薄氷の砦
1.輪郭の溶ける黄昏
いつまでも続くと思われた平穏な日常は、思いもかけない狂気によって静かに浸食されるものだった。沈む陽の紅い夕暮れが連れてきた闇がじわじわと足元を浸していくように、それは恐らく、彼らの知らないうちにやってきてその肩に手を乗せる。
「なぁ、キスしてみない?」
「――?」
幼馴染の透夜がそう言いだした時、椋はまた何かの冗談だと思った。真っ赤な夕日が覗く美術室の窓辺に肘をついて本を読んでいる彼の横顔は端正で、こちらへと振り返る何気ない仕草にまでどことなく気品が漂う。
学校中の女子から熱い眼差しを向けられる美形の友人は、しかしその顔の良さに反比例して奇矯な性格だ。クラスの中心人物になるようなタイプではなく、見知らぬ相手の前で口数が多くなる人間でもないので気づかれにくいが、他でもない幼馴染は彼の独特な性格や価値観に物心ついたころから付き合わされている。だから透夜が脈絡もなくおかしなことを言いだしても、今更動じるような椋ではなかった。
それが自分に関係のある事柄でさえなければ。
「キスって、何と?」
部活終わりもうすぐ下校というこの時間、書きかけのキャンバスを奥の備品室にしまい帰り支度をしていた椋は、とりあえず話題を繋げるためにそう相槌を返す。
しかし次の瞬間返ってきた一言には、常日頃顔を合わせている幼馴染の正気を疑わずにはいられなかった。
「俺とお前が」
「はぁ?」
彼らは恋人同士でもなんでもなく、それ以前にまず男同士だ。どちらかがどちらかを好きだというわけでもない。確かに仲の良い友人ではあるかもしれないが、それは徹頭徹尾ただの幼馴染という言葉に置き換えられる程度の関係だ。つまり、どんなに仲が良くても間違っても肉体関係を結ぶような間柄ではない。
これまでの人生で見てきた透夜の奇行の中でも最大級である発言に、椋はしばし唖然としていた。しかし窓際の椅子に座る透夜の手にいまだ閉じられないままの一冊の本を認めて、考えを変える。
「……今度は何の影響?」
「今読んでる本かな」
「はぁ……」
椋は溜息をついた。やはりそうだった。この幼馴染は、すぐに変なものに影響されやすいのだ。テレビを見て自分も自転車で日本全土を縦断するなどと言い出した時は、止めるのに本当に苦労した。
そんな椋の気苦労も知らず、透夜は滔々と最前の台詞とその思考に至った経緯を語りだす。
「とある男が、恋に我を忘れて熱狂する話なんだ。そして今読んでいた部分で恋人と初めての接吻を交わしたところ」
「ああ、そう」
名もなき小説の主人公がどれだけ熱狂的な恋をしようと、椋には関係ない。投げ遣りな相槌にも構わず、透夜は続ける。
「その柔らかな唇は夢に見た通りの感触……って、夢に見た通りなら、特に感動も何もないと思わないか? 新しい発見があるからこそ面白いんだろ?」
「君とその主人公の感性が違うだけだろ」
「それともここでそう表現されてるだけで、妄想上の唇の感触と実際に触れた感触は違うのかと思ってな」
ここまで来ると言われずとも予測できる透夜の台詞に、椋は先程より盛大な溜息で返す。
「それで、キスの感触を知りたくなったって?」
「そう」
「透夜は女子にモテるんだから、彼女を作ってその子とすればいいじゃない」
「何を言うんだ椋。好きだからキスするんじゃなくキスしたいから彼女を作るなんてその相手に失礼じゃないか。非常識だな」
「僕、君にだけは常識云々を問われたくないんだけど。――というか、見知らぬ女の子に対してそれだけ気遣えるのに、なんで僕には知的好奇心を満たすためにキスしてもいいって思うんだよ」
それとも透夜は自分以外の男友達にも、普段からそんなことを言っているのだろうか。ちょっと怖い想像に走りかけた椋の思考を、透夜の次の言葉が引き戻す。
「だって椋なら、最初から変態扱いしないでこうして最後まで話を聞いてくれるだろ?」
まじまじとこちらを見つめてくる透夜の瞳が意外にも真剣だったので、椋は言葉を失った。
「それに椋だって、そういうことにまったく興味ないわけじゃないだろ?」
「それは……」
面白がるような笑みと共に直截な言葉を向けられて、椋は反射的に顔を赤くした。年頃の少年にとっては愚問であるほどに、そんなことは当たり前だった。
ただしそれはあくまでも異性相手の行為に関してであって、幼馴染とのキスに興味があるわけではない。
「だからって、僕とどうこうしようなんておかしいよ」
「そうかな。知りたいって感情は、そうおかしなものじゃないだろ? それに俺、正直自分が誰か女を好きになるところも、お前が彼女を作ってるところも想像できない」
「悪かったね。君みたいにモテなくて」
「そうじゃないよ」
本から手を離して椋の方に近寄って来ながら、透夜はいつものように静かに笑う。
「椋は人見知りだから、気軽に女の子と話すなんてできないだろ? それに例え好きな子ができたって、自分から告白はしなさそう」
「……」
さすがに付き合いの長い幼馴染の的を射た言葉に、椋は沈黙した。透夜は婉曲的な表現をしてくれているが、椋が臆病者であることは事実だ。誰かを好きになっても、間違っても自分から告白できるとは思えない。高校生である今ならそれでもいいかもしれないが、下手をすると一生そのまま独り身かもしれないと、この年で将来を悲観するほどだ。
「……だって、怖いじゃないか。自分の気持ちが相手に拒絶されたら、通じなかったらって」
透夜と違って外見にも性格にも自信のない椋は、人から好かれるという点においては卑屈にならざるを得ない。まだ成長期だということを差し引いても貧相な体格に、勉強も運動も何をやっても並というこの現実。唯一の趣味の絵画だって、賞をとるほどの腕前ではなく完全にただの趣味だ。
自分のような取り柄のまるでない人間が誰かに好かれるなど、椋にはまったく考えられないのだ。それで振られるだけならまだしも、自分が誰かを想うだけでそれが嗤われるようなことがあったらと考えると、誰かを好きになることすら怖い。
真剣な想いを笑うような相手がいるなどと考えなければそれでいいのかもしれないが、彼らだってそう綺麗な世界ばかり見ていられるわけではないのだ。クラスや部活で顔見知りの女子を指しては誰が美人だのブスだの言い合っている他の男子の様子を見ていると、椋は人の笑顔の裏の本音が恐ろしくなる。陰ではそんなことを言い合っているくせに、彼らは実際に顔を合わせれば平然と相手に上辺だけのおべっかを言えるのだ。
「でもそうやって、椋は一生誰とも触れ合わないつもりなの? それとも今から何年何十年かかっても、本当に好きな相手と出会えるなんて、夢みたいなことを信じてる?」
「……」
「できるかもな、椋なら。でも俺は無理。人が歌う愛だの恋だのに伴う肉欲の生々しい現実的な感触を無視できない。それを知りたいって思ってしまう。自分が恋人を作れるなんてのは、欠片も思えないのにな」
自嘲するように薄く笑う透夜の笑みは、椋には見慣れたものだった。彼は少し変わっていて、それは椋にとってはお馴染みのものだけれど、慣れない人間にとっては酷く付き合いづらいらしい。椋は何度か、他の友人たちから彼は付き合いにくい相手ではないかと問われたことがある。彼の顔立ちや人前では寡黙に見られる様子に惹かれてくる少女たちも、一度親しくなると異性としての興味は失うらしい。
けれど他人に本音を晒すことのできない椋にとっても、気楽に話ができるのは透夜だけだった。
「椋」
いつの間にか目前に迫っていた透夜が、そっと椋の肩に触れる。
「お前なら、そういうのわかってくれそうだと思ったけど」
「僕は……」
他人に対して怯える気持ちと、それでも抑えきれない性への好奇心。薄い氷越しに見ている世界に踏み出す勇気はないから、同じように氷の内側から世界を見ている相手とその欲求を分かち合う。
「……誰にも、絶対秘密だよ」
「当たり前だろ」
バレたらそれこそ目も当てられないようなことになるだろう。両親は泣くだろうし、世間からは白い目で見られるだろう。
それでも、その危険を冒しても、他者に触れてみたかった。その衝動や欲求を労せずわかってくれる相手と、ひっそりと「試し」を行う。
「今なら誰も来ないし、もう暗くて誰が何をやってるのかなんて見えないよ」
「うん……」
平均身長より背の高い透夜より、椋は頭半分低い。自然と抱きかかえられるような格好になるその姿すら、夕闇が輪郭を溶かしていく。
放課後の美術室は喧騒から遠く、罪の色をした赤い光が床に濃い影を落とす。
透夜が長い睫毛をスッと伏せて瞳を閉じる。慌てて椋も目を閉じた次の瞬間、柔らかくて少し乾いた熱いものが唇に触れていた。
初めての感触と、いけないことをしているのだという背徳感に、背筋がぞくりとざわめいた。
「ん……」
唇を重ねていたのは随分長い時間だと思っていたけれど、終わってみればそれは数秒にも満たなかった。自分の口から出た声にびっくりして口元を押さえる椋と、どこか放心したような表情の透夜。
「……やっちゃったな」
「そうだね……」
どちらともなく顔を見合わせると。そうして気の抜けた感想を言い合った。
「帰ろうか」
「うん」
途中だった帰り支度を再開し、美術室の戸締りを終えると、二人肩を並べて部室である部屋を後にした。
「なぁ、椋。一度やっちゃったら、二度目も三度目も同じだよな」
「……そうかもね」
不自然な程に黙りこくったままの帰り道、透夜はそう言って椋の方を向いた。その黒い瞳が、どことなく熱に潤んでいたように見えたのは、椋の気のせいだろうか。
「また、しような」
けれどその言葉に、椋は結局拒絶を返すことはしなかったのだった。