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「シェリダン」
ロザリーとの会話を終えたらしいロゼウスがシェリダンの方へと戻って来た。
兄の気配を察したジャスパーは心得た様子でそっと二人の側を離れる。
「ロゼウス。ロザリーとの話はもういいのか?」
「うん。大切なお願いはもう終わったよ。もう……準備は、万端だから」
そう言いながらもロゼウスの顔は晴れない。むしろ台詞の後半になるにつれて、明らかにその表情が沈んでいく。
準備は万端。ドラクルたちを迎え撃つという意味においてそれは正しい。
しかし、その戦いの中でシェリダンを失う覚悟がついたかと言えば、それは永遠にない。心の準備は万端ではない。
「泣いても笑ってもこれが最後だぞ」
「泣きたくなんか、ないよ」
「ロゼウス」
シェリダンが手を伸ばした。ロゼウスは自らの頬に伸ばされたその手を取り、そっと自らの手を重ね合わせる。
今しも零れ落ちそうな涙を堪えて瞳を閉じる。寄せる眉根、伏せられた睫毛、白い面に憂いの表情。
自らの手を取り沈黙するロゼウスの様子に、真正面からそれを見つめながらシェリダンは胸の奥を疼かせる。
このまま別れたくなどない。何に代えても一緒にいたいという想いは炎のように熱く、胸の内で燻っている。
それを彼が口に出しても、一度決めたことを曲げるのは無責任だと言う者はいないだろう。ロゼウスもジャスパーもハデスも。事情を聞けばロザリーもローラもエチエンヌもリチャードもたぶん、シェリダンを責める事はないはずだ。
恐ろしい運命を変える事は難しい。だが、恐ろしさに負けて逃げることは簡単だ。逃げるならばそれでもいいと、彼らは言う。
「……ロゼウス」
「シェリダン」
逃げたいなら、逃げるならばそれでもいいと彼らは言う、それでも。
シェリダンは微笑んだ。
「これだけは言っておく。私はお前に会えてよかった。お前に対しては優しくした覚えなどほとんどない。初対面から酷いことをしてばかり……勝手だと罵られても仕方がない。それでも私はお前に会えてよかった」
「私は」を強調し、シェリダンは更に言葉を続ける。満面の笑みは次第に苦味走る。
「この先どんなことがあっても、私がお前を恨むことはない」
「シェリダン!」
ロゼウスの叫びが広間中に響いた。二人に気を遣って少し離れていた場所で話していたロザリーやローラたちも思わず彼らを振り返る。
「だから、そんな顔をするな」
「でも、でも俺は……」
「私は後悔しない。後悔をしないように今まで生きてきた。もしもそれで胸が痛むなら、その痛みは私が当然受け入れるべきものだということ」
傷ついても、傷つけても、幾度転んでもその時その一瞬の最上の道を。
これまでも自らの意志で戦い続ける道を選び取ってきたのだ。ぬるま湯の安寧に浸ろうと思えば浸れたはずの立場にありながら。
「私はシェリダン=ヴラド=エヴェルシード。それ以上でも以下でもない。それにどんな意味がなくとも、私は私として《今》、ここにある」
逃げようと思えば逃げられたはずだ。
エヴェルシード。その名の持つ重み、シェリダン=エヴェルシードという名の重みから。
だけど逃げない。
「私はお前を愛したこと、後悔することはない」
私が選んだ大地は《ここ》にある。
「この命がお前の礎として朽ち果てるのであれば、後悔しない」
「幾つも重ね続けた罪をお前に裁かれるのであれば、怖くはない」
「本来恨むべき出生もこの宿命も、意味を与えてくれたのはお前だ。お前に出会うためにここにこうして生まれてきたのであれば、そのために定められた死に向かうことなど怖くはない」
「ありがとう、ロゼウス。私に命を、生きる意味を、生まれてきた意味を与えてくれて」
お前に出会うために生まれてきた。
例えそれが《神》などという存在の思惑の上、誰かに踊らされる駒としての役割であったとしても。
母親殺しのこの命が、生まれてきただけで罪となったこの存在が、お前の糧となるのであれば満足だ。
「シェリダン……」
頬に触れていた手をシェリダンがそっとどける。やんわりと手を払われたロゼウスが所在投げに宙に浮かせていたのをもう一度取り、今度は両手を繋ぐ。
朱金と深紅、二つの視線が一瞬だけ強く絡み合い、離れるのではなく瞼を閉じる。
「お前を、お前だけを永遠に愛している」
そして僅かに俯いて、僅かに仰のいたロゼウスに口づけた。
この接吻は別れの証。同じ室内にいる者たちが軒並みぎょっとしているのがわかる。
だが、ここでしておかなければもう、この後の自分たちに共に過ごす未来はない。
どんなに覚悟を決めたと口では言いながらも、それを思うたびに胸を疼かせる痛みを無理矢理喉の奥で飲み干した。
「……そろそろ来るよ」
ハデスの言葉にハッとして彼らは部屋の中央を振り返った。表情を引き締めて、各々自分の得物に手をかけて来る敵を待ち受ける。
「……始まるんだ」
彼らの「物語」の終わりが。
◆◆◆◆◆
豪奢な黒と紅と金の宮殿で、蝋燭の炎が最後の輝きを放つ。飾りたてられた謁見の間では、六人の人物が顔を合わせていた。
「ジェイド=クレイヴァ、フォレット=カラーシュ、ダリア=ラナ」
「は」
玉座に座っていたドラクルは同じ室内に並んだ顔ぶれを見回す。
今日で最後となるこの玉座に座り、謁見の間では国王ドラクル=ローゼンティアの名において青年が命じる。
「お前たちはこの国に残り、ローゼンティアを守れ」
「陛下!」
「この機に他国に侵略されぬとも限らぬし、何よりまず民衆の暴動を鎮静化するのが先決だ。それらの一切を、お前たちに任せる」
「待ってくださいドラクル様! わたくしたちは!」
「ロゼウス王子との決戦に私たちは連れて行ってはくださらないのですか!?」
ドラクルから直々に国に残るよう命じられた三人の貴族はこぞって口を開く。ドラクルの忠臣である彼らはローゼンティアを愛しているが、それ以上に主君であるドラクルを敬愛している。
それはこの一年ロゼウスとの対峙のたびにドラクルが神経をすり減らし、病んでいった今でも変わらない。
先日の騒ぎでは国の四方を守護している間にロゼウスを奪われ、アンとヘンリーが暴動の鎮静化のために命を落としたと知った時も彼らは悲痛な表情を見せた。彼らはドラクルの忠臣でありながら、最後の戦いには連れて行ってはもらえない。
「アウグスト」
「はい」
「お前は来るか?」
「ええ。私の命は、陛下、あなたに救われたその瞬間からあなたのものです。あなたのために生き、あなたのために死にます」
部下たちの中ではただ一人同行を許されたカルデール公爵アウグストが三人の貴族の前に進み出る。
「カルデール……!」
「お三方、国を頼みます。あなた方がいればこそ、こちらも安心して国を空けられるというものですよ」
「だがお前は」
「どうせここに残っても、私にはもう守るべきものなどない」
かつての親友であったヘンリーは死んだ。
「私に残されたのはドラクル陛下だけだ」
だから最後まで共に。無言の言葉を確かに聞き取り室内には沈黙が訪れる。
「……ルース」
「はい、兄上」
「ロゼウスたちは確かに皇帝領にいるのだな」
「ええ。今頃は準備万端用意を整えて、私たちが向かうのを待ち構えているでしょう」
「そうか……では」
決着をつけに行こう。
「国を頼んだぞ、ジェイド、フォレット、ダリア」
「ドラクル様」
「私以外の者がここに戻って来ても、お前たちはその者によく仕えよ。ローゼンティアを頼む」
「陛下!」
未練の一つもその所作に感じさせず玉座から立ち上がり謁見の間を後にするドラクルの後姿に向けて、ジェイドたちは声を限りに叫ぶ。
「わたくしたちの主はあなただけです!」
「必ずお戻りくださいませ!」
必死に呼びかける声に、振り向かないままドラクルは口元だけで微笑んだ。彼らはきっと、あのままドラクルが父王に反逆せず廃嫡の憂き目にあいヴラディスラフ大公爵として貶められたとしても、それでもついてきてくれたのだろう。そんなことを一瞬だけ夢想する。
でもすぐに想像を振り払った。ひとは過去には戻れない。
己の選択と行動を起こした結果を受け入れて責任はとらねばならない。
誰かを破滅させるために動いた者は、やはりまた誰かの手によって破滅させられるものだ。
そしてそれこそが、ドラクル=ローゼンティアの選んだ道。
相手は皇帝。勝てないとわかっていても戦うのだ。死ぬとわかっていても、その道を進むのだ。
自らの出生すら偽りで、全てが嘘にまみれて生きた人生だった。ロゼウスとの兄弟ごっこも滑稽で、だけど彼を欲しいと思う気持ちだけが本当だった。
全てが偽りである中から生まれた、この手で生み出した唯一の物。それが悲劇であっても、ドラクルはそれを抱いて生きて行くのだ。
城の外ではプロセルピナが待っている。白い肌を漆黒の衣装に包んだ黒髪に黒い瞳の彼女は暗い夜に埋もれそうに佇んでいる。
「プロセルピナ姫」
名を呼ぶと白い横顔がゆっくりとこちらを向いた。
「あら、ドラクル王」
「もう王ではない」
「そう。それで、準備はできた?」
ドラクルは頷く。彼の背後には影のようにつき従うルースとアウグストがいる。
それ以外は、全て国に置いてきた。
手に入らないのであればどんなに傷つけても構わないとばかりに一度は滅ぼした国。でも、愛していた。祖国を。
自分を本当の意味では愛してくれなかった国王――偽りの父親も。
今となっては詮無い話だ。
「さぁ、行きましょう」
「ああ」
この舞台の幕を引くのは、自分だ。
◆◆◆◆◆
あの頃は信じていた。
それでも、それでも世界はそんなに残酷なものではないのだと。
いつも穏やかで幸せで、そんな人生を送るのは無理かもしれない。それでも努力した者はそれだけ報われ、優しい想いは必ず相手に伝わるものだと。
どんなに無慈悲な悲劇の中にも、必ず救いは見いだせるはず。たった一つの希望の光があれば、人は生きていける。
生とはこの世の喜びである、と。
信じていた。
愚かにも、信じていた。
《続く》