荊の墓標 44

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「さようなら、お姉様」
「ええ。さようなら、メアリー」
 持つほどの荷物はなかった。身に纏う衣装だけ、金になるようなものもほとんどない。これがか弱い人間の身であれば絶望的だろうという格好で、メアリーは皇帝領を出て行く。兄妹たちに簡単に別れだけを告げて。
 ロザリーだけが、最後に見送りのため城の外まで出てきた。白黒の影のような世界で、彼女たちの持つ色彩も頼りない。白い肌に白い髪のヴァンピル。
「お姉様、わたくし、きっとエリサに逢います。あの子に逢って、お姉様たちと一緒にローゼンティアに戻れるように……」
「そうね。そうできたら、一番良いわね」
 薔薇の国は彼女たちの故郷だ。たとえ両親が兄に殺され、その兄も兄が殺し、兄妹の半分以上が死んでしまったとしても。兄妹だと思った、家族だと思っていた人々が本当はそうではなかったとしても。それでも記憶や思いは消えるものではないから、と。
「あの……ロザリー姉様……」
「どうしたの? 何か気になること?」
 メアリーにはロゼウスが皇帝になることなど、彼女たちがこれまで知りえてきた情報の全てを伝えている。言い忘れや聞き忘れたことがまだあったのかと不思議そうにしたロザリーに対し、メアリーは恐る恐るのように尋ねる。
「明日、ロゼウスお兄様は本当にドラクルお兄様を殺すのですか?」
「ええ」
「それ、やめることはできないのですか……?」
「メアリー」
「だって!」
 最後の最後になって、妹姫はまだ躊躇っていた。
「だって! お兄様なんですよ! ドラクルお兄様は、わたくしたちの!」
「そうよ。ロゼウスも。ドラクルに殺されたアンリだって、ローゼンティアのために死んだヘンリーだって兄上だったわ」
「お姉様……」
「もう行きなさい。メアリー」
 渋る妹に対し、首を横に振って促すようにしてロザリーは送り出した。
 遠ざかる少女の頼りない小さな背中、揺れる長い三つ編み。もう見る事はないのだと思えば、エリサの時とも同じように、喪失感がロザリーの胸を襲う。
 だが、それはどんなに大きくとも、死のそれとは比べものにはならない。
 だから耐える。耐えることができる。生きていてさえくれれば、未来はある。
「行っちゃったね……」
ふと背後からかけられた声に、らしくもなく感傷に浸っていて気づくのが遅れたロザリーは多少驚いたように振り返る。
「どうしたの? どうせ気づいてたんだろ?」
 エチエンヌがその仕草に不思議そうにちょっとだけ目を開くと、そのままつかつかとロザリーの立つ白黒の花畑まで歩み寄ってきた。
「エチエンヌ、あんたこそどうしたのよ? シェリダンの看病とかいいの?」
「君の兄貴がずっとついてるから入れないんじゃん」
 肩を竦めて答えられ、ロザリーは目をぱちぱちと瞬かせた。エチエンヌはなんともいえないような顔をしている。
「……本当にどうしたの?」
「え?」
「何か今日様子おかしいわよ」
 ロザリーが感じたエチエンヌへの違和感。それは言葉にはできない。
「そうかな……そうかなぁ?」
 エチエンヌ自身も自分の様子が常と違うことを薄々感づいていたのか、歯切れ悪い答だ。
「なんかさ、本当に明日で終わりなんだなって思って」
 思って……今この瞬間にも胸の中にもやもやと、何かを思って。
「明日で終わりなんだね」
「ロゼウスは負けないわよ。絶対にドラクルに勝つわ」
 夜の風が吹いて、皇帝領の花畑をざわりと揺らした。薄闇に浮かび上がる白い花が明かりのように二人の姿を照らす。
「わかってるよ。あいつは皇帝なんだろ? それも、魔族の皇帝。三十二代続いた皇帝の中でも、特に魔族の皇帝の時は戦闘能力が計り知れないって言われてるもんね。ま、皇帝が必ず身体が頑丈で拳の強い人間じゃなければいけないっていう理由がわからないから、魔族でも弱い皇帝が誕生してもいいのかもしれないけど」
 皇帝とは神の力を持ちて世界を支配せしめる存在だ。その存在が、肉体的に虚弱だということは通常考えにくい。皇帝と呼ばれている存在がただの人間ならばそれも良いだろう。だがこの帝国における支配者は、神と同義。とは言ってもラクリシオン教やシレーナ教は皇帝とはまた別に神の存在を考えているのだから結局その《神》の概念も疑わしいものだが。
 しかし皇帝と言う存在が神に匹敵する力を持っているというのは確かだ。だから皇帝は神とは呼ばれず、地上での神の代行者と呼ばれることが多い。吟遊詩人の歌う歌にもそう言われている。
 神の代行者。
 神の力を持ち、しかし神にはなれない。
「勝てる。それはわかってる。でも殺すの?ドラクル王を」
 彼は彼の兄。
 そしてロザリーの兄。メアリーにとっても。
「さっきメアリーにも同じ事を聞かれたわ」
「うん。だから聞いたの。ロザリー、いいの?」
 この白黒の景色の中で場違いなほどに明るい金髪が彼女を振り向く。
「ロゼウスはあいつと戦う気でいる。あいつは強いからきっと勝つだろう。そしてドラクル王に色々された恨みがあるだろうから、ロゼウスがドラクルを殺すこと自体は僕はどうでもいいんだ。でも、君は?」 
 ロザリーは昔からドラクルがさほど好きではなかった。自分と遊んでいたロゼウスをいつもどこかに連れていってしまうドラクルが気に食わなかった。
 でもそれだけ。
 ドラクルは確かにハデスやデメテルに唆され、シェリダンを唆し、彼女たちの父であるローゼンティア王ブラムスを殺してローゼンティアを滅ぼした。エヴェルシードと手を組んで自国を一度貶め、その後、簒奪と対外的には気づかれないような方法で自国の玉座を乗っ取った。その際の戦闘で、一体どれほど多くの人々の血が流されたのか。シェリダンもエヴェルシード王、侵略者として彼女たちローゼンティア人の敵ではあったが、しかしそれ以上に薔薇の国の民が真に憎むべき敵は自国の第一王子であったはずのドラクルだ。私欲のために多くの人々の命が奪われると承知の上で戦争を引き起こした罪は免れるものではない。
 しかし、それとロザリー自身がドラクルを憎むかはまた別の問題だ。
「確かに私は、ドラクルを《嫌い》だけれど、《憎い》とは思っていないわ」
 ロザリーは、どうしても最後まで好きになれなかったあの兄を決して嫌ってはいない。
 ドラクルは裁かれるべき者である。それは確かだ。彼を今裁ける立場に一番近いのは自分たちだ。それもわかっている。
 そして、その罪に目隠しして彼を救うことができるのも、自分たち――正確にはロゼウスだ。
 生かそうと思えば、兄であった彼を生かすことができるのだ。メアリーが言いたかったのはそれであり、エチエンヌが言っているのもそれだ。
 だけど。
「でも、ドラクルは、死ぬためにここにやってくるのよ」
 ロゼウスの力ならドラクルを殺せるだろう。そして同時に、それができるのだから生かして捕らえることもできるはずだ。皇帝の権力を得た彼であれば、ドラクルに何らかの罰を与え、生きたまま罪を贖わせることもできるはずである。
「プロセルピナ卿が側にいるのだから、ドラクルの方だってこのまま、逃げようと思えば逃げられるはずでしょう? ロゼウスを諦めて、恨みをより保身を取って、憎しみを忘れて生きればいいじゃない」
 だけど、ドラクルは間違いなくロゼウスを追って来る。戦いになる。すでにロゼウスが次代皇帝だと知っているにも関わらず。
 ロゼウスは強いから、皇帝だから、戦ってもドラクルに万一の勝ち目もない。それでも彼は追って来るのだ。
 死ぬとわかっていてそれでも、追いかけずにはいられないものがある。
「死にたいと言っている人を……死のうとしている人を止めることなんてできないわ」
 聖人君子になど間違ってもなれない自分たちは、その気になればいくらでもドラクルの罪状など誤魔化しもみ消して彼に平穏な人生を与えることができる。彼のせいで死んだ人々の嘆きも何もかも無視して、事実を捻じ曲げて世界を都合の良い方向に進めることができるだろう。
 生かそうと思えば、生かすことができる。
 だけど、ドラクル自身がそれを望まないのだ。罪を償いたいなどと殊勝なことは考えないだろうが、敵に媚び諂いお情けで生かしてもらうくらいなら、罪を背負って死ぬだろう。
 生かそうと思えば生かすことができる。
 だけど、殺すのだ。
「ねぇ、エチエンヌ……」
 どうして人は生きるの?
 世界はこんなに残酷なのに。
 言葉は声にならず、彼女の喉奥で凍りつく。
 エチエンヌはそんな彼女に手を伸ばし、そっと手を繋いだ。
「明日で僕たちもお別れだね」
「そうね」
 シェリダンが勝手に決めた、途轍もなく適当な政略結婚、もともと奴隷出の小姓であり何の位もないエチエンヌとロザリーを、エヴェルシード内、いや王城内だけでしか通じないほど適当に結婚させた。そこにはほとんど意味はない。当人たち以外にとっては。
 ロゼウスが勝ち、皇帝になればシェリダンと共にこの大陸に留まるエチエンヌと、ローゼンティアに帰って王族としての勤めを果さなければならないロザリーもお別れだ。
「……今までありがとう」

 そして、さよなら。

 ◆◆◆◆◆

 こんな。
 こんな簡単なことだったなんて。
「……っ」
 寝台に手をつき、自分の身体を支える。
 その下には、愛しい人の身体がある。熱を出して眠っている。力ない身体。薄く呼吸のために開いている唇。
 自分の唇は噛み切ったせいで血の味がする。
 今は滲む程度のその痛みが、もっと大きくなればいい。どくどくと滝のように流れる血を、彼に。
 そうすればもう何も心配する事はない。
 そうすればもう、こうした悩みや痛みからは解放される。
 寂しくても生きていける。
 愛されなくても生きていける。
 全てを知った後に彼が自分を拒絶し憎むことになったとしても、遠く離れて二度と逢わなかったとしても、それでも生きていける。
 生きていてさえくれれば、生きていける。
 だからこれが、一番良い方法なんだ。
 ロゼウス、はそう考える。そうとしか考えられない。
 シェリダンに死んでほしくない。だったら、死なないようにしてしまえばいいのだ。
 吸血鬼の作る吸血鬼。その名はノスフェラトゥ。死人還りの死人人形。
 そもそも「ローゼンティア《の》吸血鬼」とはそういう意味だ。ローゼンティアのヴァンピルという種族に関しては「吸血鬼」と言うのは通称であり、正式名称ではない。冥府魔界の正式名称などどうでもいいが、とにかく、吸血鬼ではなく、吸血習慣のあるこの一族は、死を操ることができる。
 もちろん永久に死なない不老不死など御伽噺の世界だが、見た目だけそう見せることなら可能だ。
 魔力持つ薔薇の花に囲まれた死体が蘇ったという伝説から成る一族は、他者の身体を魔力で改造することができる。もともと彼ら自身半分魔力でできているような存在なのだ。《黒の末裔》と呼ばれる種族が魔術をほぼ自由に使えるのに比べて、ローゼンティアの吸血鬼たちが妙に魔力の制御が苦手なのはこのためもある。吸血の渇望に駆られて狂気に陥ったり、持っている魔力に対して簡単な治療魔術も上手くできない者が多かったりと。
 人間の中には《魔力》を「持つ」者がいる。だがローゼンティアの吸血鬼は違う。
 ローゼンティアの吸血鬼は《魔力》によって身体を作られている。
 人間の姿というのは、実体としてはとても安定しているものだ。人間に限らず、この世界に実体を持って生きる生き物は全てがそうである。しかし、ローゼンティアの吸血鬼は違う。彼らの存在は本来非常に不安定なものだった。
 例えばロゼウスやロザリーは外見が華奢であるのに対してその腕力や運動能力は人間の比ではない。それも彼らの存在方法と関わってくる。ローゼンティアのヴァンピルは肉体の構造が人間とは違いすぎる。
 ある運動を行う時、人間はそれに使用する力、筋力をもちろん筋肉から生み出している。
 しかし、ローゼンティアの吸血鬼たちにとってこの筋肉に当たる部分が魔力のようなものである。ロゼウスなどは外見を見ても特に筋肉があるようには見えない。実際、その少女のように柔らかな体つきには筋肉の欠片も外側から見て取ることができない。これは同い年である軍人王シェリダンと比較して見れば一目瞭然だ。シェリダンの体はしっかりと筋肉がついていてそこから相応の力を発揮するが、ロゼウスはその身体のどこから出しているのかわからないような力を使う。
 その力の出所が、魔力。魔力を使うのではなく、魔力から力を使うのだ。それがローゼンティアの吸血鬼が吸血鬼たる由縁。
 死体と薔薇の魔力と人間の血液。血液には魔力が――生命が宿ると伝えられている。ローゼンティアの吸血鬼はそれから作られる。だから筋肉などなくても怪力を発揮できる。
 そして彼らを構成するものがそれだというのが、ローゼンティアの吸血鬼が本来吸血鬼ではなく、グールと呼ばれるものに近いことを示す。
 蘇った死体、だからこそ、蘇る死体を作るのは得意だ。
 不老不死の聖者は作れないが、歩く死体を作るのは得意――。
 死体と魔力から作られて永き時を美しく若い姿のままで生きている魔族、それを「ローゼンティアの吸血鬼」と呼ぶ。
 ロゼウスはシェリダンもそうしようとしている。永遠に生かすことはできないが、死なないようにできるというのはこういうことだ。死体は死にはしないのだから。
 だが、それは本当に最上の策なのか?
 蘇った死体、でもそれは所詮死体でしかない。命を持っているように生前と何ら変わらない生活ができるとはいえ、それは本当に蘇ったと言えるのか?
 エヴェルシードでカミラを生き返らせた時とはまた違うのだ。あの時のカミラは生命活動を停止して間もない身体だった。瀕死と死の狭間にあった身体に力を与え、途切れそうな生命を活性化させただけだ。あの時は生き返らせたと言っても大したことはしていない。
 だが今回は違う。ロゼウス自身の血によってシェリダンの身体に魔力を通すと言うことは、彼を全く別の生き物に作り変えてしまうということだ。
 そしてそれ以上に怖いのは。
「これが……まさか俺がシェリダンを《殺した》ことになるとか言わないよな……」
 吸血鬼にするこの方法自体がシェリダン殺害に繋がるのではないかとロゼウスは危惧する。ノスフェラトゥに作り変えることによって、死んでしまうのではないか? そしてその後はもう本当に、生き返らせることができないのではないか? それが怖い。
 それとは逆に、もしかしたら、という期待もある。
 もしも人間としての生命を奪い死人返りとすることが彼を殺したことになるのであれば、これでその予言は叶えられないかと。死人返りとなったとしても、人間としては死んだこととなっても、シェリダンが生前と変わらぬ姿で側にいてくれるのではないか……?
 これは賭けだ。
「生きて」
 死んでしまっては何にもならない。
「お前に、生きてほしいから」

 別に構わないじゃないか。人間として死ぬくらい。

 今とそう変わるわけでもない。死人返りは失敗するととんでもなくおぞましい歩く死体人形、腐敗した肉を引きずりながら他の生き物に襲い掛かるゾンビなどになるが、ロゼウスはノスフェル家、その名の通り死人返りを作ることに長けた一族だけあって、この力には自信がある。
 シェリダンを失うなど考えられない。ましてや自分の手で彼を殺すなど考えられない。
 だから、死ねなくしてしまえばいい。
 簡単なことだ。死んでほしくないから、生きていてほしいから。
 ロゼウスは寝台についた手に力をいれ、自分の身体をしっかりと支える。
 そしてゆっくりと顔をシェリダンに近づける。熱い吐息が触れる唇に自らの唇を重ねる。
身体は汗をかいているのに、ここはさらりと乾いている柔らかな感触、燃えるように熱い体温も、人形にしてしまえば失われてしまう。
 でも、いい。
 人形であっても、側にいてくれれば。体の性能が多少違うといっても、今から行う方法では人格には影響を及ぼさない。ローゼンティア国内での内乱などになれば人格にすら影響を及ぼして自らに従順な人形を作ることもできるが、今はそれはしない。ロゼウスが欲しいのは美しい人形ではなくて、そのままのシェリダンなのだから。 
 眠ったままのシェリダンを起こさずに、ロゼウスは自らの血の滲んだ唇をそっと口づけた。じんわりと染み込んでいく血。
 自らの力が伝わる。ああ、でもこんなものでは足りない。もっと多くの血を、彼に。その身体を縛り上げる紅い枷のように、体中を巡るように血を飲ませなければ。
 唇を重ね合わせているというのに一方的な陶酔と恍惚。
 身勝手な選択の結果は身を持って知る。
 次の瞬間、ロゼウスは胸の辺りから勢いよく伸びた腕に突き飛ばされた。

 ◆◆◆◆◆

 唇から何かが注ぎこまれる。
 乾き罅割れたその場所を潤す水。
 しかしその味は苦く、氷のように冷たい。
 剣の刃を舐めたらきっと同じ味がするだろう鉄の味。

 これは罪の味だ。

 力が染み渡っていく。
 次の瞬間、シェリダンは全力で自分の身体の上の相手を突き飛ばした。
「……シェリダン……」
 寝台の上で体勢を崩したロゼウスが呆然と目を瞠っている。

 反射的に拒絶したものの、もちろんこれまで熱を出して伏せっていたシェリダンにそれが何なのかわかるはずがない。
 しかし、ロゼウスを引き起こすために身体を動かそうとして、彼は自分の身に起きた異変に気づいた。
「熱が……」
 先程まで重い疲労と共にこの身を苛んでいた熱がすっかりと引いている。体の調子は良く、倦怠感も眩暈もない。完全回復したようだ。
 しかしシェリダン自身の間隔としては、変だという印象が残った。夜明けまでぐっすりと一晩眠れたならばともかく、こんな中途半端な時間に起こされてあの疲労が抜けるはずはない。こんなに回復するはずはない。
 唇には柔らかな感触が残っている。
 目の前にはどう見ても先程自分に突き飛ばされた様子のロゼウス。
 何があった? 何をされていた?
 理由も知らないのに、何か不吉な感覚がして不安になる。
「シェリダン」
 身を起こし姿勢を正したロゼウスがもう一度名前を呼んでくる。
「ロゼウス」
すっかり良くなったシェリダンの顔色を見て、しかしロゼウスは何故か暗い顔をした。瞳にどこか、寂しそうな光が宿っている。
「……失敗したな。やっぱり血の量が少なかったか。目的を果たしていないで、でも体調だけは良くなったみたいだね」
 言われてようやくシェリダンは下の先に僅かに残る苦い味に気づいた。否、実際にそれを苦い味と評していいのかわからない。ただ、そんな印象だというのだ。同じものをロゼウスがシェリダンから受け取って舐める分には、彼はいつも甘い甘いと言っているもの。
 血――。
「な……に……」
頭が上手く働かない。現状が理解できない。
シェリダンはわけもなく震えながら、低い声でロゼウスに問いただす。
「今……何があった?」
 嫌な予感。
 とてつもなく、嫌な感覚。
「私に、何をしようとした!?」
 目の前にいるはずのロゼウスが何故か遠く感じる。何故か視線をそらされる。
 彼は何をしようとした? この身体の感覚は何だ?
「答えろ! ロゼウス!」
 大声を出すと、ロゼウスの身体がびくりと一瞬震えた。叱られるのを恐れる子どものように頼りなく、細い肩が揺れる。
 けれど彼はそれ以上シェリダンの詰問から逃げながった。顔を向けなおし、しっかりとシェリダンを見据えると口を開く。
「俺の血を――吸血鬼の血をお前に与えた」
 その言葉の意味するところをシェリダンは知らないはずなのに、本能が強い拒絶を訴えていたとも言うべきか、身体が緊張に強張る。
「どういう意味だ……お前は私に何をしようとした。もっとはっきり、私にもわかるように言え」
 上半身を起こして、寝台にぺたりと座りこんだロゼウスを見つめる。身長がさして変わらない二人は、こんな時俯きでもしない限り目線の高さにもほとんど違いがない。
「吸血鬼の血の力によって、お前を吸血鬼の眷属――死人返りと呼ばれる者にしようとした」
 ロゼウスの言葉に、シェリダンは朱金の瞳を無言のまま限界まで見開く。
「なん……だと?」
 吸血鬼の力。吸血鬼の眷属。
 死人返り。
 聞きなれない言葉ばかりだが、雰囲気で意味はわかった。
 これまでの強気な表情から一転して、ロゼウスの顔が不安に染まる。
「死人返り、それになればお前はもう簡単には死ななくなる。術をかけた当人である俺の命令以外では死なない肉体を持つことになる。もちろん人格や能力なんか、今のままで――」
「そんなことは聞いていない!」
 補足するロゼウスの言葉を聞くうちに、じわじわとシェリダンの中で理解が高まっていく。理解が高まるにつれて、自分の中でその感情が大きくなっていくのもわかる。
 これは怒りだ。
「何のためにそんなことをした! お前は私を――私を吸血鬼にするつもりだったのか!?」
 死人返りというのは、つまりそういうことだろう。吸血鬼の眷属となるということをロゼウスがどういうつもりで言っているのかはシェリダンには十分には理解できないが、彼が何をしようとしていたのかはわかる。
 ロゼウスはシェリダンを、人でない生き物に変えようとしていたのだ。
「お前は私を人間ではなくすつもりだったのか! それも、私自身の許可も取らず!」
 眠るシェリダンに口づけて血を注ぎ込んだ。それが何よりの証拠だろう。
「お前は……それがどういうことだかわかっているのか!?」
 人間でなくなるということ。
 それが、人間にとってどういう意味を持つか。
 それが、シェリダン=エヴェルシードという人間にとってどういう意味を持つのかを。
「ふざけるな!!」
 せっかく治ったというのにまた倒れそうなほどに強い勢いで、シェリダンはロゼウスを怒鳴りつけた。怒鳴られたロゼウスの、可憐な顔つきがくしゃりと歪む。
「ふざけてなんかいない! 俺は本気だ!」
「だからどうした!? お前がどんな思いであろうと、お前の行為がふざけたものであることにかわりはない!」
「不安だったんだよ! お前が死ぬのが!」
 悲鳴のような音量で、声音で、ロゼウスが叫んだ。
 室内に一瞬間、雷が落ちた後のような空白が生まれる。
「不安だったんだよ……あんたをこの手で、殺したくなんかない。だけどハデスやデメテル帝の予言では、俺がお前を殺すんだろう! そんなの嫌だ!」
 シェリダンには噴飯物の話でも、ロゼウスにはロゼウスなりの真剣な理由がある。だがその真剣さもシェリダンには受け止められない。当然だ。ロゼウス自身がシェリダンの意見も意志も聞かずに勝手に進めようとした物事に対して、何故シェリダンがロゼウスを慮れるというのか。
「嫌だ……絶対に、絶対にお前を死なせたくなんかない! 殺したくない!」
 それは確かに魂の悲鳴だった。心を切り裂かれて溢れた血が自分を埋め尽くして溺れ死んでしまいそうな、悲鳴。
「だから、だったらお前もヴァンピルになればいいんだよ!」
 傷ついたような表情をしていたロゼウスの瞳に、ふいに光が宿る。白い手が伸び、今度は先程とは逆にロゼウスがシェリダンを再び、寝台に縫いとめるようにして押し倒した。
 自分に覆いかぶさるロゼウス。いつもとはほぼ逆の体勢で、シェリダンはその表情を見る。
 今にも泣き出しそうだった顔の中、瞳の中に強い狂気がある。人によってはこれを狂気とは呼ばないかもしれない。それを狂気と呼ぶことこそ狂的だと罵られるのかもしれない。だがシェリダンにとってそれは、紛れもなく狂気と呼んでしかるべきものがそこにある。その狂気が口元に昇り、整った顔立ちに歪な笑みをはかせている。
「あんたを死なせて、永遠に逢えなくなるくらいなら――」
 そのぐらいならば、手遅れになる前にシェリダン自身の存在を作り変えてしまった方がいい。
 肩を押さえ込むロゼウスの手。少し伸びた爪が痛いほどに食い込んでくる。
「お願い、お願いだからじっとしてて。すぐに済むよ。すぐに終わるから。ただ、この口づけを受けてくれればそれでいいから。苦しいこともない。痛いこともない。能力や人格に変化があるわけじゃない。寿命だってお前の言うとおりにするから、それさえ叶うなら何だって、後はお前の望みどおりにするから、だから、ちょっとだけ、この瞬間だけ大人しくしてて」
 たったそれだけでシェリダンは人間から、魔物になるのだという。見た目も性格も変わらない、だが確実に人間ではなくなるのだと。
 ――そんなこと認められるものか。
「断る!」
 強く叫んだシェリダンは咄嗟に膝を跳ね上げてその身を蹴りつけ、今度こそ強烈にロゼウスを弾き飛ばした。