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「……良かったじゃないか」
酷く悲しげな表情で、表情にそぐわない祝辞を彼は述べた。
「おめでとう。ずっと、年相応の身体を欲しがっていたのだろう」
そう言ってリチャードは、目の前にいる少年の金色の頭を撫でる。彼が見慣れた子どもの姿より頭一つ分背の高くなった少年だ。
「エチエンヌ」
十五歳である彼は、しかしこれまで幼い頃に濫用された薬物の影響もあって十二歳前後にしか見えなかった。それを、ロゼウスの力によって修正されたのだ。本来正しく成長すればこうなるはずだったろうという、中身と同じ十五歳の少年の姿に。
だが、彼がその外見と中身の年齢を吊り合わせることができるのはそう長い時間ではない。せっかく手に入れたきちんとした少年の身体。けれどこれからは、これまでとはまた違った意味でエチエンヌは年相応にはなれない。
ロゼウスに与えられたその体は、いわば交換条件の品だった。その身体で、エチエンヌは彼と共に長い長い時間を生きる。終わりの見えない永い時間を。
永遠の少年の姿で、中身だけは年をとっていくのだ。もっとも、そう思う彼自身もそう変わりはないが。
「リチャードさんは……」
「私はこのままでいい。ローラは」
「僕と同じ。十五歳の女の子の身体になったよ。もう僕と間違えられたり入れ替わったり、そういうことは無理だと思う」
十二歳前後に見える子どもの姿であるとき、ローラとエチエンヌは双子人形の名の通り、それぞれ見分けがつかないほどにそっくりな容姿をしていた。しかしいざ十五歳の身体を手に入れてみると、そこには一つの成長期を終えて、男女の差異がはっきりした少年少女の姿があった。
エチエンヌは同じ身長であった姉の背を追い越し、肩幅や胸板も彼女にくらべて逞しくなった。それでも元々の顔立ちが繊細なこともあり、髪を短く切った今では、美の国シルヴァーニの謳い文句を体現するような見事な美少年だ。
一方ローラの方は、彼女もまた、好みの問題はあれども誰もが文句をつけることのできない紛うことなき美少女へと成長していた。美しい少女という意味ではエヴェルシード女王カミラ、ローゼンティア女王ロザリーなど多数見て来た彼らだったが、十五歳の少女の姿となったローラは彼女たちに引けをとらない美貌だった。
ただし、その心はすでに病んでしまっている。
吸血鬼皇帝であるロゼウスに残された力。彼は己の血を分け与えることによって相手を不老不死の魔物にできる。その被害を真っ先に受けて無理矢理不老不死とされたローラの精神はすでに半分彼方へと旅立っていってしまっている。
彼女がもはやどんなに手を伸ばしても届かない主君のいる場所へと。
ロゼウスの皇帝としての命により、着飾らされ侍女たちに身の回りの世話を焼かれこれ以上ないほど甲斐甲斐しく扱われているローラだが、その表情に本当の意味で幸せな笑みが戻ることはない。
彼女は主君であるシェリダンを、主として、自らを救ってくれた恩人としてだけではなく、男としても深く愛してしまっていた。女を抱かない彼を。
それに彼にはロゼウスがいる。出会った早さでいけばローラの方が先と言えば先だが、それでも決して報われない恋だとわかっていたのに落ちてしまった。
彼女は狂気の皇帝の隣、同じように狂気を抱えて寄り添いながら「待つ」のだという。
――ねぇ、ローラどういうこと? 何を言っているの? 待つって誰を。
――もちろんシェリダン様をよ。
――ローラ?
「ねぇ、リチャードさん」
エチエンヌが呼びかけてくる。
「あなたはこれで良かったの?」
憐れむようなその光に、リチャードは一瞬苛立ちを覚える。よりにもよって彼に憐れまれるようになるとは、自分はなんて惨めになったものだ。
――だって、見たでしょ。あんたも知っているでしょう。始皇帝はシェリダン様に生まれ変わったのですって。彼の愛した選定者もロゼウスに。だから、だから……。
狂気に心を侵されながら、それでもローラは最後の一線だけは保っていた。
いや、もしかしたらそれこそが狂気の証なのかもしれない。
シェスラート=ローゼンティアがロゼウスに、ロゼッテ=エヴェルシードがシェリダンに生まれ変わり、また巡りあったのはただの偶然だ。それも。三千年もかかっている。生まれ変わりを待つだなんて馬鹿げている。ただの夢物語だ。
だいたい、これまで歴代の皇帝は平均すると一人百年前後で任期を終えている。任期と言うのは便宜上の言い方で正確にはそのぐらい経つと次の後継者である皇帝が現れるという意味だが。それが簒奪という不穏な形になるか継承と言う穏便な形になるかはその時の皇帝次第だが、普通に考えて三千年も一人の人間が生まれ変わるのを待つなんてありえない。
いくらローラがシェリダンを愛しているとは言っても、そんなの尋常ではない。彼女の夫は本来であればこのリチャードだ。他でもないシェリダンが決めた……。
だが彼女は彼を選ばなかった。目の前にいる名目上の夫よりも、死んだ初恋の男の生まれ変わるのを何千年でも待つという。
ロゼウスと一緒に。
皇帝も待っているのだ。無限の地獄の中、夢幻の責め苦の中で、愛しい魂にもう一度相見えるのを。
どんなに生まれ変わってもそれは決してシェリダン=エヴェルシードではないのに。
そしてリチャードはローラに捨てられたのだ。
なのに彼女を責める気が起きない。それは。
「何故泣く? エチエンヌ」
「だって、悲しくて……なんだかよくわからないけど、もう何もかもが悲しくて」
リチャードの目の前では、かつての妻とよく似た少年がぽろぽろと無垢な涙を零している。
「……お前こそいいのか? ロザリー姫と別れてしまったんだろう」
「うん。僕たちは完全に政略結婚、しかも書類すらない状態だから。でもあなたは」
リチャードはローラを愛している。
「そうだな、私は彼女を愛していたよ」
だけど。
「そしてシェリダン様のことも好きだった。私を救ってくれた、かけがえのない大切な主だから」
逢いたいのだ。
彼ももう一度、彼に逢いたいのだ。ローラの気持ちはわかる。だから彼女を責められない。リチャードはシェリダンより十も年上だ。まっとうに生きていれば自分よりも大分年若い彼の方が先に逝くなどと考えもしなかった。
「もう一度陛下に、我が魂の主にお会いする。そのためなら薔薇皇帝の傀儡となり手足となり、魔物として永の煉獄を彷徨ってもかまわない」
エチエンヌが目元の涙を乱暴に拭い去り頷く。
「うん……うん、そうだね」
逢いたいのだ。
生まれ変わったその魂は別人だとわかっていても、それでもまた彼に逢いたいのだ。
夢物語だと知っていても、それでもなお夢を見るのだ。
途方もなく愚かな夢を……
そのために薔薇の皇帝から永遠を分けてもらった。
それがまったく幸福と結びつかず、ただ痛みを積み重ねて雲の向こうに昇ろうとするようなものだとしてもかまわない。
「シェリダン様……」
どうしてももう一度、あなたに逢いたい。
◆◆◆◆◆
皇帝の城の地下室には、黒髪の少年が囚われている。
「また来たんだね。仕事は?」
「今日の分はもう終わった」
「それは優秀なことで」
求めに応じ、ハデスは扉を開く。彼に与えられた役目はただ一つ、ここでこの扉を、その中にあるものを守り続けること。
魔術で鍵をかけていた扉を開き、やってきた相手を中に通す。ロゼウスは礼を言うでもなく、当然のように部屋の中へと入った。
ハデスは外へと残される。
彼の足には鎖が絡まっている。
逃げる事は叶わない。ロゼウスの趣味が反映されたそれは酷く難解な魔術で組まれていて、しかも彼以外には外せないときている。ハデスはここで永遠に鎖に繋がれたまま、扉の内側にあるものを守り続けるしかないのだと。
彼は世界をこの道へと導いた一つの歯車だった。ロゼウスがシェリダンを殺す予言を知りながら、そうなるように、自分に都合よく世界が進むように裏で手を回した。
そのハデスを、ロゼウスは赦さない。彼の憎しみは己自身を超えて、この運命に関わった全ての者たちを憎んでいる。
ハデスはそっと、自らの頬を撫でた。
端正な顔立ちに目立つ青痣。ロゼウスに暴力を振るわれた痕だ。顔だけでなく、服で隠れた身体中に、見えない場所に幾つも残されている。痣だけではなく、切り傷も火傷の痕も。
彼を助けるために取引したプロセルピナのおかげで命だけは奪われなかったが、それ以外でハデスがロゼウスに逆らうことはできない。
プロセルピナの行方は杳として知れない。まさか殺されたわけではないだろうが、暫く会う事はないだろう。
この運命に関わった時点で先は決まっていたのだ。もはや世界に、ロゼウスに逆らえる者などいない。ハデスもローラたちと同じく死人返りの身とされて、もともと生きのびるために行動していたとはいえ、もはや死にたくても死ねない身体へとされている。
それでもハデスは、己の処遇が他に比べればまだマシだということを知っていた。
最後の最後でシェリダンを救おうとしたハデスとは違い、最初から最後までシェリダンと敵対していたもう一人の予言を知る選定者ジャスパーは、手足を斬りおとされ四角い箱の中だという。もちろん彼も皇族として不老不死を賜った身であり、そのぐらいでは死なない。出血に弱いというヴァンピルの特性すら皇族としての生の前には無意味だ。四肢切断と窒息の苦しみを味わいながら、愛しい兄の側にいることも叶わず狭い箱の中に閉じ込められている。
わざわざロゼウスがそう教えた。そして彼の性格を考えれば、それは恐らく真実なのだろう。ロゼウスはハデス以上に、己の実の弟を赦さないでいる。ジャスパーに関してはもうしばらくはそのままだろう。
ハデスへの処遇がジャスパーよりも甘いのは、彼がロゼウスの望みに一役買ったからだ。プロセルピナと協力してそれを成したために、毎日拷問されるほどの目には遭っていない。
それでも。
「苦しいよ……」
足下に絡まる鎖。逃げられない。
この城だとかロゼウスの側からだとか、そういう意味ではない。この鎖は彼の罪の運命だ。シェリダンを殺したという。
直接的に手を下したのはロゼウス。だが、その未来を知りながら曲げることをしなかったハデスもまた同罪だ。
その罪をロゼウスに、こういった形で贖わされているだけ。
「逢いたいよ……」
姉と関係を持つたびに痛みにも似た感情に振り回された夜を思い出す。ここ数年はそれでもハデスの精神は安定していた。嫌なことがあると出かけていった先のエヴェルシードで、彼が何を言う前からシェリダンがハデスの様子に気づいて嫌味ではなく気を遣ってくれるのだ。そんな安寧に浸っていた。
けれど彼はもういない。
「シェリダン……」
もういないのだ。
◆◆◆◆◆
皇帝の城の地下室には、皇帝の宝物がある。
殺風景な薄暗い、薄明るい部屋の中央に、透明な硝子の柩がある。その中に、一人の少年が眠るように横たわっていた。
「シェリダン」
部屋の中に一人足を踏み入れ、ロゼウスはその中を覗き込む。繊細な硝子細工の柩の中、敷き詰められた白い薔薇の中に眠る人がいる。
横たわっているのは藍色の髪の少年。瞳は白い瞼の奥に隠されて見えない。
それは確かにシェリダン=エヴェルシードだった。彼の魂の抜け殻――遺体だった。
あの日、ドラクルとの決戦の際に崩壊した城の中からプロセルピナが、残ったシェリダンの身体のパーツをかき集め、持ってきた。ロゼウスが半分以上食い荒らし、もはやパーツだけとなってしまったその身体。プロセルピナの白い腕を汚す血がぼたぼたと、抱えた肉片から垂れていた。
ローラたちを半狂乱に陥れたその無惨な人体の欠片たちを、繋ぎ合わせて復元したのがハデスの魔術だ。時間と空間に作用する魔術を使うハデスは、破損したシェリダンの身体を元通りに復元して見せた。ロゼウスが喰った部分も塞ぎ治して見せた。
魂の戻ることのないそれは、しかし完全な姿を取り戻してからは穏やかに眠っているだけにも見えた。よくできた人形のように美しく、今にも目覚めるのではないかと思えた。
そんなことはありえないのだけれど。
土に還し墓を立てることはどうしてもできず、ロゼウスはその遺体を硝子の柩に納めさせた。まるで御伽噺のようだ。もっとも、眠るのはお姫様ではないけれど。
「シェリダン……」
この結末は誰が望んだものなのだろう。まるでちぐはぐな御伽噺のようだ。硝子の柩に眠る美しい少年。けれど毒林檎を食べたのは彼ではなく、自分の方だとロゼウスは思う。
知恵の木の実は林檎に似ているのだという。
英知を手に入れて、他の全てを失った。
「ねぇ、起きてよ」
硝子の柩に取り縋り、硝子越しにロゼウスはシェリダンに呼びかける。
眠っているのではない。死んでいるのだ。呼びかけても応えるはずはない。わかっている。それでも、それでも。
「俺を一人にしないで……」
人生とはなんて滑稽な物語なのだろう。
自らが殺した相手に起きてと言えるとはとんだ面の皮の厚さだ。それでも祈った。
こんな結末は望んではいない。
そのためなら、生まれて来ない方が良かった。自らの知る喜びの全てを捨ててでも、彼に生きていてほしかった。
今はもう変えられない過去となってしまったその瞬間。今ここに自分が生きているという事実こそが彼の死の証。
だからその身体に墓はいらない。
呪われたこの身が墓標となる。
眠り姫は荊に囲まれて百年の眠りの末、王子によってその眠りから醒まされたという。だけど、その百年の間には何人もの旅人が荊の城を訪れてそのために果てた。ただそこに生まれただけ、何もしていないのに予言の中心に巻き込まれ、しかし自身は何も知らず何も努力せずあとは救われるだけ。
罪深いのは誰だろう。
硝子の柩に眠る少年は永遠の眠りの中で永遠の夢を見る。
残された少年の耳に、今も呪いのように絡みついて鮮やかに蘇るたった一つの言葉を残しながら。
――愛している。
硝子の柩に縋る少年の瞳、そのたびに涙を溢れさせながら。
「愛しているよ……誰よりも、永遠に」
相手を殺しても自分のものにはならない。だが愛している者に殺されれば、相手は未来永劫自分を忘れられない。
それは一つの永遠だ。
愛している者に殺されることで、相手を手に入れるという。それは荊のように相手に絡みつく、呪われた永遠。
そしてロゼウスはシェリダンに囚われる。
――これは貴方が見た夢。
◆◆◆◆◆
腕が折れていても肩が砕けていなければ十分。意地でその手を動かすと、その華奢な身体を抱きしめるようにその背に回した。
「愛している、ロゼウス」
ガツガツと組織を咀嚼する音が響く。流れる血と共に意識は失われてゆく。
彼の一口ごとに、ごっそりと欠けていく自らの身体。生きながらにして愛する者に食い殺される。
しかし最後までそのままであるはずがない。身体を全て食われるのと、彼が正気を取り戻すのと、自分が死ぬのとどれが早いのだろう。
身体を支えていられなくなり、いまだ虚ろな瞳をしたままの彼も彼を抱きしめた形は面倒だと、その身体を床に引きずり倒す。
にいと笑った彼の口元が舌なめずりする。本人の意志ではないとはいえ、あまりにも残酷なその笑顔。
その顔をかつての彼の微笑みに重ねながら、視界が黒く濁っていく。限界が近い。
最期に唇が動いて、何事か小さく囁いた。
「愛している」
その命、その存在こそ我が光。
だからこそ、この命を喰らい、鮮やかに咲き誇れば良い。その名に冠する薔薇の名の通り、棘を持ちてなお人を魅了して離さないように。
私はお前の糧となる。
だからお前は。
「我が荊の墓標となれ――」
「荊の墓標」《完》