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瞼が温かい。熱い。
白い日差しが降り注ぎ、穏やかな眠りを焼いていく。余りにも短い睡眠だった。けれど、忘れられない夢を見た。
――お前の中には悪魔がいる。
ハッとして身じろぎした瞬間、柔らかな掛け布が身体に纏わりつく感触がした。裸の身体にそれだけをまとって横たわっていた。
「シェリダン……」
思わず名を呟くと、返事は隣からの短い呻き声。
「んー……」
蒼い眉を一瞬寄せたシェリダンが、覚醒前のとろりとした瞳を開いた。
「なん……、っ!?」
次の瞬間にはしっかりと目を覚ました彼が身体を起こす頃には、ロゼウスも夢の残滓を振り捨てて冷静になったところだった。
「あ……ごめん……」
起き抜けに謝罪から始められてぱちぱちと目を瞬かせたシェリダンだったが、困った顔のロゼウスを見てふっと口もとを緩める。
「おはよう、ロゼウス」
「うん。おはよ、シェリダン」
お互い裸で、身体には昨夜の名残もまだ残っているというのにこんなにも極自然と会話ができるのはこの朝の白い光のせいなのか。
もっとも吸血鬼であるロゼウスにとって直射日光は毒だ。寝台脇の窓にはきちんと日除け布が下ろされている。その紗幕越しの弱められた光が、目に酷く心地よい。
朝とはこんなにも明るいものだったろうか。
と、そこまで考えてふと二人は気づいた。
「……なぁ、シェリダン、俺たち」
「……もしかして寝過ごしたか?」
二人とも王族であるだけあって通常朝は早い。朝議というものは大抵夜明け前から始まる。そのため日が高く昇った頃に目覚めるなんてこと普段はしなかったのだが、窓の外から差し込む白い光はどう考えても夜明けの紫の空が落とすものではない。
「えーと、でも、何かあったら誰かが呼びに来るよな」
「そうだな」
もっとも寝過ごしたかどうかなど杞憂で、何しろ今は通常という言葉の枠内にはどう考えてもないだろう生活をしている。ロゼウスの言うとおり、何事かあれば誰かが呼びにくるだろう。
その何事か、の内容は一つしかないのだが。
「……シェリダン」
一度は寝台に身を起こしたはずのロゼウスがそっと指をシェリダンの方へと伸ばし、その手に絡めた。
「ん? 何だ?」
昨夜が遅かったことに加え、それ以前に怪我をして熱まで出したこともあってかまだ眠い様子でふわ、と小さく欠伸したシェリダンの様子にロゼウスはふと表情を緩める。
「もう少しだけ寝る?」
「私はそれでもいいが……お前は? 今日は……」
言うのはなんとはなしに憚られる言葉を口にしかねて曖昧に濁すシェリダンの眼差しに、ロゼウスはやはり微笑で返す。
「シェリダンがしたいようにしていいよ、俺は」
指を絡めたままロゼウスはそれだけを告げる。
「俺は……大丈夫、だから」
言葉の途中で表情が乱れ、くしゃりと歪む。
「……ロゼウス」
眠気を振り払って苦い顔をしたシェリダンがその頬を挟みこんで顔を覗き込む頃には、ロゼウスの頬には涙が浮いている。
「ごめ、そんなつもりじゃ……!」
「別に私は気にしない。気にしているのはお前だ……気にしなくていいのに」
「だって……!」
先のことを考えると不安のあまり涙が出てきて止まらなくなる。小さな子どもでも神経繊細な貴婦人でもないというのに、止まらない、涙が。
ロゼウスは身体を震わせたまま、シェリダンの胸に縋り付いた。
「ロゼウス」
凛と染み入るような声音で名を呼ばれても、今日ばかりは嬉しさよりも切なさが募る。
「どうして、どうしてあんたじゃなきゃいけないんだよ!」
他の誰を殺せと言われてもこれほど動揺しないだろうロゼウスはシェリダンの膝の方にまで突っ伏して泣きじゃくる。朝から頬や目元を腫らすことになるだろう彼を馬鹿だなとも言わずにシェリダンはその髪に手を伸ばして撫で、慰める。
「言っただろう……私はお前に裁かれるのであれば怖くはない」
お前が私を裁いてくれ。
「いやだ、そんなの……」
シェリダンの膝に縋り、震えながら泣いていたロゼウスが目元を拭って顔をあげる。
その表情には鉄よりも固い決意が潜んでいた。
「ハデスの予言の通りになんてさせない。運命なんて変えてみせる」
「そうだな。できたらいいな」
「シェリダン!」
意気込むロゼウスとは裏腹にシェリダンは飄々としたものだ。本日死ぬのは自分だと言われていると言うのに、まるで平然とした顔をしている。
「勘違いするなロゼウス、前にも言ったが、私だって別に積極的に死にたいと思っているわけではないぞ」
「俺が意味わからなかった、あれ」
エヴェルシードでの時のことだ。シェスラートが夢でも言っていた。シェリダンが国をカミラのもとでまとめあげさせるために一芝居打ったあの時のこと。
「そうだ。……今でも、お前にはわからないか?」
死ぬのは「嫌」だ。だが「死にたくない」のではなく、「生きていたい」。
シェリダンはそう言った。死にたいわけではないが、死にたくないのではないと。生きていたいのだと。
生きていたい。
けれど彼は今日、この場所で死ぬ。
「あんたはいつも、俺には何がどう違うのかわからないような難しい言い回しばかり使う」
「別に難しいことなんて私は何一つ言っているつもりはないが。基本的に私よりお前の方が優秀なのだからな。鍵さえ知っていればお前が私の言葉を解せぬはずはない」
シェリダンの言葉にロゼウスは唇を尖らせた。恨めしげな眼差しでシェリダンを見つめる。
「でも、わかんない」
「……お前は、私が知っていることを一つだけ、知らないからな」
悟りを得た聖人のような表情で、シェリダンは瞳を閉じる。ロゼウスとはまだ手を繋いでいる。細い指先を絡めて伝わってくる体温。それが熱くとも低くとも、構わない。
ロゼウスは絡めた指を振り払うこともできず、けれど先程のように縋りつくこともできず、ただその静かな横顔を眺めていた。日除け布越しに差し込んだ日差しを反射して藍色の髪に光が降るようだ。
これこそ、まさに夢のように美しい光景。
「……どうした? ロゼウス」
ふとシェリダンがこちらに気づき顔を向けてくる頃には、知らずロゼウスの頬を涙が伝っている。先程も派手に泣き喚いたせいでもはや自分の頬が濡れていてもロゼウスは何も感じない。
「私なら、大丈夫だぞ」
困ったような顔で笑うシェリダン。この笑顔も、繋いだ手の温もりもこのままでは失われてしまう。
けれど昨夜散々抵抗されあれだけ拒絶されたロゼウスはもう、彼を無理矢理不老不死の《死人返り》にすることもできない。愛しているから死なせたくないのに、愛しているからその意志を無視してまで術をかけられない。
目の前の人の姿は、何故こんなにも美しいのだろう。
いつかこの手をすり抜けて、必ず失うとわかっているからこそ尊いのか。
ロゼウスはまたしても乱暴に頬をこすって濡れた場所を乾かす。白い肌は一瞬痣がついてすぐに消えていく。疎ましいくらいに頑丈な自分。脆弱な人間とは比べものにならない。
儚いものを好めば好むほど失われる瞬間が痛いと知っているのに、それでも焦がれてしまった。
「さて、そろそろ着替えて朝食にでも行くか。この時間だとローラたちが何か用意してそうだしな。なぁ、ロゼウス」
「……うん」
絡めた指を名残惜しげに離し、二人はそれぞれ自分の着替えを手に取る。さっさと身支度をすませば、まるでいつもの朝と同じように動き出す気力が湧いてくる。今日この後に起こる出来事など、嘘ではないかと思うくらい。
けれど確かに今日、この日が決戦。
この世界に決して明けぬ夜はなく、漆黒の空は必ず朝に包まれるのだということ。それが何よりも残酷だとロゼウスは知った。
◆◆◆◆◆
いつの間にか用意されていた新しい服はハデスあたりが気を利かせたのだろうか。
自らがエヴェルシード国内にいた時分着用していた国王の正装にシェリダンが声を失っている。
「エヴェルシードの軍人王の死に装束には、これが一番相応しいというわけだな」
深紅に金の縁取りのある派手な軍服だ。長靴は黒に、しっかりと固定するためのベルトがついている。腰にも剣を佩くためのベルトがあり、胸元にはスカーフ。全体的に厚い生地で出来ているため、優雅でありながら防御力は高い。この奥に鉄板を仕込んで更に頑丈にすることもできるがそこまではしていなかった。動きやすさを考えてマントは外している。
確かにシェリダン自身もこの格好が一番しっくり来るのではあるが、できすぎだとも思っている。
「シェリダン……」
死に装束云々という言葉に反応してか、ロゼウスが端正な眉をまた歪めている。そういう彼自身も新しい服装に着替えていた。深紅を基調としたシェリダンの衣装とは違い、ロゼウスのそれは黒と白だ。上着の裾が燕尾服のように独特の形をしている。シェリダンが正装ということはロゼウスの方もローゼンティアの正装なのだろうか。しかしそれにしてはズボンの長さが中途半端ではある。
「俺がローゼンティアにいた頃に着ていた服なんて、いつの間に……」
ロゼウス自身も少々驚いたような顔で自分の格好を見下ろしている。ということは、あれは単なる普段着か? この辺りで、用意したのは十中八九ハデスだろうと納得する。
これまで何度もこちらを寝返り裏切ってくれた友人はしかし今現在、ほとんどシェリダンの前に顔を出さない。ロゼウスや他の者たちの言葉では気にかけてはいるということなのだが。
「ま、考えても仕方ないか」
刻一刻と時は磨り減り、宿命の約束の刻限に迫り来る。シェリダンもロゼウスも準備は万端だ。後の者たちも仕度をすでに終えている。
先程顔を合わせた際に、ロゼウスの妹姫の一人であるメアリーの姿が見当たらなかった。ロザリーが考えて、決戦になる前に逃がしたのだという。シェリダンもロゼウスもその言葉に頷いた。ここから先は、覚悟のないままでは足を踏み入れることの許されない世界だ。あの気弱で優しい性格の王女にそんな度胸があるはずもない。
「待たせたな」
二人が着替えを終えて部屋から出て行くと、後の者たちはすでに仕度を整えて二人を待っていた。
「こっちだよ」
ハデスの案内で、戦いやすいという場所へ移動する。予言で未来を見ることのできるハデス自身は最悪の未来に辿り着く場所を恐れているのだが、他の者にはそう言ったところで伝わらないことだ。
「……いいのか? ハデス。姉君と敵対してしまって」
シェリダンはハデスを見る。ハデスも視線を返す。
「……うん、今更だから。それに、いつかはこうなることもわかっていたし」
「こうなること?」
「そう、姉さんと敵対すること」
シェリダンは度重なるハデスの裏切りには触れず、ただ戻って来た彼の考えを僅かなりとも、自分が理解できる範囲でいいから理解しようと問いかける。
「僕は、姉さんから両親を奪った」
ぽつりと言ったハデスの言葉に、シェリダンは一瞬自分の境遇を重ねた。母を殺し、父も殺した。シェリダンとしてはそれで正しい。だがハデスの方は。
「……逆だろう。デメテル帝が父親母親を殺したのは、お前を得ても得なくてもかわらない」
「たぶんね。だけど姉さんとしては、両親を失ってその代わりに僕を手に入れたんだよ。弟を作ってくれれば皇族に加えるなんて嘘をついて、手に入れた結果がこれってわけだ。僕は持ち主の意見を聞かない不出来な人形」
「自分で自分を不出来と言うことはないだろう」
「本当のことだ」
ハデスは胸に手を当てる。昨日もどこかで見たような仕草だと思ったら、シェリダンはそれがロゼウスのものだと気づいた。
胸、その中にある心臓に手を当てているのだ。心はそこにある。
人は旨の前で両手を組み合わせて祈る。それと同じ事だ。心から、心からそう思うのだと告げる。
「人は何かを失う代わりに何かを得る。だが、そこで一度手放してしまったものは本当に新たに得たものと釣り合うほどの価値があるのか?」
もともと広間には静寂が満ちていて、あとの者たちは黙り込んで喋らない。ハデスの言葉を、向かい合ったシェリダンだけでなく彼らも聞いている。ロゼウスも。
「姉さんは両親を殺して僕を得た。けれどそれは、本当に『良い事』なのか?」
手に入れたものと失ったもの。
だが、本当に新たに手に入れたものは前に失ったものよりも価値があるのか。失ったものの方が大きすぎて、自分は損をしていやしないだろうか。
「これから手に入れるものが前に失ったものほど素晴らしいとは限らない。でもそう考えるのは辛いから、人は自分が支払った代償よりも多くの価値を得たものに望むんだよ」
聞きながらシェリダンは彼の言葉の真意に思い当たる。
ああ、そうか、彼は……
「姉さんが、両親を殺したことを後悔したくないために僕を愛するようにね」
「ハデス」
彼は姉であったデメテルの愛情をそういうものだと考えていた。だからこそ、どんなに彼女からあなたは私の可愛い弟だと言われても姉を信じきることができなかった。その心の孤独を垣間見ると同時に、最後に付け加えられた言葉に一同はもともとなかった言葉を更に失う。ここで今、ようやくハデスという人間の本質を見るような気がする。
「だから?」
しん、と降り積もり底の方で張り詰めた空気。それをもう一度持ち上げ引き裂くようにしてロゼウスが問いかけの言葉を放った。紅い視線は真っ直ぐにハデスの方を見つめている。睨みつけている。
「だから、お前は何? それを知って、これからどうしようと言うんだ?」
自らもロゼウスの方へと向き直ったハデスが表情を険しくし、はっきりとした口調で言い切った。
「だから、僕はもう失いたくないんだよ」
一度失ったものはもう二度と手に入らない。後からどんなに代わりを求めても、それはかけがえのないたった一つのものにはならない。
失ってしまえば、もうそれっきりだ。後悔しても戻らない。
だから、失えない。
「そうか」
ハデスの返答を聞いて、厳しい表情をしていたロゼウスが少しだけ目元口元を緩める。対照的にこちらは常に冷静とも冷徹ともつかない無表情をしていたジャスパーがぽつりと零す。
「愛の告白ですね」
「は?」
「はいぃ?」
合いの手はロザリーとエチエンヌの頓狂な声で、張り詰めていた空気は跡形もなく崩れるようだった。ローラとリチャードは頭を痛めたように額に手をやっている。
さすがにそこまで言われるとシェリダン自身もなんとなく恥ずかしいのだが。
ローラとリチャードもそれほど深い事情は知らないとはいえハデスの遠回しな語りの意味には気づいていたということだろう。鈍いロザリーとエチエンヌに呆れている。
広間の中を移動してシェリダンの側へすいとやって来たハデスが彼にだけ聞こえるようにそっと呟く。
「お前を殺させやしないよ」
足こそ動かさないものの、先程の場所から首だけをめぐらしてハデスの動向を追ったロゼウスが不愉快だという表情をする。
「そこまで心配しなくとも」
「無茶を言うな。僕にあんな未来を見せておいて」
「お前は自分の能力に自信があるんだな、ハデス」
「当たり前だ。僕が何年生きていると思ってんのさ」
「あの予言を回避したら、明日からは預言者は廃業だぞ」
茶化すような口調でシェリダンは言うが、ハデスの方は存外真剣な様子だった。
「かまわない」
「……ありがとう、ハデス」
砂時計の砂が滑り落ちていく。