荊の墓標 SS

変則的白雪姫

 ――見てごらん、美しいだろう? この庭には、あらゆる国々の希少な花々が集められている。
 耳元で囁く声は懐かしく胸を軋ませる。あの声が私は嫌いで、そして本当は愛しかった。
 ――私は美しいものが好きだ。だから、お前も……
 けれどやはり違うのだ、父上。それは恐らく、愛情ではない。

 エヴェルシードの冬には雪が降る。白い氷の花が、七色の庭園を埋めていった。

 ◆◆◆◆◆

 その日、エヴェルシード王城のごく一部が局地的に混乱に陥っていた。
「シェ、シェリダン様? 大丈夫ですか?」
 翡翠の瞳をうるうると涙で滲ませながら主の寝台を覗き込むのは、エチエンヌとローラの双子の姉弟だ。リチャードは困った顔で水の入った盥を枕元に置き、布を浸して硬く絞る。彼の作業をロゼウスもなんとなく手伝い、寝台の中の人――エヴェルシード国王シェリダンその人の胸のあたりを上掛けの上から優しく叩いた。
 寝台に横たわるシェリダンの顔は赤く、こめかみや首の辺りに汗が浮いている。伏せられた睫毛は苦しげで、吐き出す息が熱い。
 慌ただしく室内に呼ばれた医師が、厳かに診断を下した。
「ただの風邪にございます」
「本当ですか!?」
「シェリダン様は大丈夫でしょうか!?」
「常々身体を鍛えていらっしゃる陛下ですから、ただの風邪が大事になるなど、あろうはずもございません。昨夜は急激に冷え込んだため、体調を崩されたのでしょう。それでなくとも連日の激務で疲労が溜まっていらっしゃるようですから。しかし、元が丈夫なのですから数日安静にしていれば治りますよ」
「よかった……」
 双子は揃って、大げさなまでに胸を撫で下ろす。リチャードは淡々と、しかし病床に伏せっている主を気遣っててきぱきと仕事をこなした。本日のシェリダンの国王としての執務は全てキャンセルだ。
「とりあえず……ローラにエチエンヌ、お前たち二人は部屋の外に出ていなさい」
「ちょ、リチャード!」
「何故ですか!?」
「何故も何も、そう耳元で喚かれては陛下のお身体に障る」
 リチャードに窘められて、しぶしぶと双子が指示に従った。普段は優秀な二人なのだが、主の危機にこうも見境をなくすようでは看病など任せられない、というのがリチャードの言い分だ。外傷や敵ならば対処法の一つもわかるエチエンヌたちは、しかし身体の内側から蝕んでいく病に対しては無力で、それだけに不安が募るらしい。
 窓の外には雪が降っている。ロゼウスは慌ただしい周囲を冷静に眺めていた。他でもないシェリダンの手によりエヴェルシードに無理矢理攫われてきたロゼウスには、憎き仇である彼を心配する気持ちなどない。
「陛下、何か用意するものはありますか?」
 リチャードが気づかわしげに、寝台の中のシェリダンに尋ねる。重たそうに薄く瞼を開けたシェリダンが、いらん、と小さく答えた。
「できれば私がつきっきりで看病さしあげたいところなのですが、本日は用事が――。午後からは戻りますが、午前はいかがいたしましょうか……」
 リチャードがロゼウスにちらりと視線を向ける。いくら取引があるとはいえ、シェリダンが弱っているこんな時に敵国の王子であったロゼウスと二人きりにさせるのは不安なのだろう。しかし親しい者以外に心を開かないシェリダンの気性を思うと、風邪を引いて心細い時に慣れない侍女などを近づけるのも苦痛だろう。となれば、ローラたちを遠ざけてしまった今、頼れるのは彼しかいない。
「ロゼウス様……陛下の看病をお願いできますか?」
 問いかけられて、ロゼウスはしばし考えた末に答えた。
「いいけれど、俺はどうにもできないと思うよ? お前たちの言う風邪ってなんなのか、よくわからないし」
「え?」
「ヴァンピルは病気にはかからない。体質的に、先天的に身体が弱い者はいるけれど」
 仇云々の前に実はそこが障害だったらしい。リチャードがガクリと頭を垂れた。
「容態が変わったり……ええと、凄く苦しい様子だったら先程の医師を呼んでください。それ以外に例えば陛下が、水が欲しいと仰られたり汗をかいたから着替えたいと言われた場合には、お手伝いしてさしあげてください」
「ああ……うん、わかった。なんとかなりそう」
「それでは《王妃様》、頼みましたよ?」
 まだ不安げではあるが、最低限の信用には値すると思ったのか、リチャードが午前中の看病をロゼウスに任せ、室内から出ていく。
「病か……ミカエラはよく体調を崩していたっけ……?」
 ロゼウスにしても、風邪という病名自体には馴染みはないが、体調を崩した者の看病自体は経験がないわけでもない。
 すぐ下の弟である第五王子のミカエラは生まれつき身体が弱く、常に体調を崩しがちだった。彼に接していた時のことを考えればたぶん大丈夫だろう。
 寝台の中、赤い顔をして深く眠りについたシェリダンの様子を見ながら小首を傾げる。とりあえずは上掛けからはみ出た手を戻してやろうとして、ふと思いついた。
「病の時は、いつもより心細くなるとミカエラが言っていたっけ……」
 熱を出したシェリダンの肌は熱い。ただでさえヴァンピルであるロゼウスとは酷い体温の差があるというのに、今の彼の肌はまるで燃えるようだ。
 寝台の傍らで椅子に腰かけたまま、そっと手を握った。
「だったら、傍にいてあげる」
 当たり前のようにそう言って、ロゼウスはシェリダンの指に自らの指を絡めた。

 ◆◆◆◆◆

 夢を見た。あまり面白くもない夢。むしろ不愉快で、胸が悪く、そして悲しい夢。
 夢の中でシェリダンは今よりも幼い子どもの姿をしていた。傍らに人の気配が――父の気配がする。二人並んで中庭の薔薇園を眺めながら、シェリダンは父の言葉を聞いていた。
 ――見てごらん、美しいだろう? この庭には、あらゆる国々の希少な花々が集められている。
 ――私は美しいものが好きだ。だから、お前も……
 父は美しい物が、美しい者が好きだった。それは知っている。
 あの男は自らが国王であるのをいいことに、母を蹂躙したのだ。
 だから冬でも華やかな庭園を見るとシェリダンは胸が痛む。
 父の求める美しさは、あくまでも外見のことだけに終始していた。母の中身が悪かったというわけではない。父は母を、本当の意味で愛してはいなかったのだと思う。でなければどうして彼女が死んだ後に、片っ端から他の美しい女性に手をつけ始め、ついには息子であるシェリダンにまで手を出せたのだというだろう。
 父王は愛しい女の死に狂った。それは確かだ。だがそもそも彼の場合、抱えるその愛自体が歪なものだった。
 彼に偏愛されていたシェリダン自身もまた、愛されてはいなかったのだと思う。父にも。そして彼を残して死んだ母にも。
 けれど母のことに関しては責められない。普通の街娘が突然権力者に無理強いされて王宮に攫われてきて、産みたくもないのに産んだ子どもをどうして愛することができるだろう。
 そして父に関しては――それもまた、望むことはできても、責めることはできない。他人に自分を愛してほしいなど、結局は相手の心次第だ。誰にも強要できるようなものではないのだから。
 ――お前は美しいな。シェリダン、お前は私の宝だ。

 それでも確かに胸は痛んだ。

 ふいに意識が上昇し、瞳を閉じたままで現実の感触を覚えた。うつらうつらとしていた彼の意識を一時的に覚醒させたのは、片手に滑り込んだひんやりとした感触だ。
 雪、とまずシェリダンは思った。それほどに触れたものは冷たい。けれど優しく自分の手の甲に滑る指の感触と、傍らから降ってきた穏やかな声にその正体を知った。ああ、知っている。この細い指。ロゼウスの手。
「病の時は、いつもより心細くなるとミカエラが言っていたっけ……」
 ヴァンピルは病に馴染みがないのか、ロゼウスが並はずれて頑丈なのか、風邪に対する知識が怪しいらしいロゼウスの独り言が耳に届いた。瞼が重くて瞳が開けられない、ロゼウスのその表情をこの目で見ることができないのが、残念なような、これで良かったような。
「だったら、傍にいてあげる」
 当然のように、あまりにも自然にまっすぐとその言葉は降ってきた。舞い降りる雪のように。
 熱を持つ肌に心地よい、触れる手はまるで雪のように冷たい。脳裏に描いたのは、白く美しい顔、頬を彩るさらさらの白い髪、その中で瞳だけが紅い、ロゼウスの眼差し。紅い瞳はあんなにも印象的なのに、彼自身の印象は雪のように冷たい。
 雪、白い雪。天上から舞い降りる、慈悲深く冷たい氷の花。
 ロゼウスはまるで雪のようだと思った。富める者にも貧しい者にも残酷なまでに平等に舞い降りる、白い白い花。そこにはどんな贔屓もない。
 シェリダンが病で苦しんでいようと見捨てればいいのに、ごく当たり前に看病をしている。お人好しとはまた違う。それはロゼウスならではの基準あっての行動なのだ。
 ロゼウスはシェリダンを愛しているわけではない。
 今こうして手を握っていてくれるのは、彼が病人だから。ただそれだけ。
 この行動だって彼なりの知識に基づいた合理的判断に過ぎない。
 シェリダンを愛しているから、彼を気遣って手を握っていてくれるのではない。たまたまシェリダンが風邪を引いたから、そうして傍にいてくれるだけ。これが彼でなくとも同じように病に倒れる者があれば、ロゼウスはその相手にだって同じことをしたのだろう。
 自分で考えておきながら、シェリダンはそのことに対しちくりとした胸の痛みを覚えた。
 ロゼウスのこの愛情は特別なものではない。誰か特定の相手に本心から捧げられる愛ではない。誰にも平等に与える慈愛。
「ん……」
「シェリダン?」
 けれど、それが欲しかった。白い雪。白い白い、まるで雪のように冷たく平等な愛情。薄っぺらくても確かな真実の愛。
 父がこの身に注いだ強くて歪な狂愛ではなく、限りない白さで誰の上にも舞い降りる雪のようにやわらかで公平な愛情を。
 握った手に微かに力を込めれば、還る優しい頷き。
「ここにいるよ」
 それこそが欲しかった。ただ、それだけが欲しかった。
 誰かの愛情を受ける価値もない自分がそれを望むのは罪だろうが、この罪だけは免れることができない。
 どうしても、これが欲しかったのだ。
 白い、白い雪。
 真っ白なその愛情。天空より舞い降りて静かに積る。
 白い雪のように冷たくも等しく優しい想い。
 窓の外にしんしんとそれは降り積もる。部屋の中は暖炉に薪をくべられて暖められていても、城の外は凍えるほどに寒い。
 降り積もる白いものは彼に対し優しいのか、それともやはりその冷たさで命を奪うものなのか――。
 答は、まだしばし先だった。

 了.