荊の墓標 45

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 昨日の敵は今日の友というが、彼らは昨日も敵であり友人だった。では今日は一体何だろう。そんな気持ちで、ロザリーは間近で話すシェリダンとハデスの二人を見ていた。
 帝国宰相ハデス=レーテ=アケロンティスとは彼女にとってただの記号程度の意味しかない。帝国宰相とハデスという人物は常に同意味だと感じていたので、帝国宰相という役割を持ちながら皇帝である姉を裏切り自分たちと敵対し、かつ今ではシェリダンと親しげに話すハデスの姿がなんだか不思議なもののように見える。
「ロザリー」
「ロゼウス」
 先程までそのハデスと言葉を交わしていたはずの兄はもうすでに彼らに興味はなくしたのか、彼女へと声をかけてきた。否、興味をなくしたのはハデスにであって、「彼ら」とくくるのは間違っているかもしれない。ロゼウスはロザリーの方に一度顔を向けたものの、まだちらちらと彼と話し続けるシェリダンの方を伺っている。
「帝国宰相って、シェリダンと仲いいのね」
 先程まで疑問に思っていたことをロザリーが口にすると、事も無げにロゼウスは答えた。
「うん、あの二人は友達らしいから」
「そうなの?」
「うん」
 一年前、エヴェルシードに侵略された際に一度死んだロザリーは蘇ってすぐにロゼウスを追ってすぐにローゼンティアを出た。彼と離れていた期間はそう長くはなく、従ってシェリダンと共に過ごした時間も同じくらいのはずなのだが、どうにも彼女にはロゼウスがそう簡単に頷けるほどハデスとシェリダンの友情というものがわからない。
 これはやはりロゼウスが、どれだけシェリダンと一緒にいたかということが関係あるのだろうか。彼らを見てはいても積極的に自分から混じろうとしないロゼウスの様子からすれば、それが男の友情などという意味不明なものでないことだけは何となくわかる。それでもロザリーは何度も敵対したはずのハデスと平然と喋れるシェリダンの神経がわからない。
「別に気にしなくてもいいんだよ、ロザリー。俺たちの場合は、あいつとはまた事情が違うんだから」
「ええ」
 ハデスはミカエラを殺し、ミザリーの死の原因も作っている。そんな彼をロザリーは許すことはできない。それでも行きがかり上協力してもらった場面というのも少なくはなく、結局のところ同じ空間にいても極力言葉を交わさずにやり過ごすということになる。
「それでいいんだよ」
 難しく眉を潜めた彼女に対し、ロゼウスが優しく告げる。彼自身内面では複雑なものがあるのか、シェリダンの様子は伺うのにハデスの方はあんまり見ようとはしない。
「ロゼウスはいいの? あの人がここにいて」
 ここは最終決戦の場だ。皆、戦いやすい服装に着替えて襲撃に備えている。年頃より豊満な体つきを男装に包んだロザリーも例外ではない。
「うん、あれでも役に立つかもしれないし。シェリダンがそうしろって言うし。今は使えるものは何でも使いたいからね」
「そうね」
 シェリダンの意見も聞き入れるようでいて実はさりげなく酷いことを言っている兄に普通に同調し、ロザリーはその顔を横目で窺う。片親は違うというのに双子のように自分と瓜二つであるロゼウスの顔立ち。
「どうかした?」
 気づいたロゼウスが尋ねてくるのに、ロザリーは緩く首を振ってなんでもないと返した。
「ロゼ、本当に皇帝になるの?」
「らしいけど、どうなんだろうね」
 同じ国で同じ父を持つ兄妹として生まれ育ったにも関わらず突然世界を背負って立つ人物だと知ることになったロゼウスの姿に、ロザリーは違和感と寂しさを隠せない。
 対するロゼウスは彼女の心情も知らず、平然としている……いや。
「……ロゼこそ、どうかしたの?」
 その気になれば内心とは全く正反対の表情を浮かべることもできる兄のポーカーフェイスを見破って、ロザリーは今のロゼウスの状態を言い当てる。態度こそいつも通りに見えるロゼウスだが、実は落ち着きなく辺りに目を配るようにしているし、時折ふと切なげな表情を浮かべることがある。
「なんでもないよ」
「うそ」
「……ロザリーにはやっぱり敵わないな」
「あたりまえよ」
 一度は誤魔化そうとしたロゼウスも彼女の真剣な瞳に気づいたのか、苦笑して言葉を変えた。ロゼウスの様子が昨日からどこかおかしいのは、彼女の気のせいではなかったようだ。
 昔はあれほどまでに近かった兄との心が今は遠いことを、ロザリーはちゃんと自覚している。これまではロゼウスにとってのドラクルという存在を除けば、ロゼウスの一番近くにいる存在は自分だった。けれど今は違う。
 彼を想って死んだミカエラやウィル、ミザリー。尊敬していたドラクルを裏切ってまで味方についてくれたアンリ。選定者としてこれからも共にあるのだろうジャスパー。ロゼウスはもう一人ではなく、ロザリーだけのものでもない。彼女がこの兄との間に親密に感じていた距離に、他の者たちが入ってきたことによって彼女はそれが自分の思い込みであることに気づいた。それは針の一本も通らない細い隙間ではなく、ある種当然の距離だったのだ。その気になれば誰だっていくらだって詰められる距離。
 確かにロザリーにとってロゼウスは大切な兄であるし、ロゼウスから見たロザリーも大切な妹であろうが、それは彼女だけの話ではない。そしてロゼウスの「一番」はもう彼女でもなければ、ドラクルでもない。
ロゼウスの視線がちらちらと行く先を見てロザリーは一瞬目を伏せる。
 藍色の髪に朱金の瞳を持つ少年はハデスと何事か交わし終えた後、何故かジャスパーと話しだしている。
 その姿を目にするとやはり、一瞬胸が痛くなる。報われない鼓動がとくんと打ち、岩にぶつかる波のように砕けていく。
 彼がロゼウスの一番の位置を持って行ってしまった。そして彼の一番はロゼウスだ。ロザリーはどちらにとっても二番手以下にしかなれない。そして現実は二番手にすらなっていない。
 ただ見つめているだけ。今は違うが、普段から二人が仲睦まじくしている光景は微笑みと共に切なさを誘い、何事かもめている様子だと喜ぶことも怒ることもできずにただはらはらとしている。
 幸せになってほしいと思った相手の幸せを見るのがこんなにも辛いとは思わなかった。
 ロゼウス、確かにあなたに幸せになってほしいと思っていたのに。
「ねぇ、ロザリー」
「ん? 何」
 ふとした物思いに沈んでいたところを急に呼びかけられてロザリーは慌てて顔をあげた。
 短気な彼女がそそっかしいのはいつものことであり、ロゼウスはその仕草を気にもとめなかった。その代わり真剣な表情で、ロザリーに思いがけないことを尋ねてくる。
「王になる気はないか?」
「え……」
 一瞬何を言われたのかわからなかった。
「ローゼンティア王に、なる気はないか?」
 ローゼンティア、の王。自国の王。
 ロザリーは継承権自体は決して高位ではない王族だ。他の正妃に比べ身分の低い母から生まれた、しかも女児である彼女の王位継承権は十三人兄妹のうち十二位。末姫のエリサの次に低いのである。もしもドラクルによって王妃たちの不義が暴かれ兄妹の半分は父王の子ではないのだと知らされずとも、普通に考えて彼女に玉座に着く資格が回ってくるとは誰も思わない。
 しかし、その少ない可能性が今確かに起こってしまった。誰も文句のつけようのない王になるだろうと言われていたドラクルも、彼に次ぐ実力を持つアンリもブラムス王の実子ではないと知れ、本来正統なる第一王子と呼ばれるはずだったロゼウスは皇帝候補。始皇帝シェスラート=エヴェルシード、本名ロゼッテと言う名の彼以外の歴代の皇帝は国王と皇帝を兼任しないのが慣わしであるから、ロゼウスがローゼンティアの玉座を継ぐ事はない。 
 それに何よりもまず生き残っている王族の数が少ない。ロゼウスと彼の選定者であるジャスパーを外せば、ドラクル、ルース、ロザリー、メアリー、エリサだけ。そしてメアリーとエリサは争いを避けるためにどこか平和な場所へと姿を消した。
「ロゼウス……」
「今日の戦いで、俺は兄様を……ドラクルを殺す」
 もっとも栄光に近い痛みの沼。それが王位継承問題。それをあえて出してきたロゼウスの真意はその言葉で知れた。
「ドラクルを殺したら、多分ルースも死ぬだろう。残る王族は俺たちだけだよ、ロザリー……だから」
 お前が国を継がなかったら、誰があの国を継ぐ?
 突然のことにロザリーが反論する暇もなく、ロゼウスはそれを告げる。
「わ、私は……」
 ローゼンティア王の道。
 一国の支配者。思っても見なかった責任。
 わかっているはずの、でもわかりたくはない未来。
「ロゼは、ドラクルを生かす気はないのね?」
「……うん」
 もう戻れないのなら前に進むしかない。
「……いいわ、私がなるわよ。なってやるわよ。ローゼンティア王に」
 瞼を閉じれば今も鮮やかに蘇りそうな幸せだった時期。だけどもう、振り返ることはできない。
「ロゼウス、私はあなたの妹。そしてローゼンティア王は皇帝の部下。……例え立場がどうなろうと、私があんたを支えるのに変わりはないわ」
「ありがとう……ロザリー」

 そう、たとえどんな結末になったって、けっして私はロゼウスを見捨てはしないから。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンがハデスと話している間に、ロゼウスはロザリーと会話を始めていた。一方シェリダンの方へは、何故かジャスパーが近寄ってくる。
「何用だ? 私は貴様と話す気分ではないが」
「そうでしょうね。残り少ない己の時間を、兄様ではなく僕相手になど使いたくはないでしょうね」
 口では理解を示しながら、しかし年下の少年は皮肉げに距離を詰める。
 ロゼウスがシェリダンを殺すという予言の内容を正確に知り尽くしている人物は少ない。そしてジャスパーは正確に知っている方の人間だ。
 何度も己の立ち位置を変えて事態をかき回したハデスとはまた違った意味でジャスパーの内面は読みにくい。何しろ十四年間一緒に育ったローゼンティアの面々がわからないというのだから数ヶ月程度の付き合いしかないシェリダンにわかるはずもない。
 それにジャスパーは、弟としてではなく、男として兄であるロゼウスを愛してしまっている者だ。その彼からして見れば、シェリダンは目の上のたんこぶだ。憎いなどというものではない。この場で誰よりもシェリダンの死を願っているのは、間違いなく彼だろうと思われる。
 だからその少年の次の言葉に対するシェリダンの反応が若干遅くても不思議はなかった。
「――本当にいいんですか? これで」
「……は?」
 尋ねてくるジャスパーの言葉に真意を掴み損ねてシェリダンは間の抜けた返答を口にする。いや、ただ単にそれは吐息が疑問を添えて出ただけで答になってはいない。
「このままいけば、あなたは死にます。それでもいいんですか? 死ぬのが嫌なら今すぐそこの元帝国宰相にでも、皇帝領の外へ送り届けてもらえばいいんじゃないですか?」
 ロゼウスの前ではしおらしく憂いを浮かべた表情でいるジャスパーは、しかしシェリダンの前では更に彼の内面を読み取りにくくさせる無表情だ。その無表情で淡々と言われた言葉にシェリダンは目を丸くする。
 彼自身の戦闘準備は万全だった。ロゼウスと似たような形の、色違いの服を着たジャスパーは腰に剣を佩いている。その眼差しは決戦前の緊張か、きりりと厳しい。
「それはもしかして、私に逃げろと言っているのか?」
「もしかしなくてもそうです。むしろ、そんな前置きをつけられるほど迂遠な言い方をした覚えはありません。あなた実は頭悪いんですか?」
「失礼なガキめ……そうではない。お前がそんなことを言ったのが意外というだけだ」
 シェリダンは素直に驚いていた。まさかこのジャスパーが恋敵である自分を案じるような態度をとるなどと。
「僕が心配しているのは、あなたではなく兄様です。むしろあなたに関しては死ねばいいとはっきり思っています」
「おい」
「だけど、そんなことしたら、兄様は絶対に悲しむ。だから……」
 ジャスパーは可憐な唇を噛んで視線を俯かせる。
「逃げるならば、逃げてもいいですよ」
 消え入りそうな声には苦悩が満ちている。混沌としたそれに、しかし一筋の救いのような光が差しているのもシェリダンにはわかった。
「兄様が好きだから、僕にとってあなたは邪魔です」
 目の前の相手にしか聞こえない、同じ室内にいるロゼウスにすら聞こえないように気を遣って、シェリダンだけに聞こえるよう本当にほんの小さな声でジャスパーはそう言った。
「でも、その兄様が悲しむからあなたを死なせるわけにはいきません」
「私の死は決定事項ではなかったのか? ロゼウスを皇帝にするための。恐らくそれは私の死が何らかの影響をロゼウスに及ぼし、それが皇帝としての成長に必要だということだろう?」
 内心でシェリダンがずっと思っていたことを問いかけると、一瞬ジャスパーが変な顔をした。よく意味が飲み込めなかったようだ。
「どういう意味ですか?」
「どういうって……」
「あなたを殺すことが何故ロゼウス兄様の即位の道になるのか、僕にはわかりません。ハデス卿もたぶん。でも、あなたはご自分でそれをわかっていると?」
「それは……私は……」
 愛する者だけは生き返らせることのできない皇帝という存在。
 その皇帝のために、何故愛する者の死が必要なのか?
 幸せならそれでいいではないかと人は言う。救えるだけのものを救える力があれば。
 ――本当に?
「私は、私の存在はたぶん――」
 シェリダンには考えていることがある。彼であるからこそそうだと考えている世界の真実。いや、むしろそれ自体がシェリダンを形づくっていると考えても過言ではない。それはヴァンピルの眷属になれというロゼウスの誘いも頑なに拒否させるもの。
 そしてそれは、教えられて理解できるようなものではない。
 言葉では伝えられないそれを伝えるために、ロゼウスにとって自分の死が必要なのだろうとシェリダンは考えていた。昨夜のやりとりがあれば尚更だ。
「シェリダン王?」
「……全てわかるだろう。私が死んだら」
 言外にここで教えるつもりはないと匂わせる発言に、ジャスパーが不快げに眉を潜めた。
 しかしそれ以上の追求はせず、仕方なしと言った体で話題を変えた。
「では、死に行く人に対してせめてもの救いとして――噛んでさしあげましょうか?」
「……お前もロゼウスと同じことを言うのか? 私にヴァンピルになれと?」
「すでに兄様ご本人が打診済みでしたか」
「ああ」
「そしてあなたは、それを断った」
「……ああ」
 ジャスパーが馬鹿にするような目つきでシェリダンを見る。大きな瞳をすっと細めるが、しかし何をからかうでもなく平然とまた同じ言葉を続けた。
「では、せめて《噛んで》あげましょうか」
「おい、だから私は」
 繰り返すことそれ自体でからかっているのかと眉根を寄せたシェリダンに対し、ジャスパーは案外に真面目な表情で説明を付け加えた。
「そっちではありません。吸血鬼化の方ではなくて」
「では何だ?」
「吸血鬼の牙で噛んであげましょうか? 僕たちヴァンピルの牙には毒が入っていてそれが麻酔や媚薬の効果も果たしますから。ただちょっと加減を間違えるとそのまま死」
「よし結構だありがとう気持ちだけ受け取っておく」
 いらん、と一言言えば済むものをさらりと笑顔で受け流したシェリダンにジャスパーが冷めた目を向ける。
「ま……その毒で麻酔をかけてしまうと剣を振るう動きのほうも鈍くなるので不都合と言えば不都合ですが」
「だったら最初から言うな」
 ジャスパーは彼なりにシェリダンを気遣っているのかもしれないが、どうもその気の遣いかたがずれているような気がする。
「……痛いのは、嫌でしょう?」
 しかし直後にぽつりと呟かれた言葉は、これまでの不敵な態度とはまた違った意味でシェリダンの胸を衝いた。
「苦しいのはお嫌でしょう?」
「お前は私がどうやって死ぬのかまで知っているのか?」
「知りません。でも、即死できるという可能性があるかどうかもわかりませんから」
「……ロゼウスは私を殺したくないと言って泣いた。何故あれが私を殺すことになるんだ?」
 シェリダンに死んでほしくないと、死人返りの術まで用いて運命を曲げようとしたロゼウス。あの様子が嘘だとは全く思えないのに、確かにロゼウスはシェリダンを「殺す」のだという。ただシェリダンが死ぬというのではなく。
あと数時間で、一体何が起こるとその予言が成就するのだろう。
「人生なんて一寸先は闇。それこそ何があるかわからないものですよ」
「お前は本当に私より年下なのか? その台詞」
 ハデスの予言は肝心なところを教えてはくれなかった。故意に伏せているのではなく預言者である彼本人にもわからないのだという。
 その言葉だけが、覚悟を決めた心に一点の染みのような不安を広げていく。