荊の墓標 46

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「ロゼウス! どうした!? 私だ!」
 シェリダンの必死の呼びかけも虚しく、ロゼウスはまたもや腕を伸ばし彼に掴みかかってきた。その身体のどこにそんな力があるのかと思う腕力で、シェリダンの身体を地面に押し付ける。
 足を痛めているシェリダンは逃げられない。もともとこの場所といい本来の体力の違いといい、逃げられるものでもない。
 しかし、それはロゼウスにとっても同じではないだろうか。むしろ足だけ重傷のシェリダンよりも、全身を瓦礫に強かに打たれ、少年一人の体内から流れ出したものとは到底信じられない量の血を流したロゼウスの方がよほど重傷のはずだ。
 先程まではロゼウスは動けなかったはずだ。死んでいるのだとシェリダンは思った。なのに今は、化物並みの力を発揮している。
「くっ!」
 つかみかかってくる細い手を何とか引き剥がそうと試み、シェリダンは失敗する。今のロゼウスは強すぎる。ヴァンピルという一族は普段どれだけその力を人間世界での生活用に合わせて押さえ込んでいるのか、拷問用の万力もかくやという怪力だ。
「あああ、あ!」
 ロゼウスの手につかまれた右腕が砕ける。折れるのではなく砕かれる激痛に、目の前が真っ赤に染まる。
 ロゼウスにはシェリダンの言葉もその悲鳴も、何もかもが届いていない。見つめたその視線は無機物を見るかのように冷たく、虚ろだ。
 痛みを堪えながらその様子を盗み見て、ふとシェリダンはそれに近いものを思い出す。あの時とはまた状況が違うが、これは――。
 ヴァンピルの失血症状。普通の生き物より多量の血を必要とするヴァンピルは、一定量の血を失うと飢餓状態に陥り自我が薄れて身体能力の制御を失い、吸血鬼本来の破壊と殺戮衝動に身を任せるようになる。
 ローゼンティアの吸血鬼は魔族。
 人の生き血を啜り、肉を食らう忌まわしき化物。
 まだ出会って間もなかった頃、そう、あれは確かエヴェルシードの下町の酒場、シェリダンの叔父であるフリッツの経営する『炎の鳥と紅い花亭』での出来事だ。自らに血を飲むことを禁じることを課し、エヴェルシードに潜入したロザリー。彼女が極度の飢餓状態に陥り、暴走してあたり構わず破壊した。
 吸血鬼はその名の通り、血によって生きている。身体の中を流れる血が足りなくなると彼らの中で、魔物としての生存本能が目覚めるのだ。本来その身体に秘められた強大な力とは正反対に平穏を好むはずのヴァンピルたちが、目にする生き物全てに襲い掛かり、その肉体を千路に引き裂いて溢れた血を啜るようになる――。
 血を失うと、吸血鬼は狂う。
 わかっていた、これまで何度も言葉では聞いたはずの事柄を、シェリダンは真には理解していなかった。
 なまじロゼウスは力のある吸血鬼であって、己の理性を簡単には失わないよう普段なら加減ができる。他の吸血鬼たちのようにそう簡単に狂う事はない。普通なら。
 それが仇となった。
「ロ、ゼウス……」
 右腕の激痛もまだ治まらないままのシェリダンに、ロゼウスはふいと身を寄せる。上着を無理矢理引っ張るようにして左の首筋をあらわにさせると、口づけでもするように唇をあてた。
「あ……」
 いつもは隠している吸血鬼の牙が、シェリダンの首筋に埋まる。
 その瞬間、シェリダンはがくりと己の身体から力が抜けていくのを感じた。
 反射的に思い出されたのは、決戦前のジャスパーとの会話だ。
 ――吸血鬼の牙で噛んであげましょうか? 僕たちヴァンピルの牙には毒が入っていてそれが麻酔や媚薬の効果も果たしますから。
 あの時は特に気にも留めず流してしまったのだが、よくよく考えてみればそれは恐ろしいことだ。
 一般的に毒を持つ虫というのは、その毒によって獲物や外敵の動きを止めるのが目的だ。そして動けなくなった獲物をゆっくりと喰らい尽くす。蝙蝠など血を吸う生き物は相手が暴れて動かれると面倒であるから、痛みを感じないように麻酔を流し込むのではなかったか。
 シェリダンの身体からも、今は力が抜けていく。力が抜けるというよりもこれは麻酔のせいで動けなくなっているのだろう。
 この後ゆっくりと、この身を喰らうために。
「ロゼウス……」
 首筋からロゼウスが血を吸う。これまで首筋に牙を立てて彼がシェリダンの血を吸ったことはない。
 それは獲物を喰らうための本気の吸血行為、相手を殺すためにしか使わない方法だと。
 吸血鬼と人間はどんなに似たような姿形をしていても、所詮は捕食―被食関係なのだ。食うものと食われるもの。
 猫と鼠のように。
 窮鼠猫を噛むと言う言葉もあるが今の鼠にはそんな力はなかった。ゆっくりと体内に注ぎ込まれた毒によって動けなくなり、喰らわれるだけ。
「ロ、ロゼウス……」
 シェリダンはもうほとんど痛みを感じない。身体は動かず、ロゼウスの胸に預けるような形となる。それが少しだけ癪で、最後の意地で動かした腕を彼の背に回して抱きしめた。
「愛している、ロゼウス」
 骨を砕かれた右腕の激痛も、痛めた足も、もう何も感じない。
「愛している」
 ただ、自らの身体から血が失われていくのがわかる。
 流石に体中の血を吸われてからからのミイラになるのは嫌だな、と思い始めたところだった。口を大きく開けたロゼウスが、新たに首筋に牙を立てる。そのまま血を吸うのではなく、肩までの肉ごと噛み千切った。
「……ッ!」
 痛みはないが、そのおぞましい感覚だけは伝わってきてシェリダンは思わず息を呑む。
 ああ、そうだった。ローゼンティアの吸血鬼とは本来、血を吸うだけではなく屍食鬼と呼ばれる化物に近い。
 血を吸うだけではなく、死体までも喰らうのだ。
 死体だけでなく、生きた人間まで食うことができるという証明はこの通りだ。
 肉を食いちぎり、骨を齧りとり響く、咀嚼の音。真っ赤になった口が動き、上下する白い喉首に自らの身体の一部が今まさに飲み込まれていくのがわかる。
ロゼウス本人の意識はまだ戻らず、吸血鬼の本能だけで彼はただ動いているのだろう。まだ脈は戻っていないようだ。
 これまで全く、そこに至るまでの経緯がつかめなかったハデスの予言。
 命懸けでシェリダンを庇うロゼウスが、自らの手でシェリダンを殺すなどとは当人たちも信じられなかった。
 だが確かにロゼウスはシェリダンを殺す。
 このまま、自らの糧として食い殺す。
 抗う術はシェリダンにはない。
 ロゼウスの一口ごとに、ごっそりと欠けていく自らの身体。生きながらにして愛する者に食い殺される。
 しかし最後までそのままであるはずがない。身体を全て食われるのと、ロゼウスが正気を取り戻すのと、シェリダンが死ぬのとどれが早いのだろう。
 シェリダンは身体を支えていられなくなり、いまだ虚ろな瞳をしたままのロゼウスも彼を抱きしめた形は面倒だと、その身体を床に引きずり倒す。
 浅ましい獣そのままに、ロゼウスはシェリダンの身体に馬乗りになる。にいと笑った口元が舌なめずりする。本人の意志ではないとはいえ、あまりにも残酷なその笑顔。
 その顔をかつての彼の微笑みに重ねながら、シェリダンの視界が黒く濁っていく。限界が近い。
 最期に唇が動いて、何事か小さく囁いた。
 ガツガツと響く咀嚼の音を聞きながら、自らのその身を喰われながら、シェリダンはゆっくりと目を閉じる――。

 ◆◆◆◆◆

 初めて彼を見て、一番に惹かれたのはあの瞳だった。
 極上のピジョン・ブラッドの宝玉のような、深紅。深い深い血の色は、いつも懐かしさと同時に厭わしさを植えつける。
 あまりにも激しく暗い、その瞳に惹かれた。これまで見た事もない美しい少年からは、自分と同じものを感じた。
 紡ぐ未来を持たない、虚ろな夢。
 硝子球の双眸の先にそれがあった。だから、道連れにちょうど良いと感じた。あれだけ美しければ、自分の隣に並べておくのに誰もが納得する。
 私の破滅への道標。
 シェリダンにとって、ロゼウスはそういう存在だ。そういう存在であっ「た」。
 しかし心などいらない人形だと思って連れ帰ったのは、いまだ未熟な魂を抱えて傷つくだけ傷ついた少年だった。自分も傷だらけの心から血を流しながら、シェリダンに言葉をかけた。
 ―― 一緒に堕ちてやる。
 破滅の道を進む彼を引き止めるのではなく、ただ共に在る、と。
 傷を癒す事はできない。そんなことはもとよりしない。ただ痛い場所に手を当てて、血が流れぬようずっと押さえている。あれだけの才能を持ちながら決定的に不器用なロゼウスが選んだのは、いつもそういう道だった。
 馬鹿だな、と思った。
 ずるい、と思った。
 ひとの持つ醜さ、薄暗い慾望を何一つ持たず、手慰みに甚振られるのを待つ愛玩人形。けれど彼はいつだって綺麗なままだ。人を殺しても、それは降りかかる火の粉を払っただけ。彼自身が己の恨み憎しみに囚われて力を振るうのを見た事がない。
 それは一つのあまりにも完璧な造型。
 愛しく、だけど疎ましかった。その美しさが。
 伸ばす前に差し出す両手を斬りおとされた形の彼は、自分から欲しいものを求めるということを知らなかった。ドラクルに対する愛情だって、一つの取引の形に過ぎない。ロゼウスをいつも与える側の者だと評した、ドラクルの言葉は正しい。
 ひとの醜い欲望から解き放たれて、ただ清廉とそこにある。どんなに醜い欲で陵辱しても、決して汚れはしない。
 生まれながらに、「存在する」と言う名の罪を背負ったシェリダンとは大違いだ。
 シェリダンがロゼウスを求めるようには、彼はシェリダンを求めない。それが、たまらなく悔しかった。一度は諦めようかと思ったこともある。
 所詮最初から自分が彼を求めたのは、破滅への道連れ、ただの人形とするため。人形に心などいらない。心など必要ないと、自分に言い聞かせた。
 だがロゼウスはそのままでシェリダンを放ってはおかなかった。御前試合のあの時、アンリたちの手引きにより、逃げようと思えば逃げられたはずなのに戻って来た。
 どうして。
 何故そこまでしてくれるのか。
 シェリダンはロゼウスに対し、何の救いも与えていない。主君と部下という関係にあるクルスやジュダ、エルジェーベトとも、シェリダンの方に貸しがあるローラたちとも彼は違う。
 無償の愛など、シェリダン=エヴェルシードは信じない。そんなものは存在しない。
 神に縋らない。
 信じないとか、否定するとかそういうものではないのだ。神が存在するかどうかなど、シェリダンにとってはどうでもいい。ただ、全知全能のその存在が目の前に現れたその瞬間であっても、シェリダンは縋らない。
 自分を救うのは自分だけだ。自分が信じるのは自分だけだ。
 その分、責任も負っていく。この一瞬間呼吸するだけで増えていく罪を背負い、それでも真っ直ぐに自らの足で大地に立つ。
 それでいい、それだけだと思っていた。
 なのに、堕ちてこいとロゼウスに願ったことに対し、実際に欲深くなったのは彼よりも自分の方だ。
 本来敵であるはずのロゼウスに、赦されはしないが包み込まれて、もっと彼からのものが欲しくなった。彼が欲しくなった。
 罪を背負って生まれ、罪を生んで消えていくはずだった自分の人生に彼が彩りを与えた。
 一緒にいたかった。
 一緒に生きていたかった。
 切ない泣き顔を浮かべてロゼウスが訴えた言葉の意味も、シェリダンにはよくわかっている。……痛いほどに。
 想いは同じだった。一緒にいたい。
 だが、シェリダンは永遠を信じない。
 神も未来も恒久平和も何もかも彼は信じない。自分のこの目で見て体験したことが全てだ。
 呪われたこの人生、今が一番満たされている。幸福の頂点、ここで命を終えてしまいたいという欲もあった。
 もともといつかは全てを滅ぼすつもりで国王となった。罪のある者もない者も道連れに何もかも壊そうとした。なんてはた迷惑な自殺願望。死への欲求は心のどこかで常に眠っていた。
 自分の死、それがロゼウスの手で、他でもない彼の手で与えられるのであればそれ以上に幸福なことはない。
 お前に裁かれるのであれば怖くはない? 
 嘘だ。本当は裁かれることをこそ、望んでいる。
 ――ハデス、私は……・・。
 ローゼンティアの崖下にハデスともども落ちた時、彼にだけは伝えた言葉がある。やはり馬鹿だ間抜けだ勝手だと罵られた。打算的に近づいてきたはずの彼から今更になってそんな風に言ってもらえる幸福を感じながら、思いを吐露する。
 どうしてもロゼウスの心が手に入らなかったころ、ハデスに尋ねた。どうしても振り向かない相手の心を手に入れるにはどうすればいいのかと。
 殺せばいい。そう、ハデスは言った。殺して自分のものにしてしまえばいい、と。
 そうすれば誰も手に入れられない。自分も触れられないが、他の者だとて相手に触れることはない。誰かに彼を盗られる心配をしなくていい。あの時ドラクルやジャスパーに感じていたような嫉妬をもう覚えずにすむ。
 けれどその認識は、また後に覆される。
 ロゼウスの前世であるシェスラート=ローゼンティア、シェリダンの前世は始皇帝ロゼッテ=エヴェルシード。彼らもまた不思議な因縁の果てに巡り合い、お互い惹かれあったのだという。
 そして最後まで心すれちがった果てに、ロゼッテがシェスラートを殺した。
 シェリダンは普通の人間だ。ロゼウスと違ってそうはっきり、前世の人格に乗っ取られていた時のことを覚えてはいない。
 だが一つだけ、心に刻まれるようにして残っている言葉がある。

 永遠を手に入れたのはお前の方だ。

 愛する者を殺した男は、しかし罪を犯してからその間違いに気づいた。殺せば相手が手に入る? 否、そうではない。殺した方が相手に未来永劫囚われることとなるのだ、と。
 相手を殺しても、相手は自分のものにはならない。
 だが相手に殺されれば、彼は自分のものになるだろうか。
 そうであればいい。
 ロゼウスが私を殺して、このまま永遠に私に束縛されていればいいのに。
 これはつまらない願望だ。妻や夫を何度も取り替える相手だっているのに。
 だからこそ今はこの命をかけて、この幸福の絶頂で全てを終わらせてしまいたいのだ。
 予言された未来は、誰の見た夢だったのだろうか。
 望んだのはこの自分。

 全てを知れば、お前は私を恨むのだろうな……。

 だが実質この状態では自分に他の道は選べないし、またそれが残されていても、シェリダンには己が何度でもこの選択をするという確信がある。
 だから、仕方なかったのだ。そうして彼は愛しい者の背にゆっくりと腕を伸ばして抱きしめ、うっそりと病んだように微笑んだ。
 仕方なかったのだ。頭の中で囁く声がする。
 聖人君子ではない自分は、このことによって彼が傷つき、嘆き、全てに絶望して世界を憎悪したとしてもその心を自分に繋ぎとめる道を選ぶ。
 こうして、卑怯にも永遠を手に入れる。
「愛している、ロゼウス」
 その魂に荊のように絡み付いて離さない。
私を思い出すたびに、お前はその棘に血を流せばいい。流した血の分だけ私を思えばいい。
 決して癒えない傷を抱えながら――。
「愛している」
 だから私を殺しても、お前は生きろ。