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「シェリダン様が、死んだ?」
その日、エヴェルシードにもたらされた報告は予想もしていないことだった。
「はい」
暗い顔でそれを告げるのは彼らに馴染みのある、しかし見た事もない姿の少年だった。
幼い頃の薬物乱用の影響で十五歳にも関わらず十二歳前後の子どもの姿をしていたエチエンヌは、今は年相応の外見をしている。貴人の身の回りの世話をする小姓としては最高級の服を身に纏い、人形のように淡々と言った。身なりの良さとその表情の落差が、見る者にすべからく不吉な印象を与える。
「死んだって……どうして……」
クルス=ユージーン、ジュダ=イスカリオット、エルジェーベト=バートリ、ルイ=バートリ、バイロン=ワラキアス、そしてカミラ=エヴェルシード。エヴェルシード王国の主要な顔ぶれがその部屋に揃っている。
カミラが蒼白な顔をしてそれを尋ねた。死んだ? 数ヶ月前にはエヴェルシードの未来をカミラに預け、内乱の危機に陥った国を救うために一人悪役となってエヴェルシードを出て行った兄が。
シェリダンは十七歳だった。もちろん、病気や老衰などで自然と死ぬ歳でもない。
ではどんな事故? それとも――。
はっきり言って、シェリダン=エヴェルシードの敵は少なくない。尊敬も恨みも一身に集める、それが国王という存在なのだから。
だから暗殺などされることも珍しくはないのだが、だが、それでも彼がやすやすと殺されるなど考えられない。
何か不慮の事故があったのか、それともはっきりとわかるように殺害されたのか。それはこれまで敵対していたドラクルとの戦いの中でか。
心の準備をしようと身構えた彼らの耳に届けられたエチエンヌの言葉は、しかし予想外のものだった。
「え?」
「今、なんて……」
不穏な発言に一同は問い返す。
「シェリダン様は……その死はこの時世に、この時代に、薔薇の皇帝という存在を生み出すために必要だったのだと……そう、運命づけられていたのだと、聞きました……」
エチエンヌも全てを知っているわけではない。ただ彼がプロセルピナやハデスと言った事情に詳しい者たちから聞いたのがその言葉だったのだ。
運命。
彼は彼のために死ぬために生まれてきた。
そんな馬鹿なことがあってたまるものか。
「ふざけるな!」
エチエンヌ自身の内心の燻りを代弁するかのように、室内に大声が響きわたった。
「ユージーン候……」
「クルス」
叫んだのはこの場では幼い部類に入る貴族、クルス=ユージーン侯爵だった。幼いとは言っても、シェリダンよりは二つ年上だ。童顔の可愛らしげな面持ちを耐えがたい精神の苦痛と怒りに歪めている。
「運命? 皇帝のための死? そんなもののために、あの方を失ったのか!?」
クルスにとってシェリダンは主君であると同時に、半分友人のような感覚でもあったという。主君として何事も立て、尊敬していたのはもちろんだが、それでも年齢の近い彼に対し、ハデスのような悪友とまではいかずとも同じ年頃の少年としての親近感はいつもあった。
何事かあればすぐに呼ばれ、重要な仕事も任された。お忍びで街に降りるときも頼りにされた。
なのにこんな、何でこんな最後の一番重要な場面で力になれなかったなんて。
「ふざけるな」
自分への無力感は同時に、世界の全てへの敵意に変わる。この世界の誰も彼を守れなかった。それが酷く憎い。そして何よりも、彼を滅ぼすための運命を持った者が次のこの世界の担い手としてのうのうと生きて行くというのが。
「薔薇皇帝の治世なんて、僕は知らない」
「ユージーン侯爵!」
皇帝への不敬はそれだけで死罪にあたる。もっとも不敬罪の適応は皇帝によってかなりの差がある基準でもあり、今の皇帝がロゼウスである限り、彼らに対してはどう出るのかもよくわからない。
それでも、世間一般的に皇帝とはよほどの暴君でない限り誰しもが敬うものだ。
この帝国で生きていて、皇帝の支配を、加護を知らない、いらないなどと言い切る者なんて――。
だがクルスは言い切った。
「あんな皇帝、僕はいらない!」
「クルス君?」
「ユージーン侯……」
彼が彼を失わせたのであれば、クルスはその治世下では生きられない。
そんな世界で息をすることも、この心臓を動かすことすら苦痛だ。
いらない。そんな世界ならいらない!
シェリダン=エヴェルシードのいない世界など!
「ロゼウス=ローゼンティアに伝えろ! あなたの首は僕が取りに行くと!」
「クルス!?」
「一体何を!」
周りの人々が一様に驚いた顔をする。シェリダンの妹のカミラでさえそれは例外ではない。
どうして。あなた方だって知っていただろう。本当は彼がどんな人なのか。たかだか皇帝をこの世に生み出すためなんかで、死んでいい人じゃなかったのに!
クルスの胸の内に渦巻く激情を、その中ではただ一人絶望の報をもたらしたエチエンヌだけが平然と聞いていた。
彼も気持ちは同じだ。だが彼はクルスとは別の道を選んだのだ。
だからクルスとは敵対する。
「わかりました。伝えておきます」
「エチエンヌ! あなたも何を……!」
「ロゼウスはあなたの責めを聞くでしょう。だけど、そのぐらいで皇帝は皇帝である己を消すことはできない。だからあなたが皇帝領に攻め入るのであれば、彼は間違いなくあなたと戦います。それでも」
「ああ。望むところだ」
「わかりました」
狂っていく。これまできちんと噛みあっていた歯車はたった一つが抜けてしまっただけで世界全体が壊れてしまった。
破壊の後に再生があるという。全てを失うことでやり直せるのだと。だがそれは本当なのだろうか。
それがどうであろうとも、クルスはみすみすシェリダンを死なせたロゼウスを許さない。
だからそんな皇帝は認めないと、命をとりに行くという。
ロゼウスは待ちうけ、彼をも殺すだろう。
殺して、殺して、誰も彼も殺して世界に一体誰が残るのか。
わからない、それでも。
「第三十三代皇帝ロゼウス! 僕はお前を認めない!」
この後三年にも及ぶ、薔薇皇帝の即位をかけた反逆戦争が始まる。
◆◆◆◆◆
新しい皇帝は、デメテル陛下とは違う。
その話はすぐに皇帝の居城全体へと広まった。もう数ヶ月もすれば、恐らく世界中がそれを知るだろう。薔薇の皇帝ロゼウスの名を。
臣下たちの虞と不安とそして僅かな期待の視線を知りながら、しかしロゼウスは一切それに応える気はなく日々を過ごしている。
否、日々を過ごすといえば語弊がある。望んで過ごすのではなく、過ごさざるを得ないのだ。
死にたくとも死ねない身体。皇帝は己の死すらままならない。全知全能の力を手に入れて、何一つ叶えることができない。それが皇帝。
そして特に薔薇皇帝は病んでいる。
それを知っているローラ、エチエンヌ、リチャードなどはある程度受け流す術を知っているが、彼についてよくは知らない皇帝領の臣下たちは、主が何事かやらかすたびに蒼白になり胃を痛めている。
特に彼らの寿命を削るのは皇帝の自殺癖だ。
自殺に癖とはおかしいだろう。自殺未遂癖ならばまだわかる。だが彼の場合はまぎれもなく自殺だった。
どんなにやっても死ねないというだけで。
衝動的に、それがまるで日課でもあるかのように皇帝は自殺を繰り返す。決して死ねはしないのに、塞がった傷口をまた抉るようにして行う。
「違う! こんな結末が欲しかったわけじゃない! こんな未来が欲しかったわけじゃない! 違う!! こんなことをするために、生まれてきたわけじゃない!!」
その錯乱ぶりは凄まじく、押さえつけようにも誰の手にも負えない。彼は皇帝だ。この世に彼以上の力を持つ者など存在しない。
頂点の孤独を永遠に味わい続けながら、死を望みながら、それでも生きる。生かされてしまう。
「お願い、誰か殺して! 俺を殺して! お願いだから死なせて!」
手首を切った。骨が見えるほど。血は流れた。海のように。でも死ねなかった。ずきずきと傷口が痛み、血は無理矢理乾く。べったりと血で濡れた部屋の光景は凄絶だった。
首を吊った。使ったのは丈夫な太い縄。解ける事はなく確かに彼は首を吊ることが出来た。ぼきぼきと首の骨は折れ、皮膚が伸びる。ある程度の高さがある場所から勢いをつけて飛び降りると即死になるという。だが彼は死ななかった。首の骨がおれてぐるりと顔が垂れ下がってもそれだけだった。
腹を切った。己の身体に剣をつきたて、真一文字に引き裂く。柔らかな皮膚は抵抗もなく斬れ、内臓が傷口から零れてぼたりと床に落ちる。雪崩をうって腹から零れた内臓はそれでもどくどくと動いていた。やはり彼は死ななかった。
胸の皮膚を引き裂いて、爪で心臓を抉った。どくどくと動く温かい心臓を己の手で握りつぶす。幻のような痛みを胸の内に感じた。胸の中には新しい心臓が再生し始めた。
ギロチンを試した。ものの見事に首は落ちた。落ちたその先でやけに鮮明な視界は頭を失った自分の胴体を眺めていた。
壁に砕けるほど頭を打ち付けた。頭蓋が壊れ、物事を考えることができなくなった脳が潰れる。ずるりと床に崩れ落ち、それでも少しすれば全て治った。
炎の中に飛び込んでみた。皮膚が焼け溶け、どろどろになる。気が狂いそうな熱さの中、全身が爛れ落ちるまで待った。酷い箇所は焦げた骨まで覗いている。美しかった顔も全て焼けてしまって見る影もなく無残。第一発見者の侍女はそれを見て発狂した。だが翌日には彼の体は元通り美しい姿に戻っていた。
臣下たちは床に額を擦り付けて懇願する。もうこんなことはやめてくださいと。
皇帝は返す。だったら俺を殺せと。ちゃんと完璧に殺してくれたらもうこれ以上死ななくてすむ。頚動脈から噴水のように血を吹き出させながら、玉座を血で染め上げながら無力な己を呪い、この世界を呪う。
「殺してよ! 殺してよ俺を! さぁ、早く! もうこの一瞬だって生きていたくない!」
こんな結末を望んだわけではない。
こんな結果が欲しかったわけじゃない。
こんなことになるくらいなら、自分など最初から。
「生まれてきたくなんてなかった!」
ロゼウスにとって、シェリダンは何よりも、誰よりもかけがえのない者だ。何と引き換えにすれば彼を殺せるのだろう。自分にとって、引き換えられるもののないほど大切な彼を。
意識を失い本能だけで動いていたあの瞬間、無意識でも自分は己の命と彼の命を天秤に掛けたのだ。
引き換えられるもののないほど大切だと思っていた相手を、自分の命と比べて自分をとった。それが何よりも呪わしい。自分で自分を赦せない。
存在自体が罪、シェリダンが口にしていたその言葉の意味を、彼を殺したことでようやく理解できるようになった。そのために必要だったというのか。この残酷な通過儀礼。
愛している、シェリダン。
誰よりも、自分自身よりも。
本当に、本当に愛していた。この言葉が嘘なら今頃ロゼウスはこんなに苦しんではいない。シェリダンを殺した自分を自分のために正当化できたはずだ。あれは仕方がなかったのだと。
だが、真実ロゼウスはシェリダンを愛していた。自分自身よりも。
彼よりも自分の方が大事であればそもそもあの時崩れる瓦礫から彼を庇ったりしなかった。愛しているからこそ、この結果になった。
だからこそ、苦しい。
だからこそ、自分は永遠に自分を赦さない。
生きたいと願う生き物の本能によって彼を殺した。人間が獣の肉や魚や植物を喰らうのと同じ残酷さで彼を屠った。
当然のような「生きる」ということ。その罪深さを誰よりも思う。ただ生きているというそれよりも深い罪などこの世にはない。
最高の罪がそのまま最高の罰となる。
それは生きるということ。
「……お願いだから、殺して」
人は死ねば二度と生き返らない。その重さを知るために、愛する者を殺す運命が待ち受けていた。それは彼をこの世界の皇帝にするため。
ロゼウスはもともとヴァンピル。吸血鬼は他者を不老不死の魔物に変える力を持っている。
皇帝は己の愛する者だけは蘇らせることができない。
シェリダンを殺さなければ皇帝となれないロゼウスは、彼を殺したその瞬間に彼を生き返らせることができなくなったのだ。何と言う皮肉だろう。シェリダンを本当に愛していなければ、生き返らせることはできたはずなのに。
「どうして……」
こんな結末を迎えるくらいなら、彼の意見など聞かずに、無理矢理にでもその身を死人返りに変えてしまえばよかったのだ。そう考えても今ではもう、全てが遅すぎる。
「誰か俺を殺して! お願いだから死なせて!」
全ての英知と全能の力を得て、誰よりも世界の真実に近い狂気の皇帝は、今日も己の心臓を抉る。
◆◆◆◆◆
「父を殺したの」
ロゼウスが皇帝になって、城は瞬く間に再建された。古の魔力が働いているこの大陸、皇帝領はそれ自体が不思議な力を持っており、主である皇帝が代替わりを迎えるごとに、その景色を変えていくのだという。
今はまだロゼウスの城は何もない灰色の風景だが、これからゆっくりと彼の色に染まっていくのだろう。きちんと動き生きているように見えても心の中はずっと放心状態と言えるようなロゼウスが、これからどうやって生きて行くべきか確立することができたなら。
だが、シェリダンを失った――殺してしまった悲しみを受けいれるまでにはもうしばしの時間が必要だ。
そしていくら現実を受け入れそれに嘆き悲しもうと、彼は自分自身を絶対に赦さないだろう。
それこそが皇帝として必要な条件だった。
「父を殺したの」
「……それが」
前置きもなく突然吐き出されたプロセルピナの言葉にロゼウスは特に関心もない。話があると呼び出されて来たはいいものの、今の彼はもはやこの世の何においても興味ないのだ。
味のしない食事を無理矢理口に運ばれながら、皇帝であるあなたに仕えますという輩にも無関心な目をくれながら。
ただ、心臓が動いていることだけを生きているといっているような日々。そこにこのプロセルピナからの呼びかけだった。
「そんなこと、誰もが知っている。大地皇帝。あなたが本来の選定者である父親を殺し、弟にその腕の選定紋章印を移植して無理矢理その座に据えた事は」
有名な話だった。今更本人の口から聞くこともロゼウスにとっては何の感慨も無い。
だが、プロセルピナには意味があるようだった。促されてもいない先を勝手に続ける。
「今だからこそ言えることだけれど」
ロゼウスではなく、その向こうの窓に映る外の景色を見つめるような形でプロセルピナは言った。
「私は後悔しているのよ、父を殺したこと」
ぴくり、とロゼウスの身体が揺れる。
「父はもともと私を虐待していた。私は父を恨んでいた。でも殺してから気づいたの。私はそれでも、父を愛していたのだって」
殺したいほどに憎んでいた。けれどその中に、一筋の愛情があったのも確かで。
「後悔したわ」
生まれてからそれまで生きてきて、最大の後悔を。
「皇帝は愛している者だけは生き返らせることができない。それはこのためにあるの。人は、人が生き返らないことを知って命の重さを知るの。二度と取り戻せないから、だから尊いのだと」
「そんなこと……!」
「現にシェリダン王が死んで、あなたは変わったでしょう。ロゼウス=ローゼンティア」
ロゼウスは燃えるように激しい目でプロセルピナを睨む。彼が睨んだ程度で彼女は動じない。何にもならないと知っているけれど。
「そんなことを知るのが皇帝の責務だというのならば、そのためにシェリダンを殺さなければならなかったというのなら、俺は皇帝になんかなりたくなかった!」
人の命の重さを本当の意味で知る事はとても尊いのだろう。吸血鬼であるロゼウスはただでさえ人間と価値観が違う。それがために決戦前夜のあの時、シェリダンと言い争いにもなった。
だが、世の中には知らなくても生きていけることというものがあるだろう。
皇帝になどならなければ、永遠にそれを知らなくてもすんだのに。知りたくなかったのに、こんな痛みを。
「それでも、あなたは世界に望まれている」
人一人殺させてでも彼が皇帝になることを世界が、運命が、神が望んでいる。
「薔薇皇帝よ、その御世に栄光あれ」
プロセルピナの言葉が空しく響いた。