10.終わる始まり
――なぁ、キスしてみない?
その時。熱のない瞳にあったものは「好奇心」だけだった。そこにあるものがただの興味本位という毒にも薬にもならぬものだったから、椋は透夜の誘いを受けたのだ。
そこにあるものがもしも、好奇心だけではないのだったら――。
椋は恐らく、透夜の誘いを受けることはなかっただろう。
完全な利害と打算で唇を重ね、肌を合わせたのだ。それはあくまでも友人同士としての関係の延長線上であり、決してそれ以上の関係になることを望んでのやりとりではない。
少なくとも椋にとってはそうだった。
美術室の扉を開ける。今日は部活は休みだが、鍵を借りて部屋に入ることだけは許されていた。
中で椅子に座っていた透夜が、ハッとした顔で立ち上がり見つめてくる。
「縞野さんのこと、正式に断ったんだね」
「……椋」
透夜が告白を断ったという話は、友人経由で椋にも伝わってきた。相手の彼女は相当粘ったが、それでも駄目だったのだと。
「だから……言っただろ」
「そうだね。でもそれと、透夜が僕にしたことは関係あるの」
斬り込むと透夜は傷ついた顔をした。普段は変人で通っているくせに、こんな時ばかりまるで普通の人みたいな反応はやめてほしいと椋は思う。
「椋……俺、こんなこと言うのは言い訳にしか聞こえないと思うけど」
「言い訳だね」
内容を聞きもせずに椋はそう断言した。透夜は打ちひしがれて雨に打たれた仔犬のようになるが、同情の余地はない。
椋は机の上に鞄を投げ出し、透夜の正面まで歩み寄った。
「なんにせよ君が僕を騙したのは事実だ」
「騙した?」
裏切った、傷つけたという言葉は予想していた透夜だが、椋の口にした「騙す」という言葉に不思議そうな顔をした。
「そうだよ。僕たちの関係は知的好奇心を満たすために同意の上で抱くというもの。でもこの前のあれは、違っただろう」
「椋……」
「透夜の嘘つき」
詰られた透夜はそれで当然だと納得するのと同時に、別れを切り出されたあの日から抱いていた問いを思わず口にしていた。
「……なぁ、だったら、椋は、どんな言葉を並べれば俺と関係を持ってくれた?」
「透夜」
「俺が付き合おうって言ったら、俺と付き合ってくれたのか? 友人じゃなくて恋人になろうって言ったら、なってくれたのか?」
「――そんなに、僕とキスしたかったの?」
真正面からの椋の問いに、透夜は切なげに顔を歪める。
――なぁ、キスしてみない?
あの時、そこにあるものがただの興味本位という毒にも薬にもならぬものだったから、椋は透夜の誘いを受けたのだ。
そこにあるものがもしも、好奇心だけではないのだったら。
椋は恐らく、透夜の誘いを受けることはなかっただろう。
透夜もそれはわかっていた。考えてその光景をありありと瞼裏に描いたというようなことはないけれど、そういう状況になった場合の椋の答を予想できるくらいには、透夜は椋を知っていた。
だから隠した。潜めた。そしてそれを自分にすら意識させないで、自分すら騙して。
あくまでも二人の関係は友人。椋がそう考えていることがわかったからこそ、友人として許される範囲で椋に接しようとした。例えおかしな理屈でも、自分たちの間で通じればそれが真実となる。少なくともそれは、透夜が椋に好意を抱いているなどというよりは椋を納得させられる理由になる。
途中までは目論み通り進んだ。順調すぎて、自分の中で椋を想う気持ちに気づき、自分の想いを止められないくらいに。透夜が自分さえ騙していた虚飾の仮面が、椋に近づくたびに剥がれていく。
けれどそれは、薄氷を踏むような関係だった。
「したかった。ずっとしたかった。ずっと椋にキスしたかった。椋を抱きたかった」
それを、そのまま口に出すのは許さなかった。相手である椋の性格もあれば、自分のプライドや世間的な常識の問題もある。
だから好奇心や興味などという言葉で誤魔化して迫った。想いを告げて断られるのは辛すぎるが、ふざけた遊びだと拒否されるのは受け入れられるから。
途中までは透夜も、自分の最初の誘いがそんな心理から出たものだとわかっていなかった。自分自身でさえもうまく騙していた。けれど、椋に触れれば触れるほどに、気持ちは抑えられなくなっていく。他のどんな人間を見ても、椋に触れるほど自然に触れたいと思える相手はいない。椋だからこそ、こんなにも触れたいと思うのだ。
キスの感触が知りたい。それは、椋とのキスの感触を知りたいという意味だった。
「俺だって知らなかった。こんな自分がいることなんて知らなかった!」
簡単に口に出せることでも、自分が納得できるものでもない。
「透夜」
両手で自らの顔を覆った透夜に、椋は静かに名を呼び語りかける。
「僕たち、間違っちゃったね」
「……椋」
「好奇心だなんて言葉で、キスなんかしなければ、良かったね」
透夜が目を見開いた。何かを言いかけて戦慄いた唇は、何も紡ぐことができないうちに閉じられる。
「興味本位なんかでこんな面倒なことに手を出すからこういうことになるんだよ。好きだとも言わないで、肉欲を優先させたりするから」
もともと薄氷の上にある関係だとわかっていた。
その砦は強固すぎる。どんな力を加えてもその扉を開いてはくれず、壊そうとするなら開かない扉ごと凍てついた湖の中に崩れ落ちる。
「――ねぇ、透夜。僕を抱きたい? 僕とキスしたい?」
「……したい」
「どうして?」
「――お前が、好きだから」
開かない扉を前に冷たい氷の上に跪く。それが自分だと透夜は思った。
そして偽りが暴かれた以上、今度は拒絶されると知っていても、真実を口にするしかない。
好きだから、唇を重ねて、肌を合わせたいと望むのだ。
「……いいよ」
「え?」
「いいよ、キスしても」
次の瞬間、椋は透夜の腕の中にいた。自分より体格で上回る幼馴染の胸に縋りつくような形で抱きしめられている。
「椋……椋、俺……」
震える肩に椋は顎を乗せ、背に腕を回した。
ここまで来るのに、随分と遠回りをしてしまったものだ。でもこの道でなければ、自分が透夜を受け入れないかもしれないということも自覚して、椋は複雑な想いを抱える。
――僕たち、ずっと友達だよね。
――……ああ、そうだよ。
透夜は本当に嘘つきだ。その嘘を、言わせるように仕向けたのは常に椋の方だけれど。
それでも離れられないという結果が残ってしまっているのだからもう仕方ない。そっと体を離した透夜の指が次に両肩にかけられ、ゆっくりと近づいてくる顔に合わせて瞳を閉じながら椋はそう思う。
彼らの関係はここで終わり、ここから始まる。
了.