薄氷の砦

2.静かに燃える沈黙

 それから二人は、時々人気のないところで時間を見つけては唇を重ねるようになった。
 放課後の部室。二人きりの準備室。暗がりにある階段の踊り場。宵闇の降りた帰り道。あるいはお互いの家で。
 いつも二人でいるのが当たり前になっていたから、誰にも見とがめられることはなかった。透夜がまとわりついてくる女子を鬱陶しがって椋を連れて休み時間中姿を消しているなんてよくあることだから、クラスメイトも部活仲間の誰も気にしている者はいない。
「椋」
 透夜が名を呼び、椋の肩に手をかける。そっと頬に指を添えられて、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
 椋は目を閉じ、自分の手を透夜の胸元に置く。腰には透夜の手が回され、しっかりと抱きかかえられる。
 初めての時はほんの少し触れていただけのキスの時間は、回を重ねるごとに長くなっていった。
 今では椋も、透夜とのこの触れ合いを隅々まで堪能しきっている自分に気づいていた。さらりと乾いて熱い、そして柔らかい唇が自分の同じ場所に触れてくる。角度を変えてもう一度、今度は薄く開かれたそれが、花を啄む小鳥のように触れる。
「椋……もっと、いい?」
 今日は顧問が出張で部活は休みだった。もともと放任気味の美術部だが、さすがに顧問がいなくては部室を開けることはできない。幼馴染である二人は家も近く、両親が共働きの透夜の家に椋が遊びに来ていた。
 透夜の部屋には、椋も何度も訪れている。殺風景と呼んでもいいほどに物の少ない、整然とした部屋。黒基調の家具で占められたシンプルな空間に、透夜の描いた絵だけが色彩鮮やかだ。
「いいよ……」
 普段人と手を繋ぐことすらしない椋にとって、こうして触れる透夜の人肌の温もりは未知の心地よさを伝えてくるものだった。段々と慣れてきた行為に、何を今更と許可を出せば、再び透夜の顔が近づいてくる。
 椋は目を瞑った。次の瞬間、呼吸のために僅かに開いていた唇に、透夜の舌が滑り込む。
 閉じたばかりの瞼を開き、カッと一瞬で頬を染めると、椋は思わず透夜の胸元に置いた手に力を込めて彼を突き飛ばした。
「あ、ご、ごめん! ……って、透夜!」
「なんで怒るんだよ。いいって言ったじゃないか」
「こういう意味だとは思わなかったんだよ」
 椋は耳まで赤くなり、透夜の顔を見据えることすらできずに目を逸らす。
「これだってキスだろ?」
「それは……そうだけど」
「それじゃ改めて聞くか。椋、俺とディープキスしよう」
「直截な言葉はやめて!」
 ちょっと怒られたくらいで止まるような幼馴染ではないことは椋も知っている。それでも透夜のあからさますぎる誘いに、初心な少年は茹蛸のように赤くなった。
「これだって、自分一人じゃできないだろ? 興味深いじゃないか」
「透夜ぁ……」
「自慰なら一人でもできるけど」
「透夜ってば!」
 放っておくとどんどんすごいことを言い出しそうな幼馴染の口を、もはや椋は物理的に塞ぐことにした。透夜の口に自分の両手をあてるも、押し付けたことにより今度は掌に透夜の唇の感触を感じてしまって余計気まずくなる。
「だって知りたいだろ? 他人の舌の感触って」
 椋がようやく手を離すと、透夜はそう言って子どものように舌を出してみた。赤くぬらついて先程まで触れていた唇をこれ見よがしに舐める様子に、椋は思わずごくりと息を呑んだ。
「そ、それは……」
 好奇心は猫をも殺すというのに、椋は自分を止められない。透夜が艶めかしく赤い舌を見せた時から、腹の奥底でちりちりと欲望が刺激されたようだ。
 もっと触れたい。もっと繋がりたい。もっと味わいたい。そういった欲は透夜だけではなく、結局は彼の戯言に付き合ってしまう椋の方にもあるのだ。
「椋」
 この十五年間、何度も何度も、数えきれないほどに自分の名前を呼んできた声が名を呼ぶ。どんな友人より家族より椋の名を呼んできたこの声に、椋は結局逆らうことなんてできないのだ。
「……わかったよ」
「ん」
 渋々のように頷いて見せた椋の体を、透夜がもう一度引き寄せる。椋がぎゅっと目を瞑って恥ずかしさに耐えていると、微かな吐息と共に再び透夜の舌が滑り込んできた。
「ん……っ」
 唇を割り、縮こまった椋の舌の表面を撫でていく。歯列をなぞり、歯茎を撫でる。
「は、んっ」
 透夜の舌が自らの舌に絡み、椋はくぐもった喘ぎをもらした。生温く濡れ、生き物のように蠢く透夜の舌に誘われるように、いつの間にか椋の方でも透夜の舌を求めて絡みついていた。
「ふ、ぁ……」
「ぷはっ」
 いい加減お互いに息が苦しくなってきたところで顔を離すと、何故か透夜は盛大な息をついた。苦しかったのは椋も同じなのだが、呼吸はしていたのでそれほどでもない。
 それよりも透夜がやけに顔を赤くして、必要以上に荒げた呼吸を隠すように口元に手を当てていることの方が椋には気になった。
「透夜……?」
「椋、お前……」
 彼はそれ以上言葉をつづけられない様子で、俯いて視線をそらしてしまう。
 これまでの軽く触れるだけのキスとはまた違った恍惚感に、椋は半ば放心状態でそれを問い詰められるような空気でもなかった。とにかく透夜が嫌がったり後悔している様子ではないのでいいかと、自分の呼吸を整えることに専念する。
 唇を開いていたために口の端を僅かに伝って汚した滴を拭うために、思わず袖口で顎を拭った。あ、と気づいた時にはもう遅いが、透夜の様子も似たようなものだった。使ったのは上着の内側のシャツの部分だから構わないだろうと気を取り直す。
「気持ち、よかったか?」
 しばらくして、蚊の鳴くような声で透夜が問いかけてきた。
「え?」
「最後、お前の方からその……伸ばしてきたから」
 そういう風に言われてしまうと、椋もなんだか自分が酷く大胆なことをしたみたいで気恥ずかしくなる。色白の肌が、またしても赤く染まった。
「う、うん。その……よかった、よ」
「そ、そっか。俺も」
 あさっての方を向いて喋っていた透夜が、まだ赤味の残る頬で椋に視線を戻した。
「椋……もう一回、していい?」
「……うん」
 どちらからともなく顔を近づけると、二人は再び唇を重ねはじめた。