荊の墓標 45

253*

「いやだ……」
 寝台の上、敷布が乱れている。色の白い肌には淫らな紅い花が幾つも散り、華奢な肢体を扇情的に染め上げる。
 内股を白濁の液体が伝う自分自身の無惨な姿から目を背けるように彼は己の腕を交差させて己の目元を隠す。
 しかし、本当に目隠しして耳を塞いで逃げ出したい現実はそれではない。
「あんたを殺すなんて嫌だ……」
 掠れた喉でロゼウスは力なく呟いた。腕の隙間から涙が頬を零れているのが見える。
「ロゼウス……」
 先程手荒に組み敷いた相手が、いまだその前のことを口にするのにシェリダンが苦い顔をする。手ひどく扱ったことに対し恨み言の一つや二つ叫んで自分を糾弾してくれればまだ良いものの、ロゼウスにそんな様子はない。彼がただ一つこだわっているのはこれからのこと、彼が自分を殺すという未来の予言。
「嫌だよ……よりによって俺が、この手であんたを殺すなんて考えられない。そんな未来ならいらない」
 顔を覆うその手をシェリダンは無理矢理外させ、片手を自らの唇で柔らかくなぞりながら尋ねた。
「他の者ならばいいのか? お前ではない者が私を殺すのであれば――」
 シェリダンが問いかけるのを皆まで聞かず、ロゼウスは繋いだ手を頼りに身を跳ね起こしでシェリダンを睨みつける。
「そんなわけないだろ!」
 目元の縁まで赤く染めた深紅の瞳にまた涙が浮ぶ。
「誰であっても、お前を殺すなんて許せない!」
「……ロゼウス」
 激しい答にシェリダンが何とも言えず苦味走った笑みを返す。
 その胸にロゼウスは縋り付いた。
「死なないで」
 素肌と素肌が触れる。力を込めすぎれば相手の皮膚の方が切れるだろう。震える掌を滑らかな胸にかけて、肩口に顔を押し付ける。
「お願いだから、死なないで」
「そんなに気にするな」
「気にするに決まってる! だいたい、あんたは」
「そうじゃない。そうじゃなくて、だ」
 もはや何を言っても泣きながら返しそうなロゼウスを一度落ち着けるために押し留め、シェリダンはロゼウスの両頬を優しく手で包む。
「そうじゃなくて……ロゼウス、私は他の誰でもなく、お前の手にかかるのであれば本望だ」
「な、にを」
 シェリダンの真摯な瞳とその答に、ロゼウスはもとより大きな瞳を更にまん丸く見開いて目の前の相手を凝視する。
「どういう意味……」
わなわなと震えるその唇にシェリダンは口付ける。ロゼウスがまた先程のように余計なことをしないように、掠めるだけの口づけだ。今はそれしか触れられないというもどかしいその痛み。
正面からその顔を見ることができなくて、シェリダンはロゼウスをきつく抱きしめた。
「他の誰かに殺されたのであれば恨んでも恨みきれない。だがそれがお前ならば……私は……」
 ロゼウスを抱きしめたまま、シェリダンは瞳を閉じた。同じ部屋にいるロゼウスが他でもない彼自身に拘束されていて覗けない以上誰も見ることができなかったその表情は、まるで祈るようだ。
 ここにいない神に祈る。
 信じたこともない神に。
 自分という人間の存在が神に祝福されるはずはないと知りながら。
「……なぁ、ロゼウス」
「な、に?」
「初めて逢った頃のこと……いや、そうじゃないな。お前がエヴェルシードに来て、初めて私が私の本心を吐露した頃のこと……覚えているか?」
 シェリダンの言葉にロゼウスは記憶を手繰り寄せる。どんな記憶だとて忘れたことなど一つもないが、相手が言っているのがそのどれに該当するのかを当てるのはいつも難しい。
「カミラの、葬式のこと?」
「そうだ」
 ロゼウスの背中でシェリダンが微かに笑った気配が伝わってくる。
「私が私の望む未来をお前に語った時。だが、本音を言えばあれ以来、私の未来は見えなくなった気がした」
「……」
「死ぬために生きていた私の心を、お前が捕らえたその日から……」
 カミラが自殺したと伝えられ、真実は姿を晦ました彼女の死体のない葬式を終えたその日。エヴェルシード王家の墓地《焔の最果て》にて、二人きりで言葉を交わした。
 望んだのは破滅、そう告げたその日以来、しかしシェリダンは自らがこれまで望んでいた未来を思い描くことができなくなった。
 自分と共に堕ちてくれると言ったロゼウスを手に入れたいと真剣に願ってしまったその時から、破滅の未来は必要なくなった。
 代わりに望んだのは、ロゼウスと共に在ること。
「じゃあ、尚更不死の術をかければ……」
「そうじゃない。共に在るということは、ただ生きていればそれでいいというわけではないんだ」
「……わがまま」
 小さなロゼウスの呟きにシェリダンは苦笑する。
「そうかもな」
 あっさりと頷くくせにその決断は絶対に変えない。そんなところが卑怯だとロゼウスは思った。
 シェリダンの言葉は続く。
 それは死刑宣告を前にした咎人の告解だ。
 だが「安らかに行け」と告げてくれる司祭はどこにもいない。ロゼウスは司祭にはならない。
「私はもともと罪人だ。この世に生れ落ちたその瞬間から。そして自らの飢えを満たすために何人も殺してきた。お前の国だって侵略した」
「でも、それは兄様が!」
「ドラクルがどうであろうと、最終的にその企みに乗ると決めたのは私自身だ。私が私の意志でそれを決めた。その責任は私にある。あの男のせいだけではない」
 自分が隣国を侵略したのはその国の王子に唆されたから。そんな言い訳、実際に両国の戦いで死んだ人間相手に言えるわけもない。
 自らの行動の結果、その責任は、自らで負わなければならないのだ。
 シェリダンも、ドラクルも、そしてロゼウスも。
 それが望んで引き起こした結果ではなくとも、世界は繋がっているのだから。
今この一瞬の選択が己の未来を作り上げる。
「ロゼウス」
 シェリダンはきつくその背を抱きしめる。彼の腕力ではどうやってもロゼウスを絞め殺すことなどできないのに、何故か息が止まりそうだ。
 一緒に生きることが永久にできないというのであれば、このままここで二人で果ててしまえばあるいは幸せなのではないか?
 しかしその選択は当のシェリダンが与えてくれそうにない。
「愛している、ロゼウス」
「俺だって、あんたが好きだよ」
「私は……愛している……誰よりも、自分自身よりも」
 でも、だからこそ、譲れないものがあるのだ。本当に、本気で好きだからこそそれだけは譲れない一線がある。
「できればお前が皇帝になって、世界を治めるところを見てみたい。私がお前に与えられたものを、世界にも与えるところ」
 シェリダンのその夢は永遠に叶わない。
 どうしてだろう? 他のことならなんでもできる皇帝は、何故「愛する者だけは蘇らせることはできない」なんて。
「死なないでよ……殺したくない……お願いだから、それだけはやめてくれ」
 ロゼウスはロゼウスでシェリダンの背にきつく爪を立ててその身体を抱き返す。その柔らかな白い髪に顔を埋めながら、シェリダンは言う。
「お前に裁かれるのであれば、怖くない」
 その声音が耳に届いた瞬間、ロゼウスはそれまで喉元にこみあげていた全ての言葉を失う。
 悟ったのだ。これ以上何を言ってもシェリダンには届かないと。
 愛しているのに、愛しているから、だから、願いは叶わない。
 どちらかの想いが嘘であればことはもっと素早く穏便に収まっただろう。どちらかが折れて譲ることができるほどの願いなら、神に願うまでもなく呆気なく叶っただろう。
 願えば願うほどに遠ざかる楽園の果て。そのほんの片隅にただ置いてほしいという願いさえ叶わない。
「――ッ!」
 失った言葉の代わりに、それでもロゼウスは伝えたかった。
 愛していた。愛している。今も。
 これからも。
「シェリダン、俺……」

 だから――叶わない。

 ◆◆◆◆◆

 口で伝わらないならば身体で。
 言葉だけ耳で聞けばなんて陳腐なのだろうと笑うその台詞。だけど今はまさにそんな気持ちだった。
「ん……」
 深く深く唇を重ね合わせる。できるものならば、このまま呼吸を奪ってしまいたい。舌を絡め、歯列をなぞる。薄く開いた唇から零れる銀糸。どちらのものとも判別つかぬ混ざり合った唾液をお互い飲み込む。
「ふぁ……シェリダン……」
一度顔を離して呼吸を整える。酸欠で頭がくらくらとする中、ロゼウスは自分と同じような表情をしているシェリダンの肩に手を伸ばしながら請うた。
「目、開けて」
 口づけの際には瞳を閉じるのが普通だが。
「あんたの眼が見たい」
 ロゼウスはそう願った。シェリダンの瞳は綺麗だ。琥珀の中で火が揺れているような朱金。この世で最も、美しい炎。
 これが最後と知るからこそ、その色を見つめていたい。その美しさを瞳に焼きつけていたい。
「……わかった」
 頷いたシェリダンがロゼウスの顎に指をかける。そして僅かに躊躇うように一度視線を落とした後、ひたむきな眼差しをあげて言った。
「私も、お前の眼は好きだ」
 至近距離で間近に見詰め合う。反射的に閉じそうになる瞼を開いて、近すぎてぼやける相手の顔を観察する。
 いつの間にか、開いたままのロゼウスの瞳から涙が零れている。
 その深紅の瞳を映して紅い色に染まらないのが不思議なほどに、透明な涙。濃い色の瞳から溢れ出ている。
「泣くな」
「だって……」
「泣くな」
 目元に唇をつけてロゼウスの涙を啜り、シェリダンはそう繰り返す。意識をそらすため、手をロゼウスの下肢へと伸ばした。
 それでもロゼウスは、まだ不安げにシェリダンを見つめている。
「あ……」
「今だけは、全部忘れていろ」
「忘れられない」
「なら、私を覚えていろ」
 その言葉にロゼウスがハッとした。
「『私を忘れてくれ』なんて、そんなことは言わないぞ。いい人になんて、私はならない。お前は私を覚えていろ」
 シェリダンは暖かなのに凄絶な、不思議な笑みを浮かべる。
「せいぜい私を恨めばいいんだ」
 決して忘れられないほどに、私を恨んでくれ。
「……うん」
 自らの手の甲で残った涙を乱暴に拭いながら、ロゼウスは頷いた。
「恨むよ、シェリダン。俺を置いていくことを。一生、ずっと、恨んでやる」
 恨んでやる。
 俺に自分を殺させるあんたを恨んでやる。
「……ああ」
 そうしてくれ、と一言言ってシェリダンは口づけを再開した。
「ん……ふ……ぁ」
 内股を撫で、下肢を緩々と弄びながら口づけも続ける。角度を変えてお互いの口腔を貪りつくして、絡み合った舌はようやく離れた。
 シェリダンは自らの唇を舐めてその味を確かめる。慣れた唾液の味だけが舌に残り、血の味はしない。ロゼウスにもはやシェリダンの生を勝手にどうこうしようという気はないようだ。
 それでいい。
「ぁん……」
 白い胸元の赤い飾りに指を伸ばす。多少乱暴に捏ねくり回せば、痛みと同時に感じる小さな快楽にロゼウスがやけに可愛らしく顔を歪める。
「んっ……」
 尖った耳をぺろりと舐めると、細い肩が震えた。
「シェ、シェリダン……俺ばっかりってのは……」
「ん? なんだ?」
 頬を紅く染めながらやんわりと胸を押して身体を離したロゼウスに、シェリダンが怪訝な顔をする。
 そのシェリダンの懐に顔を寄せて、ロゼウスが奉仕の体勢に入る。
「おま……」
「このぐらい、やってやるよ……」
 言って、ロゼウスは口を開く。それを咥えて、舌を懸命に動かし始めた。
「……っ」
 シェリダンが思わずのように声を堪える。ロゼウスはヴァンピルの常であって体温が低く、しかし口内は温かい。その落差にぞくりとする。
「はぁ……ん……は……」
 可憐な唇が舌を伸ばし、熱を持って硬くなり始めたものを這う。その卑猥な光景に、シェリダンの中で邪な熱が疼く。
「ロゼウス……!」
 咎めるような声を思わずあげるが、本当に嫌がっているわけではない。寄せられたシェリダン眉間の辺りには、艶っぽい色がある。ロゼウスは口淫に耽りながら、上目遣いでそれを確認する。その視線が更にシェリダンを追い詰める。
「ぁあ……っ」
 どくん、と心臓が跳ねるような感覚と共に醜い欲望が吐き出される。白濁を律儀に飲み込もうとしたロゼウスの顎をその液体が伝った。
 赤い舌が口元のそれをぺろりと舐めあげる扇情的な様子を、乱れた息を整えながらシェリダンは見ていた。
 伸ばした指先はロゼウスの頬に触れる。
「お返しに私もやってやろうか?」
 親切心から言ってやったというのに、ロゼウスはあっさりと首を横に振った。
「ううん」
「おい」
「それよりも……」
 白い頬を火が出ているのかと思うほど紅くしたロゼウスの視線は下を……シェリダンのそれを見ている。
 躊躇いを振りほどいて、自分の頬に伸ばされたシェリダンの手に自らの手を重ねる。蚊の鳴くような声で告げた。
「……あんたが欲しい」
 シェリダンが目を丸くした。
「お前、私相手にそんなこと言ったの初めてじゃないか?」
「ううううるさい! 聞くな!」
 半泣き状態で瞳に涙を浮かべ頬を紅くしながら睨みつけられたところでシェリダンとしては怖くもなんともない。むしろ、そんな顔をしてまで自分を求めてきたロゼウスの様子に、一度精を吐き出したばかりのものが再び熱を持つのを感じる。
「ん!」
 先程も使ったばかりのロゼウスの後ろに前触れなしに指を突っ込んだ。再生の早いヴァンピルはこういう時に仇となる。
「もう一度解さないとな……」
「もう、待てな……」
「我慢しろ」
 力の入らない身体を寝台に押し倒されて先程よりますます不安な顔をするロゼウスを見つめ、シェリダンはきりりと胸が締め付けられる感覚を味わう。
「先程とは違って積極的じゃないか」
 指はロゼウスの中に埋め込んだまま、鎖骨の辺りを吸いながら言えばロゼウスが息も絶え絶えに答える。
「あんたこそ……あんな顔するから……」
「あんな顔?」
「ひぁ!」
 二本目の指を滑り込ませ、くいと中で曲げるようにしてかき混ぜる。内壁を抉りながら奥を突いて、感じる場所を探り当てる。
「ちょ……、ひ、やぁ……ああ!」
「ここか?」
「うう、や、ぁあ!」
 陸にあげられた魚のように、ロゼウスが言葉もないままぱくぱくと口を開く。その唇は先程までシェリダンのものを咥えていたもので、今は唾液で淫靡に濡れている。
 洗い立ての水が滴る果実のような唇に、シェリダンはむしゃぶりついた。
「ん……」
 休まない手に中をかき混ぜられて、口づけに答えながらロゼウスは荒く息をつく。
「シェ、シェリダン……お願い……あんたの……」
 深紅の瞳は情欲に濡れ、伸ばした手は冷たかったはずなのに今は熱を持っている。それが、覆いかぶさるシェリダンの肩に回される。
「あんたが……欲しい……」
 眉間に皺を寄せたシェリダンのこめかみからぽつりと汗が滴った。
「……わかった。やるよ」
 もう一度甘く口づけてから、シェリダンは体勢を変えた。ロゼウスの足を大きく開かせると、ほぐれた後の蕾に自らのものを押し当てる。
「ぁあ……ッ!」
 じゅぷ、と卑猥な水音を立てて押し入ってくるものに、ロゼウスが歓喜の声をあげる。仰け反った肌、白い胸にはいくつも紅い花が散っていた。
「は……」
 ぽたぽたとシェリダンの肌からは汗が垂れる。
 伏せられた顔。
「シェリダン……」
 降って来るのは本当に汗だけなのか? ロゼウスの頬にも、生理的ともそれ以外の理由ともつかない涙が伝う。
 やはり、もっともっと、この涙もただ痛みのせいだと言えるほど乱暴にしてもらった方が良かったのかもしれない。
「動くぞ」
「ん……」
 ただ無我夢中で身体を重ねながら思う。
「好き……」
「ああ」
「大好き、だ」
「……ああ」
 快楽に酔いながら、それでも手放せないたった一つの意識がうわ言のように拙い言葉を繰り返す。
「好きだよ……」
「私もだ」

 最後の夜は幕を閉じる。