荊の墓標 46

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 ロゼウスの目の前には当然の如くドラクルがいる。
「……兄様」
 決戦を覚悟しながらもやはり顔からは苦渋を消せず、ロゼウスは眉根を寄せたまま兄と、否、十七年間兄だと思っていた男と対峙する。
 心の中では今も、彼のことを自分の兄だと思っている。
 目の前にいる男は、記憶の中の兄より多少やつれたようだ。いや、ついこの前、ローゼンティアにいた時からそうだったのだろう。あの時はロゼウスも自分のことで精一杯でドラクルの様子を窺うゆとりなどなかったが、そういえば顎のラインが多少鋭くなった気がする。
 見事な白銀の髪もだいぶ艶をなくし、気だるげに頬を縁取っている。目元に隈まで見えるのは気のせいだろうか。顔色が悪く見えるのは、ヴァンピルの特徴の一つだ。
 それでも彼の顔立ち自体は、常と変わらず美しい。
 あまりにもロゼウスに、ローゼンティア先王ブラムスに、その弟ヴラディスラフ大公フリップに似すぎているその顔。例え世界一の醜男であろうと、その顔さえなければ彼の道はこんなにも歪むことはなかっただろうに。
「ロゼウス。お前はやはり私の言う事に従わないのか」
 体格に見合った大振りの剣を抜き放ち、ドラクルはその切っ先をロゼウスへと向ける。しかし問答無用で斬りかかってくる気はないらしく、敵意を向けながらも薄い笑みを浮かべて、ロゼウスを詰る。
 弟として教育するように命じられたロゼウスを言葉で責め苛むのは、これまでの彼の常套手段だった。
「お前が私の道を塞がなければ、私を破滅へと追いやらねば、こんな戦いはせずにすんだのにな。なぁ、『私の』可愛いロゼウス。今からでも遅くはない。投降しないか?」
 緩く微笑む目元にはゆらりと狂気の陽炎が覗いている。そんな兄の姿を真正面から眺めて、ロゼウスは首を横に振った。
 拒否の仕草にも関わらず、ドラクルはなおもロゼウスを懐柔しようと言葉を重ねる。
「お前は私のものだ。ずっとそうなるように育ててきた。私の言う事を何でも良く聞く可愛い『弟』。お前だって私のためならばなんでもできると言っていただろう」
「……うん」
 ロゼウスもその質問には頷かざるを得ない。
「うん、言ったよ、兄様。俺は兄様のためならなんでもするって」
 ロゼウスはいまだ剣に手をかけてはいない。素手のままドラクルと対峙している。彼の方も剣だけは構えたものの、まだ動く様子はない。
 自分よりも背の高い『兄』を自然体で見上げるロゼウスの顔つきは悲しげだ。
「俺はあなたの弟でありたかった。あなたに愛されたかった。どんなにあなたに酷いことをされても、あなたを嫌えなかった」
 ドラクルがロゼウスに対して振るったのはただ単純な暴力だけではない。心を矜持を粉々に砕くような屈辱的なことも、本人にしか痛みとわからないようなこともされた。
 ドラクル自身が養父ブラムス王から散々痛めつけられたとはいえ、それを何も知らないロゼウスにぶつけるのはお門違いだ。しかし彼はブラムスに受けた分だけの屈辱を、それ以上の苦しみをロゼウスに与えた。
 飴と鞭を使い分け、散々打ちつけて泣かせた末に殊更優しい言葉を囁いてロゼウスの心を揺らした。ぐらぐらと揺れるその隙間に自分への依存を育てさせ、ロゼウスがいいように自分の駒として生きるよう調教していた。
 ロゼウスはドラクルの目論見通り、彼がいなければ生きていけない精神的に脆弱な少年に育った。何かあればすぐにドラクルに助けを求める。助けてくれないとわかっている兄に、必死で手を伸ばして、救われずに打ちのめされてはまた縋るのを繰り返した。
 これまでは。
「あなたを愛してい《た》」
 ロゼウスの唇から零れた過去形にドラクルはぴくりと眉を歪める。
「兄様、あなたを愛していた。愛していたから、あなたに傷つけられても我慢できた。愛していたから、あなたに愛されたくてなんでもした」
 無茶な要求に身も心も切り刻まれて、それでも構わなかった。血を流す自分の心に蓋をして、涙の湖に溺れそうになっても気がつかずにいた。
 愛している。そんな言葉で誤魔化した。自分を。
 そしてドラクルを。
「ドラクル……俺はあなたを愛していたよ。愛していたと、そう思っていた。でも」
 今となってはもうわからない。
 シェリダンと出会ってしまった今では。
「ねぇ、兄様。一番はじまりのことを思い出したよ。俺がこれはできない、嫌だと言うたびにあなたは俺を殴った」
 愛している、愛している、愛している。
 実の兄へ向けるには禁じられた想いを、呪文のようにそれでも繰り返したのには理由があった。
「俺とあなたの関係の一番のはじまりは、俺はあなたにもうこれ以上殴られたくなくて、それであなたの言う事を聞いていたんだ。怖かったんだ、兄様のこと」
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
 ――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 腕力では到底敵わない一回り年上の兄に、暗い部屋に引きずり込まれ、服を剥かれて裸の身体に他の者に気づかれないよう乱暴されるのは酷く怖かった。
「あなたに殴られるのが怖くて、それで言う事を聞いたんだよ。動物が鞭打たれるのを嫌って人間の言う事を聞くようになるように。でも、それだけじゃ自分の心がもたないってわかっていたから、だからあなたへの服従心に愛情と言う名前をつけて誤魔化した」
 兄は自分を愛しているからこんなことをするのだ。そう思わなければ、脆い自分の心を守れなかった。何の理由もなく暴力を振るわれ、心と身体を引き裂かれることに精神が耐えられなかったのだ。
 そして、ドラクルから自分の望んだ形でその苦痛の対価が支払われることを望んだ。
 彼の、「兄」から当然「弟」に向ける愛情が欲しかった。
「あの時、ローゼンティアがエヴェルシードに侵略される前、あなたを殺して自分も死のうとしたのは、見返りが欲しかったから」
自らが払った分だけの感情に見返りを求めることを、真の愛と呼べるだろうか。
 ロゼウスの主観では、ドラクルを愛していた。今も、昔のように激しく歪んだ想いではないけれど……愛している。
 だがそれはただの偽りで、まやかしだ。
「ごめんなさい。好きだよ、ドラクル。でも俺は、本当の《本当》にはあなたを愛してはいなかった」
 相手に見返りを求める愛情なんて、本当の愛じゃない。そういう形の愛情の交感もあるところにはあるのだろうが、だがロゼウスとドラクルに関しては違うのだ。
「好きだよ、兄さん……好きだった」
本当の意味では愛してはいない。
「――だから?」
 ロゼウスの言葉を一言一言聞くたびに捩れていったドラクルの唇が言葉を紡ぐ。
「だから何だと言う。お前が私を愛しているかいないかなど、今更関係ない」
「兄様……」
「見返り? は! そんなもの、私だって最初から求めてやいやしない。私にとっては、お前はただ私に従順な人形でさえあればいいのだ!」
 言い様、ドラクルは剣を勢いよく振り下ろす。ロゼウスも彼の身の丈には似合わないなかなか頑丈な剣を握ってはいるのだが、ドラクルの大剣ほどではない。刃を抜いても受けとめきれないだろうと瞬時に判断して後方に引いた。
「笑わせるな、ロゼウス。私はお前を愛したことなどない」
「ドラクル」
「私にとって、お前はただただ目障りなだけだった。その目障りなお前を逆に効率よく使うために、手なずけようとしただけのこと、お前に言った言葉の全ては、本心などではない。お前の愛情など、私はいらない!」
 語調の激しさとは打って変わって、ドラクルの浮かべる表情は歪み、崩れている。
「私はそんなものなくても生きていける! お前さえここで死ねば!」
 いらないと叫んだ声が、まるで正反対の意味にロゼウスには聞こえた。
 ロゼウスがドラクルを「愛している」として自分を誤魔化し続けてきたように、ひょっとしてこの兄も自分の本心を否定の言葉で隠し続けてきたのではないか?
 いらない、いらないと血を吐くように強く叫びながら、それでもドラクルは、ブラムスからの父としての愛情、クローディアからの母としての愛情、そしてロゼウスからは、本当の弟として自然な愛情を欲していたのではないか?
 だがそのどれも、ドラクルの手には入らなかった。それもロゼウス以外に関しては、彼自身の責任ではないところで。
 望んでも永遠に手に入らないのであれば、壊してしまえばいいのだ。そんなものいらない。自分の世界には必要ないと叫んで。
 叫ぶ声で慟哭しそうな喉が引き攣れる前に、泣き言を握りつぶしていた。
「戯言は終わりだ、ロゼウス」
 ドラクルが再び剣を構えなおす。その大剣に関しては、ロゼウスは彼の部屋でも兵士の訓練場でも武器庫でもなく別の場所で見たことがある。ヴァンピル専用の処刑部屋。アンリを殺した武器と同じように、ドラクルが今持つそれは不死身の魔族の命をも破壊できるものだった。
 本当にこれが最後の戦いなのだ。どちらかが死ねば終わる。どちらかが死なねば、終わらない。
「大人しく私のものになる気がないのであれば、お前だってもういらない。だが、私以外の者に渡すのも癪だ」
 身勝手な台詞を冷めた瞳で吐いて、ドラクルは地を蹴る。
「お前は、お前だけは誰の手にも渡さない! ここで死ぬがいい! ロゼウス=ローゼンティア!!」

 ◆◆◆◆◆

 女性相手に二人がかりは卑怯、などと言っている場合でもない。
「くっ!」
「ちっ!」
 ハデスとシェリダンは同時に攻撃をかわされてそれぞれ舌打ちする。プロセルピナは一瞬間に反撃に転じ、自分たちの攻撃失敗を嘆く間もなくそれを防ぐので精一杯だ。
「ロゼウス王子のほうに行ってあげなくていいの? シェリダン王」
「生憎、奴に関しては私は心配していない。ロゼウスが負けるわけないからな」
「あらあら。じゃあハデスは信用ないということかしら」
「余計なお世話だよ! 姉さん!」
 プロセルピナのからかいに答える形で、ハデスは魔術の刃を放った。光の塊が鋭利な刃物となって宙を駆ける。もちろんプロセルピナにかわされてもその向こうに別の人間がいないのは計算済みだ。
 一つの広間、同じ空間を意識上で四つに区切り戦うのはそう得策でもない。こんな時にはとても不便だ。もっともハデスとプロセルピナが本気で魔術合戦をやりあう気であれば、二人だけ外に移動するなどの方法はあるのだろうが。
 シェリダンと組んでいるハデスの方はともかくとして、プロセルピナにも移動する気はないようだ。
「やはりあなたは私の前に立ちふさがるのね、ハデス」
 背に流れた黒髪を鬱陶しそうに片手で振り払い、プロセルピナが弟に視線を向ける。ハデスとシェリダンの二人を相手にしているとは感じさせない、見るからに余裕の仕草だ。
「何故今頃になって邪魔をするの、姉さん」
 対するハデスは、プロセルピナの一挙手一投足を見逃さぬように真剣な眼差しで彼女を睨んでいる。
「邪魔などしていないわ。私は最初から私の思惑のために動いているもの。何度も裏切り寝返りを繰り返して、自分の立ち位置をはっきりしないのはあなたも同じでしょう」
「姉さんこそ、ロゼウスに味方したりドラクルについたり大層忙しそうじゃないか」
 姉弟は皮肉の言い合いを続ける。今更になって素直な言葉を口にできるほど、もともと可愛げのある性格でもない。
「ハデス。悪い事は言わないわ。あなたはこの戦いから手を引きなさい」
「嫌だね!」
 ハデスが手を振り払うと同時に、光の鞭がその掌から飛び出すようにしてしなり、プロセルピナを狙う。身軽に後方にとびのいた彼女のそれまで立っていた大理石の床が砕かれた。見た目は鞭のようでも、魔力で作り出されたそれの威力は地上に存在する物質での攻撃とは比べ物にならない。
 空振りに終わった弟の攻撃の痕を見下ろし、プロセルピナは冷ややかに尋ねる。
「――勝てると思うの? この私に」
「そんなもの、やってみなければわからない」
 しかし答えたのはハデスではなく、いつの間にかプロセルピナの背後に迫っていたシェリダンだ。
「っ!」
 伊達に長い付き合いではなく、ハデスとシェリダンは魔術と剣と言う手段の違いにも関わらず攻撃の連携がとれている。ハデスの魔術を囮に接近したシェリダンが、プロセルピナの背中を狙う。
 卑怯などとは言っていられない。
「それでも、か……!」
 背後からの一撃に機敏に反応して逃げたプロセルピナの髪の一房が宙に舞う。だがそれだけだった。傷一筋もつけることなく避けられて、シェリダンはもう一度舌打ちする。
「やるわね。エヴェルシード王。この私に気配を悟らせないなんて」
「そちらこそ、私の攻撃を避けるなんてな。さすが元皇帝と言ったところか」
 強がりを言ってはいるが、実際彼らの分は悪い。ハデスの魔術もシェリダンの剣術も人並以上だが、それでもプロセルピナ一人に翻弄されている。
 かつて皇帝として地上に君臨したというのは、それだけの力があるということだ。むしろプロセルピナの今の身体は本来の彼女自身の力に加え、ハデスの魔力をも組み合わせて作られた人形だ。一瞬の油断が命取りとなり、いつ足下をすくわれるかわからない。
「そう、そんなに死期を早めたいの? 二人とも」
「その挑発は無駄だよ、姉さん」
「私の死期など、あなた自身が予言したものだろう。それにあなたは、私を殺す事はできても、ハデスのことは殺せないだろう」
 ちらりと傍らの友人を一瞥してのシェリダンの言葉に、プロセルピナがすっと瞳を細める。
「随分と生意気ね」
「生憎、持って生まれた性分なので。変えることはできないな!」
 軽口を叩く間にも剣の柄を握りなおし、シェリダンは再びプロセルピナに斬りかかる。魔術での攻撃は至近距離であっては効果をなさない。威力が大きければ大きいほど、術を放った本人にもその影響が返ってくるからだ。
 そしてシェリダンの連撃はプロセルピナにその隙間を縫って新たな術を紡ぎ出す時間を与えないものだった。常人は目で追うのも辛いほどに次々と繰り出される切っ先。
 忌々しげな顔でプロセルピナはシェリダンの剣先を避ける。一度かわしたと思えば次はその遠心力を利用して別の角度から攻撃が来る。身の軽さもシェリダンは自信がある。プロセルピナはそれを避けるので精一杯だ。
「シェリダン!」
 適度なところで機を狙ってハデスが魔術での攻撃を放つ。合図に従って後方に飛びのいたシェリダンが巻き添えを食わないような位置で。
 放たれた爆発物の役目を持つ光球、プロセルピナはそれを魔術で作った盾によって受けとめる。
「……今のはちょっと自信あったんだけどな」
 閃光と煙は晴れていく。弱気な顔こそしないものの、ハデスが引きつり笑いを浮かべながら、魔力で全ての爆発を防御して全くの無傷であるプロセルピナを眺めた。二人がかりでもっていまだに彼女に与えられた傷は、シェリダンが斬りおとした黒髪の一房だけだ。
「甘いのよ、二人とも」
 すでに十二分に力を出し切っている二人に対し、プロセルピナは容赦なくそれ以上の力で反撃を加える。
「ぐっ!」
「うわぁあ!」
 広間の逆方向まで蹴り飛ばされ、シェリダンは壁に激突した。ハデスにはその身に絡むような炎の蛇が放たれた。水の防御壁を用意するまでに皮膚のそこかしこが火傷を負う。
「私に勝ちたいのなら、殺す気で来なさい。遠慮しなくていいわよ――私もしないから」
 すでにやっている、と言いたいところだが、プロセルピナには彼らの戦い方などお粗末な、はかない抵抗としかとられないのだろう。あっさりと二人を振り払うと、ヒールの音を床に響かせながら歩き出す。
 目指す先にいるのはシェリダンだ。壁に激突した彼はよろよろとその身を起こす。剣を杖代わりに立ち、痛む身体に鞭打ってもう一度立ち上がった。一度立ち上がればもうそこで先程までの負傷の様子など欠片も見せない。
 どんなに力でねじ伏せても、その瞳はきっと力を失わないのだろう。
「気に入らないわね」
 足を止めたプロセルピナの手に、黒い闇を凝らせたような剣が出現する。
「あなたはどうして怯えないの? もうすぐ死ぬというのに」
 剣士であるシェリダンに対して、プロセルピナもまた剣によって相手をしようというのか。構えを直しながら、シェリダンは彼女を睨みつける。
「死ぬよりも、もっと怖いことがあるからな。私は臆病だから、それが何よりも怖いから……そのくらいなら、ここであなたと戦って朽ち果てる方がマシだ!」
 気合一閃、シェリダンは駆け出し剣を振るう。正統な剣技――と見せかけて、彼は反則技に出た。鋭利な切っ先ではなく伸びてきた生身の腕にプロセルピナは一瞬反応が遅れて、長い髪を掴まれる、無理矢理地面に叩きつけられようとするところで、自らの闇色の剣を振るってシェリダンを引き離した。
「女の命になんてことをしてくれるのよ」
「戦場では男も女もない。そんな鬱陶しい髪型をしている方が悪い」
「言ってくれるわね」
 戦いや決闘というよりは喧嘩の調子、なりふり構わずにシェリダンはプロセルピナに向かっていく。彼女は皇帝ではあったが、その身体は普通の人間と同じ。ロゼウスやドラクルのように不死身で頑強なヴァンピルの肉体ではないのだ。そこに付け入る隙があるはず。
「はあああああ!」
 力で当たれば押し負けることはない。ぎりぎりと刀身を削る鍔迫り合いの末、プロセルピナの手から得物を弾き飛ばす。
「っ!」
「いまだハデス!」
 シェリダンが時間を稼いでいる間に、ハデスはその両手にとっておきの術を練り上げていた。その攻撃範囲から飛びのきながら、シェリダンが叫ぶ。
「あなたはここで果てろ!」
 同時にハデスの手から最大の攻撃呪文が放たれた。直撃した魔力が、プロセルピナもろともその背後の壁を吹き飛ばす――。