荊の墓標 44

251*

 お前がそれを望むなら与えよう。久遠を。
 この世の永遠を。
 望むならば――。

 ◆◆◆◆◆

 拒絶された。シェリダンに。
「なんで……」
 腹部を強かに蹴られ寝台から転がり落ちたロゼウスは、身を起こすことも忘れて呆然とシェリダンを見上げる。その自失した様子は先程の比ではない。
「どうして……」
 震え蒼白になる彼の様子をシェリダンはどこか痛ましげな様子で見下ろす。手を伸ばしてその身体を引き上げようとしたが、ロゼウスは手を取らない。伸ばした自分の手も引っ込めて、シェリダンは顔を伏せる。
「どうして、シェリダン、お前」
「私は人間だ」
 その声は冷静で、欠片も荒げる様子などない。
「人間だ。そして、これからも人間であり続ける」
「だから、それなら――」
「たとえ明日死ぬこととなっても、人間でいたい」
 伏せていた顔をあげて、朱金の瞳を燃える炎のように輝かせて彼は言い切った。
「私は、人として生き、人として死ぬ」

 君が永遠を望むなら。
 それを叶える力はここにある。
 だが望まない。
 あなたは決して――望まない。

「そんな……」
 ロゼウスはまったく納得しかねる様子だった。
「だって、ヴァンピルになれば、もう死ぬことなんかないのに。ただそれだけで、全然他は今とかわりないのに……」
 くしゃりと顔を歪め、泣き出す前触れの表情になったロゼウスに対し、シェリダンは落ち着いた様子で言う。
「お前は、肝心なことがわかってない」
 ロゼウスももともと大人しい性格というわけではない。そこまで言われて黙っていられるわけもなく、彼は涙の浮いた瞳でキッとシェリダンを睨む。
「肝心なことって何?! この世に生きること以上に大切なことなんてあるのか!?」
 ロゼウスの主張はとにかくそれだ。死なせたくないから、死なないようにする。そうすれば生きていられるから。だがシェリダンにはまたシェリダンとしての考えがある。
「ああ、そうだな。生きること以上に大切な問題なんてない。だからこそ、死の在り方は重要になってくるんだ」
「何それ」
「人間は死ぬから、生が尊い」
「そんなのわかんないよ!」
 シェリダンの言葉を、ロゼウスは次々に否定する。藍色の眉が不機嫌そうに寄った。
「ロゼウス」
「わかんないよ! お前が何言ってるのか、俺には全然! どうしてだよ! 俺がお前をヴァンピルにしたところで、お前に不利益なんてないだろう!?」
 肩ほどまでの白い髪を振り乱し、ロゼウスが立ち上がる。それを眼にした次の瞬間、シェリダンの視界がぐるりと捩じれた。
「!」
 ロゼウスでもその向こうの壁でもなく天井が目に映る。その手前に、ロゼウスの歪んだ表情がある。肩を寝台に押さえつけられているのだと気づいた。身動きしようとした途端、身体は動かないというのに寝台だけが耳障りに軋む。
 シェリダンの腹の上にロゼウスが馬乗りになる。白い髪は何かの飾りのようにロゼウスの頬を縁取る。その泣きそうな表情が近づいてくると、垂れた髪がカーテンのようにシェリダンの顔周りも覆った。
「ゆるさない。俺を置いて逝くなんて――」
 強く、そしてどこか虚ろなロゼウスの声とともに再度の接吻が試みられる。ロゼウスはシェリダンの言い分を聞くことなく、何が何でも彼をヴァンピルにするつもりらしい。
 だから。
「ッ!?」
 唇が触れた途端、ロゼウスが弾かれたように上体を離した。驚愕し目を瞠ったその顔、唇から流れる一筋の紅い血。
 彼の唇を噛み千切った際に含んだ血や薄皮を、シェリダンは行儀悪く部屋の床に吐き出す。
「な、んで……」
 わなわなとロゼウスの身体が震えだす。
 反射的に動こうとした手を、シェリダンは咄嗟に片手で押さえ込む。ロゼウスの力で手加減なしに殴られたらさすがに洒落にならない。それこそ死んでしまう。今のはそういう手の動きだった。ロゼウスくらいの実力者であれば、殴る前に我に帰って手を止めることもできたのかもしれないが。
「そうまでして、俺を拒絶するのか? 俺に不老不死を与えられるのは嫌だって?」
 これまで体調が悪かったのはシェリダンの方だったはずなのに、ロゼウスの顔色も今はすこぶる悪い。表情も歪みっぱなしだ。
 対して、一度は激怒したはずのシェリダンは今は冷静になっている。
 聞き入れられなかった言葉を、今度は大声で繰り返す。同時に腕を前に出し、ロゼウスの身体を遠ざけようとした。こんな体勢でヴァンピル相手に、力比べで勝てるはずもないと知りながら。
「私は人として生き、人として死ぬ! けっしてお前らみたいな化物にはならない!」
「――ッ!!」
 ロゼウスの表情が、驚愕や悲しみから怒りへと歪む。
「お前なんか、ひ弱な人間のくせに!」
「ひ弱で結構だ!」
 人間と吸血鬼。わかっていたはずのこと。今更話題に昇るようなものでもない事柄を低レベルに罵りあいながら、しかし二人の表情だけが複雑に変化する。
 ロゼウスは怒りに顔を紅くしながらも瞳に涙を浮かべているし、シェリダンも怒鳴り疲れた喉で苦しい息を吐きながら、どこかが痛いような顔をする。
 そしてシェリダンの唇から、搾り出すような声が漏れた。
「私は人間だ……!」
 その言葉にどれだけの思いが込められているのか。
 ロゼウスにはわからない。わかりたくない。
 ずっと一緒にいられるはずの方法をやっと思いついたのに、どうして拒絶するのか。
「私は人間がいいんだ。人間として生まれた、そうでしかあれなかったのが私だ。今更他の何かに変わる気はない。今更……ッ!」
 シェリダンの顔も苦しげだ。いまだロゼウスに拘束された状態ながら、眼光だけは衰えずきつくロゼウスを睨む。
「離せ」
「いや」
「離せ」
 舌打ちしたシェリダンは、これまでロゼウスを遠ざけようとしていた腕の力を急に抜いた。
「うわっ!」
 力の均衡が突如として崩れ、ロゼウスは自分の押していた方向、シェリダンの胸元へと上体倒れこむ。軽い音を立てて胸に飛び込んできた彼をシェリダンは一瞬押さえ込むと、くるりと自分と相手の体勢を入れ替えた。
「!?」
 馬乗りになっていた先程とは逆に、これではシェリダンの方が有利となる。シェリダンはロゼウスと違って抜かりなく、足の方までしっかりとロゼウスの身体を押さえ込んでしまった。ロゼウスが本気でシェリダンを殺すつもりで力を入れればこんな拘束を振り払えただろうが、彼にそれはできない。ロゼウスの目的はあくまでもシェリダンを殺すことではなく、ヴァンピルの半永久的な命を与えることなのだから。
 手荒な真似はできないという心理を逆手にとり、しかもロゼウスは手加減しているというのにシェリダンの方は遠慮なく全力でロゼウスを押さえ込む。
 そして自分の下となったロゼウスを見下ろすと、にやりと不敵に笑った。
「お前はいつも力に頼りすぎるからこうした悪知恵に弱いんだ」
「ずるい!」
「ずるくて結構だ。私は弱いからな」
 シェリダンはまた表情を変える。眉が下がり、何故か寂しげに微笑んだ。
「そうだ。私は弱い。だからこそ――」
 弱いならヴァンピルになればいい、とロゼウスは言う。
だがシェリダンにとっては、弱いからこそ、人間でいたいのだ。
「わかんないよ、そんなの」
 見開き続けていたロゼウスの瞳からぽろ、と零れるように涙の雫が流れた。
「どうして――」
「……だから、言っただろう。お前は肝心なことがわかっていないと。もっとも、そんなもの、わからないと臆面もなく言える方が幸せなのかもしれないがな――」
 シェリダン自身、自分が多少普通と違うということは自覚している。別に特に優れた能力を持つわけでも、その逆でもない。王族という立場は自分で選んで生まれてきたわけではないのだからそれも彼の功績とはなりえない。
 だが、何かが違うのだ。それは知っている。
 それが自分とロゼウスを永遠に隔てていることも。
 わかっている。でもどうしようもできない。
「馬鹿」
 押さえ込んだ先でロゼウスが小さく呟く。
「あんたは……馬鹿だ……」
「ああ、そうだな」
 私は愚かでいい。

 ◆◆◆◆◆

 手首を掴む腕に力を込める。
「あ……」 
 ぎり、と軋んだ己の手首にロゼウスが小さく呻く。真上から見下ろしてくるシェリダンの表情に、複雑な光がある。
 ふわりと降りてきた唇に唇を塞がれる。
「ん……ふぅ……!」
 いつもは甘美な陶酔をもたらすはずの行為も、今は酷く寒々しい。自分で動くのが億劫で、でもこのままなし崩しに持ち込まれたくはない。
 大事な話が終わっていない。
「やだ……やめろ、シェリダン!」
 唇が離れた隙に叫ぶが、彼は聞き入れようとはしなかった。先程のロゼウスの提案を無視したように、ロゼウスの抗議の声も無視して、勝手にことを進めようとする。
 ロゼウスの服に手をかけ、無理矢理剥ぐ。弾け飛んだ釦が床に落ち、白い胸板が露になる。そこにシェリダンが唇を落とすと、今度こそロゼウスが悲鳴をあげた。
「いやだ!」
 思い切り力を込めて、寝台に押し付けられた不利な体勢からシェリダンを振りほどく。一度は引いたシェリダンだが、顔色は変わらない。
「どうして、こんなこと……」
 自由になった身で起き上がり、ロゼウスは項垂れて小さく呟く。その顎についと手を伸ばし、シェリダンはまた噛み付くような口づけをする。
「んん……!」
 二度目の強引なそれに呼吸を奪われ、ロゼウスの息が上がる。火照った頬が色香を帯び、繰り返された口づけによって体中の熱が高まる。
「あ!」
 それを狙ったように、またシェリダンの手によって寝台に押し倒された。
「何……?」
 この場面で陳腐と言えば陳腐な問いかけに、シェリダンは口では答えずに行動で示す。
「ふぁ!」
 下半身をまさぐった手に、ロゼウスがびくりと跳ねる。
「や、やめろ」
「それこそ嫌だ」
 ズボンにかかった手が性急に動き、それを取り出して乱暴に扱き始める。
「は……! や、やめ、こんなことしてる、場合じゃないだろ!」
「お前にとってはそうでも、私にとっては――」
 言いかけて中途半端なところで言葉を止め、シェリダンは続きを喉の奥に封じた。そして言葉を紡ぐ代わりに、唇をロゼウスの腰へと落とす。
「ん……ん!」
 腰から下をなぞるように移動した唇がそれを捕らえ、ロゼウスの口から出る悲鳴も、言葉にならない。
「んや……やぁ……」
 快楽に流されやすい身体は呆気なく陥落し、口淫に耽るシェリダンを止めることができない。
 意志ではそれを拒絶していても、肉体が快楽悦楽に流されてしまう。
「ちがう……こんな……そうじゃなくて……」
 もっともっと、話し合わなければならないことはいくらでもあるはずなのに。伝わらない理解できない手の届かない、もどかしい擦れ違いに瞳は涙を零す。
「は……」
 だがその零れた涙も今は白皙の肌を彩る飾りにしかならない。淫靡な濡れた音が響く。
「ひっ……!」
追い詰められる者特有の所作でロゼウスが達した後、シェリダンは中途半端にその身体に纏わりついていた残りの衣服を剥ぎ取った。と同時に自らの服の前をも寛げる。
「うぁ……! や、めて……やだ……」
 唾液やら先程の先走りの液やらで濡れた指先をシェリダンは躊躇いもなく、ロゼウスの後の蕾に捻じ込む。行為に慣れた身体はそれを受け入れるが、ロゼウス自身の唇からはいまだ拒絶の言葉が漏れる。
「やぁ!」
 それは快楽を感じていないというわけではなく、けれど快感を与えられることを拒む言葉。
「ちがう……だめ……こんなことしてないで、そうじゃなくて……!」
 快感と圧迫感と、押しつぶされそうな息苦しさの中、必死でロゼウスが紡ごうとする言葉をシェリダンは強いて無視をする。
 これは強姦。
 たとえ恋人同士であろうが夫婦であろうが、一方が望まない行為を強いるのは強姦だ。
 わかっている。だからやった。
「ひあ!」
 一点を突いた途端に声色が変わる。より深い快感、快楽へと。
 転がり落ちていく。けれど頬にはぽろぽろと、生理的とは違う涙が伝うばかりだ。
 一方的な行為を無理強いするならそれは恋人同士であっても夫婦であっても強姦と言える。
だが、見知らぬ相手に無理矢理犯されるのとは違って、今自分を蹂躙している相手は本来自分が誰よりも愛している相手だからこそ、その気持ちは複雑なものになる。
「やめて……やめて!」
 ぐい、とまた体勢を変えられる。それに気づいてロゼウスがはっと顔色を変えた。
 制止の言葉など、もうこの状態でシェリダンが聞くはずもない。圧し掛かり猛ったものを、指にかき回されて開いた花のようなそこに押し付ける。
「ああああああ!」
 ずぷ、と生々しい音を立てて、紅く腫れた場所がそれを受け入れる。
 無造作に散らされていく花。
「う……う……」
「手を貸せ。そんな体勢では」
 無感情に命じる声。もっとも声がそうであるからと言って、内心まで本当にそうであるかなど所詮他者にわかりはしない。シェリダンはそう言うとロゼウスの手を、自分の肩にかけさせた。身体が密着してより繋がりが深くなる。瀕死の魚のようにぱくぱくとロゼウスが声なく喘ぐ。
 上気した頬、その頬を伝う涙、寄せられた眉間、――泣かせるのはなれていたはずなのに。
 ずきん、と一瞬胸に感じた痛みもシェリダンは行為中の興奮高まり動悸のせいだと努めて無視し、遠慮のない動きで動き出す。
「ぁあああ! ふあああ!」
 内壁を抉られて悲鳴をあげ続けるロゼウスの声音にも、ここまでくれば拒絶の意志よりも艶っぽい色が強く出始めた。悲痛な嬌声を耳でとらえるたびに、痛む胸と相反してぞくりとした快感が走る。
 愛しているのに傷つけたい、それは一見矛盾した想い。その相手と両想いであればなおさらだ。
 それでもやはり人間であれば、どうしても擦れ違ってしまうことはあるのだと。何をも生み出さない歪な交わりの合い間に思う。
 ロゼウスをシェリダンが抱くのは今日が最後だろうか。……最後だろう。
 その最後も、こんな形で終わる?
 胸の内に湧いては自身に問いかける言葉をねじ伏せる。もう止められない。自分の方からは。
 どんなに似た者同士でも、別の人間は所詮別の人間でしかないのだ。まったく同じ事を考えるなんてことはない。それが似た者でもなんでもない、むしろ正反対の思考を持つ相手なら更にそうだ。
 でも願ってしまう。わかってほしいと。
 
「なんで……こんなことするんだよ!」

 お前は、肝心なことがわかっていない。
「さぁ……な……」
 苦しいのは単に絶頂が近いからだ。そう思う。そう思いたい。
「……っ!」
 先に達したロゼウスの、声なき喘ぎに欲をそそられる。締め付ける場所の心地よさ。罪深い欲を中に吐き出しても、無意味にそこに留まり続ける。
「や……抜いて……」
 弱弱しい囁き声での懇願にようやく身体を離すと、白い蜜がとろりと零れた。自らの欲望の名残を見て、シェリダンは虚しい気分になる。
「……愛している」
 目を伏せて告げたこの言葉も今はたぶん虚しい。
《愛している》、その言葉がこんなにも憎く薄暗く寒々として救い難いとは知らなかった。
「……ウソツキ」
 責める声が胸に刺さった。