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夢を見た。
夢で見た。
忌々しいこの悪夢。夢は望まずとも彼に未来を告げてくる。見たくもない未来を閉じたままの瞼の奥に焼き付ける。逃げようとしても、決して逃れることのできない運命。
「だ、め……」
脇腹から酷く出血して、身体がサァーッと冷たくなる。朦朧とした意識は必死に呼びかける姉の声で一時浮上したが、まだ現状はよくわかっていない。
これは夢か、現か。
今となってはどちらでも同じだった。予言の予知夢で見た恐ろしい未来が現実になる。
「駄目、だ……ドラクル……」
魔力と怪力によって建物の一部を破壊した青年の名を呼ぶ。動かない指先、身体から抜けていく力、それでも滑り落ちる命を繋ぎとめているのは、自分を抱きしめる暖かな温もり。
その温もりではなく、すでに自らの側にはない消え逝こうとしている命に呼びかけるように、ハデスは言葉を紡いだ。
「シェリダン……」
彼が夢の中でずっと見続けていたのは、瓦礫の山に埋もれたその姿。それは今まさにこの状況と一致する。予言が成就してしまう。
割れた床が彼らをも階下の瓦礫の山へと飲み込んだ。
◆◆◆◆◆
建物が崩れていく。
世界で一番優美な建築物、皇帝の居城。
もちろんその全てが灰燼に帰したわけではない。崩れたのは城の全体からすればほんの一画だ。天窓から光の差し込む広間のある一角が、その棟の中央部をぶち抜く形で崩れたのだ。
ドラクルが破壊の力を込めたのは、床の中央よりの一部。いくらヴァンピルである彼の力が強くとも、一人でこの建物を倒壊させるだけの力はない。しかし床を伝わった衝撃は階下へも響き、七階からその下もその下も、最下層まで天井と床が抜ける。
「きゃぁああああ!!」
「うわぁあああああ!!」
悲鳴が響く。この事態を予期していた者もできずに混乱していた者も、落下の浮遊感に本能的な恐れを感じ悲鳴をあげてしまう。
ドラクルがぶち抜いたのは床と天井。衝撃を加えたのも床であり、壁全体ではない。だから建物自体が倒れるというよりもどこまでも床が抜ける形で城は崩落したのだ。
この際、重要なのは各々の立ち位置だった。
広間のあった階の床はほとんど全て抜けてしまっているが、その下の階は遠くになるにつれて、床として残る面積が広くなっている。
床が砕けて宙に投げ出されても、たまたま壁際にいてすぐ下の階に落ちたのであれば瓦礫に打たれる危険も落下の衝撃も少なく、多少の怪我は負っても命は助かる。
事実、ローラ、エチエンヌ、リチャードの三人はそれをすぐに見て取ったロザリーによって五階の残った床へと投げ飛ばされた。きちんと受身をとり、天井が上手い具合に残っている場所で、降って来る瓦礫をやり過ごす。
「痛っ!」
「ね、姉様……」
当のロザリーと、ジャスパーは四階の隅の床に何とか捕まって難を逃れた。大分瓦礫で身体を打ったが、それほど危険な状態ではない。しかし二人とも身体の何箇所かは骨折している。
「ロザリー! ジャスパー王子!」
五階からエチエンヌたちが呼んでくる。
「私たちは大丈夫よ! あんたたちは?」
「僕らも君が庇ってくれたから……でも」
ロザリーが四階から返事を返す。上を見上げて位置を確認すれば、どうもドラクル、ルース、アウグストは六階らしい。心中だのなんだのあれだけ盛大な啖呵を切ったわりには、ちゃっかり一階分落ちたところで留まっている。
ハデスとプロセルピナの姿は見えない。ぎりぎりのところで二人だけ転移したのだろうか。ハデスのあの容態は危険だったので、それも仕方ないかとロザリーは思う。もっともハデスとプロセルピナはその直前まで戦っていた敵同士なのだが。
「ロ、ロザリー」
五階の端からエチエンヌが顔を出す。
「危ないわよ、エチエンヌ。もっと端に寄った方がいいわ。いつそこも崩れるかわかんないんだから」
忠告に従っていったんは顔を引っ込めたエチエンヌだが、その代わりに張り上げた声が降って来る。
この建物は市井の人々の一般的な住居などではなく、皇帝の居城だ。四階と五階、と一口に言うがその距離はかなりある。城の内部と言うのは大概無駄に天井の高いものだ。それが広間のある棟ともなれば尚更だ。
その距離を苦にしない様子で、エチエンヌが再びロザリーに尋ねてくる。
「シェリダン様は! シェリダン様とロゼウスは!?」
床の中央部が砕け崩落した建物の中、問題は各々の立ち位置。
あの二人は、広間のほとんど中央部にいた。
もともとロゼウスは破壊者であるドラクルのすぐ側で戦っていたのだから巻き込まれるのはある意味仕方なかったのだが、シェリダンまでもが駆け出したのはまずかった。
もっともシェリダンがいたのもプロセルピナとハデスの魔術によって床や壁が脆くなっていた一角なので、そこに留まっていたところで命の保証があったかどうかはわからない。現に同じ場所にいたプロセルピナはハデスを抱えて城外へ転移した。
だが、だけど、と胸の奥から警鐘が鳴り響く。
建物のこの崩れ具合、この一階分の高さ。ロザリーたちがいる四階より上に二人がいる様子もなければ、彼女が崩落部分の端ぎりぎりに立って下を除いても、ヴァンピルの視力をもってしても二人の姿が見えない。三階から下はほとんど瓦礫が積まれた山となっていて、暗がりがそこかしこにできている。
ロゼウスとシェリダンの姿は見つからない。
この瓦礫の山……そんな中にいて、命があるものか……。
何とか下に降りられないかと試そうとするロザリーを、背後から別の手が引き止めた。
「待った姉様」
「ジャスパー! 止めないでよ!」
叫んだ瞬間にくらりと来た。ロザリーは誰に何をされたわけでもないのにその場に膝が崩れる。
「あ……え……」
床は中央から崩れているのだ。崩落した箇所ぎりぎりの縁に立っていては危険だと判断したジャスパーが彼女をフロアの端まで引きずっていく。
その引き方に乱暴だと文句をつけたいとロザリーが思った所で、顔をあげた彼女は弟のそれに気づいた。ジャスパーは胸の辺りを押さえている。白いシャツは真っ赤に染まっていた。
「自分の身体見下ろしてみなよ、姉様。そんな怪我で動いたらさすがに僕らでも死ぬよ。ただでさえあなたは落ちる時にあの三人を瓦礫から庇ったでしょう」
言われて見てみれば、ジャスパーだけでなく、ロザリーも全身真っ赤だった。ヴァンピルとして許容量を超えるほどではないが、人間だったらすでに死んでいる。今のロザリーは血が足りなくて貧血状態に陥っているのだ。
「あなたが死んだら、誰がローゼンティア王になるの?」
酷薄な表情をしたジャスパーはロザリーを避難させ、しかし彼自身も諦めきれない様子で階下の瓦礫の山を覗いた。
「兄様……」
ロゼウスが上がって来る様子は、未だない。
◆◆◆◆◆
灰と白、黒と金、赤。
一番多いのは灰色。崩れた石壁、床の内部は全て灰色だ。その中に大理石の白と黒や、部屋の装飾に使われていた金が混じる。
瓦礫、瓦礫、瓦礫の山。
七階から崩れ落ちた床と天井の瓦礫が建物の最下層、底の方へと溜まっている。一階部分はもうほとんど瓦礫に埋もれてしまっていて、歩ける場所がない。
三階と二階の床も崩れてはいるが、ドラクルの放った破壊の力は下の方に行けば行くほど弱くなっていた。従って、三階、二階あたりは砕けずに残った床の面積も相当広く、一部分の瓦礫はそこで食い止められている。しかしやはり一階の天井まで破壊した衝撃だ。建物の最下層まで瓦礫は到達している。
そこに押し流されて落ちて来た者たちも。
「う……」
小さく呻いて、シェリダンは目を開いた。起きようとして身体を動かそうとした瞬間、足に激痛が走る。
「痛ッ!」
呻いて、何とかゆっくりと上半身だけでも起こした彼の身体からぱらぱらと細かな砂粒が振るい落とされる。頭がぐらぐらとして、このまま倒れてしまいそうな自分を鼓舞して、なんとか全身の様子を確認する。
視界が上手く利かないような気がした。こめかみから一筋血が流れているが、こちらはたいしたことはない。問題は別にある。
「足が……」
他の場所は大丈夫だが、右足をやられていた。立てないほどではないが、歩くのは辛いだろう。他には大きな怪我はない。細かな擦り傷と切り傷だけだ。
――何故こんなに軽傷なんだ?
少なくとも七階の高さから落ちて来たにしては、足の傷だけというのは軽すぎる。この高さを落下しただけで死んでもおかしくないのに。
胸のうちに、暗く嫌な予感が沸き起こる。
もっとよく状況を確かめなければ。シェリダンは視線を周囲へと巡らせる。崩れ去り瓦礫の山が天井を突き抜けて――実際には二階の天井が崩れたから瓦礫が積みあがっているのだが――積み重なっている部屋の内装は、確か彼らがいた広間のある棟の一番下、一階のはずだ。出口となる場所は瓦礫に塞がれているが、ここまで来ると破壊の余波も少なく、瓦礫の積みあがり方によって一部床に隙間が出来ている。
白い光が天井から差し込んでいた。
それでも大分崩れたのだろう七階の天窓。そこから光が入り込んでいるのだ。ほとんどが瓦礫に塞がれてしまって見えない空を見上げ、シェリダンは自らのいる場所に微かな光があたっているのを感じる。
こんな絶望的な状況でもその光は全てを慰撫し憎悪の炎を冷ます水のように優しい。光は白い。その白い光に照らし出されて、段々とはっきりしてきた視界が克明に自分が今置かれている状況の明暗を映し出す。
ふと、足下の血だまりに目が行く。血の痕。
自分はそんなに深手を負っていない。
七階から落ちたのに? ただの人間である自分がこんな軽傷ですんだのは何故。
誰のおかげだ?
あの時、駆け出して夢中で手を伸ばした。これからの自分たちを襲う衝撃の予測を上手く立てられなくて、とにかく側にいようと。
足元の大理石の床は、ドラクルの攻撃で簡単に砕けた。体勢を整える暇も、衝撃に備える暇もなくただ濁流に流される木の葉のような無力さで崩落に呑まれた。
飲まれる瞬間、限界まで伸ばしていた、その手は――。
すれちがいそうだった手を、柔らかな手に強く掴まれた。届かないと思っていた距離は、相手の自分の身を投げ出すような努力によって埋められた。
そこから先を覚えていない。
閉じてしまった瞼の奥で薄っすらと感じられた曖昧な記憶。
思い切り抱きしめられて軽減された衝撃、思い切り叩きつけられる前に力の方向を変えるようにして投げ出された。
それをやったのは誰?
自分のものではない血だまりの先。瓦礫に埋もれる細い身体。一目でもう息をしていないのがわかる。
「嘘、だ」
だって死ぬのは、自分のはずだ。
彼こそが、自分を殺すのに。
「どうして……」
何故こんなことになっているのか。血だまりの中で倒れ付すのは、本来自分のはずだったのだ。
シェリダンは呆然として声も出ない。立ち上がりかけた膝がもともとの足の痛みもあって砕ける。ずきずきとした鈍い痛みを足から感じながら、しかし頭の中ではこれは夢ではないのかと思った。
だって、そうでなければ目の前の光景が信じられるはずがない。
白い光があまりにも清らかに照らすその光景は、地獄よりもなお暗い。
「ロゼウス……?」
白い体は瓦礫に挟まれ、横たわっている。全身どこも血に濡れていない場所はない。黒い、血の色が本来目立たないはずのその衣装までもが血に濡れているとわかる。泥で汚れた頬。乱れた髪。
投げ出された白い指先は、ぴくりとも動かない。
「ロゼウス!」
痛む足を引きずって、シェリダンは彼のもとへと歩み寄った。
「ロゼウス! おい、ロゼウス! しっかりしろ!」
聞こえていないのを、聞こえないのを承知で必死で呼びかける。
「目を覚ませ! 死ぬな!」
瓦礫が塵となって埃っぽいこの空気を吸うのは喉に悪い。叫ぶごとに咳き込みそうになるが、シェリダンは自らの喉の痛みなど無視して、必死に倒れ付して動かないロゼウスに対して呼びかける。
身体の上の瓦礫を退かしてやりたいが、シェリダンの力では無理だ。足を負傷している、していないに関わらず、非力な人間程度の生き物が素手でどかすには無理だとわかるほどしっかりとその身体は瓦礫にうずもれてしまっている。
「ロゼウス!」
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
こんなの嘘だ!
ハデスの、プロセルピナの、サライの予言では、シェリダンをロゼウスが殺すのだと言っていた。こんなところで、シェリダンを庇ってロゼウスが死んでいいはずがない。そんなの絶対に認められない。
七階から落下してシェリダンがこの程度の負傷ですんだのは、ロゼウスによって庇われたからだ。その証として、細い身体には幾つも不自然な傷がついている。
ヴァンピルは一度生命活動を停止しても、蘇生の術を他者にかけてもらえれば生き返ることができるのだという。ロゼウスはまだ灰になってはいない。落ち着け、とシェリダンは自分に言い聞かせる。一度死んだはずのアウグストと呼ばれていたあの男がルースの手によってすぐに生き返るのを、自分はこの眼で見たはずではないか。
「誰か! ロザリー! ジャスパー!」
誰でもいい。彼を救ってくれ。ヴァンピルの力があれば救えるのだろう!
周囲に姿の見えない仲間に向かって、シェリダンは声を限りに叫ぶ。しかしその声は、いくら天井を破壊され吹き抜けのようになった建物とはいえ、四階にいるロザリーたちには届かない。
「誰か……」
「う……」
その時、息絶えたかに見えたロゼウスの身体がわずかに身じろぎした。
「ロゼウス!」
ハッとしてシェリダンはロゼウスの方へと視線を戻す。これまで微動だにせず、てっきり死んでいるものだと思われたロゼウスが白い瞼を震わせている。ぱらぱらと砂粒がその頬から落ちる。
シェリダンは慌ててロゼウスの、投げ出された細い手を握った。血が流れすぎて冷たい、手。だが生きている。
――生きている?
ふと違和感を覚え、シェリダンは自分がつかんでいたロゼウスの手を握りなおす。違和感とは脈拍だった。焦りのあまり少々きついぐらいに手首を握ってしまったのに、脈拍がまったく感じられない。脈が弱く回数が少なくなっているから気づかないのかとも思ったが、違う。これは……。
「脈がない?」
吸血鬼は死ぬ。死んで蘇る。その姿はもともと、薔薇の魔力にて蘇った、動く死体。
訝りに眉を潜めていたシェリダンの注意は脈のない手首に向いていた。視線は先程瞼を震わせていたロゼウスの顔からそれていた。その一瞬の隙に、それは起こった。
「え……」
警戒も何もない、無防備な胸部を斜めに切り裂かれてシェリダンは事態を理解せぬまま、瓦礫の埋もれていない開けた空間の中央あたりに弾き飛ばされた。
何が起こったのかわからない。困惑の一瞬の後に、焼け付くような痛みが襲ってきた。
「な、何故……」
身体の上に被さっている、人間の男なら大人四人がかりでも持ち運べないような瓦礫を軽々と持ち上げて退かし、ロゼウスが立ち上がった。
シェリダンの胸を切り裂いた手の爪から血を滴らせながら。
「ロゼウス……?」
血に濡れた爪をぺろりと舌で舐める。その姿は、ロゼウスではなかった。