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君が久遠を望むなら。
それを叶える力はここにある。
だが望まない。
あなたは決して――望まない。
◆◆◆◆◆
意識を失ったロゼウスの身体を横たえながら、シェリダンはその寝顔を見下ろしていた。
頬は薄っすらと涙で濡れている。これはたぶん無理をさせすぎたとか、そういうものではない。
何故なら今この瞬間、自分の頬も同じように透明な雫で濡れている。手で拭うと生温い感触が残った。
止めようとしても止められないものはこの世界にやはりあるのだと。自分で自分が鬱陶しいほどにそれは溢れ出して止まらない。意識のあるロゼウスを前にしている間はそれでもなんとか誤魔化すこともできたのだが限界だ。
「……っ」
歯を食いしばって嗚咽を堪える。
ロゼウスを起こすわけにはいかない。聞かれるわけにもいかない。
覚悟ならつけたはずだろう、シェリダン=ヴラド=エヴェルシード! 自分で自分を叱咤する。何度も何度も裸の腕で目元を擦った。見た目に反して肌は強い方だから明日かぶれたり腫れたりするということはないだろう。
敷布を握る手に力がこもる。生身の手ならすでに傷がついているだろう。白い布一枚が頼りの、力を入れすぎて骨の浮いた握りこぶし。
寝台に寄った皺の先を視線で追うと、ロゼウスの寝顔にぶつかる。
そこで、急に力が抜けた。
「……ロゼウス」
吐息のささやかさで名を呼ぶが、夢の中にいる相手は目覚めない。吸血鬼は聴覚が優れているはずだが、先程のやりとりのせいで彼も疲れているのだろうか。
一秒でも長く見つめていたい気持ちと、明日の戦いに向けて眠らなければならないという思いが交錯する。
そっと、敷布に投げ出されたその片手に自らの手を重ねた。
できればこの手を離さずに、いつまでもまどろんでいたい。
だが願いは、叶わないものだと。
止まらない涙を零しながら笑顔を浮かべ、祈るようにその手を握る。
「……愛している」
震える声が落とした。その言葉だけが今の自分を支えている。
ロゼウスが言うように、死人返りの術をかけられて人の生の理を外れ生きのびるという提案が魅力的でないと言えば嘘になる。
だが、シェリダンにはそれに頷くわけにはいかない理由がある。
人であること。人間であること。
この、シェリダン=エヴェルシードであること。
それらは彼にとって自分の全てだった。何一つ欠けても、それはロゼウスの愛した「シェリダン」にはならない。
だからこそ、自分は自分が人間であることを捨てられない。
「……今更捨てていいわけがない」
――認められるわけがないだろう、この自分も。この国も。私は私を成した父を認めてはいないのだから。蝮のように母の腹を食い破る代わりに心を食い破って生まれてきた私が、どうして明日を望める? 私は……。
――生まれてきてはいけなかったのに。
――私が欲したのは、子を成し、日々を紡ぎ、未来を望むための妻ではない。孤独に慣れ憎悪に親しみ、絶望を孕んで破滅を望む――だから、お前がいい。
父であるエヴェルシード王ジョナスが母親ヴァージニアを強姦した。そうして生まれてきたのがこの自分、シェリダン=エヴェルシード。
どんな生まれであっても命が生まれてくることに罪はないと言うけれど、シェリダンはそれは違うと考える。何故なら自分は、母を殺した。
ヴァージニアは世継ぎの王子であるシェリダンを産んだことによって正妃ミナハークに目をつけられ、自殺にまで追い込まれた。強姦の末に産みたくもない子を産んだ彼女にとって、シェリダンの命もまた彼女を追い詰めるものでしかなかった。
存在自体が罪。そういう存在はあるのだと。
それが自分だ。
シェリダンが自分の存在を肯定すれば、ヴァージニアの悲しみを否定することになる。だから、できない。強姦によって生まれた子を慈しめなどと母親に言うのは間違っている。だから、シェリダンは己で己の存在を肯定できない。していいはずがない。
この顔は嫌いではない。性格も、能力も、王という身分も集う部下たちも嫌いではなかった。だがシェリダンは、自分自身の「存在」を認められない。かといってそれを部下に対して漏らすわけにもいかない。王とは迷ってはならぬものだ。それが他者に目的のためならば迷わずその命を捨てろと命じる軍事国家の王であるならば尚更だ。
ロゼウスはそんな中で、シェリダンにとって唯一自分の存在の全てを許容してくれた相手だった。
一目見た瞬間に知った。彼のその瞳は、自分と同じ虚ろな夢を知るものだと。血の色の瞳の中に沈む悲しみは確かにシェリダンと同質のものだった。
――あんたたち人間の方が、俺たちヴァンピルよりよっぽど吸血鬼みたいだ。
人は人を、貶め、傷つけ、苛んで喰らい合う。血を啜り肉を剥いで臓物を食みながら歓喜に歪むその表情はまるで魔物。
――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
そんな風に言っていたくせに、今は……。
シェリダンの生まれを聞いて、大抵の者は返しに困る。国王が権力によって無理強いした末に生まれた命。それも、母親は彼を嫌って死んだ。
の前にいる人間の存在を面と向かって否定できる人間は少ないだろう。かといってこの生まれを聞いて、肯定できるという者も少ない。それは、してはならないことだから。
――堕ちていこう、一緒に。
《焔の最果て》でこの話を聞いた時、ロゼウスは泣いていた。シェリダンの悲しみに深く共感しながら、肯定でもなく否定でもなくただ一緒に堕ちるという道を選んでくれた。
それこそが何よりの救いだった。
この道はただ、いばらの這う、墓標へと繋がって。
いつか破滅へと繋がる道だと知りながら、愛した。自分と一緒に殺すために攫ってきたのに、相手が自分を選んでくれたその瞬間、世界が開けた。
シェリダンは本来、ロゼウスにとって憎むべき相手だ。ローゼンティアの王子としては自国を滅ぼした国の王を赦してはいけないだろう。
そんな間柄で、それでも掛け値なしの本気として出た言葉だからこそシェリダンはロゼウスを信じられる。どんな罵詈雑言を投げるのも自由だったはずのあの二人きりの場面で、ロゼウスはそれを選んだ。
――堕ちていこう。
――一緒に。
一緒に。共に。
拒絶を前提に惹かれ、奪った相手。本音を吐露したのは別にロゼウスに自分を哀れんでほしいからではなかった。シェリダンは政治的な駆け引きの場以外では、本当に思ったことしか口にしない。
自らが傷ついたことは、他者を傷つける免罪符にはならない。復讐を合法化してくれる国もどこにもありそうはない。理由とは参考にするためだけにあり、それで罪を減じることはあったとしても、免じられるわけではないのだ。シェリダンが母親殺しであることも変わらない。
それでも彼はその気になれば、全ての責任から逃れることはできたのだろう。
人はどんな場所に、どのように生まれてくるか選べない。シェリダンが好きでエヴェルシード王夫妻の子として生まれたことも。
だから自分の存在は罪ではなくて、父親を殺したことは虐待された復讐なのだから当然で、ローゼンティアを侵略したのはドラクルのせいだ。
そう言おうと思えば言えるのだろう。そして全ての責任から逃れてただ一人被害者面をしても誰も責めないだろう。少なくとも彼の味方である者たちは。
だが、シェリダンはその道は選ばない。
この命は、この存在は罪でかまわない。彼がそれを否定したのであれば、望まぬ子を産んだ母の悲しみは何処へ行く?
別に綺麗事を通すことに拘るわけでも、自虐的な考えに耽る趣味があるわけでもない。
シェリダンが追い求めているのはただの事実、ただの真実だ。
母親に生き写しの息子として父親に組み敷かれたあの日、シェリダンは確かに、父を憎んだ。傷つけられた者が他者を傷つけ返すことに対して、確かに免罪符は存在しない。だが、その悲しみ、苦しみを否定することも間違いだろう。それをシェリダンは身を持って知っているだけだ。
自分は絶対に、赦さない。
だから、赦されなくてかまわない。
全ての罪を負って生きて行く。母親殺しの醜い「人間」として、それでも生きて行く。
柵から解放されれば楽だろう。自らを人界に縛り付けるものは、決して幸せなものばかりではない。
けれど、それでも捨てられないのだ。
「……すまない、ロゼウス」
シェリダンがシェリダンでなければ、人間であることなどとっくに捨てることができただろう。
だが、彼が彼である限り自らが人間であることを止める気はない。母親の命を奪って、人間として生まれたのだ。それを誰かの勝手で奪われるわけにはいかない。
くだらない意地だと言われればそれまでだ。
だが、その愚かさこそがシェリダン=ヴラド=エヴェルシードの価値だ。
それを捨てればシェリダンはシェリダンではなくなってしまう。
だからこそ……捨てられない。
君は久遠を望むのか。
それを叶える力もその手にある。
だが望まない。
私は決して――望まない。
ロゼウスがどれだけ真剣に自分の生を願っているかはわかっている。
事情を知ればローラもエチエンヌもリチャードも、もしかしたらロザリーあたりもそれを求めてくれるだろう。
だが、望めない。望まない。白い寝顔を見つめながら呟く。
「この一瞬が私の《永遠》だ」
愛している。私の――……
◆◆◆◆◆
こぽこぽと水の音がする。
水の中に沈み込むような感覚。
瞳を開けば一面青の世界。湖の底を歩いている。なのに息が苦しくない。手足に水が絡んで重たくなる様子もなく、空気の中を歩いているのと同じように足を前へ踏み出すことができる。
「よぉ」
首を左右へめぐらせて蒼い果てなき世界の様相を確かめていたロゼウスの耳に、ふいに声がかけられた。背後を振り返るとそこには馴染み深い姿が存在している。
「また顔を合わせることになるとは、な」
そう言って軽く首を傾げる少年の顔立ちはロゼウス自身と同じものだ。しかし髪の長さ一本一本まで同じというわけではなく、ロゼウスに良く似たその少年はしかしロゼウスよりも若干男らしい。軽く筋肉のついた体に古めかしい皮鎧を着ていて、髪が短い。
「シェスラート……?」
「そうだよ、ロゼウス。お前はどうしてまたこんなところに来た?」
ロゼウスの前世である男、シェスラート=ローゼンティア。後に始皇帝ロゼッテ=エヴェルシードとその名を交換し、彼に呪いをかけて死んだ男。
「ここは、夢の中?」
「ああ」
以前のローゼンティア廃教会での戦いで消え去ったかに見えたシェスラートだが、しかしまたこうして夢の中でロゼウスと顔を合わせることになるとは。
こぽこぽ、こぽり。
水の中に見えるのは、ロゼウスの深層意識だ。かつてこの、涙の湖で溺れてしまいそうになった。
「俺はお前の前世、お前は俺の生まれ変わりだよ、ロゼウス=ローゼンティア」
ロゼウスの心の中にある疑問に答えるように、シェスラートは薄く微笑んで口を開く。
「俺とお前は、同じ魂を共有するんだ。俺の意識は常にお前の魂の中にある。消えるわけないだろう?」
「これまでは、眠っていたのか……?」
「そう、お前の中で」
ロゼウスはそっと自らの胸に手をあてる。手をあてるといってもこれも所詮夢の中なのだが、こうして相対するとまるで相手が実際に自分の目の前にいるようで不思議だ。
顔を上げると、目の前のシェスラートはどこか意地悪げに笑っている。
「おや、それは心外だな」
「!?」
ロゼウスがまだ口に出す前からその心の中を読んで、シェスラートが答えた。繰り返すが実際には魂を共有して夢の中で双方の意志を、その姿を反映して具現させているだけなのだから、自らが思ったことがすぐに相手に伝わってしまうのは当然だ。
ロゼウスも理屈ではそうわかるのだが、頭で理解できるのと実践では違う。この感覚はいっこうに慣れない。
「まぁ、お前は自分自身の命と肉体があるんだからそうだろうさ」
シェスラートばかりがロゼウスの心を読んで、ロゼウスは口を開く間もなく話が進んでいく。何故か同じ魂の持ち主と言えど、ロゼウスにはシェスラートの心が読めない。流されるばかりでいるわけにもいかないと、制止をあげる。
「待った、シェスラート」
「なんだよ」
口の端を吊り上げる彼はやはり意地悪げだ。
「だからそれは心外だって」
「俺はまだ何も言ってない」
「でも思っただろう? 俺の方が自分より性格が悪そうだって」
「……」
「ほらな。酷いぞ。俺とお前は同じ存在なのに」
鮮やかな笑顔を浮かべながら、シェスラートが飄々と告げる。
「俺は、そんなの知らない」
「前世の実感なんてない? まぁ、そうだろうな。でも言っていることはわかるだろう。お前と俺は同じ存在だ。お前が性格が悪そうだと思っているこの俺は、お前自身でもあるんだよ」
ロゼウスが先程したようにシェスラートは鎧の胸に手をあて、また口の端を吊り上げて邪悪な笑みを作ってみせる。
「俺は……」
「認めろよ、ロゼウス。お前の中には悪魔がいる」
「あく、ま?」
「そう、悪魔だ。……目的のためならどこまでも残酷になれる悪魔」
微笑むシェスラートの顔は美しいのにどこか空虚で、瞳には底の知れない光がある。
「もっとも、俺たちだけじゃないけどな。俺だってお前だって、他のヤツラだって、ただ普通に生きている普通の人間の中にだって、悪魔は住んでいる」
シェスラートの言葉は意味深な謎かけめいていて、ロゼウスにはその意味がよくわからない。
「わからないんじゃないよ。お前はわかろうとしないだけだよ」
またしても心を読んだシェスラートの言葉にロゼウスはむっと眉をしかめる。
「なんでそんなこと言える」
「だって俺はお前の中にいる。俺はお前だ。お前の中で目覚めている。そして今、俺はお前に伝えているだろう。本当はわかっている、と。行こうと思えばすぐに辿り着ける道の先に、お前の答はあるんだよ」
瞳の光とは裏腹に彼の言葉は淀みなく綴られて止まらない。
「わからないのではない。お前は、わかろうとしないだけだ――逃げているんだよ」
「違う!」
「違わない」
そしてまた彼は酷薄に口元を歪める。
「ねぇ、覚えてる? ロゼウス。俺がお前の中で蘇った時のこと」
シェスラートはある時点から生まれ変わりであるロゼウスの精神を侵し、その肉体を乗っ取りだした。その時のことだろう。
「覚えている……薄っすらとだけど。シェリダンに会うまでは、夢を見ているような感覚だったけれど」
彼の言葉の意図がつかめないままに、ロゼウスは記憶を手繰る。
「可哀想な狼を、一匹殺しただろう?」
「あ……」
シェスラートの言葉に触発されて、ロゼウスの脳裏をどこか寂しそうな雰囲気を漂わせた幼い少年の横顔がよぎる。
「ヴィルヘルム……」
「そう。あの可哀想な子」
「可哀想可哀想って、あいつはあんたが殺し……」
言いかけてそれに気づきはたとロゼウスは立ち尽くす。
口元を片手でゆっくりと覆う。夢の中だというのに顔色が蒼白になる。
ヴィルヘルムのことも、ウィルのことも殺したのはシェスラートだ。しかし彼が操っていた器は確かにロゼウスのものだった。ロゼウスはシェスラートとして彼らに手をかけたのだ。
「そうだよ。お前はシェリダン=エヴェルシードにだけは手をかけなかったけれど、それ以外の相手はあの可哀想な少年も、実の弟も簡単に殺すことができる」
だから、悪魔だと。
「お前は自覚するべきだ。自らの残酷さを。お前には自分自身よりも大事なものがない。だから、自分に都合の悪い相手を簡単に殺すことができる」
「そんなこと」
「エヴェルシードでシェリダンは、自らの名誉を犠牲にし、民衆に石を投げられても民を救おうとしたね。お前にそれと同じことができるか?」
シェスラートの言葉にロゼウスは口を噤む。まだ記憶に新しいその出来事は、シェリダン=エヴェルシードという人間の本質を知る場面でもあった。
傍からそれを見て、ロゼウスはただ、馬鹿だな、と。シェリダンのやっていることは誰かを救うのかもしれないが、少なくとも自分の眼から見ては、愚かだな、と。
あんなにも自らを犠牲にしてすり減らして生きることはロゼウスにはできない。
そしてこんな自分は、シェリダンがそういう人物だから誰よりも好ましく思う。
「言ってあげようか? ロゼウス=ローゼンティア。お前の真実を。お前は自分よりも大切なものがない。それが、お前の宿命、お前の未来、お前の選択」
自分よりも大切なものがない。
だから自分以外は誰でも殺せる。
「明日の結末、教えてあげようか?」
「あんたに何がわかる!」
「わかるさ」
彼は憐れむような笑顔を浮かべた。生まれ変わり未来の己であるはずの姿を見つめながら、シェスラートはそれを嘲笑い、憐れむ。
「簡単なことだよ、ロゼウス=ローゼンティア。猫は鼠を捕まえて殺すだろう」
「え?」
予想を外した返答に、ロゼウスはきょとんと表情を崩した。猫と鼠? いきなり何を言い出すんだ、この男は。
「それをよく覚えておくがいい。いや、覚えているだけ無駄なのかもしれないけれど」
シェスラートが小さく首を振る。
「お前にとって……俺にとって、この存在にとってシェリダン=エヴェルシードは確かに大切な相手だろう。けれど、でも……だからこそ……」
ロゼウスにとって、シェリダンはかけがえのない相手だ。シェスラートもそれはわかっている。ヴィルヘルムもウィルも殺したロゼウスはしかし、シェリダンだけは殺したくないとシェスラートの支配を跳ね除けたのだ。
引き換えるもののないほどにかけがえのない相手と引き換えられるものは何だ?
ロゼウスは呆然と目を見開いて、シェスラートの方を見つめている。
「お前は、俺たちみたいになるなよ」
彼は悲しげに寂しげにそして少しだけ優しく笑った。
その白い輪郭がぼやけていく。夢の終わりが訪れようとしている。
「シェスラート……ッ!」
ロゼウスは夢中で手を伸ばし、自分とよく似た前世の男の姿を掴もうとした。
指先が湖底の幻影をすり抜ける。
「――ッ!」
目覚めた意識の中で、何かが胸の奥を引っかいた。