リチャードが微苦笑を浮かべてエチエンヌを見遣った。
「シェリダン様はずっとロゼウス様の心配をしておられたのはお前も知っているだろう? そしてロゼウス様もシェリダン様のことを。だから」
「僕はお邪魔虫ってわけね」
 何だか癪に障るものもあるが、一応の事情は納得できた。ロゼウスがシェリダンに引っ付いていること自体はエチエンヌの気に入らないが、それを誰よりもシェリダンが望んでいれば彼らには反対できない。
 彼ら二人の仲が険悪だった頃はそのぴりぴりした空気にこちらまでどこか哀しいような緊張を強いられたものだが、二人の仲が良いとなるとそれはそれで気に入らない。
 ローラにもエチエンヌにもリチャードにもわかっている。シェリダンが彼ら臣下に向ける思いと、ロゼウスに向ける《想い》は異なっていると。それでも気になるものは気になるのだ。
 広い部屋の中、広い卓を狭く囲み、冷めたお茶を誰一人淹れなおすような気を利かせない、そしてそんな気の利かせ方を今はしたところで何の意味もないままで時はじれったいほどにゆっくりと過ぎていく。
「これからどうなるのかしらね、シェリダン様たち」
 あえて「私たち」とは言わずローラがそう口にした。彼らの行動はいつだってシェリダンに従うことだと決まっている。だから自分たちがこれからどうなるかというのは、三人にとってはさしたる重要な問題ではないのだ。重要な三人の大切な主君であるシェリダンに関することだ。
「ロゼウスとドラクル王が戦って……でもさ、全てが無事に片付いたとしても、ロゼウスって皇帝になるんでしょ? じゃあシェリダン様はどうするのかな?」
「ここで愛人やるのかしら……」
 微妙な表情をしながら主君であるシェリダンの今後を案じる二人に対し、リチャードは一人別に考える。
 彼が気になるのは、生前のアンリとシェリダンが会話していた姿だ。アンリは酷く思いつめたような様子であり、重い秘密を抱えてしまったような顔をしていた。ただ、アンリの場合秘密を持っていることはすぐに知れても、その秘密を簡単には明かしてくれない。彼は結局何を言う事もなく死んでしまったが、今思うと、それが変に気になる。
 もっとも、二人はお互いよりももちろんロゼウスを介しての繋がりの方が深いのだから、シェリダンとは全然関係なくただロゼウスについて話していたのかもしれないが。
 だがやはり、リチャードには何かが引っかかる。
「卿は……」
「リチャード?」
「リチャードさん?
 その引っかかった事柄を、リチャードは口にした。
「ハデス卿は何故、今頃になって私たちの味方についたのでしょう?」
 今までは一見己の欲望に忠実なようでいて、その動きが胡乱だったハデスだ。今でも我欲には忠実なのだろうが、その質が違う気がする。そもそも彼の憎しみの的である皇帝であるロゼウスがいるというのに、何故彼はこちら側に手を貸したのか。
 ハデス=レーテ=アケロンティスはシェリダンの友人だ。だが、それこそがリチャードが最も引っかかるところであった。ハデスがシェリダンに手を貸したいと願うようになったのであっても、それならば別に何もしないだけでいいのではないか? ロゼウスが皇帝であることを認めて、彼を狙わなくなればそれだけでシェリダンの身は安泰のはずだ。
 それなのにまだ彼が手を貸してくれたというのは、もしかしたら、「そうではない」ということのため? 
 彼がこの面々のうち心配するような相手はシェリダンのみ。不吉な予感がリチャードの胸を重くする。
 ローラとエチエンヌも意味深なリチャードの言葉にまだ遠い異変の足音がひたひたと近づいてくるのを感じ取り、微かに身体を震わせる。
「シェリダン様……」
 彼らはまだ、この先に起こることを知らない。