荊の墓標 47

第20章 貴方が見た夢(2)

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 ――お前は、俺たちみたいになるなよ。

 優しく、そしてどこか悲しくて寂しそうな声での忠告。ああ、これは誰の言葉だっけ?
 身体が酷く重く、動けない。腹部に何か異物が埋まっている。折れた骨は肺に刺さっているようだ。全身打撲だらけで、腕の感覚もない。足も潰れているだろう。
 意識は朦朧としていて、うまく目を覚ますことができない。誰か俺を起こしてよ。ここは暗くて冷たく、寒い。氷の檻に入れられているみたいに、触れた部分から凍り付いていく。
 誰か助けて。
 この闇から救い出して。
 伸ばした手が目の前のものをすり抜ける感覚ばかりを何度も心の内で繰り返す。何故だろう、どうしても触れられないものがある。
 孤独に飽きて、少し前のことを回想する。こうして冷たい暗い檻で蹲る前、伸ばした手は、確かに彼に触れたはずだ。
 七階の広間の足下の床を、ドラクルが魔力を込めた攻撃によって割る。破壊の爪痕はそこだけに留まらず、広間のあるこの棟を縦断した。床が天井が砕け、瓦礫となって崩落する。
 ロゼウスとシェリダンは、その崩落にものの見事に巻き込まれた。足下が割れ、立っていられなくなる。奈落の底に落ちるように足場が消え、身体は宙へと投げ出された。
 足下に残った一欠けらの瓦礫を蹴り、ロゼウスは無我夢中でシェリダンへと手を伸ばした。彼を抱きかかえるようにして、共に地獄へと堕ちていった。
 正確には、この皇帝の居城の一棟の七階から一階まで。最後の最後に無事な場所を見つけ、そこにシェリダンを放り出した後は覚えていない。頭上から降って来る瓦礫に押しつぶされた気がする。
 あんなに大量の瓦礫を浴びて、普通生きていられるわけがない。きっと自分は死んだのだ。それ自体には何の感慨もなくロゼウスはそう思った。
 ロゼウスは自分自身が再生力の強いヴァンピルだということもあり、自らの生死に関しては執着が希薄だった。死んでもまた生き返ればいいのだ。
 だがその半面、自分たちヴァンピルと違って脆い肉体と一つの命しか持たない人間という存在が時として酷く怖い。彼らは一度死んだら生き返らないのだ。
 一つしか命を持っていないくせに、何故あんなにも強くあれるのか。痛みや喪失や再生を、何度も繰り返していけるのか。
 人間とは不思議だ。彼らと同じような姿をしているのに、決してその実体をロゼウスはつかめない。種族が違ってもドラクルとシェリダンには似たようなものを感じるが、その二人だとて決して同じものではないのだ。
 カミラもローラもエチエンヌも、リチャードやクルスやジュダ、エルジェーベトも。ロゼウスがこれまで出会ってきた人間たちはみな強かった。下手に頑丈な魔族であるためにいざと言うとき、その喪失に耐えられず容易く精神の均衡を崩してしまうローゼンティアのヴァンピルやセルヴォルファスのワーウルフなどよりずっと、彼らは強かった。
 その強さが羨ましく、そして切ない。
 そんなに強くなくてもいいのに。そんなに頑張らずとも、泣いて縋って頼って手をとってくれればいいのに。
 死人返りの術を拒んだシェリダンを見ながら、ロゼウスはまだそう思っていた。先程のやりとりでドラクルはただ生きているだけでは意味がないと言ったけれど、やはり命があるということは重要だ。死んでしまえばそれこそ何も築き上げることはできない。
 それでも結局ロゼウスは、シェリダンに吸血鬼化の魔術を施せなかった。
 いくら剣の腕に優れていても、根本的に非力で脆弱な人間。こちらが少し力を込めれば簡単に死んでしまう存在だと言うのに彼は、その魔術を拒んだ。化物になるくらいならば死ぬとまで言い切った。
 どうしてそんなに強くあろうとするのだろう。
 どうしてそんなに自分を責め続けるのだろう。
 シェリダンは己の生を呪われたものだという。父が母を強姦した。その果てに生まれた子どもはやはり母殺しの呪われた存在だと。
 だがそんなもの、シェリダンの責任ではない。ひとは皆、生まれてくる場所も時代も性別も才能も両親も選ぶ事はできないのだ。シェリダンだって選べるのであれば、王などでなくていいからもっと普通の、ただ暖かな愛情の交換を期待できる一般的な家庭に生まれたかっただろう。
 ひとは誰も、生まれてくる場所を選べないのだ。
 シェリダンが人間に、ロゼウスがヴァンピルとして生まれてきたことを選べないように。
 同じ種族として生まれてくれば、まだもう少し彼の内面を深く理解することがロゼウスにも叶っただろうか。
 最後の最後に拒絶された、それが悲しい。一緒にいたい、ただそれだけなのに。
 例えどんな人生であっても、生きていなければ意味がない。
 だから、崩落に巻き込まれながら落下する彼を必死で庇った。生きていてほしいから。生きていてくれればただそれだけでいいから。
 自分が死ぬのは構わない。けれど彼には死んでほしくない、守りたい。
 その一心で手を伸ばした。他のことは考える余裕はなかった。
 あの瞬間に、ロゼウスはその他全ての大切なものを捨てたのだ。世界よりも家族よりも、シェリダンを選んだ瞬間だった。
 彼以外何も要らない、自分自身の命でさえ必要ない、と。
 愛している。誰よりも、自分よりも。
 その言葉が嘘であれば、ロゼウスはシェリダンを見捨てて自分だけ逃れることができたに違いない。けれどそうはしなかったのだ。
 ――それが悲劇を招くとも知らずに。

 ◆◆◆◆◆

 ガツガツと何かを喰らっている。ぴしゃ、と温かいものが跳ねて頬に飛び散る。
 これまで冷たかった体が、いつの間にか温まっている。酷く凍えていた指先も、もう氷ではない。
 全身に力が行き渡る。生気が漲る。
 しばらくぼんやりと、回らない頭に活力が渡るのを待った。まだ視界にはぼんやりと霞がかかっているようで、次第に正気を取り戻していくに連れて目の前の光景があらわになっていく。白い紗幕を閃かせ取り外したように、視界が鮮明になる。
 ぽた、と何かが垂れた。
 慣れないような、でも馴染み深いような感触にロゼウスはきょとんとする。ようやく理性が戻ってきて、自らの現状に違和感があることに気づき出した。虚ろだった深紅の瞳に正気の光が宿る。
 何か液体のようなものが、自分の顎を伝っている。焦点の合わなかった視線を動かして、この状況を把握しようとする。
 その途中で、それに気づいた。
「――血?」
 もはや鼻が麻痺しているのか今まで意識していなかったが、辺り一帯に血の匂いが充満している。そうと意識したその途端に、口の中にも鉄錆のような血の味が広がった。
 一瞬思考が真っ白になる。再び呆然とする。
 何があった?
 少し離れた場所を眺めていた視線を近くへと持ってくる。
 目に入ったのは紅、紅、紅。大きすぎる血だまりにぎょっとする。心臓が大きく跳ねた。
 そして、自らが覆いかぶさった血だまりの中には『何か』がある。
 この眼で見るのも恐ろしい、何か。
 鮮血の水溜りの中には、手首のない斬りおとされた指だけが浮んでいる。
 その切り口はぎざぎざと歪で、斬ったというよりも獣に噛み千切られたようだ。血の味のする口周りが生暖かい風に乾かされて奇妙に張り付いていく。
「あ……」
 見たくない。知りたくない。
 これは俺がやった? 嘘……。
 胃の中が急に酷く重くなる。全てを吐き出してしまいたくなる。
 がたがたと身体が震えだし、反射的に目を閉じそうになる。
 けれど、現実から逃げるわけにはいかない。
 遥か彼方、七階の天窓のまだ残っている部分から差し込む透明な光が、惨劇の舞台上でスポットライトのように血だまりを照らしている。
 無惨に演出され明らかになるその現場。
 灰色の床を汚す血だまり、その中にまだ残っている、「もの」。
 藍色の髪は一部残っているが、頭蓋は欠けて、その中身まで半分ほど食いちぎられているのが見える。喉首は肩から食われ、頭と胴は離れていた。鎖骨が皮膚を破って突き出している。腕や足はそれぞれ妙な方向を向いていて、途中の肉がない。
 邪魔だと言わんばかりに中心の辺りから両側に剥がされよけられた肋骨。皮だけを残して、血の詰まった臓器だけを漁ったように開かれた胸の奥は空洞だった。
 残った潰れた臓器からとろとろと、もう流出する勢いもなくなった血が惰性のように流れている。
 衣服も原形は残らない。だが残った部分から、それが酷く見慣れた衣装であることはわかる。
 食いちぎられた指の先に、特徴的な朱金を宿した眼球が一つだけ、転がり――。
「あ……」
 涙がロゼウスの瞳に盛り上がり、限界を超えたところで張力を失って頬へと流れていく。粘性の血液を飲んだせいで潤されることはなく逆にからからに渇いた喉が、引き攣れた声をあげる。
「あ、あ……」
 視界に入るものの意味を、そして自らの血まみれた全身と口元の意味を理解した瞬間、取り戻したはずの理性の針がふりきれる。

「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 ◆◆◆◆◆

 この世界で、ただ生きることほど。
 残酷なことが、あるだろうか……?

「ロゼウス! シェリダン! ……ロゼウス!」
「シェリダン様!」
 この場所も安全とは到底言えない。しかし一命は取り留めた形の彼らは、必死で底の見えない奈落を覗き込んで叫び続けていた。
「ロゼウス!」
「兄様!」
「シェリダン様! 返事してください!」
「陛下!」
 幾つもの口から、たった二つの名前。声が嗄れるまで繰り返し繰り返し、叫んだ。
「シェリダン様!」
「ロゼウス!」
 ロザリーやローラたちが叫ぶ上階では、ドラクルたち三人が何をするでもなく身体を休めながら、階下の様子を窺っている。
「ロゼウス王子たちは、死んだのでしょうか……」
 先程自分も一度死んだばかりのアウグストが、誰にともなく尋ねた。答えてくれるような相手と言ってもここにはこの三人しかいない。ドラクル、ルース、そしてアウグスト自身。
「さぁな。この高さから瓦礫と共に落ちて、生きているとも思えないが……ロゼウスだからな」
 ドラクルは髪をかきあげながら、そう口にする。三人とも煤まみれの埃まみれだが、何とか今は生きている。全身くたびれていて、立ち上がる気力もろくにない。ドラクルの剣だけは一応手元にあって、いつでも振るうことのできる状態にしてあるがそれだけだ。
 下の方に殺し損ねたローラやエチエンヌ、リチャードにロザリー、ジャスパーの姿が見えるのだが、ここから降りようとすればそのためにまた第二の崩落が起きて危険ではないかとの危惧があり下手なことはできない。何せロザリーたちも実力者だ。不安定な足場ではあるが、それを考慮して手を抜いて戦えるような生半可な相手ではないのである。
「下に何か見えるか? ルース」
「いいえ、何も。もしかしたらロゼウスたちがいるのかもしれないけれど、瓦礫が邪魔をして見えないわ」
「プロセルピナ姫はどうしたのでしょうね」
「あれは可愛い弟を抱えて雲隠れだろう。もう戻って来ないのではないか?」
 一つの建物を、この棟だけとはいえ破壊する程の力を放ったドラクルはかなり消耗している。今ここでロゼウスが現れて攻撃を仕掛けられたら困るのではあるが、それでも彼はどこか、弟が生きていたら、という考えを捨てきれないようだ。
「ロゼウスが死んでいてほしい? それとも生きていてほしい? ドラクル」
「……何故そんなことを聞く、ルース」
「聞きたいからよ」
 瓦礫に阻まれて見えない最下層の光景を見るように、ルースは奈落を覗き込んでいる。彼らが今いる六階は直接砕かれた階のすぐ下のフロアだけあって、無事な床の面積が少ない。身を乗り出せば今にも落ちてしまいそうだ。
「気をつけろ、落ちるぞ」
「もうすでに一階分落ちたわ」
「そういうことではない」
 ルースにはそう言いながら、ドラクル自身も階下の状況を気にしているのだから似たようなものだ。
 五階のローラ、エチエンヌ、リチャードたちはドラクルたち三人と違って必死だった。
「シェリダン様!」
「シェリダン様、シェリダン様ぁ!!」
 双子は半泣きの状態で、親を求める雛鳥のようにシェリダンの名を呼び続ける。それも無理はなく、彼らの主君はただの人間だ。普通の人間は七階から瓦礫と共に落下して生きていたりしない。
 微かな希望は、ロゼウスが一緒に落ちたということだけだった。彼が一緒であれば、その身でできる限りシェリダンのことを守るだろう。そういう確信はある。
 シェスラートに乗っ取られていた時でも、実の弟であるウィルは殺せてもシェリダンを殺すことはできなかったロゼウスだ。まさかここまで来てシェリダンを救えないなんて、そんなことはないはず。
 彼らはそう信じていた。だってロゼウスは皇帝なのだ。皇帝は全知全能の存在なのだ。そんな存在が、人一人救えないはずはないだろうと。
 信じていた。ただ、ひたすら、祈るように信じていた。主君であるシェリダンの考えが神に縋ることはなくても、彼らは彼のために全身全霊で祈り、縋った。
 どうか、どうか――。
 彼らの下の階層では、また別に祈る者がいる。
「ロゼウス、どうか無事でいて……!」
 何度呼びかけても返事のない状況に、一刻ごとに焦りが募っていく。両手の指を組み合わせたロザリー自身の大怪我は、すでにほとんど回復しているというのに。
 四階までの距離があるとはいえ、ロゼウスもロザリーもヴァンピルである。シェリダンだけならともかく、この吹き抜けとなった建物の中でロゼウスの耳に呼びかける声が届かないはずはないのに、何の返事も聞こえない。
 先程、最下層と思われる遥か下の方で少しだけ何かの……瓦礫の崩れるような音がしたが、それだけだった。
 後は何も、何も聞こえないし、誰かが姿を現す様子もない。
「ロゼウス……シェリダン……」
 ロザリーが震える横では、ジャスパーも厳しい顔つきで階下の暗黒を睨んでいた。
 ロゼウスが皇帝になるという未来がある以上、彼がここで死ぬなど絶対にありえない。だが、この状況で、死を免れない人物も一人だけいる。
「死んで……しまったのですか……?」
 ジャスパーが思わず口にした言葉にロザリーが埃にまみれた華奢な肩をびくりと震わせ、弟をキッと睨みつける。
「縁起でもないこと言わないで! ロゼウスは死なないわよ!」
「そうですね。兄様はこんなところでは死にませんよ」
 ロザリーの言葉に、ジャスパーは淡々と返す。口調は落ち着いているのだが、しかしその表情にこそ不安を煽られるものがあって、ロザリーはジャスパーの表情を窺う。
「ジャスパー……?」
「兄様は死にません、皇帝ですから。だけど、シェリダン王は人間です」
「!」
 努めて考えないようにしていたことを指摘され、ロザリーの顔色がみるみる悪くなる。せっかく回復した体調も、この一言で悪化する勢いだ。
「それって……」
「言葉どおりの意味です」
 駄目かも、しれない。
 瓦礫の向こうを透かし見るようにしながら、ジャスパーはますます厳しい顔つきとなって思う。
 一方、心のどこかではそんな自分を不思議に感じていた。
 ジャスパーにとってシェリダンは、ロゼウスを自分から奪う忌々しい恋敵だ。いなくなってくれた方が間違いなく好都合であり、例え彼が死んだ所で心を痛める必要性などまったくない。
 なのに何故今、こんな風に現実を受け入れがたいような、そんな気分になるのだろう。
二人のヴァンピルが必死で耳を澄まし階下の様子を探っている中、その声は響いた。
「っ、ロゼウス!?」
「兄様?」
 叫び声だった。魂を引き裂かれるような、心の底からの絶叫だ。
 何があったのかとロザリーは目を見開き、見えない最下層に向けて必死で叫ぶ。その声を聞き取って、上の階からはローラやエチエンヌたちも尋ねかけてくる。
「ロザリー!」
「何かあったのですか!?」
「今、ロゼウスの声がしたような――、ッ!?」
 ロザリーが話し終わる前に、階下から建物自体を再び揺らすような轟音が響き渡った。