荊の墓標 47

267

「……何故止める。情けを」
「かけるつもりはないわ。今更。でもね皇帝陛下、気づいてる? この城は今にも、倒れ崩れ落ちてしまいそうなのよ」
 ドラクルにトドメを刺そうとしたロゼウスを引き止めたのは、いつの間にか戻って来たプロセルピナだった。
 彼女の指摘どおり、気づけば建物に細かい振動が走っているような。
 ぱらぱらと天井から小さな欠片が降ってきた。プロセルピナの言葉はドラクルを助け出すための嘘などではなく、どうやら真実であるらしい。
「頼まれちゃったの。あなたの妹君と弟君に、兄様を助けてって。新しい皇帝をこんなところで失うわけにはいかないわ」
「俺は死なない」
「でしょうね。でも一棟全て七階分の瓦礫の山に埋もれたらさすがのあなたでも自力脱出は不可能でしょう? その中からあなたを引きずり出さなきゃいけないこっちの身にもなってほしいわ」
「……」
 ロゼウスはちらりと、瀕死のドラクルに目を向ける。これ以上なく汚らわしいものを見つめるようなその視線の先を追って、一瞬だけ痛ましい表情を浮かべたプロセルピナはしかしそれを声音には出さずに更にロゼウスに呼びかける。
「どうせこのひとは、放っておけばこのまま死ぬでしょう。皇帝にたてついた愚か者として、このまま古き城の残骸と共に埋めてしまいなさい。このひとと心中してあげる気があなたにあるなら別だけど」
「……そうだな。それは嫌だな」
 ロゼウスはゆっくりと立ち上がった。
「あと僅かな時間、瓦礫に埋もれて死ぬ苦しみを存分に味わえばいい。俺は死すらあなたには与えない」
 プロセルピナがロゼウスの手をとり、魔術で開いた空間の裂け目へと導く。
 移動前の一瞬、彼女の身体から淡い緑の光が迸った。ドラクルの身体を包みこむ。
 彼女が最期に彼に向けたものは、紛れもない憐れみ。そんな視線を向けられる自分にドラクルは憤ればいいのか、それとも完全に自分を裏切り見放したはずの彼女が少しでも情けをかけてくれたことを喜べばいいのか。
 ロゼウスとプロセルピナの姿が完全に消えたのを見計らって、もう一人人影が現れた。
「ド、ドラクル……」
 瓦礫の山の中を、いたるところから流血した身体で這い上がってきたルースだ。
「ルース……」
 プロセルピナの最後の魔術により、ドラクルも会話ができるほどまでは回復している。麻酔をかけられたように痛みも感じない。
 けれど、怪我を全て治されたわけではなかった。いまだ流血は続いている。破壊された関節、砕かれた骨、潰された臓器。正気を失って凶暴化したとしても、暴れることすらできないだろう。
 このまま死に逝くという未来に変わりはない。
 一瞬ごとに、流れる紅い血に乗せて命が流れ出していく。
「ドラクル……」
 ルースは痛む身体を引きずり、兄のもとへといざりよる。膝から崩れるように跪いて、ドラクルのすぐ側へと。
「ごめんなさいね……遅く、なってしまったわ……」
 瓦礫を無理矢理どけてあがってきた彼女の身体は傷だらけだった。
 どうして。
「なんでドレス姿なんだ……?」
 露出した肩から流れる紅い血。突然の問にルースは驚くこともなく、ふわりと微笑んで言った。
「大事な人の前では、いつも綺麗でいたいから」
 今ここには二人しかいない。ルースの前にはドラクルしか。
 何故こんなぼろぼろの姿になってまで、彼女は彼の側にいるのだろうか。ドラクルが求め続けたロゼウスだとて、最後には彼を拒絶したのに。
 何故。
「お前……」
 ルースは微笑んでドラクルの手をとる。
「やっと願いが叶ったわ」
 彼女はいつも、彼の側にいた。影のように寄り添い、空気のようになくてはならない存在として、側にいた。
 妹だから。腹違いとはいえ、全ての事情を知る実の妹だから。
 それだけの理由で?
「まさかお前は、私を……」
 ドラクルの唇がそれを紡ぐ前に、彼女は自らの唇で封じた。
「言わないで。聞きたくない」
「だが」
「聞かないで。言いたくない」
 握った手の甲にぽたぽたと温かい雫が降って来る。
「やっと私の願いが叶うのだわ、ドラクル。私はずっと、あなたが欲しかった。あなたに死んで欲しかった」
「死……」
「そうでなければ、あなたは私のものにはなってくれないもの。呪われた子。知っているでしょう」 
 幾多の異性と関係を持っても、決して避妊は欠かさなかったドラクル。浮いた噂に反して、隠し子がいるという話もない。
 ルースとの関係は近親相姦。それだけでも大ごとだが、更に問題なのは二人の間に子どもができてしまった場合だった。
「あなたを私のものにするのは、最初からこれしかなかったの」
 何度も何度も未来を望んだ。
 彼女の心は兄への愛を胸の内で叫んでいた。
 同じように近親相姦の関係でも、ルースとドラクルはハデスとデメテルのような関係とは違う。彼女たちは彼らのようには禁じられた絆を貫けない。
ルースは知っているからだ。生まれてきてはいけなかった子どもの絶望を。ドラクル自身の絶望を。
 だからドラクルと想いを遂げても、決して幸せにはなれない。
 必ず不幸になるとわかっている未来を、どうして望むのか。
 だから死ななければならなかった。
「大好きよ、お兄様。だから、一緒に逝きましょう」
 ぽたぽたと温かい雫が、とめどなく降る。ルースの涙が繋いだ手を濡らす。
最初から報われない恋だった。叶ってはいけない夢だった。
 呪われたこの命。
 何のために生まれてきたのだろうか。
 しかし次のルースの言葉を聞いた瞬間にハッとする。
「あなたを独りにはさせないわ」
 独り、だったのだろうか自分は。
 脳裏に先程のロゼウスとのやりとりが蘇る。
 ――あんただって本当は、俺のことなんかいらなかったくせに!
 その前に幾つも幾つも毒を吐いていた可憐な唇。けれどロゼウスの本当の本心は、きっとこの言葉に集約されていたに違いない。
 自分を不幸だと思っていた。どんなに努力しても救われない底なし沼の奈落に生まれた時から浸っているのだと。
 けれど、本当の意味で独りになったことは、ドラクルはなかった。いつもすぐ側にルースがいた。腹心のアウグストがいた。
 常に空気のように側にいてくれた彼らの存在を今更になってとても重く感じる。
 父に愛されない事は悲しかったけれど、寂しくはなかった。いつもルースがいたから。
 それに他の兄妹たちも、偽りの兄の仮面を被っていたドラクルを慕ってくれた。
 最後までドラクルを案じて死んでいったアンリ。ロゼウスこそ正統な王太子だと告げても、ドラクルに味方してくれたアンやヘンリー。
 今、この手を握っていてくれるルースを初めとして、様々な人物がドラクルが王子ではないと知っても味方してくれていた。
 復讐などに拘らなければ、本当はロゼウスを追いかける必要もなかった。せっかくローゼンティアの王位をくれるというのだからその言葉に甘えて、素知らぬ顔で玉座に着いていても、誰も責めない程度にはドラクルは信用されていた。
 その信用を、信頼を崩したのはドラクル自身だ。
 傷つけられたからには同じ痛みを与えて傷つけ返さねば納得いかないと、復讐に固執して大事なものを見失っていた。あのプロセルピナでさえ最後には憐れみをかけてくれたというのに。 
 ――あんただって本当は、俺のことなんかいらなかったくせに!
 そうだな、ロゼウス。
 私とお前は違う。
 ロゼウスはシェリダンを失っては生きてはいけないという。だがドラクルはその気になりさえすれば、ロゼウスがいなくても生きていけたに違いない。だがその思惑を煽ったのは――。
「ごめんなさいね。あなたを生かしてあげられなくて」
 透明な涙を瞳から溢れさせながらルースが言う。
「ごめんなさいね、あなたと一緒に生きてあげられなくて」
 この妹の泣き顔を初めて見たような気がする。
 こんなに側にいたのに。
「薔薇皇帝の誕生に必要だなどと言い訳をして、私はあなたを殺そうとしたの。ロゼウスを皇帝にするためにではなく、あなたを殺すためだけに生きていた。あなたがロゼウスを愛していて、彼との未来を望んでいると知りながら」
 崩れかけた建物に大きな振動がやってきた。そろそろこの城は崩壊する。
「ロゼウスがいなくて寂しい? ドラクル」
 全ては我欲のための行動だと最後に自ら告白した妹の問に、ドラクルは静かに否定を返す。
「お前がいればいい、ルース」
 ルースが大きく瞳を見開いた。笑顔のまま泣き崩れる。
 何のために生まれてきたのかはわからない。
 それでも意味などない人生に、これだけの充足感を得ることができたのだ。
 ロゼウスなど手に入れようとしなくても、もうとっくに幸せだったのに。
 ずしん、と音がして一際大きな瓦礫が降って来た。もうこの城ももたないだろう。
 そして視界が濁り始めたドラクル自身の命もあと僅かだ。見ればルースの身体も、決して浅くはない傷で覆われていて彼女は少し苦しげにしている。
「ルース……」
「何?」
「アウグストも、一緒に……」
 真っ先にロゼウスに殺された大切な部下の名を言えば、ルースはにっこりと笑んで頷いた。そのドレスの懐から一掴みの灰を取り出す。あの状態でそれをかき集めていたのか。
 死ねば灰となり骨も残らぬヴァンピル。
 だが、魂は、確かにここにある。
「一緒に逝こう……」
 ドラクルとルースは手を繋いだまま、ゆっくりと瞼を閉じる。血だまりの中の彼らを覆い尽くすように瓦礫の雨が降って来る。
 真実を知らされたあの嵐の夜の雨と違って、瓦礫の雨は無慈悲だが冷たくはない。
 もう、地獄でも寂しい思いをしなくていい。

 ◆◆◆◆◆

 灰色の宮殿が灰燼に帰していく。
「城が……」
 プロセルピナの手によって一足先に城の外へと連れ出されていた者たちは、モノクロの花畑の中からその光景を見つめていた。
 外壁が崩れるより先に、内部の崩落が始まっているらしい。がらがらと何かの壊れる物凄い音が聞こえているが、様子は窺えない。
 それが続くうちに外壁にもついに亀裂が走り、一棟が崩れ始めた。どんな連鎖反応なのか、戦いには関係なかった場所までその崩落に引きずられるように崩れていく。離れの方もだ。
「消えてしまう……全てが……」
 プロセルピナに傷を治療され、早々にここに置いて行かれたハデスは複雑な心持ちで崩壊の景色を眺めていた。自分が生まれ育った場所が砂と塵だけになる光景は、嬉しいものではない。某か感慨と言うような感情はあるのだが、上手く言葉にできない。
「次の皇帝の時代には、一から作り直すことになるわね」
 突然背後から聞こえた声に、彼らはハッとして振り返った。戻って来たプロセルピナと共に、見慣れた少年がいる。
 瓦礫の山の上に姿を現した時よりもなお酷い血まみれのその姿に、彼らは息を飲む。
「ロゼウス!」
 彼に対して何も含む所のないロザリーだけが唯一、兄に駆け寄ってきて抱きついた。
「良かった……無事で……」
 自分の生還に対する心からの喜びの涙を前に、ロゼウスは居た堪れない気持ちになる。無事で良かったと言ってもらえるほどの価値は、今の自分にはない。
「ロゼウス、様」
 それでも少々ぎこちない仕草だが、リチャードが立ち上がってロゼウスの方を見つめた。
「……おかえりなさい」
「おかえり」
「おかえりなさい」
 彼につられたように、エチエンヌとローラも口を開く。躊躇った分だけ出遅れたジャスパーは、小さな声で呟くように告げた。
「……おかえりなさい、兄さん」

 この罪を背負い、私はどこに還るのだろう?

「……ああ」
 ただいまとは言わず、頷くだけに留めてロゼウスは崩れいく城を見た。広間のあった棟の上階部分はすでに崩壊していて、もはやドラクルもルースも生きてはいまい。
「シェリダンが……」
 ロゼウスには反応を示さず、ひたすら城の崩壊を眺めていたハデスがぽつりと呟いた。
 今となっては禁忌とも神聖ともつかぬその名に一同がこぞって反応し、モノクロームの花びらが舞う空の下に一種異様な雰囲気は張り詰めた。
 瓦礫と砂と埃の積もるあの中の最下層に、彼はいまだ眠っている。
「……プロセルピナ」
 ロゼウスはその名を呼んだ。
「はい、皇帝陛下」
 つい先日までこの世界の最高支配者であった女性は、今では自分の五分の一も生きていない少年の前で膝を折る。その姿に屈辱を感じている気配もなければ、大袈裟に謙る様子もない。
 あるがままに、まさにそのように。
「約束を」
「御意」
 頷いたプロセルピナの姿がその場から消える。
「約束?」
「うん、約束」
 ロザリーが尋ねてくるのに対し、ロゼウスは短くそうだとだけ返す。
 彼をあの中で、一人眠らせはしない。ドラクルやルースとは違うのだ、シェリダンは。
 思い返して、ロゼウスの背筋がぞくりとする。あの惨状、この手が引き裂いた……
「……っ!」
 自らの身体を両腕で抱きしめるようにして、その場に跪く。
「ロゼウス!?」
 ロザリーが案じて声をかけてくるが、ロゼウスは答えられない。ただ首を何度も横に振るうちに、涙が零れてきた。
 戦いは終わり、全てが終わる。これが始まりだなんて思わない。皇帝としての未来なんて、自分はいらない。
 この気持ちは誰にわかってもらえるものでなければ、この罪は誰かとわかちあうものでもない。口を開かないロゼウスに対し各人が不安を抱いて見つめている最中、それはやってきた。
「これだけよ」
 崩壊したはずの城から、ゆっくりと人影が歩いて来る。見慣れた黒髪は先程使いにだした人物しかありえないのに、その姿はどこか虞を感じさせた。
 腕の隙間から、まだ乾ききらない血が滴っている。
 プロセルピナの細い腕でかき集められるだけの量の肉片。
抱いている頭蓋骨も原形を留めていない。なのに、血に濡れていない部分の藍色の髪は酷く特徴的で。
「いや……」
 ローラが棒立ちになったまま震えだす。ロザリーが、リチャードが、エチエンヌが、ジャスパーが、ハデスが目を瞠った。
 ロゼウスは唇を震わせる。
「――――ッ!!」
 声なき絶叫が、響いた。