荊の墓標 44

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「一体何を考えているのですか? あなたは」
 そこにあるのは侮蔑と嫌悪、胸に沸く疑問よりも後もう少し嫌悪の方が強ければこうして話し掛けたりはしなかっただろうというのがまるわかりの、不機嫌もあらわなその声音。
「随分な態度だね、選定者ジャスパー。僕はわざわざ、お前の兄を助け出してやったというのに」
 実年齢は自分より遥かに年下、しかし見た目には大差ないその少年を見下ろすようにして、ハデスは廊下の壁に背をもたせかける。
 シェリダンが倒れて以来、ロゼウスは彼の看病に付添ったままだ。リチャードたちエヴェルシードの面々はいつも集まって即座にシェリダンの意に叶うことができるよう待機しているし、ロザリーは泣きじゃくるメアリーと何か話をしているらしい。必然的に残る二人は二人で話すか、またはそれぞれ休むかの二択になる。
 そして、この残された二人であるところのジャスパーとハデスの仲は決してよくはない。先代選定者と次代選定者。何よりジャスパーはこれまで幾度もハデスの甘言に乗って踊らされてきた。それはジャスパー自身の心が引き起こしたものでもあるのだが、やはり自分の思惑を知った上でいいように操ってくれた相手と話をするのが楽しいとは思えない。
 それでもジャスパーがこうしてまたハデスに話しかけたのは、彼の行動があまりにも不可解であったためだ。他の者たちはシェリダンのことやアンリたちのことに気をとられてさして不思議がっていないようだが、ジャスパーの目から見ればこの土壇場でハデスがまたこちら側に手を貸すのは余りにも不自然だった。
「もう一度だけ聞きます。何を考えているんですか?」
 再び問いかけながら、ジャスパーは己の指先に魔力を走らせ、薄い爪を金属の刃のように硬く長く伸ばす。
 それをナイフ代わりに壁際に押さえつけたハデスの首元に突きつけながら重ねて問いかける。
「あなたは一体、何が欲しいんです? 今更兄様たちに協力して何の利益が得られると?」
 口調こそ丁寧だが、その瞳に宿る光は鋭い。これまでハデスにいいように操られ続けてきただけに、ジャスパーは慎重だ。迂闊な答を口にすればすぐにでもハデスを切り刻むだろうというほどに。
 その気迫に押されたというより半ば呆れたように、ハデスは両手を顔の横に挙げて降参のポーズをとりながらあっさりと言った。
「別に。姉さんに欺かれていたと知った以上、もう僕がドラクルにつく理由もないからね。そしてローゼンティアで失敗した以上、もう僕にはどうやってロゼウスを殺せるかわからなくなった。そのぐらいなら最後くらい、シェリダンに協力した方がマシだ」
「最後くらい?」
 その言葉に一瞬怪訝そうに眉をあげたジャスパーは、しかし次の瞬間には自分で答を導き出していた。ロゼウスにしきりに執着している彼は、彼らの会話も聞いてロゼウスがシェリダンを殺すという予言も知っている。
「まさか、明日の決戦で兄様がシェリダン王を?」
「他にどこに機会があるって言うんだい? ロゼウスは皇帝になるために、シェリダンを殺すんだよ」
「あなたもプロセルピナも、預言者がこぞってそう言うのならそれは真実なんでしょうね。どんな理由があってのことかは僕にはわかりませんが。だがだからと言って、この程度で僕が納得するとお思いですか? ハデス卿」
 もはや帝国宰相とは呼べなくなった男に対し律儀に卿をつけて読んで、しかしやはり口調とは裏腹にジャスパーは先よりも更に眼差しを鋭くする。
 長く伸ばした爪の方ではなく、その視線の方が刃のようだ。
「あなたにとって、シェリダン王は何なんですか?」
 最後くらいシェリダンに協力した方がマシ。ハデスのその言葉を捉え、彼はそう尋ねてきた。
 何――何なのだろう、自分と彼は。
 ハデスはそれこそ今更になって考える。自らの肉体まで捨てたデメテルの奇策によりもうロゼウスを殺して玉座を奪うことなど夢物語となったハデスは、しかし戦いの場にわざわざ自分から首を突っ込みに戻って来た。今ならばローゼンティアのドラクル側もロゼウスたちも皆混乱していて彼を追う者などいない、それこそ彼の能力を持ってすれば世界中どこにでも潜伏していられる。勝手にしていられるのに、わざわざ戻って来たのだ。
「僕は……」
 腕から選定紋章印が消えた今、ハデスの寿命は残り少ない。デメテルはプロセルピナとして娘の身体に乗り移って永らえたが、ハデスの場合はどうなるのだろう。それでも恐らくそう遠くはないだろう死の足音を聞きながら、けれど余生を穏やかに過ごすためにどこか遠く誰も知らない場所で人生をやり直そう、そうは思えなかった。
「僕にとって……」
 一度姿を晦ました際には、実はそんな風に生きるのもいいかと思っていた。もう事態は自分が手を出せる範疇を超えて進んでしまっている。足掻いても変わらない世界を見つめるくらいであれば、現実から逃げてもいいのではないかと。
 けれど、何かがハデスの背を引きとめたのだ。
「僕にとってのシェリダンは……」
 ローゼンティアでプロセルピナの攻撃により崖下に落とされた際、助けてと頼んだわけでもないのにわざわざ飛び込んできた馬鹿がいた。そんなことできるわけがないのに、ただ落ちるだけなのに。わかっているのに自分の方も、伸ばされた彼の手をとろうとしてしまった。意味がないのに、そんなことで助かりはしない状況だったのに。
 何をやっているんだ自分は、と思いつつ。そんな風にさせる相手がいるからこそここに戻って来ようと思ったのだとももう……わかってしまった。
 彼を失いたくない。
 僕にとってのシェリダンは。
「友達だ」
 だから戻ってきてしまったのだ。これから死ぬとわかっている人だけれども、どうしても死なせたくなくて。何とか、今でも何とかならないものかと足掻き続けている。
「……友達?」
 その返答は予想外だったらしく、ジャスパーが胡乱な目つきでハデスを胡散臭そうに見つめている。友達だとか恋人だとか仲間だとか、裏切りを重ね続けたハデスにこれほど似合わない言葉もない。それでも。
「……友達だよ」
 ハデスにとって、シェリダンはやはり初めての、本当の友達と言えるような相手だった。皇帝領では姉の七光りの上に贔屓だと嘲られ、見知らぬ相手からは帝国宰相の名で崇められるハデスにはもちろん、友人など一人もいない。
 姉であったデメテルの愛もどこか歪んでいて、自然な愛情というものをこれまで受け取った覚えがなかった。恐ろしく捻くれた人間として育った彼が九十年目にして、ようやく友人と得る。それは、もとからの彼の意図とは反していた。
 ハデスがもともとシェリダンに近づいたのは、予言によって彼が後の皇帝となるロゼウスにとても近い運命を持つ者だったからだ。シェリダン自身に興味があったのではなく、ロゼウスのせいだ。だがいつの間にかハデスにとってシェリダンはロゼウスを殺すための道具や弱点として使用する対象ではなく、彼自身こそがハデスにとってかけがえのない者になってしまった。
 殺すために友人になって、友人になってしまったから、殺せなくなった。何て愚かなのだろう。
 最初から持っていないものは奪われても怖くはないが、もとから手にしていたものを奪われるのは辛い。
 だからハデスはこれまで、自分の気持ちに蓋をして現実を見ないようにしていた。姉を殺しロゼウスから皇帝の座を奪うためだけに近づいた存在、ただそれだけのはずだったのに、シェリダン自身に惹かれてしまった。それをハデスは自分で認めたくなかったのだ。
 一度咲いた花は美しくとも、満開まで咲き誇ってしまえば後は枯れるだけ。それは、やはり悲しいでしょう。その花が美しいものであればあるだけ、枯れるのがかなしい。
 だから最初から目を出さぬように、蓋をしていた。
 それが今になって、認める気持ちになれたのは。
「最後くらい、あいつのために何かしてやりたいから」
 自分はもうすぐ死ぬのだろう。
 わかっている。とっくの昔からわかっていた。
 しかし腹が据わったのはようやく今になってだ。
 なんてことだ。これでは心弱いなどと他者を笑えない。
 一番の臆病者は自分だった。
 それを、ようやく認められた。皇帝の弟、その立場はハデスにとっても重荷だったのだ。だけどその立場を背負う以上幼子のように頼りない様などとうてい見せられないから強がって強がって強がって……最後には、折れてしまった。
 死にたくないから皇帝を目指して、自分が死ぬとわかってようやくそんなものどうでもよくなった。今と昔、どちらの方が幸せだったなんて誰にも、自分自身にすらわからないことだが。
「だから……」
 ジャスパーはそれ以上、ハデスから何かを聞きだす事はできなかった。

 ◆◆◆◆◆

 広い室内で長椅子に寄り添って座る姉妹。広い室内に泣き声は響く。
「う……ひっく……ひっく……」
妹のメアリーの泣きじゃくる声がようやく啜り泣きという頃になって、ロザリーはこれまで無言で宥めるように慰めるように彼女の背中を撫でてやっていた手を止めた。
「ごめんなさい、ロザリー姉様……」
 自分の目元を服の袖でごしごしと擦りながらメアリーが言った。泣き腫らしたせいと今擦ったせいもあって白い肌が紅く染まっている。
「わたくしももう十五歳なのに、みっともなく泣き喚いて……」
「家族が亡くなって悲しいと思う心に年齢なんて関係ないわよ」
 アンリとアンとヘンリー、優しかった兄姉たちが亡くなったことに泣き喚いていたメアリーの様子もようやく落ち着いてきた。状況が状況であるため、素直に悲しんでばかりもいられない。
 メアリーは同じ室内に残ったロザリーにぎゅっと縋りつく。
「お姉様、わたくしたちは、これからどうしたら――」
 メアリーにとってロザリーは一つしか年齢の違わない姉だが、二人の間はもっと齢の離れた姉妹のように大きかった。身体能力では兄妹の中でも群を抜いて優れていたロザリーは王位継承権こそ下から二番目と低いものの、周囲からは多大な期待をかけられていた王女であった。
 対して、メアリーは取り柄がないわけではないが、その能力は政治や軍略など王族として役立つものではなく、料理や洋裁など家庭的なものだった。庶民派王女として親しまれてはいたが、今この場でできることは何もない。
 そんな妹姫が落ち着いた頃合を見計らって姉であるロザリーは口を開いた。
「……メアリー」
「はい」
「あなたは、今のうちにこの城から、この皇帝領から逃げなさい」
「え……」
 真剣な顔で告げたロザリーの様子に、メアリーはぽかんとした表情になる。
「な、何を言ってらっしゃいますの? お姉様」
「この城にはこれから、明日になればドラクルたちが今度こそロゼウスを殺そうとやってくるわ。そして私たちは、それを迎え撃たなきゃならないの」
「な、だって、でも――えぇ?」
 ロザリーの言葉の半分も上手く受け止められず、メアリーはまたおろおろと目の縁に涙を浮かべてしまう。
「聞いて、メアリー。ドラクルはもう駄目よ。あの人は、以前はどんなに優れていても、もう、ローゼンティアの王である自分を自ら捨ててしまった。そしてロゼウスを殺そうとしている。私は心情的にロゼウスの味方だし、そして明日も実際にそうであろうと思っている。戦うわ、ドラクルと」
 戦う、と。
 彼女は兄であったはずの男と戦うと言い切った。
 姉の言葉にメアリーは零れそうなほど大きく瞳を瞠る。
「そんな……」
 兄妹で殺しあうのかと尋ねかけ、寸でのところで思い留まる。兄弟同士。すでにメアリーも見たのだ。ドラクルがアンリを斬り殺すところを。あれは確かにアンリを狙ったものではなかったが、殺してしまったのは事実。
 ぽろ、と大粒の涙がまた瞳から零れる。
「もう後戻りは、できないのですね――?」
 妹の言葉に、ロザリーは優しく、そして強く微笑んで頷いた。彼女はすでに覚悟を決めている。最初からロゼウスの味方をするのは決まっていた。
「私はドラクルともルースとも戦えるわ。でもね、メアリー。あんたは違う。戦えないでしょう? 殺せないでしょう、ドラクルとルースを。あんたにとっては兄妹の中であんまり親しい相手でもなかった二人かもしれないけど、でも殺せないでしょう? だから」
 先程と同じ言葉を繰り返す。
「逃げなさい。この城から、この大陸から」
 明日は戦場になるこの場所から。
「お姉様、お姉様、わたくしも……」
「無理は言っちゃ駄目よ」
「でも!」
 食い下がるメアリーを、なおもロザリーは説得する。
「明日の戦い、あなたの手に追える相手などいないわ。考えてもみなさい。いくらヴァンピルと言ったって、シェリダンやエチエンヌたちエヴェルシードの連中にもあんたは勝てないでしょう。そんな弱い子が混ざっていたら、足手まといなのよ。それよりもあなたには頼みたいことがあるわ」
 足手まといと言われメアリーは少し傷ついたが、それはただの事実だ。彼女は確かに、ロゼウスやロザリーのように戦えるわけではない。弟のジャスパーよりも、戦闘能力という点にかけては劣っている。
「頼みたいこと?」
「エリサのことよ」
「エリサの?」
 そんなメアリーに、ロザリーは以前別れた末の妹のことを託した。
「そうよ、今はどこにいるのか、私にもよくわからないわ。ハデス卿辺りに聞けば知っているかもしれないけれど。あの子もあなたと同じで、戦いには参加しないで去っていったの。できるならば、そのエリサと合流して、二人で生きて。年端もいかない女の子一人より、姉妹でいたほうがまだ安心でしょう」
 世の中は広く、危険でいっぱいだ。しかしそんな簡単なことも、メアリーもエリサも知らない。ある程度の知識はあるが、本当に市井で一般人と同じように暮らしていけるかどうかはわからない。あの末姫は今どうしているのだろう……?
 そして、それでも、明日の戦いに巻き込まれるよりはマシだろうとロザリーは判断した。
 ロザリーは兄妹たちの中でも、誰よりもロゼウスを信じ愛しているから彼を裏切らない。彼のために兄姉とも敵対するのだと、自らの強き意志で決めた。だが、メアリーは違う。そしてエリサもそうだった。
 逃げることができるのであれば、逃げればいいのだ。好き好んで血の繋がった肉親同士で殺し合う必要もないのだから。
「ロザリー姉様は、どうして逃げないのですか?」
「ロゼウスのためだもの」
「それだけですか?」
 メアリーの言葉に、ロザリーは内心でぎくりとしたのかもしれない。妹の無垢なつぶらな瞳は、今の彼女には少し眩しすぎた。
 確かにロザリーはその胸の内に、純粋とは言いがたい想いをも抱えている。
「……そうよ。他にどんな理由があるというの?」
 口ではそう返事をしながら、ロザリーの脳裏に浮かぶのは朱金の瞳。藍色の髪。
 ――……いっそ彼ではなく、お前の方を愛せたら楽だったのに。
 あの日聞いた、彼の頼りない言葉。
 あの時自分は、大好きな兄と同じ顔であることを、人生で初めて、悲しく思った。
 同じ顔であっても、結局シェリダンはどこまで行ってもロゼウスだけが好きなのだ。
 永遠に彼女には振り向かない。
 だから側にいたいのだ。今だけは。
「私はロゼウスのために戦うわ」
 ロゼウスとシェリダンのために。
 ロゼウスとシェリダン、どちらかを嫌いであれば良かったのに。でもロザリーは、兄としてのロゼウスも男としてのシェリダンも、どちらも比べられないくらい好きなのだ。家族として無条件にロゼウスの肩を持つが、顔を合わせれば口喧嘩ばかりだが、それでもシェリダンのことを――。
 ロザリーはロゼウスからシェリダンを奪う事は出来ない。この戦いが終わればロゼウスは皇帝になり、そしてロザリーは、ローゼンティアへと帰る。
 ロゼウスのもとに留まるだろうシェリダンとは、もう頻繁に顔を会わせることもないだろう。
 最後まで側にいたい。
 ロゼウスのために戦うと言うのは嘘ではない。しかしそれでも、本当はただ、それだけだった。