荊の墓標 47

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 ただでさえ崩壊しかけの建物を、一際大きな衝撃が襲った。
「うわぁ!?」
「きゃあ!」
 彼らは口々に悲鳴をあげ、手近なものに縋りつく。床の端、すでに罅の入っていた箇所がぼろりと崩れ落ちていくのを見て、壁に張り付きながら幾人かはこれまでその場所で階下を覗き込んでいたことを思い青褪めた。
 瓦礫がまた、がら、と崩れ落ちていく。細かい砂粒もぱらぱらと零れるようにして虚空に吸い込まれていった。
「な、何があったの……?」
 不安な顔で自分にしがみつく双子を、リチャードが庇う。ドラクルたちも残り少ない足場にしがみつき、ロザリーとジャスパーもお互いを庇いあうようにして壁に張り付いた。
 結構な衝撃だと感じたのだが、四方の壁が残っているためか、建物は倒壊にまで至らなかった。
 だが実際問題、いつまでもこの場所にいるのは危険だ。移動する手段もないから誰も口に出さないが、皆がそれを知っている。
「一体どうし――」
 言いながら、揺れが収まってきたのを感じたロザリーはほうほうの体で再び床の端、簡単には崩れそうにない場所へと這っていった。下を覗き込むと、灰色の瓦礫の山の上に人影が見える。
 服の色が紅い。だから一瞬、見間違えそうになった。けれどここからでも光を弾く白銀の髪を見て、すぐにそれがもう一人の方だと気づく。
 彼女は兄の名を叫んだ。
「ロゼウス!」
 その声に反応し、階上と階下、両方で反応があった。
「ロゼウス!?」
「お一人だけ? シェリダン様は!?」
「やはり生きていたのか……」
 ローラたちは姿の見えないシェリダンを案じ、ドラクルは姿を見せたロゼウスに対し、忌々しげな舌打ちをする。
「兄様……」
 死んでないとはっきり言い切ったにも関わらずロザリーの傍らにいたジャスパーは無事なロゼウスの姿にやはり安堵したようで、ロザリーもひとまずロゼウスが無事であることに微笑を見せた。
 けれど何か様子がおかしい。
 名を呼ばれたロゼウスは、三階あたりの瓦礫の山の途中に足をかけながらじっと上を見上げている。
 ロザリーの声に反応して顔を上げたものの、言葉を返すでもなく佇んでいる。恐ろしいほどの無表情で、紅い瞳には一見何の感情も浮かんでいないように見える。しかし彼の一番近しい妹であるロザリーは、それが嵐の前触れだということも知っている。ロゼウスがこんな風に黙り込んでいるときは、次にその怒りを爆発させる機会を待っているため。彼の胸のうちには多分、何か良くない感情が燻っているのだ。
 その側に、藍色の髪のもう一人の少年の姿はない。後から瓦礫を這い上がってくる様子もない。
 ロゼウス一人。
 胸騒ぎがした。
「ロゼウス……」
 止まることのない嫌な予感を胸に抱えながら、ロザリーは姿の見えないその少年のことについて兄に尋ねた。
 黒と白だったはずのロゼウスの衣装が真っ赤に染まっている。けれどそれを身に纏う彼自身はしっかりとした足取りでたいした怪我もない様子だ。一度は安堵したはずのその様子に、今度は何故か言葉では言い表せないような不吉な予感を覚えた。
 ロゼウスが負傷している様子がないのであれば、ではその血は誰のものだ?
「シェリダンは……どうしたの?」
 彼女を見上げていた顔を一度伏せ、ロゼウスはそれほど大きくもない声で、しかし彼の登場に一切全ての注意を払っている彼らに聞こえるように言った。

「死んだ」

 世界から音が消えた。
 そんなように彼らは感じた。
 告げるロゼウスの声に、口調に、態度に。
 それが真実だと感じ取る。
「え……」
 ロザリーは我知らず己の声が震えているのに、間抜けな様を晒してからようやく気づいた。
「嘘……」
 彼がここで嘘をつく理由もないと知りながら、何よりロゼウスの様子にそれが真実だと知りながら、ロザリーは尋ね返していた。
「嘘でしょう?」
「……本当だ」
 身体から力が抜ける。足が崩れて立っていられなくなる。
「そんな……」
 そんなのって。
「いやぁああああああああ!!」
 階上でも悲鳴があがった。ロザリーたちより一階上にいるローラの声だ。
「シェリダン様が死んだ? そんな、そんなはずない!」
 否定してどうなるわけでもないというのに、エチエンヌも取り乱してそう叫ぶ。リチャードは呆然と目を瞠り、飛びついてきたローラを抱きしめている。抱きしめる彼の腕は震えている。
「シェリダン様……」
 彼ら三人はもう戦えないだろう、誰が見てもわかった。
「嘘よ! 嘘よそんなの! どうしてそんなこと言うの! あの方が死んだなんて、この目で見なければ私は信じない!」
 しがみついていたリチャードの胸から顔を離し、ローラがあらん限りに叫ぶ。言葉に力があるのであればその力で彼が生き返れといわんばかりに、ロゼウスを嘘つきだと糾弾する。
「死んだと言うのなら証拠を見せて! そうじゃなきゃ信じないから!」
 ローラの威勢の良さとは裏腹に、彼女と同じ顔で対照的な反応を見せたのはエチエンヌだ。がっくりと膝から力が抜け落ちた様子で崩折れている。
「そんな……シェリダン様……」
 放心状態のその白い頬を透明な涙が伝う。ローラのように否定しきることもできず、あまりにも強い衝撃のためにただ涙だけが流れた様子だ。先程からずっと、こんな高さから落ちて普通の人間が生きているはずはないと思っていた彼の不安が現実となってその胸を埋め尽くしてしまった。
「なんであなただけそこにいるの!? どうしてシェリダン様を助けてくれないの!?」
 一方ローラはまだリチャードにその身を抱きしめられたまま、一人その姿を現したロゼウスを責める。
「助けられるはずでしょう! あなたなら!」
 ロゼウスの顔が、ローラの一言一言に歪むのをロザリーは感じた。姿を現した時にも思ったが、やはり今のロゼウスは様子がおかしい。シェリダンを亡くしたのであれば当然だが、それだけではないような気がする。
 一番苦しいはずのロゼウスがローラに責められて、悲しむでもなく更に苦しげにしている。
「ロゼウス、でもとにかく上にあがって――」
「ロザリー」
 果たして何度目か、彼女の言葉はまた遮られた。今度は他の誰でもないロゼウス本人に。
 ロザリー自身もかなりの衝撃でまだ頭が混乱している最中、とにかくこの場をなんとかしなければと意を決して声をかけたのだがロゼウスはそれを気にもとめない。
 以前の彼とはどこか根本的に違うような気がする。
 ロゼウスという存在から何かが欠けてしまった。ロザリーはそう感じた。
「今のうちに避難してくれる?」
 あまりにも穏やかな様子で言われたその言葉に、その違和感の原因を知る。
 こんな状態だと言うのに、ロゼウスは涙を浮かべていなかった。全身を、誰かの――おそらくシェリダンの血で染めた彼は不自然なほど優しく妹に向けて微笑んで、そして彼女たちをやわらかく拒絶する。
「ここは危ないから」
「……ロゼウスは?」
「俺も後で行くよ。――そこにいるドラクルたちを殺したら」
 優しい表情から一転し、ぞっとするほど冷たい表情を浮かべたロゼウスの視線は四階のロザリーを素通りして、六階部分から一部始終を見下ろしていたドラクルへと向けられている。
「ふぅん」
 腕組みをしながら弟の姿を見下ろしたドラクルの瞳にはロゼウスに負けず劣らず冷たい光が宿っている。
「愛しい相手が死んで、ようやく甘い戯言など捨てて私を殺す気になったのか」
「うん」
 挑発じみたドラクルの言葉にあっさりと頷いて、ロゼウスは微笑みさえ浮かべながらその台詞を言い放った。 
「うん、兄様。俺はあんた《も》殺すよ」
 ドラクル、《も》?
 その言い回しに周囲は微かな違和感を覚える。それはとても不吉な予感だ。
「ロゼウス……?」
 美しい微笑なのに、この上もなく不安定に見えるその脆い表情にロザリーは不安を隠せない。
 目の前にいるのは確かにロゼウスなのに、まるで彼ではないような気がする。ロザリーの知っている薔薇の王子ロゼウスでは。
 ドラクルの傍らで、彼にも誰にも聞こえないようにルースだけが静かに呟いた。
 薔薇の皇帝、と。

 ◆◆◆◆◆

「ちょっと、今どうなってるの!?」
 静かに緊迫した空気の中、空間を裂くようにして一つの影が飛び込んできた。
 澄んだ高い声音は少女のものだ。黒髪の巻き毛をなびかせ、先程まで弟を抱いていたためにだろう、服についてしまった血を気にすることもなく飛び込んできたのはプロセルピナだった。
 彼女はロザリーたちのいる四階の足場へと降り立つと、すぐ下にいたロゼウスの姿に気づいてぎょっとした。
彼の格好を一目見ただけで、彼女は自分がいない間に全てが終わってしまったことを理解した。
「薔薇皇帝……!」
 白い髪も白い頬も血に濡れ、表情は凍りついている。全身真っ赤な血に濡れて、その中で瞳だけが爛々と虚ろに輝いている。
 それはもう今までの彼ではなく、皇帝という別の生き物。
 ただ、そこにいるだけでいい。そんな存在でいられた時期はもう終わってしまった。
 これからの彼は、世界に必要とされる薔薇の皇帝。
 世界のために、全てを失う。その代わりに、それが世界にとって必要であると思えばいくらでも踏みにじることができる。
 永遠に満たされない絶対の支配者。
「遅かったな、大地皇帝」
 苦々しいその表情を見ながら、プロセルピナは彼だけに聞こえるように囁いた。
「……殺してしまったのね」
「……」
 答えずにロゼウスは彼女を見上げる。
「そう、ついに……」
 プロセルピナが憐れむように瞳を伏せる。
「プロセルピナ卿」
 以前のロゼウスとは明らかに違うどこか捨て鉢に居丈高な態度で、彼は自分の先任者に命じた。
「ローラたち五人を、この外へ連れて行け」
 避難させろと命じた人数の中に、彼の愛しい者は入っていない。
 救えなかった。
「ロゼウス!?」
 避難しろとは先程確かに言われたが、それが急にわかりやすい形で示されたことにロザリーがまた少し動揺した。今にも崩れそうなこの建物は危険だという冷静な判断と共に、ロゼウスの傍らに立って結末を見届けたいという思いもある。
「どうした? ロザリー、それが一番確実な方法だろう。プロセルピナと一緒に、この城の外に出ていて」
「でも」
「いいから」
 強く言い放ったロゼウスは、威圧的と言うわけでもないのに何故か有無を言わせない。その雰囲気に呑まれて、ロザリーは二の句が告げなくなる。
「私からもお願いします。プロセルピナ姫」
「ルース?」
 ロゼウスの頼みごとに、ドラクルの傍らから身を乗り出したルースが言葉を足した。
「私たちとしても、余計な相手と戦うのは避けたいもの。そうでしょう?」
 両側のドラクルとアウグストに確認をとるように小首を傾げて、ルースはプロセルピナを見つめる。
 その顔はやはりいつものように穏やかで、しかしその穏やかさにこそロザリーは何か不吉なものを感じる。
 こんな時にまでルースは全く動揺していない。まるで全てがわかっていたように。
 最初から、ただこの日のためだけに生きていたように。
「さようなら。ロザリー。ジャスパー」
「ルース?」
「姉様」
 これが今生の別れになるのだと、二人にもわかった。これまでずっと、姉であった人の思惑も。
「いいでしょう、プロセルピナ姫」
 ルースは日常の延長のように穏やかなその態度のまま、彼らを助けようとしている。
「……ええ。どうせ頼まれているのは同じ事だし」
 プロセルピナが納得して引き受けたところで、彼女たちの話は終わった。
 後はロゼウスがロザリーたちを説得するだけだ。もっとも説得と言ってもシェリダンの死の報に戦意を喪失して崩れ落ちてしまったローラとエチエンヌ、リチャードに関しては問題ない。彼らはこれ以上戦えない。そしてジャスパーは兄である皇帝ロゼウスの意志に逆らわない存在だとすれば、異を唱えそうなのはロザリーだけだ。
「ロザリー」
 最後の優しさを、煮え滾る憤怒がすぐにも胸を焼き尽くしそうな今はこの会話にだけ集めて、ロゼウスは口を開く。
「逃げるんだ」
「ロゼウス」
「ここにいたら、お前たちは死ぬ。お前も、ローラやエチエンヌやリチャードやジャスパーも……」
「だからって」
「その女はお前たちのことは殺さないよ。殺すつもりなら、とっくにやっている」
 ロザリーが不審を感じているのはこれまで敵方としてドラクルについていたプロセルピナの態度だと思ったのか、ロゼウスはそう付け加えた。視線を向けられたプロセルピナ本人は、軽く肩を竦めることで答える。
「でもシェリダンの身体は!」
 次のロザリーの言葉に、ロゼウスが一瞬動きを止める。
「もう、もう遅いけど、私たちだけじゃ無理だけど、でも、でも一緒に……!」
 胸の内に込み上げる想いが強すぎて、ロザリーの言葉は途切れ途切れの胡乱なものとなる。それでもロゼウスは正確に意味を読み取って、歯を食いしばりながらも答えようとした。
「それは――」
「あとで私が行くわ」
 ロゼウスの言葉を思わぬ人物が遮った。
「大地皇帝」
「あとで私が行くわ。ちゃんと迎えにいってあげるから」
 崩れかけた最下層の建物。瓦礫の山に埋もれて、ただ一人彼は眠っている。
 その身体の半分以上をロゼウスに喰われて。
 回収しなければならない身体ももうほとんどない。
 それでも。
「これを取引としましょう、新皇帝」
「……何?」
「私とハデスを見逃して。それなら彼をちゃんと連れて来てあげる」
 思いがけない取引の申し出に、ロゼウスは一瞬固まった。しかし逡巡していたのは本当に一瞬で、結論はすぐに出た。
「……いいだろう」
 置いてきたのはただの死体、わかっていても。
 愚かだといわれようとも。
「必ず叶えろ」
「わかったわ」
 プロセルピナは頷いて、同じ階にいるロザリーとジャスパー、そして上の階にいるローラ、エチエンヌ、リチャードに声をかける。
「さぁ、行くわよ、あなたたち」
 まずはロザリーとジャスパーを抱えて五階へと上がったプロセルピナは、そこで異空間の道を開く。空間移動で、恐らく先にハデスが避難しているだろう場所へと移動するのだろう。
「ロゼウス!」
 最後に振り返ったロザリーが一言だけ添えた。
「必ず帰って来てね!」
「……うん」
 彼らの後姿を飲み込んで、道はしっかりと閉ざされた。